カスレアクロニクル   作:すばみずる

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176 ……大きい

 蝉の声が降りしきる、夏休みの昼下がり。公園の入り口脇で木陰になったベンチにクモンは腰掛けて、友達を待っていた。約束の時間より十分も早く着いてしまったのは、家にいても暇だったからだ。宿題は午前のうちに済ませてある。

 

 スマホを開くと、キリメからのメッセージが一番上に残っていた。

 

『今日は昼から家の手伝いでムリ。カードは夜な。アタシんちでやろーぜ』

 

 了解、と猫のスタンプで返してある。一日一戦の約束は夏休みに入った今も途切れていないが、都合の合わない日はこうしてどちらかの家でやることになっていた。

 

 キリメの部屋の折り畳みテーブルは少し小さくて、ライフカウンターの置き場に工夫がいる。今夜は小さめのダイスを持っていこう。前の泊まりで置いていた着替えが無くなったはずだしそれも持って行かないと。

 

 夜の荷物を考えていたクモンの視界の端を、白いものが横切った。

 

 麦わら帽子に白いワンピース。帽子の下から銀色の髪が背中まで流れて、夏の日を細かく撥ね返している。

 

 年の頃は、たぶん自分と同じくらい。手元の小さな紙と道の先とを見比べ見比べ、おっかなびっくりの足取りで歩いている。肩に掛けたトートバッグは重そうで、細い身体が少し傾いでいた。

 

 そして、なによりクモンの目を引いたのは。

 

(……大きい)

 

 胸だった。

 

 大きく豊かな胸なら見慣れている。キリメにヒナタ。それにおもちゃ屋で会うレヴェローズやカルメリエル。世間の平均がどうかは知らないが、クモンの周りには富める者が不思議と多い。

 

 その経験をもってしても、瞠目した。同じ年頃にしか見えない少女のそれは、あの中でも一番だったカルメリエルと同じくらいあるのではないか。

 

 少女が歩くたび、立ち止まって周囲を見回すたびにワンピースの胸元が揺れる。

 

(いや、見ちゃだめだ。落ち着け)

 

 クモンは慌てて目を逸らし……きれず、また戻した。この衝撃には覚えがある。ヒナタに初めて会った時以来だ。

 

 だが、自分ももう昔のままではない。好きになって、砕けて落ち込む、それを何度か繰り返して学んだのだ。会ったばかりの人をそういう目で見てはいけないとノルちゃんにも教わっただろう。相手に失礼だし、あとで自分が苦しい。

 

(そう、だからこれは違う。断じてやましい目ではなく、ええと、道に迷ってそうな人がいるなあという、健全な心配で……ああでも大きい)

 

 成長の兆しを台無しにする思考を自覚出来ていたのは不幸中の幸いだろうか。あるいは自分の性業から逃れられない事を呪えばいいのか。

 

 葛藤している間に、少女の様子が変わっていた。紙から顔を上げきょろきょろと辺りを見て、クモンと目が合った。

 

 まずい。見ていたのがばれたか。

 

 身構えるクモンに、しかし少女はぱっと表情を明るくして、まっすぐこちらへ歩いてきた。胸が近付いてくる。否、少女が近付いてくるのだ。顔を見るんだ、顔を。

 

「あの、すみません。少しお聞きしたいんですが」

 

 帽子の鍔を持ち上げて、少女は申し訳なさそうに眉を下げた。間近で見ると肌が白い。声は澄んでいて、咎める色はどこにもなかった。

 

「な、なにかな」

 

「この、しろやなぎクリーニングというお店を探していまして……地図の通りに来たつもりなのですが、道が分からなくなってしまって」

 

 差し出された紙には、手書きの地図と道順が書いてあった。丸っこい字で「しろやなぎクリーニング」、その横に、流れるような大人びた字で番地が添えられている。

 

 クモンはその店を知っていた。ここから少し歩いた通りにある、古いクリーニング屋だ。

 

「ここなら知ってるよ。お使い?」

 

「はい。お母様のお洋服を、出しに行くところなんです」

 

 お母様。聞き慣れない上品な響きにクモンは目を瞬かせるが、指摘するほど野暮でもない。

 

「ここからだと道がちょっと入り組んでるから……よかったら、案内するよ」

 

「いいんですか?」

 

「うん。どうせ暇してたし」

 

「ありがとうございます!」

 

 少女は帽子ごと、深々と頭を下げた。つられて色々たぷんと揺れたが、クモンは今度こそ視線を空へ逃がすことに成功した。

 

 ベンチに座り直し、友達のグループへ短くメッセージを打つ。

 

