真夜中の相部屋には、扇風機の唸りと寝息が二つ分だけ流れていた。
大穴はミーシャの腕の中にいた。今夜はレヴェローズがシラベの布団へ行く番で、いつも抱き枕にされているミーシャが自由になっていた。姉の背を見て育つ妹は行動を真似するのだろうか、いつもされている事をミーシャもしている。しかしミーシャの抱擁は優しく心地良いため、大穴も嫌いではない。
柔らかい胸に半分埋まり、規則正しい寝息が少しくすぐったい。良い寝床だった。
その眠りが、ふとした拍子にほどけた。理由は特に無い。強いて言えば喉が渇いた気がした程度のことだろうか。やはりくっついていると暑くなってしまうのが良くない。ミーシャの胸元もじったり汗ばんでしまっていた。
大穴はその汗を舐め取り水分補給をしつつ、腕の中で小さく伸びをした。もう少し水を飲みに行くか、二度寝をするか。決めかねていた耳に、階下の音が届いた。
忍び足が二人分。階段を軋ませないように降りて、店の戸がそっと開いて、閉まった。
出てきた部屋からして確かめるまでもない。シラベとレヴェローズだ。
こんな夜中に、二人で外へ出て行った。夜歩きなら大穴も誘えばいいものを、一言も無しに行くのは感心しない。
出てきた時に鳴いて呼び止めることも出来た。追い付いて、足元へ突進してやることも出来た。だがそれをやると、二人が何をしに行くのかが分からなくなる。
大穴は少し考えて、黙って着いていくことに決めた。
ミーシャの腕からするりと抜け出す。空いたところに肌掛けを引っ張っておき、大穴は廊下へ出た。突き当たりの窓の隙間から物干し台へ、そこから雨どいを伝って地面へ。夜の地面はまだ昼の熱を残していて、肉球にぬるかった。
通りの先に、並んで歩く二つの背中が見える。大穴は塀の上へ跳び乗り、距離を保って追い始めた。
尾行は大穴の得意とするところだ。塀の上、植え込みの陰、停めてある車の下。夜の道は猫の通り道だらけで、隠れる場所に困ることはない。二人は時々短く何か言い合っては、繋いだ手を握り直していた。何をしに行くのかは相変わらず分からないが、どちらも機嫌が良いことだけは分かった。
やがて二人は商店街を抜け、大穴のあまり通らない道へ入った。自販機の唸りと、点滅だけになった信号を過ぎ、家々の明かりが絶えた辺りで、前を行く二つの影が立ち止まる。
住宅地の外れの、小さな山の裾だった。木々に呑まれた石段が上へ延びている。二人は少し何か言葉を交わしてから、その石段を登り始めた。
こんな所で遊ぶつもりなのか。よく分からないまま、大穴も山へ入った。
石段は人間の道だ。猫にはもっと融通の利く道がいくらでもある。大穴は藪の下をくぐり、倒木を渡り、気の向くままに斜面を登った。土と落ち葉の重なった匂いが濃い。頭上のどこかで夜鳥が飛び立ち、振り返れば遠くの石段で小さな明かりが揺れていた。二人はまだあんな所にいる。人間の夜の足は遅い。
枝の混んだ斜面に差し掛かった時だった。前方の闇で、なにか大きなものが起き上がった。
木々の匂いを押し退けて、獣の臭いが降りてくる。犬でも狼でもない、もっと重く、脂の乗ったような灰色の臭い。丸い背中が藪を割り、大穴を見下ろす高さまで伸び上がる。低い唸りが腹に響いた。こんな山にも、大きいのが住んでいるらしい。
大穴は座って待った。逃げる理由が無いからである。
獣は太い前脚を振り上げ振り下ろす。爪が背中の毛に触れる。触れた、ところまであった勢いはふっと失せた。
巨体がぐらりと傾ぎ、黒い毛皮の一点へ向かって滑り込んでいく。そこにだけ足場が無かったかのような落ち方だった。爪が、前脚が、丸い背中が順に呑まれ、唸り声だけがしばらく腹の底で遠ざかり、やがてそれも聞こえなくなった。
