朝六時過ぎの街に人通りはまだ無かった。両隣も向かいもシャッターを下ろしたまま。アーケードの隙間から差す日はまだ低いが蝉は律儀に鳴き始めていて、今日も暑くなるという予告だけは済ませている。
ボトムレスピットの店先で、シラベは軍手をはめてしゃがみ込んでいた。開店はまだ先だが、出入りが面倒なので店のシャッターは掃除のついでに上げてある。
店の脇、隣の建物との間に伸びる細い地面。うなぎの寝床みたいに細長い店のくせに、雑草の生える隙間だけは一丁前にある。放置しているとあっという間に繁茂するため、時折こうして手入れをするのは面倒ながら必須の作業だ。夏の草は数日目を離しただけで威勢を取り戻すから、涼しいうちに根から抜くに限る。
むしった草をゴミ袋へ押し込み、ついでに吹き溜まりの空き缶と菓子の包装を拾う。これが終わったら午前中は二階で休み、昼飯を食ってから午後レヴェローズたちと交代で店に出る。悪くない予定だ。手だけは動かしたまま、シラベはそんな算段を立てていた。
「あれ、シラベさんじゃないっすか。何してんすか」
声に顔を上げると、店先の日向に人影が立っていた。
Tシャツにハーフパンツの、見覚えのある顔。たまに店へ来る中学生、根巻マナブだ。大会の受付で名前だけは覚えている。
ついでに言えば、つい先日キリメに粉をかけていたのが鬱陶しかったのでシラベが顔面を掴んで表へ放り出した奴でもある。
「見りゃ分かるだろ。掃除だよ」
「へえ。大変すね、こんな朝っぱらから」
「そっちこそどうした。中坊が朝っぱらから」
「聞いてくださいよ。今日は一日暇なんで──都会のカドショ行って、女の子探してくるっす」
マナブは得意げに胸を張った。親指まで立てている。カードゲームを嗜む人種でここまであけすけな奴も珍しい。
「……おう」
それ以外に返す言葉がシラベには見つけられなかった。少なくとも、うちでやらかさないだけの学習はしたらしい。どの店舗に行っても出禁になりかねないが、それも経験か。
追い払う理由も無いので、シラベは草むしりを再開した。マナブは帰るでもなく、軒の日陰に入り込んでしゃがみ、シラベの手元を眺めている。
「しっかしボトムレスピットって女の人多いっすよね。なんでなんすか」
「知らね。店長が変な電波出して呼び寄せてんじゃねえの」
「あれ。店長ってシラベさんじゃないんすか」
「俺はただのバイトだ」
本当の店長がどれなのかは説明しないでおく。どこから話してもややこしい。
「でも、バイトだとしても良く仕事出来るっすよね。あんな美人ばっかの職場とか俺だったら仕事になんないわ」
「美人なんか三日で飽きるって言うだろ。慣れだよ慣れ」
「あーね。そんなもんすかね」
「そーだよ」
しれっと嘘を吐きながら、シラベは雑草を一本引き抜いた。
慣れる日など一日も来ていない。三日どころの付き合いではなくなった今でも尚、いつ見ようがあいつらの姿に飽きなど感じるものか。
ふと、視線を感じた。マナブがじっとこちらを見ている。瞬きが少ない。
「……なんだよ」
「シラベさん。今の、強がりとかじゃないっすよね。マジで慣れてる奴の言い方っすよ」
妙なところで目端が利く。マナブは立ち上がり、確信に満ちた顔で頷いた。
「俺には分かるっす。シラベさん──相当場数踏んだナンパ師でしょ」
「は? ちげ──」
否定するより早く、マナブはその場に膝から崩れ、アスファルトに両手を突いた。額まで擦り付ける勢いの、見事な土下座だった。
「俺を、弟子にしてください!」
「何言ってんだお前」
それしか言えなかった。ヒナタは下心込みとはいえクモンにカードの弟子入りをされていたというのに、俺はこんな不名誉な勘違いで土下座されなければならないのか。理不尽にも程がある。
「俺、この夏にキメたいんす! 夏っていったら出会いの季節じゃないっすか! なのに全然、マジで全然女の子引っ掛からなくて焦ってるんす! お願いします師匠!」
「師匠じゃねえ。いいから顔上げて口閉じろ、近所の目があるんだよ」
バカがいる。シラベは袋の口を縛りながら土下座を眺めた。この間放り出されたばかりの相手に弟子入りを乞うとはこいつにプライドとか無いのだろうか。というか女漁りしたいならカードから離れろ外に行け。
無視して掃除の続きをするのが正解だと分かっている。だが──その必死の懇願っぷりに、ふと昔の景色が重なった。
学生時代、こういう手合いはいくらでもいた。馬鹿な同級生だの後輩だのがモテると評判の先輩に頼み込んで、合コンの席だの口説き方の伝授だのをせがんでいた。
滑稽なものだと野次を飛ばす側だったシラベはここまで頭を下げこそしなかったものの、結局その手の伝手を辿ってホストのバイトにありついた身である。人のことを笑えた義理ではない。
あの頃は頼み込む側だった。それが今度は、土下座される側に回った。そう考えると、妙なやる気が湧いてくる気がした。
何より、もとよりシラベはこの手のバカが嫌いではなかった。
「……うちの店の迷惑にならねえ範囲にしろよ」
「マジっすか!」
マナブは跳ね起きた。この身のこなしの早さだけは大したものである。
「ってことで師匠、早速お願いします! 今日の武者修行にそのまま使える、一発で女の子を落とせるアドバイスってやつを!」
「図々しいなお前。あとナンパを武者修行って言うな」
シラベは軍手を外し、ゴミ袋を店の脇へ寄せた。
