ボトムレスピットの戸を引くと、心地よい冷房がヒナタの顔を撫でた。続いてスリーブを纏ったカードが鳴らす硬質な音と、それに伴う歓声が響いてくる。
店内を見やると長机の一つを囲むように客が集まり、その中央でシラベが対戦盤面を挟んでいる。
「それ通したら次で終わるぞ。いいのか?」
「えっ。ちょ、ちょっと待ってください」
「おう、ごゆっくり」
大会運営の一環で、参加者の相手をしているらしい。盤面へ目を落とすシラベの横顔には緊張感の薄さと対戦中だけ僅かに濃くなる集中が同居していた。
愛しい男が見せる真面目な顔というのも良いものだ。業務にかこつけて遊んでいるだけと言われればそれまでだが、元よりボトムレスピットは客数がそれほど多くは無い。彼の位置にレヴェローズが割り込んで人数合わせをすることもあったし、それよりもミトラが担うことが専らだったという事もヒナタは知っている。
だが最近の彼女は心境の変化があったのか、店舗経営にしっかりと向き合っている。その一環か店舗大会に出る回数も減り、その代わりに業務を回す姿が良く見られた。
今日もまた楽しい戦場はシラベに任せているのであれば、ヒナタの愛しい女はカウンターにいるはずだ。そう考えて視線を向けた先で、銀色の頭がぴんと背筋を伸ばしていた。
カウンターの椅子に座っているのはミトラではない。背丈に見合わない豊かな胸を押し潰すように両腕を体の前で揃え、銀髪の先まで硬直させかねないほど強張りながらも目線はまっすぐ虚空を見つめている少女がいる。
例の一件の末にボトムレスピットへ転がり込んだミーシャの事はヒナタも知っている。時折シラベと交わすメールでミーシャが店の手伝いを始めたことは聞いていたが、しかしもうカウンターに立たせて金銭を扱わせているとは思わなかった。
ヒナタがカウンターへ近付いて、ようやくミーシャの視界に客として入ったらしい。肩が大きく跳ねた。
「い、いらっしゃいませっ」
声が裏返り、本人もそれに驚いたのか目を見開く。新入社員の反応に良く似ている。微笑ましいものだとヒナタは自然と自分の目じりが下がるのを感じる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。少し見させてもらうね」
「は、はい。ごゆっくりどうぞ」
微笑んでカウンター脇へ移ると、ミーシャの肩から目に見えて強張りが抜ける。
並べられたパックへ視線を落としながら、ヒナタは横目でその様子を窺う。ミーシャは一度こちらを見たが、すぐに店内へ目を戻した。接客中の客から視線を当て過ぎないよう言われているのだろうか、あるいは彼女自身の気配りか。
ともあれ、その視線の質でヒナタは理解した。どうやら覚えられてはいないらしい。
ミーシャがこちらの世界へ出てきた時、ヒナタもその場にいた。だがあの時の少女には新たな世界に来たという事実が大きく周囲を理解する余裕はなかったはずだ。家族の他にいた一名であるヒナタを覚えていなくとも不思議はない。
少しの寂しさはある。だが同時に、今でしか築けない関係だってあるものだ。ヒナタはパックを三つ選び、棚から小さなチョコ菓子とラムネを一つずつ取った。
「会計をお願い出来るかな」
「はいっ」
ミーシャは立ち上がり、商品を一つずつ手元へ引き寄せた。
「『鮫台風の脅威』が三つ。お菓子の竹槍の村が一つと、玉ラムネが一つと……」
商品名と値札を丁寧に読み上げながら、カウンターに置かれた電卓を叩いていく。指の動きは慎重で決して早くは無いが、途中で止まらずよどみなく出来ているのは好感触だ。
「合計で、1880円です」
「1880円だね」
ヒナタは上着の内側から小さな財布を取り出した。普段ならスマートフォンやカードで支払いを済ませるが、ボトムレスピットはキャッシュレス決済に対応していない。この店に来るようになってから、ヒナタはここで買い物をするためだけに小銭と数枚の紙幣を入れた財布を用意していた。
小銭を探すヒナタの前で、ミーシャが素早く紙片を引き寄せた。パックの名前と個数、菓子の名前を鉛筆で書き留めていく。
レジの操作を教わっていないのか、まだ自信がないのか。どちらにせよ、後でミトラかシラベへ渡せば会計を通せるように、自分で補う手段を考えたらしい。
こうした努力を目にすると、庇護欲というものは実に単純に働く。ヒナタにも縁のある感情だった。もっとも、その対象はこれまで主に三十五歳の女性だったが。
「1000と、900円で」
「はい。20円のお返しです」
受け取った現金を確かめて、ミーシャはすぐに釣り銭を差し出した。商品の入った小さな袋も続けて渡される。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
ヒナタは袋からラムネを取り出し、カウンターへ戻した。
「これは君に」
「えっ」
ミーシャがラムネとヒナタの顔を交互に見る。
「お手伝い、ご苦労様」
「い、いえ。そんな、いただくわけには」
「先ほど買った時点で私の物だ。私の物を誰に渡すかは、私が決めても構わないだろう?」
ミーシャはしばらく迷った末、恐る恐るラムネを受け取ってくれた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
ミーシャはラムネを壊れ物のように両手で包み、カウンターの内側へ置いた。お客の前で飲食をする勇気、あるいはいい加減さはまだ持っていないのだろう。
