風呂から上がって自室の戸を開けると、扇風機の風と一緒にクモンの声が出迎えた。
「おかえりキリメ姉」
「おー」
タオルで髪を拭きながら、キリメは床の上へどかりと腰を下ろす。部屋の真ん中には折り畳みの小さなテーブル。その向こうで、短パンにTシャツのクモンが胡座をかいていた。持参の寝間着だ。泊まりのたびに見てきた、見慣れた格好である。
テーブルの上には風呂の前にやっていた一戦の名残がそのままになっていた。ライフカウンター代わりに持ち込まれたダイスの目は双方低い。今日は終盤での空中戦を制したキリメの辛勝だった。
「二人ともー、あんまり夜更かししちゃダメよー」
「わーってる!」
「おやすみなさーい!」
階下から上がってくる母の声にキリメ自身の雑な返事とクモンの挨拶が重なった。キリメは湿った髪をタオルごと後ろへ払う。湯上がりの肌に短パンとタンクトップ。冷房のないこの部屋では、これが夏の正装だ。
「ねえキリメ姉。もう一戦やろうよ」
クモンが自分のデッキケースを撫でながら言った。
「あ? 一日一戦っつったろ。今日の分はもう終わってんぞ」
「そうじゃなくて」
クモンは首を振った。
「勝ち負けとかじゃなくてさ。もっとキリメ姉と遊びたいなって思って」
不意打ちに心臓が変な跳ね方をした。おいおい、とキリメは内心で自分をなだめる。弟分が懐いてくれている。ただそれだけの話だろう。
「……しょーがねえなあ」
緩みそうになる口元を、髪を拭く手つきに紛れ込ませた。
「んじゃ、いつもの勝負とは関係ないやつでなんかやるか」
キリメは立ち上がり、カラーボックスの下段から細長い箱を引っ張り出した。蓋を開ければ、色違いのデッキケースが五つ並んでいる。
「四国無双。緩くやるならこれが一番だ」
「え、でも僕、四国のデッキ持ってきてないよ」
「アタシのを貸してやるよ。ほれ、好きなの選べ」
テーブルへ並べてやると、クモンは目を丸くした。
「キリメ姉、そんなに作ってたんだ?」
「なんか気付いたら増えててさ」
嘘ではない。ストレージを漁っていて面白いカードに行き当たると、つい国主を立てて一つ組んでしまうのだ。四国無双は一種一枚の百枚デッキ。安カードの寄せ集めでも案外形になる。
どれも大会で勝てるような代物ではないが、そもそもそういう目的で組んでいない。
「四国って、四人いないと出来ないんじゃなかったっけ」
「本式はな。枚数比率が違うだけで中身はデッキなんだから、二人でも普通に回せんだよ」
クモンはケースを一つずつ開けて、一番上の国主のカードを見比べ始めた。火の国主『宴好きの鬼千人長』に、水の国主『昼寝上手の大亀公』。名前を口の中で転がしながら、真剣そのものの目つきで100円にも満たないカードのテキストを読み解いている。
その横顔を、キリメは頬杖で眺めた。
(あー、なんつーか)
いつも通りのクモンの顔。それを見ているだけで、なにか妙なものが自分の中で蓄積していっている気がする。
(こいつと一緒にいると、安心すんだよなあ)
「……なに笑ってんの?」
「べつにー」
適当に返したものの、内心は穏やかではない。指摘されてようやく笑っていると気付いた。変な顔になっていなかったか、不安になって頬を触る。
「変なキリメ姉。じゃあ僕、この亀にする」
「お、大亀公か。そいつは溜めるデッキだ。亀が起きるまで耐えろよ」
残った中から、キリメは鬼千人長のケースを取った。
ライフカウンター代わりにしていたダイスが振られ、先攻はクモンに決まる。四国無双のルールに基づき、桁数の大きなライフカウンターが折り畳みテーブルの一角を陣取った。
初期手札を七枚ずつ引いて、卓を挟んで軽く頭を下げ合う。
「よろしくお願いしまーす」
立ち上がりは、いつもの試合よりずっと緩かった。
互いにルーンをセットし、安い生命体をぽつぽつと並べていく。強い動きを競うでもなく、引いたカードに「なにそれ」「いいだろ」と茶々を入れ合う、そういう遊びだった。