『ごめん、急に用事できた。今日は無理そう。また明日』

 

 すぐに『りょ』だの『まじかよ』だのが返ってくるのを見届けて、クモンはスマホをポケットにしまった。少しだけ罪悪感はあったが、道に迷った子を放っておくよりはいいはずだ。たぶん。

 

「重そうだね、それ。持とうか?」

 

「い、いえ! これは私のお仕事ですから」

 

 トートバッグを両腕で抱え込む少女に、クモンは苦笑した。断り方まで律儀だ。

 

「僕、橋谷クモン。クモンでいいよ」

 

「クモンさん、ですね。私は、ミーシャといいます」

 

「ミーシャちゃんか。外国の名前だ」

 

「え? あ、ええと……そう、かもしれません」

 

 曖昧に笑っている。日本の生まれじゃないのかな、とクモンは当たりをつけた。銀色の髪といい、大きな瞳といい、日本人離れした顔立ちだ。

 

「このへんの子じゃないよね。見たことないし」

 

「はい。最近、引っ越してきたんです」

 

「へえ、どこに住んでるの?」

 

「ええっと……」

 

 ミーシャは足を止めかけ、視線をさまよわせた。あからさまに困っている。クモンは慌てて手を振った。

 

「あ、ごめん。初対面でいきなり家とか、馴れ馴れしすぎたよね」

 

「あ、違うんです。その……どういうところ、って説明すればいいのか。場所のご説明とか、あまり慣れていなくて」

 

 外国育ちなら、まだ暮らし始めて日が浅い街の説明は難しいのかもしれない。クモンは納得しかけて、少しだけ首を捻った。それにしては彼女の言葉遣いはやけに綺麗だ。言葉に不自由しているという風には思えない。

 

「ええと……賑やかなところで、暮らしています」

 

 ミーシャはようやくそう言って、それからふわりと笑う。蕾がほころぶような笑い方だった。花を美しいと思ったのは、クモンには初めてのことだった。

 

「お父様もお母様も、とても良くしてくださって。毎日、楽しいんです」

 

「……そうなんだ」

 

 特別なことは何も言っていないのに、その言い方があんまり幸せそうだったので、クモンはなんだか胸のあたりがこそばゆくなった。

 

 しろやなぎクリーニングは、看板の文字が半分薄れた古い店だった。戸を開けると洗剤の匂いが二人を包む。

 

 ミーシャはトートバッグから、畳まれた服を一枚ずつ、大事そうにカウンターへ出していった。

 

(……ちっちゃいな)

 

 横から見るともなしに見て、クモンは思った。ブラウスもスカートも、どれも子供服みたいなサイズだ。

 

 お母様の服だと言っていなかったか。まあ、小柄なお母さんなのだろう。世の中にはヒナタみたいに大きい人もいれば逆もいる。

 

 店のおばさんが伝票を切り、ミーシャががま口財布から紙幣や硬貨を数えて支払う。一枚一枚、緊張の面持ちで数える姿は見ているクモンが不思議と緊張してしまう。

 

「はい、じゃあお渡し日はここに書いてあるからね」

 

「ありがとうございました!」

 

 伝票だけを握りしめ、ミーシャは深々と一礼して踵を返した。

 

「ミーシャちゃん、お釣り」

 

「はっ」

 

 振り返ったミーシャは、トレーの上に残った小銭とおばさんの苦笑を見て、みるみる顔を赤くした。

 

「も、申し訳ありません……!」

 

 慌てて戻ってお釣りをがま口に納め、もう一度深く頭を下げる。気を付けてね、と送り出されて、二人は店を出た。ミーシャは帽子の鍔を引き下げて、まだ赤い顔を半分隠している。

 

「わ、忘れていたわけではないんです。教わったんです、お釣りは確かめて受け取りなさいって」

 

「うん、知ってる知ってる」

 

 クリーニング店を出たミーシャは、しかし来た道へ戻るでもなく、その場できょろきょろとあたりを見回し始めた。

 

「どうしたの?」

 

「あ、いえ。その……実は、お母様から、お金が余ったら好きに使っていいと言われていまして。どこか使える場所はあるかなあ、と思って」

 

 がま口財布を両手で捧げ持って、ミーシャは真剣な顔で通りを見渡している。好きに使っていいと言われて、使い方から考え始めるやつがあるか。クモンはちょっと笑ってしまった。

 

「それならさ、一緒に遊ぼう。このへんの面白いとこ案内してあげる。使い道は、その時考えればいいよ」

 

「いいんですか?」

 

「うん。お使いはもう済んだんでしょ」

 