「店の手伝いは、今日が初めてなのかい?」
「いえ。品物を並べたり、お掃除をしたりは、何度か。でも、ここに座るのは初めてです」
「なるほど。それで緊張していたんだね」
「お金を間違えたら大変ですから。お母様にも、お店にも迷惑を掛けてしまいます」
お母様という呼び方があまりにも自然に滑り出てきて、既にその呼び方を知るヒナタですら少し頬が緩む。ミーシャも口にしてから気付いたのか僅かに唇へ指を当てたものの、それでも言い直しはしなかった。
「手伝いは大変じゃないかい?」
「大変な事は、まぁ。でも、私がやりたいと望んだことなので」
「立派だね。そうして手伝いをしてもらえるなら、お母様も喜んでいるだろう」
「そう、でしょうか」
ミーシャは少しだけ困ったように笑った。
「お母様は、その、結構、甘やかすといいますか。掃除をしても新聞を取ってきてもすぐに頭を撫でてくださるので、手伝っているから喜んでいるかは、その」
扱いに戸惑いがまだあるようだが、ヒナタにはその光景とミトラの心情が容易に想像出来た。気の利いた褒め言葉を探すより先に小さな手を伸ばして銀髪を撫でるミトラは、その内側にどれだけの想いを抱えているか、想いを巡らせるだけでもヒナタは陶酔出来る。
単に甘やかしているだけとは違うはずなのに、やはり彼女はそこら辺の出力が上手くない。だから愛おしいのだけど、と噛み締めるヒナタの表情筋は強固に優しい一般お姉さん客としての姿を維持し続ける。
「絶対に喜んでいるよ。安心していい。他にはどんな仕事を?」
「ええっと。棚の品物が少なくなっていたら、奥から持ってきます。値段を覚えて、同じところに置いて。あとは、朝に窓を拭いたり、床を掃いたりします」
「忙しいね」
「でも、楽しいです。知らない物がたくさんありますから」
ミーシャはパックの並ぶ棚へ目を向けた。
「同じくらいの大きさなのに、中に入っている物が違って。それを皆様が楽しみに買っていかれるのが、不思議で。お父様に教えていただきながら、少しずつ覚えています」
口にするたび父と母の話が自然に出てくるのが、ヒナタにはひどく眩しく感じる。
与えられた役割を果たそうとしているだけではない。この店で過ごす日々そのものを、ミーシャは大切にしているらしい。シラベから聞いてはいたが、本人の口から聞くと実感が違った。
「君はこの店が好きなんだね」
「はい」
今度の返事には迷いがなかった。
「皆様と一緒にいられますから」
ヒナタがその言葉に頷いたところで、二階からばたばたと慌ただしい足音が降りてきた。
「ごめんね、急にレジに立ってもらって。電話、思ったより長引いちゃって」
階段から現れたミトラは最後の数段を駆け下りると、そのままミーシャの脇に立つ。ミーシャの前に置かれたメモを取り、書かれた商品名へ素早く目を通す。
「いえ、大丈夫です。お会計も、ちゃんと出来たと思います」
「あ、こういうの助かるわ。ほんとにありがと」
ミトラの手が伸び、ミーシャの頭を撫でた。先ほど聞いた通りの褒め方だった。ミーシャはくすぐったそうに頬を緩めつつ、ミトラに近付けるように頭を傾ける。
良い光景だ。実に良い。だからこそ、ヒナタは笑みを消した。
「ミトラ」
「……何よ」
ミトラはようやくヒナタへ顔を向けた。最初から気付いていたはずだが、無視出来るなら無視したかったという雰囲気がヒナタには見える。それは痛いところを突かれる予感がある時にミトラが見せる素振りだった。
「事情はあるだろうが、まだ慣れていない、しかも子供をこうして金勘定の場に立たせるのはあまり褒められたことではないよ」
「う」
「ろくに教えられていない状態で投げ出されてしまえば、大人でも不満を覚えるし子供であっても理不尽だと感じるものだ。ましてやミーシャは期待に応えようと無理してしまうかもしれない。今回は何事もなかったから良い、で済ませるべきではないね」
ミトラの眉間に皺が寄った。しかし、反論は出てこない。
カウンターの内側で、ミーシャが不安そうに二人の顔を見比べている。
「お母様は悪くありません。電話が鳴って、どうしても出なければならないと……あれ? そういえば、私とお母様の名前……」
「ミーシャ、いいの。……実際、シラベを引っ張ってくる手間を惜しんだ私が悪いんだし」
「接客中の店員を無理に連れ出す方がトラブルを生みかねないから、その判断が難しいのは分かるよ。レヴェローズとカルメリエルは?」
「町内会のあれこれで出向いてる。……どっちか残しておくか、そもそもちょっとの間のつもりだったからレジ休止にすれば良かったわね。人増えても私がこれじゃダメだわ」
ミトラが絞り出すような溜め息を吐き、それからヒナタを睨みつける。可愛らしい強がりにヒナタの心が潤っていく。
「あんたにしてはまともな文句ね」
「なに、当然のことを言ったまでだよ」
ヒナタは自慢の胸を張る。
「なにせ、私たちの娘についてのことなのだからね」
ミトラが静止した。隣ではミーシャも、ラムネを持ったまま目を丸くしている。二人がどうしてそのような反応になるのかヒナタには分からない。
ヒナタにとって、シラベとミトラは愛しい人だ。現行法が少しばかり遅れているのが歯がゆいものの、我々が将来的に結ばれるのは確定的に明らかである。
この黄金の三角のうち、二人の娘であるミーシャが生じたというのであれば、それはヒナタの娘でもある。この論ずるまでも無い事実に対して固まる二人は、不思議とよく似ていた。