「そういえばさ」
三巡目のルーンを置きながら、クモンが切り出した。
「今日の昼間ね、すっごい綺麗な銀髪の子を見たんだ。見てたら向こうから道を聞かれちゃって」
「ふーん」
キリメは手札を見たまま相槌を打つ。国主を出すにはまだ遠い。ここはのんびりいこう。
「道案内して、そのまま流れで一緒に遊んだんだけど。キリメ姉もたぶん、見たらびっくりすると思うな」
「何にだよ。そりゃ銀髪なんて珍しいけど、白髪みたいなもんだろ」
例の店を見てみろ。ピンク髪なんて正気とは思えないものがいるのだ。だいたい銀髪なんて言うけれど、見ただけで銀と分かるのだろうか。
「そっちも綺麗だったんだけどね。おっぱいがすっごく大きくてさ」
手が止まった。
クモンは今日の天気を振り返るような軽さで言ってのけた。悪気の欠片もない顔のまま、盤面の亀の隣へ眷属を並べている。
「ほー。そう」
「うん。それでね、最後に迎えが来たんだよ。誰だと思う? 大穴だよ、あの黒猫の。あの子大穴の名前まで知ってて懐かれてるみたいでさ。だからたぶん、あの子ボトムレスピットに住んでるんだと思うんだよね」
「……」
「僕、店では一回も見たことないんだけど。キリメ姉は見たことある?」
「そんな奴しらねーよ」
自分でも思ったより、ぶっきらぼうな声が出た。
「そっかぁ。……あ、そうだ」
クモンは手札を伏せると、充電コードに繋いだままのスマホを引き寄せた。ひとしきり画面を撫でて、こちらへ向けてくる。
「ほら、この子」
画面の中で、銀髪の少女が笑っていた。
ゲームセンターの景品コーナーらしい。丸っこいマスコットを両手で抱えて、はにかんだ笑顔をカメラへ向けている。その横でクモンが、得意げなピースを決めていた。
確かに、綺麗な子だった。長い髪は確かに白よりも煌めく銀と呼ぶにふさわしく、人形めいた顔立ちも可愛らしい。
そして、確かに大きかった。白いワンピースの胸元が写真越しでも分かるほど張り出している。クモンと同い年くらいにしか見えないのに、胴回りの細さを差し引いてもひょっとしたらキリメよりも上なのではないか。
いや、胸のサイズなんてどうでもいい。それよりも、その子が弟分の隣で楽しそうに笑っている、その並びから、なぜだか目が剥がせない。
胸の奥がざらりと撫でられた。
「仲良さそうじゃねえか」
言ってから、ぎょっとする。拗ねたガキみたいな声は、自分の声とはとても思えなかった。
幸い、クモンは気付いていない。スマホを引っ込め、へへ、と笑ってから、その笑いをすぐに萎ませた。
「でもさ。あの子もあの店にいるってことは結局、シラベさんばっかりに向いてっちゃうんだろうなぁ」
諦めの混じった声で言って、山札の上に手を置く。あの店の綺麗どころが軒並みあの店員に夢中なのはキリメも知るところではある。別にキリメも憎くは思っていないが、あの男からは何か良くない電波でも飛んでいるのではないか。
「でも、ミーシャちゃん……あ、その子の名前ね。ミーシャちゃん、僕といて結構楽しそうにしてくれたし、頼りにもしてくれたし……おっぱいも大きいし……」
未練がましい呟きが、ぽつぽつと続く。
キリメは黙って自分のターンを進めながら、腹の底が煮えるのを感じていた。
(つまりなんだ。シラベサンさえいなけりゃ、お前はその子に本気になるつもりだったってのか)
だいたい、おっぱいがなんだ。おっぱいが。アタシだって大きい方だぞ。現に今、目の前には湯上がりタンクトップ一枚の女が座ってんだぞ。なのにこいつは、鼻の下を伸ばすどころか視線一つ寄越さねえで昼間の女のことをぶつくさ言っている。
アタシの方がずっと一緒にいるのに。
毎日カードで遊んで、話して、今だってテーブル一枚挟んだだけの距離にいるのに、どうしてそんな遠くの話をするのか。
いっそカードなんか放り出して抱きついてやろうか。どうせ今日は泊まりなんだ。このまま抱きついて、そのまま──
(──って、アタシは何を考えてんだッ!!)
