夜半を回っても、シラベの部屋の空気は火照りを残したままだった。開け放した窓から流れる空気は生ぬるく、豆電球の薄明かりの下、扇風機だけが首を振っては気休め程度の風を布団へ運んでくる。肌掛けはとうに足元へ追いやられていた。
「暑いぞ、契約者」
文句は真横から来た。シラベの腕に自分の腕を絡め、頬を押し付けたレヴェローズが不服そうに見上げてくる。
「そんなに暑いなら離れりゃいいだろ。……というか暑いから離れてくれ」
「それは嫌だ。今夜は私のローテーションなのだからな」
権利の主張だけは堂々たるものだった。現代日本の倫理観に真っ向から喧嘩を売るこのローテーション制はレヴェローズが提案したものだと聞いているが、自分で制定した規則を自分で主張している姿はいささか得心がいかない。
レヴェローズは論破してやったとばかりに態度を大きくして、ますます身を寄せてくる。
「じゃあせめて静かにしてろ」
せめてもの抵抗として、シラベは空いた手でレヴェローズの頭を押し退けるつもりで適当に撫でてやる。これが抵抗になっていないことに気付いたのは、撫で始めた後だった。
「むふふ」
突き出す腕の強さを気にする様子もなく、レヴェローズは嬉しそうに頭を掌へ擦り付けてくる。犬かこいつは。シラベの手が思わず止まりかけた。
とはいえ。こうまで裏表なく素直に好意を伝えてくる相手はそういないし、ついでに白状すれば胸の大きな金髪の美女に抱きつかれて嬉しくない道理も無い。
現に今、囚われの右腕は肘まで豊かな谷間に埋まっていた。薄布一枚を挟んだ双丘は汗ばんだ熱を孕み、レヴェローズが身じろぎするたびに形を変えては腕へ吸い付き直してくる。
腿へ乗り上げてきた脚も、二の腕を枕にした頭も、どれもこれも遠慮を知らない。押し付けられた柔らかさが暑さに拍車を掛けるという一点を除けば、文句の付け所が無かった。
「それにしても暑いな。扇風機があっても焼け石に水ではないか。生活空間にもクーラーを設置すべきと店長に嘆願しなければ」
「前はあったんだとよ、二階にも」
「なに、そうなのか?」
「ぶっ壊れて水漏れして、置いてた在庫どころか床までえらい目に遭ったらしい。それ以来、二階にはあんまり設置したくないんだと」
実のところ、シラベも夏の入りに同じ直談判をしている。こたつは何も言わずに用意してくれたのにこっちはどうなのだと言ってみたのだが、帰ってきたのは思いがけない昔話だった。
ミトラの嫌な思い出というのは分かるが、それでも下手をすると死んでしまう気温になってきているのが昨今だ。交渉は粘り強く行われたし、何ならシラベは切り札も切った。あんまり暑いとくっついてるのがつらいし、二階での抱っこは無しだな、と溢してみせたのだ。
我ながら卑怯な手だと思ったが、ミトラを悩ませる程度には効果があった。しかし腕を組んで長いこと唸った末に、とりあえず今年はこのまま乗り切ってちょうだい、ついでに抱っこはして、と返されるに留まった。
かくして切り札は不発に終わり生活環境の見直しは行われず、その場は注文が一つ増えただけだった。もっとも、抱きしめられないのはシラベの方こそつらいのだから暑かろうがせがまれれば応じるのは元より決まっているのだが。
「ならば契約者、何か他に涼しくなる手段は無いのか」
「なんだよそれ。無茶言いやがる」
「とにかくアイデアを出してみるのだ。やってられんぞ、これでは」
「雑な振りしやがって」
言ってはみたものの、暑いのは確かだ。気を逸らすためにも、シラベは天井を見上げて納涼の手立てを頭の中で思い浮かべてみる。
「アイスでも食うとか」
「また歯磨きをするのが面倒だ」
「プールとか」
「夜中にやっておらんだろう」
「……怖い映画でも観るとか」
「この間スマホで観たが、あの小さい画面ではいまいち怖くないぞ」
「文句ばっかりだなお前」
出す端から撃ち落とされればカードも意見も面白くない。付き合いきれなくなって、シラベは寝返りを打って背を向けようとした。
「あ、こらまて。逃げるでない」
その肩がすかさず押さえ込まれる。伸し掛かってきたレヴェローズが、断固たる面持ちでシラベを見下ろしていた。
「諦めるな契約者、もっとたくさん出せるだろう。ほれ、がんばれがんばれ。いっぱい出せ」
「ちょ、おい」