「先に言っとくが、一発で落とす方法なんてねえよ。あったら世の男は苦労してねえ」
「えぇ……」
「その代わり、一つだけ教えてやる。好かれようとするな。嫌われないようにしろ」
「……どういうことっすか」
「声を掛けた時点で、相手の警戒心はマイナスからのスタートなんだよ。そこから点を稼ごうと必死になる奴から沈んでいく。やることは逆だ。減点を減らせ」
指を折って続ける。
「服のセンスは及第点狙うだけでいいが、爪と靴と匂いは妥協するな。清潔感ってのはそこで見られる。あとすぐ距離は詰めるな、触るな。喋るより聞け。相手が一歩引いたら追うな。断られたら一言で引け。しつこくした時点でそのターンは終わりだ」
「ターンも何も、引いたらそこで全部終わりなんじゃないすか。追っかけないと……」
「逆だ。すぐ引く奴は『まともな奴』として覚えてもらえる。往来で声を掛けて上手くいく確率なんざ元から皆無だが、お前が狙ってるのはカドショ通いの人だろ。相手がその店を拠点にしているなら、また会える可能性はそこそこある。なら一回の接触で詰めすぎなくていい。兎にも角にも狙うのは一発逆転じゃなくて、事故を起こさないことだ」
我ながら面白みのない講義だが、前々職で骨身に沁みた実感を混ぜた話をするとなるとこうもなる。指名の少ないホストがヘルプとして生き延びる術は、メインのキャストを立てるのは当然として突き詰めれば「嫌われないこと」に尽きた。
「……深いすね」
マナブは真顔になって、取り出したスマートフォンに何やら打ち込み始めた。メモを取っているらしい。妙なところだけ真面目である。
「よし。じゃあ師匠、次は実践お願いします!」
「あ?」
「いまから一緒に繰り出して俺らでナンパしましょう! 師匠のやり方、隣で見て覚えるんで!」
「アホか。俺は仕事だっつの」
「午前だけでいいっすから!」
「無理だ。腰いてえし」
「電車ですぐですよ! なんなら駅前でもいいんで!」
「無理っつってんだろ」
「実演無しで覚えろとか、師匠それスパルタっすよ!」
押し問答が続く。断る側が折れないと見るや、マナブは拝む手つきまで持ち出してくるのだからシラベは呆れた。今時の中学生はどこでこういうものを覚えて来るのか。
その食い下がりっぷりがいちいち昔の連中と重なって、シラベの口元は緩んでいた。仕事があるのは事実だが、まぁ、午前の休みを無くせばいけなくはない。
「しょうがねえ──」
言いかけたその時だった。背後で、ガラス戸の開く音がした。
振り返る。開いた戸の隙間から、小さな人影がサンダルをぺたぺたと鳴らして出てくる。寝間着代わりのTシャツに、寝癖のついた髪。
ミトラだった。
シラベの体を朝の気温と関係のない汗が伝った。この時間、ミトラはまだ寝ているはずだ。いつから起きていた。どこから聞いていた。
固まるシラベときょとんとするマナブの前でミトラは小走りに駆け寄ってくると、シラベの腰に抱き着いた。
「パパ、どこかにあそびに行っちゃうの……?」
パパと呼ばれた男は即答出来なかった。普段持ち得ないあどけなさを最大出力にした上目遣いは、いつぞやヒナタに見せた演技よりもだいぶ堂に入っている。
「えっ。シラベさん子持ちだったんすか」
裏返った声でマナブが呻く。ミトラの事を子供と疑っていないらしい。店番で見たことが無かったか、あるいは今の姿と仕事中のミトラが結びついていないのか。つくづくこいつは合法ロリだと実感できるがその所業は悪辣だ。
腰へ抱き着いた小さな生き物がじいっとシラベを見上げていた。あどけない演技の駄目押しとばかりに、欠伸で出たらしい涙まで浮かべているのが小癪だ。
ミトラが両腕を引っ張ってくる。抱っこをせがむ子供の仕草のつもりか。逆らえる要素はどこにも無い。シラベは膝を折り、促されるまま小さな体を抱え上げた。
直後、首筋にやわらかいものが押し当てられた。マナブの位置からは父親の首元に甘えて顔を埋める子供にしか見えないだろう。その死角で、ミトラは音を立てないように押し付けてはゆっくりと場所を変えていく。所有の印を捺していくような、執拗な丁寧さだった。
シラベは動揺を見せないよう最大限心を落ち着かせながら、何でもない顔を作る。
「……まぁ、そういうことだから。行くならお前だけで行ってこい」
「うっす! 邪魔してサーセンした! 一人で行ってきます! 成果は必ず報告します、師匠!」
「いらねえ」
マナブは変に爽やかな敬礼を残し、朝の街を駆けて行った。足音が遠ざかり、アーケードの向こうへ消えていく。誰もいなくなった店先で蝉の声がうるさい。
ミトラは何も言わない。首筋に顔を埋めたまま、降りる気配も無い。
行く気は無かった、あれはただの悪ノリだ──言い訳はいくつも浮かんだが、言い訳と自覚している時点で何を出そうが負けだ。
「慕われてて良かったわね、パパ?」
「勘弁してくれ三十五歳店長」
幼気だった声は、既にいつも通りの気怠いものに戻っていた。機嫌を損ねていないなら安心出来るが、それとは別にこうしてしばらく弄られるのかと思うと気が滅入る。
シラベは小さな背中をゆっくりと撫でた。掌の下で背中がわずかに上下して、ようやく重みを感じられる。首筋に押し当てられた熱が、朝の日差しより先に体温を上げていった。
その後。上がった分の体温は、事あるごとにパパと呼ぶミトラのせいで肝と一緒に容赦なく冷やされた。