カスレアクロニクル   作:すばみずる

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184 そういう遠慮は覚えなくていいの

 ミトラの部屋の小さな卓に、空いた缶が三本行儀よく並んでいた。

 

 四本目のプルタブを起こしたのはミトラが先だった。さきいかの袋はとうに軽くなり、それを平らげた張本人はミトラの膝の上で丸くなっている。満腹の毛玉は時折耳先だけを動かして、静かな部屋に付き合っていた。

 

 その四本目が半分ほど軽くなった頃、ようやくミトラが口を開いた。

 

「私、ちゃんと親できてると思う?」

 

 シラベは缶を傾けかけた手を止めた。ミーシャというものが出てきてからミトラの精神は安定傾向にあると思ったものの、これでもやはり悩むところがあるらしい。

 

「藪から棒だな」

 

「いいから」

 

「はいはい。親ねえ」

 

 茶化して済む様子でも無いらしい。居住まいを正してミトラの目を見る。不安はあるのだろうが、そのせいで揺れているようには見えない。

 

「俺だって人の親なんて自分の親以外に知らねえから、偉そうなことは言えないけど。それでも今のミトラはちゃんとしてると思う」

 

 欲しているのは承認だろうとあたりを付けて、探るようにシラベは言う。降ってわいた役職を喜んでいる気持ちはあっても、それが周囲に認めてもらえているのかが気に掛かって聞きたくなるのだろう。

 

 シラベは缶を卓に置き、続きを待つ。ミトラは受けた言葉を咀嚼する様子もなく、手元に視線を落としたままゆっくりと言葉を選んでいった。

 

「この間のカレーの日、覚えてる? 私、怒鳴ったでしょ」

 

「ああ」

 

 覚えているも何もない。あの夜の火種はシラベの軽口だった。

 

「悪かったな。あれは俺が――」

 

「あんたの謝罪はもう受け取った。今してるのは私の話」

 

 ぴしゃりと遮られて、シラベは口を噤んだ。

 

「あの時さ、理屈より先に口が出てたのよね。怒鳴って、ミーシャを連れて部屋に籠もって。……やりすぎたと思ってる」

 

 ミトラの手が、膝の上の大穴の背をゆっくり撫でる。いつもは機嫌よく鳴くはずの大穴が、珍しく静かにしていた。

 

「見た目のことを弄られるのは、私が嫌だったから。だからあの子には同じ思いをさせたくなかった。守らなきゃと思って」

 

「立派だよ」

 

 混ぜ返すような言い振りになったが、シラベは本心から言っていた。動けることは動かないことより余程良い。

 

「でも当のミーシャは全然傷付いてなくて。それどころか、喧嘩してる方が嫌ですって宥められて」

 

 缶に口を付けて、ミトラはふ、と息だけで笑った。

 

「私より、あの子の方がよっぽど大人でしっかりしてるのよね」

 

 感心と情けなさが半々に混ざった苦笑だった。

 

 シラベは相槌を打たず、卓の缶へ目を落とした。

 

 私が嫌だったから。その一言に畳まれている年月を、シラベは知らない。ただ察しくらいはつく。この見た目だ。学校という場所がそれを放っておいてくれたとは思えない。ヒナタがいたとはいえ、いやむしろ、ヒナタが味方になろうとしていた事がその諸々を示すかのようだ。

 

 今でこそ三十五歳児だなんだと笑い話の側に置けているが、笑い話に出来るようになるまでに削られたものが、無かったはずもない。

 

 だが、聞かない。話したくなれば本人が話すだろうし、酒の勢いで摘まみ出させていい話でないことくらいは、シラベにも分かる。誰にでも見せたくない傷はある。

 

「……守ろうとしたこと自体は、間違ってない」

 

 出来ることは、その傷を深めないように覆ってやる程度だった。全部肯定、なんていう甘ったるいものはミトラは求めないだろう。だがせめて、正しいことをした後悔で自傷するのはシラベも止めたい。