キリメは頭をぶんぶんと振った。
「? どうしたの、キリメ姉」
「な、なんでもねえ! ターン終了だ!」
落ち着け。相手は小学生だぞ。自分はヒナタさんみたいな異常性愛者ではない。断じて違う。あの人と同類になったら人として何かが終わる。
でも。
それはそれとして。
クモンが他の子にフラフラすんのを、隣で黙って見てるのは嫌だ。
その気持ちだけは、どう言い訳をこねくり回しても、腹の底から動かなかった。
「──あ。これここで起動出来るんだ! よしフルアタ!」
クモンの弾んだ声でキリメは盤面へ引き戻された。見ればいつの間にか目を覚ましていた大亀公が、眷属を引き連れてキリメの本陣を踏み潰そうとしていた。ブロッカーを立て忘れている。というより、ここ数ターンの記憶がやけに薄い。
「うっわ、マジだ。全っ然見てなかった」
「えー、それ勝った気がしないなぁ。キリメ姉ぼーっとしてなかった?」
「うるせ、色々あるんだよ。それでも勝ちは勝ちだ、もらっとけ」
「そう? じゃ遠慮なく。あー楽しかった!」
一応ライフカウンターを動かして丁度ゼロになるのを確認してから、キリメは短く息を吐いた。上の空で落とした一敗。悔しさは不思議と湧いてこなかった。
いつもの勝負じゃない遊びだから、だろうか。それだけではないかもしれない。
感想戦はそこそこに、そこここに行き来したカードをまとめていく。百枚デッキの片付けは長い。いつの間にか
確認してからケースへ納め終えた頃。どちらともなくスマホの画面を見ると、もう良い時間になっていた。
「けっこう遅くなっちゃったね。そろそろ寝る?」
「……いや」
キリメはデッキの箱をカラーボックスへ戻すと、そのままテーブルを回り込んだ。クモンの隣へ、どかりと腰を下ろす。
「もうちょい話そうぜ」
肩をほんの少しだけ預けると、クモンがきょとんとこちらを見上げてくる。近い分、視線がまっすぐこちらの顔に向いていると分かった。こいつは他の奴と違って、ちゃんと顔を見てくれている。それなら、まぁ、他の奴に見惚れるのも仕方が無いのかもしれない。
「? うん、いいよ」
不思議がりながらも、クモンは断らなかった。それどころか、遠慮もなくこちらへ寄りかかり返してくる。
肩に乗る頭の当たり前みたいな重さ。触れたところから夏の暑さとは違うものが灯っていく。心臓の音まで聞こえやしないかと、柄にもないことを考えてしまった。
(ほんと調子狂うなあ、お前は)
扇風機が首を振って、二人まとめて風を送ってくる。
「さっきの亀のデッキ、面白かったなぁ。僕も四国のデッキ組んでみようかな」
「いいんじゃないか。自分で組んでもいいし、構築済から育ててもいいし。気になるカード見つけてから組むのが楽しいぞ」
「じゃあ今度、店のストレージ一緒に見てよ。キリメ姉、掘り出し物見つけるの上手いからさ」
「おー、任せろ」
「約束ね」
「はいはい」
軽く受けてから、キリメはふと、前から気になっていたことを思い出した。
「あー、そうだ。お前さ」
「ん?」
「お前のデッキ、いっつもレヴェローズさんが一枚入ってんじゃん。あれ何なの」
「え」
肩が触れ合うせいで、クモンの体が分かりやすく強張った。
「き、気付いてたの」
「そりゃ毎日やってりゃな」
滅多に出てきてはいないが、出ればとりあえず大きいので邪魔ではある。
「な、内緒」
「あ?」
「いやその……今更後に引けないというかなんというか」
「なんだよそれ」