 我ながら下心がないとは言い切れない。でも、それだけでもないはずだ。この子の所在なさげな立ち姿には、どうにも放っておけない何かがある。

 

「じゃあ行こう。まずはこっち」

 

 差し出した手を、ミーシャはきょとんと見つめて、それからおずおずと握った。小さくて、少しひんやりした手だった。

 

 

 

 最初に連れて行ったのは、通りの外れの古書店だった。

 

 軒先のワゴンに文庫本が詰め込まれた、狭くて薄暗い店だ。涼むのと立ち読みを兼ねて、クモンたちがよく世話になっている。

 

 ミーシャは店に入るなり、天井まで届く本の壁を見上げて立ち尽くした。

 

「すごい……本が、こんなにたくさん」

 

「ほとんど売れ残りだけどね」

 

「ふふ。背表紙の字、ぜんぶ読めます」

 

「そりゃ読めるでしょ」

 

「はい。読めるんです」

 

 なんの自慢なんだろう、と考えてからクモンはしまったと思い直す。海外生まれなら日本語の喋りだけではない、文字にも勉強の成果が出ていることを誇りたかったのだろう。

 

 会話の受け答えをミスったと悔やむクモンをよそに、ミーシャはワゴンから絵本を一冊手に取り、嬉しそうにめくっていた。狼が留守番の子ヤギを食べてしまう古典的な絵本の筈だが、一ページ一ページを噛みしめるように見ていると、まるで壮大なおとぎ話でも見ているかのようだ。

 

 しばらく店内を回った後、古書店では店先に置かれた駄菓子を買うだけに留めた。何故古書店でお菓子が? とミーシャは疑問に思っていたようだが、飴を口の中で転がす頃にはそういうものかと納得していた。

 

 

 

 次はゲームセンターだった。自動ドアをくぐった途端に浴びせられる音と光の洪水に、ミーシャは目を白黒させる。

 

「ク、クモンさん、ここは一体……」

 

「ゲーセン。遊ぶところだよ」

 

 最初に100円を入れてやったレースゲームでは、ミーシャのマシンは最初の壁にめり込んだまま終わった。ところが二回目にはもうコースを半分も走ってみせた。妙に呑み込みが早い。聞けば、家でも似たようなゲームを教えてもらったことがあるという。

 

 クレーンゲームの前では、逆にクモンの株が下がった。

 

「見てて。こういうのはコツがあるんだ」

 

 と豪語して二回続けて空振りした後、初挑戦のミーシャが一発で丸っこいマスコットを掘り出したのだ。

 

「と、取れました! クモンさん、取れましたよ!」

 

「……ミーシャちゃん、才能あるよ」

 

 複雑な気持ちのクモンをよそに、ミーシャは景品を両手で包み、宝物みたいに眺めていた。

 

 最後にとっておきの場所へと向かう。川沿いの道から金網越しに覗ける、古い廃工場だ。かつてカルメリエルの指示でフルメタル神輿を組んだ場所とはまた違う、自分の友達だけの場所だ。

 

「ここ、僕らの秘密基地。……の、入り口」

 

「基地……!」

 

 中までは入れないけど、と付け足すより早く、ミーシャの目が輝いた。錆びた鉄骨と割れた窓を、彼女はなぜか眩しそうに見つめている。

 

 友達とは女子禁止という認識を共にしていた。この場所は男たちのロマンなのだ。部外者は決して中に入れてはいけないのだ、などと言い合い諸々のものを持ち込んでいたが、ミーシャのキラキラした目を見ていると誘ってみたくなる。

 

 中に入りたい、と言われてしまえば抗えなかったかもしれないが、幸いにもミーシャは外から眺めるだけで満足しているようだった。

 

「基地ですから、部外者は入ったらダメですよね」

 

「う、うん」

 

 キミなら、と言いたくなる気持ちを必死に抑える。それにしても基地という言葉にどういう意味合いを抱いているのだろう。少々大袈裟ではないか。

 

「いいところですね。見晴らしが良くて、水場が近くて……」

 

「でしょ」

 

 ちょっと変わった褒め方だったが、通じたのならそれでよかった。

 

「ちなみに、狼はいるんですか?」

 

「えっ」

 

「えっ。……あっ。その、わ、忘れてください」

 

 よく分からないことを言って、勝手に顔を赤くしてしまった。やっぱり変わった子だけども、そうして照れている姿は可愛らしい。

 

 

 

 気が付けば、影が長くなっていた。

 

 蝉の声にヒグラシが混ざり始めた頃、クモンのポケットでスマホが震えた。母親からの着信だった。

 