後には夜の静けさと、少し乱れた毛並みが残った。
大穴は毛づくろいをひとつして、歩き直す。餌皿と家族の手から差し出されたもの以外を食べるのは一応やらないようにしているが、勝手に転がり込んできたのだから不可抗力というもの。むしろ毛並みが乱れた事の方がよほど迷惑だ。
やがて木々が切れて、開けた場所に出た。
石を敷いた地面に、古びた建物がひとつ。趣は違うが、大きさは店と同じくらいだろうか、いやもっと横があるか。
人の気配も明かりも無い。建物の脇に、木のベンチが据えてあった。歩き回って、いささか休みたくなっていたところだ。大穴はベンチの下に潜り込み、前脚を折り畳んで丸くなった。
板が一枚、屋根の代わりに頭の上にある。そのお陰か、昼間の熱を吸わずに済んだここの地面はひんやりと冷え、山の下より夜気が軽い。存外に居心地の良い場所だった。
うとうとし始めた頃、石段の方から足音が二つ登ってきた。
シラベとレヴェローズが、開けた場所へ出てくる。二人は建物の前まで歩き、小さくて硬いものを木箱へ投げ込む音をさせ、それからしばらく静かにしていた。何の遊びかは分からない。分からないでいるうちにまた眠気が寄ってきて、大穴は半分ほど夢へ戻った。
浮いたり沈んだりする意識の端を、二人の声が短く行き交う。やがて足音がこちらへ来て、頭の上の板が軋んだ。
一つ目の重さ。少し間を置いて、二つ目。
レヴェローズと、シラベだ。軋む具合での重さの当てっこなら大穴は誰にも負けない。板越しでも間違えようがなかった。
二人とも、足元の大穴には気付いていないらしい。暗がりだから仕方が無いだろう。むしろ好都合だった。二人がここで何をするのか、大穴は興味がある。
しばらくは、静かだった。時々どちらかが布の裾を煽ぐ音がして、頭の上の重さがわずかに動く。それだけの時間が続いた。
「契約者よ。暇だぞ」
急に、レヴェローズが言った。
「……お前なあ。もうちょっとムードってものを考えろよ」
シラベの声には聞き慣れた呆れが乗っている。
「だって、だな。その……」
言葉尻がごにょごにょと崩れて、頭の上の重さがもぞもぞと動いた。
大穴には覚えのある空気だった。
遊んで欲しい時、大穴はシラベの前にあるキーボードを踏んだり、手の甲に顎を乗せたりする。それで駄目なら足の甲に座り、それでも駄目なら視界の真ん中で尻尾を振ってやる。今のレヴェローズの声は、あれをやっている時の自分と同じ匂いがする。
つまり、構って欲しいのだ。
わざわざこんな暗い山の中まで二人きりでやって来ておきながら、まだ自分からおねだりをするのか。その無自覚な欲深さに大穴は少しだけ呆れた。
ベンチの下から顔を出し、目の前でぶらぶらと揺れているレヴェローズの無防備な脚を思い切り噛んでやろうかと牙を剥きかける。
大穴がその結論に落ち着いた矢先、頭の上でシラベがそうだなと呟いて、意識はそちらへ寄った。
「じゃあ夏らしく、怪談でもするか」
「ほう。何を聞かせてくれるのだ」
弾んだ声とともに、上の重さが座り直す。
かいだん、というものを大穴は知らない。階段なら今夜たくさん見たが、あれの何を話すのだろうか。よく分からないが、シラベが何か話してくれるというのなら聞いてやってもいい。大穴は板の下で、耳だけを上へ向けた。
「そうだな……俺が前の会社にいた頃、先輩から聞いた話なんだけどな」
声が少し低くなる。店でカードの説明をする時とも、レヴェローズをあしらう時とも違う色を感じる。
「その先輩は残業が多くて帰りはいつも終電でさ。駅から家まで十五分くらい、街灯もまばらな道を歩いて帰るんだ」
「ほう」