 

「空振りしたからって、動いた奴が間抜けってことにはならねえよ。ミーシャが平気なのはただの結果論だ」

 

「……そうだけどさ」

 

 ミトラは唇を尖らせ、それきりまた黙った。膝の上で大穴が寝返りを打ち、腹を天井へ向けたしどけない格好で伸びる。手癖の撫でが、今度はその腹の毛を遠慮なく掻き乱した。

 

「んぅ」

 

 寝ぼけた抗議は一声だけで、すぐに毛玉のように手足を縮める。

 

 残りを飲み干して、ミトラは空いた缶を卓へ置いた。

 

「私もさ。もうちょっと、大人にならなきゃいけないのかもね」

 

「三十五歳児が今更か」

 

 じろりと睨まれた。シラベは素知らぬ顔で自分の缶を呷った。

 

 と、階下で戸の開く音がした。

 

『ただいま帰ったぞー!』

 

 遅れて夜気を突き破る遠慮のない声に、ミトラの据わりかけた目が呆れの形に緩む。膝の上の大穴も耳を立てて頭を起こした。

 

 廊下に出ると、階段を上がってくる足音が二つ。先頭のレヴェローズは、レジ袋を戦果のように高々と掲げていた。後ろから顔を出したミーシャがぺこりと頭を下げる。

 

「ただいま帰りました」

 

「ただいま戻ったぞ! 見よ契約者、カップのやつと棒のやつで迷ったのでな、両方買ってきた!」

 

「あんた渡したお金全部使ってきたんじゃないでしょうね。別に限界まで使えって意味で札渡したんじゃないんだから」

 

「私は学んだのだ。迷ったら両方。これで後悔とは無縁になる」

 

 二人はそのままキッチンの調理台にレジ袋を広げ、中身の披露を始める。カップのバニラ、ソーダ味の棒、チョコで包んだ高そうなやつ。袋が音を鳴らすほどに、目を輝かせた大穴が伸びあがって台を覗き込もうとする。

 

「にゃぁん」

 

「お前のは明日な。今日はもう散々食っただろ」

 

 シラベが首根っこを軽く引き戻すと、大穴は不服そうに尻尾で空を叩いた。

 

「お母様、あの、お釣りとレシートです。ちゃんと確かめて、いただきました」

 

「はい、よくできました。お釣りはミーシャが持ってなさい。好きに使っていいから」

 

「えっ? でも、その……」

 

「ミーシャよ、菓子の時と同じだ。受け取っておけ」

 

「……はいっ。ありがとうございます」

 

 礼儀正しい娘の頭を撫でる、未だ慣れない様子の母親役。だが双方が満足しているのであれば、それで良いだろう。ついさっきの問いへの答えの一つがそういう気持ちに転がっている気がしたが、シラベは黙っておいた。

 

「で、店長。私の分のお駄賃は?」

 

「あんたは二種類買ったんだからダメ」

 

 ぶうたれるポンコツがいるせいか、娘の質がどんどん高くなっている気がする。これではミトラも気後れしても仕方がないかもしれない。

 

「あら。賑やかだと思えば。わたくしも一ついただいてよろしくて?」

 

 湯上がりのカルメリエルが、濡れた髪を肩に流したまま輪に加わった。汗だくで布団から転がり出たのが嘘のように、いつもの微笑が戻っている。

 

「姉様は反省中の身であろう?」

 

「たとえそうだとしても、アイスを食べてはならないという話は別でしょう?」

 

 しれっとチョコの高そうなやつへ伸びた手に、レヴェローズがわあっと声を上げる。それは明日の自分の分だ、こういう物は早い者勝ちと相場が決まっている、と姦しい応酬が始まった。

 

「溶ける前に決めなさいよ。……ミーシャはどれにするの」

 

「え、えっと、私は氷のやつで……」

 

「それ一番安いのじゃない。そういう遠慮は覚えなくていいの」

 