 夕飯ができるから帰ってきなさい、という毎度のやつだ。生返事で通話を切ると、隣でミーシャも西の空を見上げていた。

 

「そろそろ、おうちに帰らないといけませんね」

 

 夕日に染まった横顔が言う。名残惜しそうに聞こえたのは、たぶん自分の願望だ。

 

「……家まで送ろうか」

 

「え? でもクモンさんも、すぐ帰りなさいって今、お電話が」

 

「ちょっとくらい遅れても平気だよ。それに、ミーシャちゃんの道案内なら――」

 

 言いかけた、その時だった。

 

「なぁん」

 

 背後で、猫が鳴いた。

 

 振り返る。足元に、真っ黒い猫がちょこんと座っていた。

 

 夕日を浴びてもなお黒い毛並み。しなやかな尻尾。そして、こちらを見上げる瞳には、星屑を散らしたような光。

 

 見覚えどころの話ではなかった。何十回と店で撫でてきたシルエットだ。でも、まさか。あの店からこんなに離れた場所で、会うわけがない。よく似た別の猫だ。そうに決まって――

 

「あ、大穴さん!」

 

 ミーシャが、声を弾ませた。

 

 しゃがみ込んだ彼女の膝へ、黒猫はごく当たり前の足取りで歩み寄り、額をすり寄せる。

 

(……大穴、さん?)

 

 クモンは固まった。

 

 本当にあの大穴なのか。いや、それよりも、なんでこの子が大穴を知ってるんだ。名前まで。あんなに懐かれて。まさか、あの店を知って……?

 

「ふふ、お迎えに来てくれたみたいです。だから、私はもう大丈夫ですよ」

 

 立ち上がったミーシャは、呆然としているクモンの両手を、自分の両手でそっと握った。

 

「クモンさん。今日は、本当にありがとうございました。道を教えていただいて、いっぱい遊んでいただいて……とっても、楽しかったです」

 

 夕日の中で、ミーシャはにっこりと笑った。

 

 麦わら帽子を押さえて一礼し、彼女は黒猫と連れ立って歩き出す。数歩行ったところで一度だけ振り返り、大きく手を振って、それから通りの向こうへと帰っていった。足元の黒猫が、去り際にちらりとこちらを一瞥した気がした。

 

 クモンは手を振り返した格好のまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。握られた両手のぬくもりだけがまだ残っていた。

 

 帰り道、クモンは考えた。

 

 大穴を知っていた。というより、あの懐かれ方は完全に身内らしい有り様だった。キリメのような猫撫で達人でもなければ、あれほど懐く姿は想像出来ない。「賑やかなところ」というのも、たぶんあの店を指しているのだろう。

 

 それに、あの常識外れのプロポーション。レヴェローズやカルメリエルの同類だと考えれば、むしろ得心がいく。同類の見分け方がそこなのはどうかと自分でも思うが、経験則というやつだ。

 

 間違いない。あの子はあの漫画家の家の騒動の絡みで知った、精霊なるものの類だろう。で、おそらくはボトムレスピットで暮らしている。店で見たことは無いけれど、あの建物には二階があるのだからそちらにいれば気付かないのは当然だ。

 

 そうなると、だ。

 

「あの子も、シラベさんラブ勢になっちゃうのかな……」

 

 あの店に集う綺麗な人たちは、どういうわけかみんな揃ってあの店員に夢中なのだ。今さら妬んだりはしないけど、また一人増えるのかと思うと、なんというか、世の中の理不尽を感じる。

 

 でもミーシャちゃんは僕にも優しくしてくれた。頼ってくれた。両手まで握って楽しかったと言ってくれた。あの笑顔は、その、なんというか。

 

(――だから落ち着けって! 僕はもう学んだだろ、すぐ好きとか思うと、あとで一人で落ち込むんだから。そういう目で見ちゃいけない。いけないんだけど、でもおっぱい大きかったし……じゃなくて!)

 

 一人で百面相をしながら、クモンは夕暮れの道をうんうん唸って歩いた。だめだ。一人で考えてもぐるぐる回るだけで出口がない。

 

 そもそも自分はミーシャを見て何を思っているのか、それをどうしたいのか、その整理すら付いていない。

 

 こういう自分ではどうにもならない時、頼る先は決まっている。

 

「よし。キリメ姉に相談しよう」

 

 どうせ今夜、一戦やりに家へ行くのだ。デッキと着替えと一緒にこの悩みも持っていけばいい。キリメ姉ならくだらない相談だと思っても、頼めばちゃんと聞いてくれる。

 

 相談する相手の顔を思い浮かべたらそれだけで足取りが軽くなった気がする。その理由までは、クモンは考えもしなかった。

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