「ある夜、後ろから足音がついてくるのに気付いた。こつ、こつって靴の音だ。まあ終電で降りるのは自分だけじゃない。最初は気にしなかった」
階段の話ではなさそうだった。夜道を歩く話らしい。後ろをついて歩くだけなら、今夜の大穴と同じである。あれの何が怖いのだろうか。
「信号で立ち止まると、足音も止まる。歩き出すと、また鳴る。振り返っても、誰もいない。街灯の下にも、電柱の陰にも、道の先まで誰も」
「ふむ」
レヴェローズの相槌は真剣である。それを無視する大穴は、話の中の足音に少し感心していた。立ち止まれば止まる。姿は見せない。尾行の基本が押さえてある。今夜の自分と同じでなかなか筋が良いが、気付かれているのはダメだ。
「うっすら違和感があった。信号で自分が立ち止まった時、なんで足音も止まるのか。信号まで歩いていくのが普通なのに、どうして道端で止まっているのか。だけどそんな違和感を気のせいだと思い込みたくて、先輩は早足になった。そしたら足音も速くなる。自分の足音より僅かに上回る気がしてくる」
頭の上で布の擦れる音がして、重さが一つ分、隣へ寄った気がした。
大穴は別のことが気になっていた。姿を見せないのはいい。だが匂いはどうした。足音が聞こえるほど近いなら、匂いと気配で分かるはずだ。それが分からない相手だとしたら、少しばかり嫌な相手である。
「最後は走った。家に駆け込んで鍵を閉めて、チェーンも掛けて。ドアの外から足音はなく、しんとしてる。……助かった、って靴を脱いだ、その時」
シラベはそこで一度、言葉を切った。夜のどこかで、枝の鳴る音がした。
「――こつ、って。家の中、廊下の奥で鳴ったんだと」
「…………」
「先輩は次の月には引っ越しした。さいわい足音は無くなったらしい。引っ越すまでは、ずっと駅から家まで付いて回られてたようだがな」
尻尾の毛が、ひとりでに膨らんだ。気配も匂いも無いものが先回りをしてくる。それは大穴でも厄介だ。見つけられない相手を食べるにはどうすればいいのか、光を食うのだって想像が必要だったのに相手が何もわからなければ大穴にもどうしようもない。
ベンチの下の暗がりがいつもより一段深い気がして、大穴は前脚の上に顎を伏せ直した。ふと、板一枚の下へ黙って先回りしている今の自分と似ている気もしたが、考えたところで面倒になってやめた。
「……ふ、ふん。その程度、私なら気配で分かるぞ。足音の主など、逆に囲んで締め上げてくれるわ」
「はいはい。まぁそういうことにしておいてやるよ」
「むう」
強がってはいるものの、レヴェローズの重さはさっきから隣へ寄ったまま戻っていない。大穴は板越しにそれを聞き分けて、少しだけ溜飲を下げた。不愉快に感じてシラベにすり寄ろうとしたのは自分だけではないのだ。
「よし。次は私が話してやる」
「お前に怖い話なんてできるのか?」
「ふん。聞いてから言うのだな」
レヴェローズが一つ、息を吸った。
「――これは、ある三姉妹の話だ」
今度はレヴェローズの声が変わった。いつものレヴェローズの声は少し高くてうるさい。今のは低く、静かで、底の方へ沈んでいく声だった。
「長女は強く、次女は賢く、三女は強く、そして賢かった」
「三女はその強さと賢さを買われて、生まれた土地から遠く離れた場所で働くことになった。誉れある話だ。三女も誇りに思っていた」
「ある時、三女のもとへ故郷から知らせが届く。姉が二人とも行方知れずになり、故郷が燃えている――そういう知らせだった」
「三女は、婚約したばかりの男を置いて、故郷へ向かった」
知らない言葉がいくつも出てくる。だが大穴は、話の筋よりその声の温度の方が気になり始めていた。
