真夜中のボトムレスピット。二階の相部屋は、寝息が三つ重なる静けさの中にあった。
カルメリエルは自分の布団の上でパチリと目を開け、音もなく身を起こす。
精霊にとって、眠りは食事と同じ嗜みのようなものだ。取らずともさほど障りはないが、家族と同じ習慣を分かち合うのは悪くない。だから毎晩、布団に入って目を閉じるところまでは習慣を共にしている。その先まで付き合うかどうかは、その夜の気分次第だった。
カーテン越しに光が零れており、夜闇に慣れた目には十分明るく感じられた。何気なく隣の布団へ目をやってから、カルメリエルは溜め息を吐いた。
ミーシャの枕元では大穴が丸くなり、小さな背中を規則正しく上下させている。そこまでは良い。問題はその向こう、自分の布団を抜け出して転がり込んでいる金髪である。
レヴェローズがミーシャの胸に顔を埋めるようにして抱きついていた。両腕どころか片脚まで絡めた念の入れようで、抱き枕にされた当のミーシャは苦しげな寝言を漏らしている。
「……まったく」
カルメリエルは膝立ちで布団を渡り、愚妹の腕を一本ずつ丁寧に引き剥がしにかかった。寝ているくせに存外力が強い。どうにか腕の檻からミーシャを抜き取ってやると、解放された銀髪の娘はすうと深く息を吸い、安らかな寝息へ戻っていった。よほど苦しかったらしい。
主を失った両腕が、畳の上を名残惜しげにさまよう。カルメリエルは自分の枕をその腕の中へ差し入れてやった。レヴェローズは疑いもせずに枕を抱き潰し、ふにゃりと相好を崩す。
「むふ……けいやくしゃぁ……」
何を夢見ているのだか。カルメリエルは立ち上がり、寝息を乱さない程度の力加減で愚妹の尻を静かに蹴った。レヴェローズは唸って寝返りを打ち、枕を抱えたまま自分の布団へ転がり戻っていく。これでよし。
物音に気付いたのか、大穴が薄目を開けて、星屑の瞳をこちらへ向けてくる。カルメリエルが唇の前に指を立ててみせると、黒猫は興味を失ったように目を閉じた。
足音を殺して部屋を出る。階段の軋みやすい段は、とうに全部覚えていた。
一階の店内は、シャッターの隙間から漏れる街灯だけの暗がりに沈んでいる。カルメリエルは明かりも点けずにフロアを横切り、バックヤードのカーテンをくぐった。
棚の一角、段ボールの陰の目立たない場所にその台座はある。
手のひらほどの四翼機が四機、充電台の上で行儀よく翼を畳んでいた。機体の下部には細い金属の筒。今は沈黙しているが、いざとなれば青白い火花を散らす、当店自慢の防犯設備である。
元はと言えば、夜更けの手慰みに組んだ玩具だった。ジャンクパーツを寄せ集め、芯にほんの微量の伝結晶を仕込んでやると、機械は驚くほど素直に育つ。複雑なことは考えられないけれど、不審者を検知して飛び立ち、追い払って帰投する程度の判断なら自分たちでこなしてくれる。
実績もある。一同の留守中に入り込もうとしたノルドリッチを、この子たちは電撃で追い立てて撃退してみせた。当時は誰の断りもなく置いていたものだから出動映像を披露した時にはミトラにたいそう呆れられたが、映像の説得力の甲斐あって今では半ば公認の店の備品となっている。
公認になったからにはこうして夜中にこっそり弄る必要はもう無いのだが、昼のカルメリエルにはミーシャの勉強を見るという大役がある。読み書きに計算、地理に歴史。教え子の覚えが良い分、教える側にも仕込みが要る。店の手伝いに出るようになれば少しずつミーシャが手を離れていくとはいえ、まだまだ全部とはいかない。趣味に充てられる時間は必然、皆が寝静まった後へ落ち着いていた。
誰に憚ることもないのに人目を忍ぶというのも妙な話だが、この静けさは存外気に入っている。
カルメリエルは台座の前に膝を突いた。服の裾からするりと細いケーブルが伸びて、先端が一機目の機体へ吸い付く。やることは大したものではない。照合情報の更新である。
この子たちは単純だから、覚えている姿と目の前の姿が食い違うと常連を不審者と見誤りかねない。営業時間内ならタイマー制御で電源を落としておけばいいが、常連となると閉店時間後も駄弁っていることもある。ファジィな店舗形態はデジタル機器にとって誤作動の元だ。
