カスレアクロニクル   作:すばみずる

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179 聞いてあげましょう

 閉店後のボトムレスピット。対戦スペースの卓は、朝と夜には食卓に変わる。

 

 並んだ皿は五つ。それとは別に、シラベの足元の餌皿にもひとつ。中身はどれも同じ、ミトラが午後を丸ごと注ぎ込んで煮込んだカレーだった。

 

「店長、ついに作ったのだな。姉様との個人レッスンが実を結んで何よりだ」

 

「うっさいわね。ぐだぐだいう奴は食わなくていいわよ」

 

 レヴェローズのにやにや顔から目を逸らして、ミトラは福神漬けの小鉢を卓の真ん中に置いた。

 

 隣の席ではミーシャが湯気の立つ皿を前に目を輝かせている。折角の初勤務、手料理で労ってやりたいと思い立ったのは大正解だったようだ。

 

「ミトラ様は料理の基本が分かっていましたので、大変教えやすかったですわ。新しい料理を覚える時も、あとはレシピ本を見ながらで問題無いかと」

 

「ありがとね、見てもらって」

 

 カルメリエルの賞賛がミトラを心地よくしていく。いつもなら裏を探りたくなるところだが、ミトラ本人も首尾よく出来たのが分かっているため素直に受け入れられた。

 

 ミトラはちらりとシラベを見るが、特に何もコメントは無いことに少し肩を落とす。それでも山盛りにカレーをよそっている姿を見れば、むくむくと自尊心が立ち上がる気がした。

 

「いただきます」

 

「にゃあ」

 

 声が重なって、夕食が始まる。

 

「ん。おいしい」

 

 ミーシャがひとくち食べて、ほうと息を吐いた。それだけで午後の時間が報われた気になるのだから、我ながら現金なものだと思う。

 

 素直で可愛い娘の頭を撫でていると、足元からはがつがつと威勢のいい音が立っている。普段は野菜の外葉だの魚のアラだのを綺麗に平らげている大穴の餌皿にも、今日は同じカレーが盛られていた。猫に玉ねぎは毒だと聞くが、大穴には当然そんなものは関係ない。ミトラが自慢したいと思ったのならその方が優先される。

 

「それで、今日はどうだったの。初めてのお店の仕事は」

 

「はいっ」

 

 ミトラはスプーンを動かしながら、隣へ目をやった。待ってましたとばかりにミーシャの背筋が伸びる。

 

「朝から店の掃除と整理整頓をお父様から任されて、がんばりました。最初のお客様がいらしたときは緊張してしまって……ご挨拶したのに、お客様が固まってしまわれて。私、何か粗相をしたのかと」

 

「ああ、まぁお客ってそういうものよ。私を見てもそうなるし」

 

「でも、優しい方でした。大丈夫だよって言ってくださって、ゆっくり見ていかれて。お買い上げもしてくださったんです」

 

 指を折りながら、一つずつ思い出しては報告してくれる。掃除をしていたら大穴がずっとついて回って、掃いた先へ先へと回り込むものだから、ちっとも進まなかったこと。それでも棚のはたきがけは全部やりきったこと。夕方にはクモンが来て、再会が嬉しかったこと。閉店作業ではシャッターまで届かなかったけど、シラベに抱えてもらって一緒に降ろせたこと。

 

「上出来よ。良く出来ました」

 

 ミトラがそう言ってやると、ミーシャは面映ゆそうに首をすくめた。素直で、覚えがよくて、働き者。出来た娘だ。自分にもシラベにももったいない。

 

「クモンさんとは先日のおつかいの時に会ったんです。言いましたっけ?」

 

「うん。たぶん同年代だと思うし、仲良くしておきなさい」

 

「キリメに文句言われないようにな」

 

 シラベの混ぜっ返しにミトラは睨む。娘の健全な育成に今そういう事を言って欲しくない。

 

「あ、キリメさんと言えば。聞いてください、お母様」

 

 ミーシャがくすくすと笑いながら、身を乗り出した。

 

「お父様ったら、ひどいんですよ。キリメさんが私の胸を見て、その……大きすぎてびっくりするというお話をされていたら、お父様、『それは分かる』だなんて」

 

 ミトラのスプーンが止まる。

 

「客の気持ちに寄り添うのが店員ってもんだろ」

 

 シラベは涼しい顔で水を飲んでいる。

 

「うむ。契約者はたまに意図してデリカシーを無くすからな。いつものことだ」

 

「好物のお話となれば、いくらシラベ様といえど仕方ありませんわ」

 

「姉様、それは擁護なのか?」

 

「んぐるる」

 

 レヴェローズが訳知り顔で頷き、カルメリエルはころころと笑って豊かな胸を軽く張ってみせた。足元では大穴が餌皿に顔を突っ込んだままだ。卓の上をいつもの緩い笑いがひと回りしていく。