 輪が出来上がったのを見届けて、シラベは足元の大穴を抱え上げた。

 

「俺は先に寝る。俺の分は冷凍庫に入れといてくれ」

 

「む、そうか」

 

「おやすみなさい、お父様」

 

「おやすみなさいませ、シラベ様」

 

 踵を返しても、背中では姉妹の言い合いがまだ続いている。廊下を戻る腕の中で、大穴が未練がましく一度だけキッチンを振り返った。

 

 

 *

 

 

 開け放した窓から、ぬるい夜風が思い出したように流れ込んでくる。豆電球だけ残した薄暗がりで、シラベは布団に横になった。

 

 約束通り、大穴は枕のすぐ横に陣取った。毛皮を押し付けて丸くなり、軽く手をあげて撫でてやるとお礼とばかりに頬を舐められる。

 

「ぐぐぐるるる」

 

 低い喉の音が、耳のそばで規則正しく続く。その音を聞くともなしに聞いているうち、意識の輪郭が緩んでいく。腕をあげて撫でるのも億劫になって、脱力を自覚していく。

 

 畳を踏む気配がしたのは、その頃だった。

 

 薄目を開ける間もなく、肌掛け越しに腰へと馬乗りになる気配。見上げるまでもない。この軽さ、この遠慮の無さは一人しかいない。

 

「……ミトラさんよ」

 

「んー」

 

「大人にならなきゃ、とか言ってなかったか?」

 

 こうして不意を打ってくるような仕草は、到底大人のものとは思えない。親として成長しているのかと思ったのに、中身は結局前と同じだ。

 

「明日からでいいや」

 

 言うが早いか、ミトラは倒れ込むように上体を伏せてきた。薄く細い身体が重なり、体温以上の熱さを生じさせていく。

 

「んなん」

 

 頭の横で大穴が短く鳴いて起き上がった。咄嗟にシラベが撫でて落ち着かせるようにするが、その手の隙間を潜り抜けていく。

 

「大穴?」

 

 開いた窓の縁へ、黒い影が音もなく飛び乗る。星屑の瞳が一度だけこちらを振り返った。

 

「いいのか?」

 

 なにを、とまで言うのはシラベでも少し気後れした。返事の代わりに尻尾がゆらりと揺れ、黒い姿は夜へ消えた。気を利かせたのか、騒がしくなる前に避難しただけなのか。猫の考えることは分からない。

 

 視線を戻した先に、ミトラの顔があった。暗がりでも目元が熱っぽく潤んでいるのが分かるほど近い。

 

 唇が重なった。アイスを食べずに来たのか、発泡酒の名残がかすかに苦い。啄むような口付けが二度三度と続き、肌掛けの上でミトラの腰がゆるく揺れ始めた。

 

 流されるのは簡単だった。実際、腹の底はとっくに流される気でいる。シラベは薄れかけた分別を掻き集めて、軽口を一つ組み立てた。

 

「……明日からってことは、今日のお前はまだ大人じゃねえんだろ」

 

 腰の動きが止まった。追い打ちと固定の為に、折れてしまいそうな細い腰を両手で抱える。

 

「なら、こういうのは成人するまでお預けだな」

 

 暗がりの中、頬がぷくりと膨れるのが見えた。

 

「……屁理屈」

 

「お前にだけは言われたくねえな」

 

 睨まれはしたが、ミトラは降りなかった。それどころか肌掛けを引っ張り上げてどかすと、シラベの胸元に頭をぐりぐりと押し付ける。腕を回せ、といういつものおねだりだ。

 

 ローテーションから外れた営みなのは分かっていたが、互いに今更なにか言うつもりはない。もとよりミトラとの一夜が一巡りの内に一度ということ自体、シラベにとっては少ないと思っていた。

 

 両腕でミトラを抱え込む。大穴を抱くのとそう変わらなく感じる重さだが、今度の猫はどれだけ熱くしても逃げないところが素晴らしい。

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