「いらっしゃいませ! うむ、今日も来たな!」
バックヤードを仕切るカーテンの向こうでレヴェローズの声が弾んでいる。夏休みの昼は子供の客が多く、応じる声もいつもより張り切って聞こえた。
そのもう少し手前、カウンターではシラベが座っているはずで、紙を切るような音やテープが伸ばされる音、時折レジが開く音が響いてくる。
ミトラとカルメリエルは昼から連れ立って出掛けていて、店は今、店内の二人で回っている。
その物音を背に、ミーシャははたきを持ったまま棚を見上げていた。
祭りまでの間、仕事を多めに任せてもらえることになっている。今日は一日、物の場所を覚えながらバックヤードの掃除をするように、というのが言い付かった仕事だった。
手の届く範囲の埃は午前のうちにあらかた払い終えている。さて、次はどうしよう。
シラベに聞きに行こうかと思うが、思い留まる。いちいち聞きに行くのも悪い気がするし、今日はここを任せてもらえたのだ。次にやるべきことくらい、自分で決めたい。
棚を見上げ直す。一番上の段には荷が積まれたまま埃を被っているから、上から順に降ろして拭いて、何があるかを覚えて戻す。
作業としては悪くなさそうだが、それには最上段まで届く方法がいる。ミトラのためもあって店内にはいくつか踏み台が置かれているが、そこまで届くような高さはなく、せいぜいが階段2つ分程度だ。
これがミトラの場合、最上段に用があるなら棚に直接足を掛けて取るか、シラベに取ってもらうか、シラベに抱えてもらうかしているが、ミーシャの発想にそれはなかった。
代わりに思い付いたのは、店の外壁に立て掛けてあったあの台だ。梯子を二つ、山形に組み合わせたような形のもの。たしか、脚立と言っただろうか。
表へ回って現物を確かめてみる。足を掛ける段は5つ、頂点の足場まで使えば店内の高所を賄うには十分だろう。
「よい、しょっと」
抱えてみると、見た目よりも素直に運ぶことが出来た。重さよりも、高い分どこかにぶつけないかの方が心配になる。日陰に置かれていたので温い程度で済んでいたのも良かった。
そのまま店の中に運び入れる。開き方には少し迷ったが、金具の向きを確かめれば難しいことはない。床に据えて、両手で揺すって、動かないのを確かめる。
登ってみると、棚の一番上が目の高さに来た。
「わ、すごい」
同じ店内を見ているはずだというのに、視界が高くなるだけで不思議と特別なように思えてくる。いつも見上げるだけだった場所に、知らない眺めが広がっていた。
楽しさを感じてしまうのを、ミーシャは頭を振って気を取り直す。今は仕事をするのが先だ。汚れを落として場所を覚えるために、ひとつひとつ順番に手に取っていく。
まず降ろしたのは、金具の付いた棚の部品らしきもの。次に、丸めて紐の掛かった大きな紙が数本。そっと広げてみると、色の抜けた車型玩具の宣伝イラストらしい。
それから、文字の入った小さな札の束。売り場に立っているポップと呼ばれる札だ。空の紙箱もいくつも出てきた。売り場で見るパックの箱に似ているが、絵柄はどれも異なっている。
一つ降ろすたびに埃を拭い、どこに何があったかを胸の中で復唱する。何があるか覚えておけば、必要な時に、はいと渡す事が出来る。そうして店の皆の役に立てるなら、きっと嬉しいはずだ。
棚の片隅、段ボールの陰まで来たところでミーシャの手が止まった。小さな台があり、その上には手のひらほどの機械が四つ、行儀よく並んでいる。台からは細い線が壁へ伸びていて、電気を送られているのだと察した。
これはカルメリエルの工作物だからそのままでいい、と教わっているものだ。何のための機械なのかは知らない。ただ、この機械についたプロペラという飛行部品は勉強の一環で見たことがある。この間の会議で皆が声を揃えて止めていた図面がよぎって、少しだけ心配になった。