常連、特に子供というのは恐ろしい速さで育つのだ。クモンの背丈は春からまた少し伸びた。キリメも体のあちこちが成長しているようで、服も窮屈そうにしていた。あの二人は閉店間際まで粘ることもあるため、照合が古いままでは事故のもとになる。
その他にもいる客も一人ずつ、記録を今日の姿へ差し替えていく。我が家の家族が大切なのは言うまでもないが、店へ通ってくださる方々のことも、カルメリエルなりに大切にしていた。お客様に電撃など論外である。
新しい登録も増えた。ミーシャは従業員として最上位の保護対象へ。先日ストレージを長々と漁っていった新顔の男性客はひとまず常連見習いといったところかしら。
さて、と更新の動きが止まる。
出動履歴の隣に、検知記録だけがずらりと並ぶ名前があった。
ヒナタである。
警備対象外と設定してあるから、この子たちは彼女を見付けても飛び立たない。ただ見たものは律儀に覚えている。月に幾度か、真夜中の店内をヒナタが歩いている記録が残っていた。
何をするでもない。商品に触れるでもなく暗い店内をゆっくりと一巡りして、辺りの椅子に座ったり、二階へ上がる階段の前でしばらく佇んだり。それから来た時と同じように帰っていくようだ。詳しい動きは記録されていないが、概ねそのような行動をしているらしい。
咎める気にはなれない。以前、彼女の手により仕掛けられた監視カメラのお陰で面白いものが見られたこともある。あのような騒動を起こすならカルメリエルも指を差して笑う準備がある。
何より。彼女の取ったホテルの一室で、シラベを含めたボトムレスピット一同で過ごした夜をカルメリエルも覚えている。あの晩以来、彼女もまた温もりを分け合う輪の内側にいる。今更閉め出すのは義理を欠くというものだろう。
とはいえ誰にも知られぬまま忍び込むのを繰り返されるのは、輪の内側が相手でも薄気味悪い。では警備対象へ戻すべきか。それも悩ましい。電撃程度で懲りる姿が想像できないし、翌週には電撃を無効化する外套か何かを仕立てて現れる気がする。
「性癖というのは悩ましいものね」
思案の途中。ケーブルの先で、一機がぴくりとプロペラを震わせた。何かを検知したらしい。耳を澄ませば天井が微かに軋んでいる。誰かが二階の廊下を歩き、階段へ向かっていた。
カルメリエルは接続を解いてケーブルを背へ収め、逸る機体の頭を指先で撫でて家族に電撃はいけませんと宥める。
カーテンの陰から、そっとフロアを窺う。階段を降りてきた影が、対戦スペースの照明を一つだけ点けた。卓に着き、手にしていたものを置く。割り箸を割る小さな音。続いて、湯気の立つ容器から麺を啜る音が、静まり返った店内にやけに大きく響いた。
見覚えのある猫背だった。まぁ、とカルメリエルは口元を覆う。
シラベである。夕食であれだけ山盛りのカレーを平らげた家長が、日付の変わった店先で、一人カップ麺を啜っている。
良いものを見た。カルメリエルはカーテンをくぐり、足音を立てずに歩み寄った。
「シラベ様」
「ぶっ……!?」
声を掛けられ、シラベは盛大に咽せた。麺を咥えたまま振り返り、暗がりから浮かび上がったカルメリエルを認めて、目に見えて肩を跳ねさせる。
「か……カルメリエルか。脅かすなよ、心臓に悪ぃ……」
「ふふ。お夜食ですの?」
問いながら、断りもなく隣の椅子を引いて腰を下ろした。シラベがカップを僅かに自分の側へ寄せる。
「……いや、まあ。小腹が減ったから、つい」
目が合わない。カルメリエルはにこにことその横顔を眺めてから、ふむ、と天井を見上げてみせた。二階の、ある部屋の方角である。
「今日はミトラ様との夜だったはずですけれど。よろしいんですの?」
「……ミトラなら疲れてもう寝たよ。今日は色々あったからな」
色々。夕食の席のひと悶着と、その後の『仲直り』のことだろう。娘を連れて部屋に籠った小さな店長はその後の謝罪を受け入れてやった後、丹念な絆の修復に勤しんだらしい。
「あらあら。やはりミトラ様は、体力面が課題ですわね」
「お前だって似たり寄ったりだろ」
「ん゛ん゛っ」