 

 ミトラだけが笑わなかった。

 

「……ねえ」

 

 自分でも思ったより低い声が出た。卓の笑いが、半端なところで途切れる。

 

「ミーシャが嫌がってたなら、ちゃんとあんたがキリメを止めなさいよ」

 

 みんなの前で。客のいる店先で。胸を見て大きすぎると言われ、それを親のはずの男が分かると受けて。

 

「俺も一応止めたぞ。セクハラだぞってな」

 

 シラベは肩をすくめてから、スプーンを動かし続ける。

 

「まあ、そのあと悪ノリしちまったのは悪かったよ。でもほら、ミーシャもこうやって話のタネにしてるんだし、そこまで気にしてねえだろ」

 

 笑えるならいいだろう。その理屈をミトラは知っていた。今は遠い教室で何度も聞いた言い草と、同じ形をしていた。

 

「笑ってるから平気だなんて、なんで言えるのよ」

 

「あん?」

 

「笑うしかない時だってあるでしょうがッ!」

 

 スプーンが皿に当たって、高い音が鳴った。

 

 シラベが目を見開いている。レヴェローズとカルメリエルが顔を見合わせる気配がした。かまわずミトラは立ち上がり隣へ手を伸ばす。

 

「ミーシャ、おいで」

 

「え? あ、あの、お母様……?」

 

 戸惑う娘の手を引いて卓を離れた。背中に声が掛かったが振り返らなかった。

 

 階段を上る自分の足音が、やけに大きく聞こえた。

 

 

 *

 

 

 自室の戸を後ろ手に閉めると、急に静かになった気がする。さっきまでは耳に血流が響いていた気がするのに、自分の巣と分かっている場所だと落ち着いてしまうのだろうか。

 

 電気を点ける気にもなれなかった。窓から入る街灯の明かりだけの薄暗がりを、ミトラは壁際まで歩いてずるずると座り込む。それから突っ立ったままのミーシャの手を引いた。

 

「あ、わっ」

 

 柔らかい重みが自分に落ちてくる。自分の上に伸し掛からせるようにしてから抱きしめて、銀色の頭に手を乗せた。背丈はほとんど変わらないから下に居る自分が潰れているような気がするが、構うものか。

 

「ごめんね、ミーシャ。あんな馬鹿が親で」

 

 ゆっくりと、頭を撫でる。細い髪に指先で触れると心地よい。探っても傷など出てこないとミトラも分かっているが、それでも動く指は止まらない。

 

「嫌だったでしょ。みんなの前で言われて、笑いものにされて」

 

 呟くような声になってしまう。口にするのも嫌だった。

 

 腕の中の身体が、もぞりと動く。しばらくじっと黙っていたミーシャが、やがて静かに口を開いた。

 

「……お母様も、経験があるんですか?」

 

 撫でる手が少し止まり、また動く。

 

「ずっと前にね」

 

 思い出すのは、灰色の教室だ。

 

 身長順の列ではいつだって先頭だった。制服は一番小さい号数でも袖が余った。校門をくぐれば迷子だと笑われ、本当に悪気なく正面衝突されて自分だけ突き飛ばされるのは一度や二度ではない。

 

 自分が高いところにあるものを取ろうとすると、教室のどこかで小さく吹き出す音がした。悪意ですらなかったのだと今なら分かる。

 

 彼らにとって佐野ミトラは話のタネだった。ちょうどいい笑い話。それ以上でも以下でもないもの。そこに意味など込められていないが、受け手が勝手に意味を見出せる程度にはミトラにとって大きな物事だった。

 

 中学まではミトラも笑った。笑っておけば話が早く終わるし、極端に小柄な生徒がいないでもなかった。

 

 高校からは疎ましくなった。いつまでも変わらない身体に気付き始めて、これとずっと付き合っていかなければならないのだと思い知ったから。

 

 さいわいと言うべきなのか、忌々しい高校時代にはヒナタが横から割って入ることがあった。あの頃から面の皮だけは特級品だった同級生が笑いの中心へ一言二言言ってやると、それだけで潮が引くように人が散った。あれに助けられていたのだと素直に認められるようになったのは、ずいぶん後のことだけれど。

 

 それでも、ヒナタはいつも隣にいたわけではない。彼女の『庇護』が無い時は、むしろその寵愛を受けているせいで露骨な嫌がらせに見舞われたこともある。

 

 心に澱のように溜まり、ずっと拭えない自分の汚れ。いくらシラベに甘やかされ、家族に癒されたところで消えはしない。あれから何年経っても、身体はあの教室の頃のままなのだから。

 

 だからこそ、思う。自分の娘に、あんな思いはさせない。

 

「他の誰があんたにひどいこと言っても、私は味方だからね」

 