「道中には様々な困難があったが、三女はその全てを無視した。立ち止まる理由には、どれひとつ値しなかったからだ」
「どうにか故郷の端へ辿り着く。そこは、長女が倒れたと伝えられる古戦場だった。そこを抜ければ、大きな都市へ出られる。三女は先を急ごうとして――古戦場の隅で、あるものを見つけた」
「長女がいつも身に着けていた、魔法の宝石。その、破片だった」
「姉はここで倒れたのだ。そうと知った三女は進むのをやめ、地面を掘り返して姉を探し始めた」
「……そうしている間に、だ。背後から忍び寄ってきた敵国の兵に、三女は捕まった」
いつの間にか、藪で鳴いていた虫の声が遠くなっていた。風も止んでいる。レヴェローズの声だけが流れ続ける。
「次に気が付いた時。三女の目の前には、長女がいた」
「目を閉じた長女の上に、伸し掛かる形で押し込められていた。長女だけではない。周りには自国の兵たちも詰め込まれていた。……皆まとめて、敵国が作ったある装置の中にいた」
「それが何なのか、その中にいる三女には分からない。ただ、死体から力を搾り取る機械だ、ということだけは、外から聞こえてくる話し声で分かった」
「三女は姉を起こそうとした。呼んでも、揺すっても、目を開けない。最後に、自分の持っていた魔法の宝石を握らせると、長女は目を覚ました」
「逃げよう、と三女は言った。長女は首を横に振った。私はもう動けない。お前だけ逃げろ、と」
「諦めきれない三女は、姉を担いで逃げようとした。……叶わなかった。二人まとめて取り押さえられ、装置へ押し戻され――そして、装置は動き出した」
「絞り出される、としか言いようのない苦痛があった。それきり、意識は途絶えた」
シラベは相槌を打たなかった。店では客のどんな長話にも応じられる男が、その場にいないかのように静かになっている。頭の上の重さは二つとも、話が始まってから一度も揺れていなかった。
「次の瞬間。三女は、見知らぬ土地に立っていた」
「そこが死後の世界だと気付いたのは、しばらく経ってからだ。三女は歩き回った。同じ場所で果てたのだから、姉もここにいるはずだと、探し回った」
「いなかった。その内に、三女は知る。そこは、戦わずに死んだ者だけが堕ちてくる世界だった」
「自分はそこへ堕ち、長女だけが、戦乙女の館へ招かれたのだと」
「三女は嘆いた。自分もあの戦場で戦えていれば、姉と共にいられたかもしれない。……そう、いつまでも嘆いていたそうだ」
少しの間を置いて、レヴェローズは付け足した。
「これで、終いだ」
夜は静かなままだった。シラベは何も言わない。大穴もじっとしていた。
こんな話を、レヴェローズがどこで覚えてきたのか、大穴には分からない。あの女の頭の中は、遊びと菓子と、シラベのことで出来ていると思っていた。なのに今の話だけは淀みのひとつも無く、まるで見てきたことを数えるような語り口だった。大穴は素直に感心してしまった。やれば出来るらしい。
「……お前、その話」
シラベがようやく口を開いた。続きの言葉を選んでいるらしいが、言葉がなかなか紡がれない。
「ふ」
そんなシラベに、レヴェローズの声が被さる。いつもの明るい気配が戻る。
「葬送外野で、ある老女から聞いた話だ。――どうだ。少しは涼しくなったか?」
シラベがどんな顔をしたのかは、板の下の大穴には見えない。ただ、どちらも、それ以上は何も言わなかった。
頭の上で、二人分の重さがどちらからともなく寄り添い直す。藪の奥で、虫がまた鳴き始めていた。
涼しくなったのかどうかは、大穴には分からない。ただ、石の地面は居心地が良く、夜はまだ長い。誰にも届かない音量でひとつ喉を鳴らして、大穴はそのまま眠りに落ちた。