思わぬ反撃に笑みの形のまま頬が熱くなった。思い当たる節しかない。カルメリエルの夜は決まって指一本動かせなくなって終わる。聖女の慈悲深さで受け止めて差し上げる等と能書きを自分の中で立てるつもりが、先に沈むのはいつもカルメリエルの方なだった。
こほん、と咳払いを一つ。聞かなかったことにして、話を進めることにする。
「それにしても、シラベ様」
カルメリエルは目を細めて、卓上の湯気を見つめた。
「ミトラ様の手料理を召し上がった夜にお夜食とは……少々、当てつけのように思われるのではなくて?」
麺を持ち上げかけた箸が止まる。
「あの山盛りのカレーでは足りなかったのだ、と。そう受け取られても仕方のない状況ですわよねぇ」
「…………」
シラベは何も言い返さなかった。言い返せない、が正しいか。口を開きかけては閉じ、視線をカップと天井の間で行き来させていた。
(あら。あらあらあら)
いつも軽口で受け流す人が、負い目のせいか箸を持ったまま立ち往生している。
珍しいものを見た。そして認めよう。少し、可愛らしい。
「ミトラ様がこのことをお知りになったら、どう思われるかしら。……私の料理では、シラベを満足させられなかったのだと」
「ぐ……」
「今日という日に限って言えば、それはもう、お哀しみになるでしょうねぇ」
夕食の席で何があったかはこの場の二人ともがよく知っている。ようやく凪いだ水面に、わざわざ石を投げ込むこともあるまい。
シラベもそれを分かっているだろうに、どうしてこう隙を晒すのか。嘲る心はあるが、同情の想いもカルメリエルにはあった。
彼にとって数少ないこの一人の時間。今日の出来事を振り返り見つめ直すなり後悔するなり自罰するなり、思い悩むその慰みにカップ麺を手に取ったのだろう。
愚かしく、愛おしい。
「……頼む。黙っていてくれ」
絞り出すような声だった。カルメリエルは口元を袖で隠してふふ、と笑う。
「あら。ただでお願いだなんて、少し虫がよろしいのではなくて?」
「うっ……何が望みだよ」
シラベの目が泳ぐ。頭の中で釣り合いの取れる対価を探しているのが手に取るように分かる。出してくるのは金銭か、菓子か、それとも店番の肩代わりか。カルメリエルとしてはシラベが言うならそういうもので応じても良いが、この二人きりの夜に結ぶ密約には少しばかり趣が足りていない。
困り顔をカルメリエルはしばらく黙って味わった。夜更けの店、二人きり、主導権はこちらの手の中。ああ、良い夜である。
やがて頃合いを見て、カルメリエルはシラベの腰へと腕を軽く回した。
「な、なんだよ」
身を強張らせるシラベに構わず顔を突き出す。目を閉じ、唇を開いて、小さく舌先を覗かせて、そのまま待つ。
息を呑む気配がした。椅子の軋む音。しばしの沈黙。
やがて観念したような溜め息と共に、箸の動く気配がして。
「……ほら」
開けた口の中へ、麺が滑り込んできた。
それは本来カルメリエルには不必要なもの。濃い出汁と油の味が舌の上でほどけていく。行儀が悪くて、身体に悪くて、こんな夜更けに口にするべきではないものの味。それをゆっくりと味わい、喉を鳴らして飲み込む。
「背徳の味、ですわね」
「そうかよ共犯者」
げっそりと言うシラベの声から、もう先程までの強張りは抜けている。カルメリエルは笑みを深めて、もう一度、小さく口を開けた。
「……はいはい、あーん」
呆れ声と共に二口目が届く。過剰な塩気と油、不自然な甘さを綯い交ぜにしたジャンクな味わい。
カルメリエルにとって食べることに重きは無いが、それでも好きな味付けというものはある。カップ麺はその好みである細やかな味付けとは違う。ミトラの少し大雑把だが手慣れた様子の味とも異なった。
もし食い道楽を是とする妹であるならうまいうまいと喜ぶのだろうか。大穴なら感想を持たずに掻っ込むだろうか。ミーシャなら、口に合うとも合わなくともおいしいですと微笑みそうだ。
自分は一口食べて飽きてしまうだろう、必要の無い食事の中でも殊更に求めない味わい。だというのに、シラベの箸で運んでもらう脂ぎったその麺はいくら食べても求めてしまえる。
夜更けの店内に、麺を啜る音がひそやかに続いていった。