 銀色の髪に顔を寄せて、囁いた。誰かが肯定してやらなければならない。自身の存在も、そこに抱いた怒りも。押し殺すことに慣れさせてはいけない。それはとても、寂しい想いを生んでしまう。

 

 縋るミトラに、ミーシャは大人しく撫でられていた。膝の上の重みとぬくもりが、少しずつミトラの中の熱を吸い取っていく。

 

 どれくらいそうしていただろうか。やがて、ミトラの腕の中からミーシャがゆっくりと起き上がった。

 

「お母様」

 

 薄闇の中で、青い瞳がまっすぐにこちらを見ていた。

 

「お母様が見た目のことでつらい思いをされてきたのは、分かりました」

 

 ミーシャは一度、言葉を選ぶように間を置き目を閉じる。そして開いた目で、じっとミトラを見据えた。

 

「でも、私は大丈夫です」

 

 言い切る言葉に反射して喉が震える。それはダメだ。そう思っていいことなんてない。

 

「子供が強がっちゃダメよ」

 

「強がってなんか、いません」

 

 首を横に振る。銀の髪がさらりと揺れた。

 

「そりゃあ……む、胸のことを言われたら、恥ずかしいですけど。でも、これが私ですから。どんな風に言われても、受け入れられます」

 

 頬を薄く染めながら、それでも目は逸らさずに言う。その物言いに嘘の色は見えなくて、ミトラは言葉に詰まった。

 

 そんなはずがない。自分がそうして開き直れるようになったのはいつだったか、それほどまでにミーシャが擦れてしまうのは耐えがたい。

 

 だがミーシャはミトラの苦悩などどこ吹く風で、身じろぎしてミトラの足を跨ぐように床の上に膝立ちになる。膝を立てたぶんだけ、ほんの少しミーシャの顔が高くなった。いつも見下ろすでも見上げるでもなかった娘の顔を、ミトラが見上げる形になる。

 

 その唇が、むんっと尖った。

 

「それにお母様だって、初対面の時に大きいって言ってきましたよね」

 

「うっ」

 

 喉の奥で変な音が出る。葬送外野(ヘルヘイム)でミーシャを確保する時、シラベから聞かされた銀髪と青目ですげーデカい胸という情報しか貰ってなかったものの、いざ対面してみれば本当にその通りだったのだからぽろっと言ってしまったのだ。

 

「……あれは。あの時は、あんたが娘になるなんて思ってなかったし」

 

「それでも、私が恥ずかしい思いをしたのは変わりませんよ? よその子だったら言っていいんですか?」

 

 少しおかしそうにミーシャが追い詰めてくる。あの後ひとりで真っ赤になっていたんですから、と続けられて返す言葉がいよいよ無くなった。

 

 黙り込んだミトラを見て、ミーシャはふっと笑った。それから細い腕が伸びてきて、ミトラの頭をそっと抱き寄せる。

 

「私のことより。お母様とお父様が喧嘩している方が、私は嫌です」

 

 呟かれた言葉の方がよほど寂しそうで、怒りに煮立っていたミトラの底を抉ってくる。

 

 撫でられていた側に、撫で返されている。慰めるつもりで連れてきたはずが、宥められているのは自分の方だ。知らず強張っていたミトラの肩が緩む。

 

「……ミーシャは強いわね」

 

「ふふ。どうでしょう」

 

 抱きしめ返し、目の前の柔らかいものにそのまま顔を埋める。大きいだの何だのと外野が騒ぐのが馬鹿らしくなるくらい、ただただ優しい感触がする。これは確かに大きい。娘に甘えてしまいたくなる。

 

「でも……怒ってくれたのは、嬉しかったです。ありがとうございます、お母様」

 

 頭の上から降ってくる声は、どこまでも安らかだった。

 

 ふと、部屋の戸を控えめに叩く音がした。

 

『ミトラ、ミーシャ。さっきはすまなかった』

 

 シラベの声だ。似合わない、真面目くさった声色。それが彼の真剣な気持ちであることは、ミトラだって分かっている。

 

『考えずに話して悪かった。ちゃんと謝らせてくれ』

 

『声が小さいぞ契約者。もっと腹に力を込めろ』

 

『扉に額を擦り付ける音を立てればミトラ様も溜飲が下がるのでは?』

 

『にゃん』

 

 戸越しのくぐもった声に、その後ろから更に声が被せられる。お前らうるせえ、とシラベが文句を言うのがどうにも締まらないが、それでも皆が心配しているのがミトラにも伝わってきていた。

 

 ミーシャがにっこりと笑って、ミトラの頭をひと撫でする。

 

「ほら、お母様。お父様がああ言っているんですから、聞いてあげましょう」

 

 ミーシャの胸に顔を埋めたまま、ミトラは頷いた。自分の情けないところはここまで。あとは親の務めを果たそう。あの馬鹿の謝罪を、娘と二人で聞いてやることにする。

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