どうせレヴェローズの気を引きたくて何かやろうとしていたのだろうが、むきになって首を振る様子がおかしくて、キリメはそれ以上の詮索をやめてやった。
「そういや商店街の夏祭りって、今年もあんのかな」
「あると思うよ。掲示板にポスター貼ってあったし。去年は夏出来なくて秋にスライドしたんだっけ?」
「ん。……お前、アタシに奢り一個、借りがあったよな」
「え。あれ、まだ有効だったの」
「そりゃそうだ。利子付きでな」
「利子!? だってあの時、キリメ姉が奢りたい気分だって言うから!」
「そこで押し付けるくらいやっておけば良かったんだよ。ま、祭りのたこ焼きで手を打ってやるよ」
「たこ焼きって缶ジュースの倍以上するじゃん……」
「いいだろ別に。どうせお前も食べるんだから」
「うう……わかったよ。じゃあ、その……一緒に行くってことで、いいんだよね。夏祭り」
「おー。約束な」
「うん。約束」
それから、話はあちこちへ転がった。
夏休みの宿題の話。自由研究だけ残っているというクモンに、カードの相場調べでもまとめとけと適当なことを言ってやった。昨日のテレビの話、店の常連の話、来月出る新弾の話。中身なんてあってないような話ばかりだ。
階下の物音はとうに消えて、外からは何某かの虫の音が響く。だが部屋の中には話し声と扇風機の音だけで満たされている。
クモンの相槌が、少しずつ間遠になっていった。
「……ねえ、キリメ姉」
眠たげな声なのに、律儀に会話を続けようとしてくれている。
「あんだよ」
「キリメ姉はさ……好きな人とか、いるの」
寝ぼけ眼はこちらを見てもいない。深い意味なんてない、眠気で緩んだ頭からぽろりと零れただけの問いだ。たぶん、そのはず。
「…………内緒」
「えー」
ふにゃりと笑う気配がして、肩の上の重みが少し増した。
「ふーん。キリメ姉にも、いるんだ」
「いるとは言ってねえだろ」
「内緒ってことはいるんだよ。そういうもんだよ」
「はいはい。言ってろ」
「んー……」
生返事のまま、クモンの頭がずるずると滑り落ちてくる。寝るなら布団で、というにはもう遅い。
このまま床で寝かせても、どうせ風邪なんか引かないだろう。でもせっかく敷かれた布団をそのままにしておくなんて勿体ないのではないか。
仕方なく、本当に仕方がないので、クモンを抱き上げる。既に意識のないらしいクモンは脱力しきっているが、キリメには軽く感じた。
部屋の電気を消してから、小さい身体を布団に横たえてタオルケットを腹にかけてやる。んん、と寝言を言ったかと思えば、クモンは寝返りを打った。
それが殊勝にもキリメがいる側へと寝返り、その寝顔を晒すものだから、キリメの中で蓄積していた何かが一滴零れてしまう。
自分も眠たくなってきていた。ベッドにいけないほど眠くなっていた。だから。きっと起きた時にはそうごまかせるはず。
キリメはクモンの布団の端を境界線にするように、その身を横にした。添い寝というには遠い。でもこれ以上近付くのは色々と無理がある。
腕を枕にして、クモンの顔の高さに合わせる。見慣れた顔だというのに、この薄暗がりで見るクモンからキリメは目が離せない。
「……明日は、勝つ……」
寝言だか宣戦布告だか分からない呟きがクモンの口から洩れた。こちらの気も知らないで呑気なものだ。だが少なくとも、彼は明日また自分と共にするひと時を当然と思っている。それなら、それでいい。
自分で定めたはずの境界線から腕を伸ばして、キリメは小さな挑戦者の頭を撫でた。