ほとんど馬乗りの体勢で密着したまま、レヴェローズは耳元に唇を寄せて囁いてくる。本人は激励のつもりなのだろうが、この体勢でその文句はいけない。
「離れろバカ」
「離れたら貴様だけ寝るではないか。良い案が出るまで寝かせないぞ。というか寝れん。かまえ」
腰の両脇が太腿に挟み込まれ、胸板の上では押し潰された豊かな胸が布越しに柔らかく広がっている。囁くたびに吐息が耳朶にかかり、零れた金髪がさらりと首筋を流れる。体の殆どが預けられ、汗ばんだ熱も量感も、全てが余すところなく圧し掛かってきていた。
身をよじらせようとするたびに腕と脚の力が強まり、一時諦めると弛緩する。それを繰り返すと自然、レヴェローズの身体も離れないままゆさゆさと揺すられその度にあちこちがこちらに擦れてくる。
「――」
気付いた時には、シラベはレヴェローズの背中へ腕を回して掻き抱いていた。
「む? どうしたのだ契約者。くっついたら暑いのではないのか?」
当のレヴェローズは不思議そうな顔でこちらを見返し、とぼけた事を言ってくる。
自分がどんな体勢で何を囁いたのか、分かっていないならそれでいい。シラベは腹の底でゆっくり数を数え、雑念を薄めさせていく。涼もうと言っているのに燃え上がらせてどうするというのだ。
どうにか落ち着かせたシラベは、呑気に抱きつくレヴェローズの耳に囁いてやった。
「……あとは、肝試しとか」
*
深夜の街は寝静まっていた。信号は点滅に変わっており、自販機の明かりだけがアスファルトの余熱を白々と照らしている。
商店街から歩いて二十分。住宅地の外れにぽつんと残った小さな山の裾に、二人は立っていた。
目の前には古い神社へ続く参道の登り口がある。初詣に使うような表通りの神社とは別口で、こちらは名前を呼ぶ機会もまず無いような寂れた場所だ。石段の両脇から木々が鬱蒼と覆いかぶさり、スマホの明かりを向けても数段先までしか見通せない。
登り口の脇には社号を刻んだらしい石柱が立っているが、年月のせいか彫りは浅くなり、苔まで乗って読み取れない。一歩近付くだけで、湿った土と青葉の匂いが濃くなった。
「ここが、その曰くのある場所なのか」
「らしいな」
シラベはスマホの画面へ目を落とした。ローカルな井戸端掲示板の中でもオカルト情報を中心に話されているスレッドで、この神社はそこそこの頻度で名前が挙がっている。
「ここで写真を撮ると変なのが写る。夜中に獣みたいな声が聞こえる。あとは、男が一人で入ると失踪して後日、男として使い物にならなくなった状態で見つかる、だとか」
最後の一つは妙に聞き覚えのある手口だった。もっとも心当たりの犯人なら、今頃うちの猫の腹の中を延々と落ち続けている。真偽はどうあれ、少なくとも新しい被害の心配は要らないはずだ。
「ふーむ。よく分からんが、恐ろしいのか?」
「疑問形で言うかよ。あとはお前の気持ち次第だって」
「仕方ないではないか。私は初めてなのだぞ。きちんとエスコートしてくれなければ困る」
「ならエスコートする側にも準備させる時間ってもんがあるだろうが。今すぐ肝試ししたいって言い出したのはお前で、こっちは近くでそういうのあるか探すのめんどかったんだぞ」
布団の上で口にした途端、善は急げだと引っ張り起こされ着替えて連れ出されたのはシラベの方である。なんとかお膳立てしてやって、その上で疑問を呈されても困る。
原因は顎に指を当ててしばし考え、うむ、と頷いた。
「まぁ、恐ろしい経験をすれば冷や汗が出るというのは分かる。ともかくやってみるしかないか。行くぞ契約者」
言うなり手を取られた。たまには散歩に付き合ってやるのも飼い主の務めか。引かれるままに、シラベは最初の石段へ足を掛けた。
山道は想像よりも更に暗い。スマホの明かりが照らすのは足元の数歩分だけ。丸みの磨り減った石段は一段ごとに高さが揃わず、隙間から伸びた下草が足首を掠めてくる。
両脇の木々は頭上で枝を組み、空があるはずの場所を黒く塗り潰していた。時折その天蓋が切れて、細い月明かりが石段に白い縞を落とす。湿った土と青葉の匂いは登るほどに濃くなり、代わりに纏わりつく熱気が薄れていく。
そうして残るのは足元を照らす灯りと、音だけだ。頭上で枝葉が擦れる。藪の奥で何かが動く。落ち葉を踏む自分たちの足音さえ、静けさの中では妙に大きい。そのたびに、シラベはいちいち首をすくめる羽目になった。
途中、羽音を立てて何かが頭上を横切った。夜鳥だと頭で分かっていても、心臓の方が先に縮み上がる。獣みたいな声とやらの正体もどうせこの類いだろうと思う一方、夜道といえば街灯のある帰り道しか知らない身には、暗さの桁が違う。付き添いのつもりがほのかに涼しく感じてしまうのは目論見と違う。
「契約者、そちら側は縁が崩れている。段の内側を歩け」
「ん、ああ」
対するレヴェローズの方は平然としていた。明かりも借りずにずんずん先を行き、時折こちらの足元へ指示まで寄越してくる。人と夜目の利きが違う上に、こういう道はどうやら本職の領分に掛かるのだろう。夜襲だの強行軍だのを潜ってきた身体に、低山の参道程度が効くはずもなかった。
怖がらせて涼を取らせるという筋書きは本人の適性のせいで無理がある。ただ、レヴェローズは不思議と退屈そうでもない。暗い道をただ登っているだけだというのに、繋いだ手はしきりに握り返してきて、どこか上機嫌だった。
振り返れば、木々の切れ目から寝静まった街が覗いた。屋根の連なりは黒く沈み、道筋だけが点々と白い。
「む、頂上が見えてきたぞ。案外低いな」
暗さゆえにゆっくり歩いても、道行にさして時間は掛からなかった。レヴェローズの言葉通り、石段が尽きて境内に差し掛かった。
開けた先にあるのは、古びた鳥居と小さな本堂だけ。頭上を塞いでいた枝葉はここで途切れ、境内には星の散った夜空がそのまま乗っている。ひび割れを草に縁取られた石畳が本堂まで伸び、その脇では一対の狛犬が、輪郭が丸くなるまで風雨に削られて座っていた。
社務所の類は見当たらず、管理する人が通っているのかどうかも怪しい。それでも本堂の前は草が浅く、賽銭箱は変わらず口を開けていた。
山の上の空気は、下の道より確かに軽い。汗の浮いた首筋を、思い出したような夜風が抜けていった。
「せっかくだ。賽銭くらいは入れていくか」
「うむ。くれ」
「お前な」
財布の小銭を二人で分け、並んで放り込む。ちゃりん、と軽い音が夜の境内に響いた。隣で見様見真似に手を合わせるレヴェローズ。シラベも目を閉じる。祈る事は特に思い付かなかったので、家内安全とだけ念じておいた。
顔を上げると、レヴェローズはきょろきょろと辺りを見回していた。
「何も出ないのだな」
「期待外れか?」
「いや、別に。そうではないが」
口ぶりはそっけないが、視線はまだ木々の暗がりを探している。肝試しとは怪異が出るのを期待するのも風情、と説明したせいか、出るなら出ろと何かしら期待していたらしい。だが大枠で言えば精霊であるレヴェローズだって怪異の類なのだからおかしな話だ。
しかし考えてみれば、カードから出てきた精霊に幽霊で涼を取らせようという発想がそもそも間違っている気がする。盤面では幽霊どころかゲログチョの化け物と戦うこともあるのだし、元より怖がる側の生き物ではないのだ、こいつは。
「そろそろ帰るか」
シラベが言うと、レヴェローズは答えなかった。代わりにすたすたと歩いて、本堂の脇の古いベンチへちょこんと腰を下ろす。
疲れた、という風ではない。レヴェローズの顔は平静を装っているものの、わずかに目が泳いでいるようにも見える。
「レヴェローズ?」
視線が泳いだ先に回り込むが、レヴェローズは無言のままぷいと顔をよそに向けてしまう。その様子を見て、シラベはずっと前にテレビで見た光景を思い出した。
帰るよと飼い主が声を掛けても伏せの姿勢のまま動かず、まだ散歩したいと静かにおねだりする犬。そんな愛犬特集で見た姿が目の前のポンコツと重なって、おかしさがこみ上げてきた。
たしかあの番組では最後、力ずくで引っ張っていただろうか。自分もそうするべきかと一瞬思うが、すぐ霧散させる。そんな事して動くタマでもないし、別にすぐ帰らなければいけないわけでもないのだ。
シラベが隣へ腰を下ろすと、待っていたとばかりに頭が肩へもたれてきた。この辺の遠慮のなさはいっそ清々しい。
「涼むつもりが、歩いているうちに結局少し汗ばんでしまったな」
「そうだな」
レヴェローズはTシャツの裾をつまみ、ぱたぱたと煽いでいる。シラベもそれに倣って服を動かし、夜空を見上げた。文句を言い合った布団の上より汗の量は確実に増えている。
それでも、悪い夜ではなかった。