あれは駄目で、これは良いのだろうか。少し考えて、やめた。良くないものなら、きっとお母様が先に止めている。ミーシャは機械に触れないよう段ボールだけ元の位置へ戻し、周りの埃をそっと払うに留めた。
「んなん」
ふと、裏口の戸の開く音と共に、聞き慣れた鳴き声が聞こえた。
振り向くと、黒い影が当たり前の顔で歩いてくるところだった。散歩帰りらしい。どのようにして裏口の戸を開けてきたのだろうか。
大穴は脚立の下までまっすぐ来ると、段に前脚を掛け、とん、とん、と器用に登ってくる。
「あっ、大穴さん。おかえりなさい。あの、今、お掃除の途中でして、出来れば近くには……あうっ」
言い終わる前に肩へ乗られた。重さは感じないが、触れた毛皮がじんわりと熱い。外から帰って来た大穴はこれがあるから困る。
「いっぱいお日様を浴びてきたんですか? とっても熱いですよ」
「なぅ」
悪びれない返事だった。気にする様子もなく、大穴はもぞもぞ動いて座りを直している。柔らかく、肌に触れるとくすぐったく心地よいものの、仕事で火照り気味の体には少しつらい熱さだ。
「うぅ……お仕事終わったらお相手できますから……あの、聞いてますか。聞いてませんね」
ずり、と重みが頭へ移った。帽子の代わりには熱すぎるものが乗ったが、こうなった大穴が満足するまで動かないのは知っている。ミーシャは首の据わりだけ確かめて、作業を続けることにした。
頭に猫を乗せたまま、続けて棚の荷へ手を伸ばす。埃を纏った紙の束、空箱、紙袋。鼻先がむずむずしてくる気がするが、なんとか我慢して昇降運動と掃除を続ける。
一つの段を降ろし終えた次は、空いた棚の一番奥まで雑巾掛けをしていく。何もなくなった空間にも、置いてあったものの名残のように埃の痕跡がある。それを拭き取り綺麗にしていく瞬間が、ミーシャには少し面白い。
「……あれ?」
ぐい、と棚の奥まで雑巾を当てた時、指先が硬いものに触れ、それがずれた気がした。単なる暗がりかと思ったが、黒塗りのものが最奥を塞いでいた。
両手を使い、引き出してみる。影から出て来たのは黒い箱で、その姿自体はミーシャにも見覚えがあった。売り場でストレージと呼ばれている箱と同じ形をしている。
安いカードが詰まっており、客はこれを漁って目当てのものを探していくのだとミーシャは説明を受けていた。だから同じ箱が店にはいくつも置かれていて、たくさんのものから目当てのものを探すのが楽しく整理は大変とレヴェローズが愚痴っていた。
けれど、それは売り場の棚の話だ。バックヤードにも多少は置かれているものの、こんな奥まった場所に仕舞われているのは見たことがない。
中身は入っているらしく、見た目より重い。ミーシャは箱を胸に抱えて台の一番上へ腰を下ろした。
胸に立て掛けながら箱を開けると、やはりカードがぎっしりと並んでいた。何か特別なものなのだろうか、と一枚つまみ上げたミーシャは首を傾げた。
読めない。並んでいる文字がひとつも読めなかった。教わってきた文字ではない。隣のカードも、その隣も同じだった。
外国語というものだろう。この世界の言葉がひとつではないことはカルメリエルの授業で教わった。教わったけれど、いま勉強しているのは本来使っている言葉とほとんど同じ、日本語というもの。
英語は会話の中でも自然と混ざるし、文章でも書かれていることがあるから、ほんの僅かに馴染みがあるが、その程度だ。
「へえ……」
それでも、絵だけは分かる。ミーシャは膝の上の箱を、一枚ずつ繰っていった。怖い顔の獣、燃える城、渦を巻く海。売り場のカードでも見たことのある絵柄もあるが、そこに記された文字が違うだけで印象が変わって見えるから不思議だ。
その中の一枚に指が止まる。
石の絵だ。荒れた野原の真ん中にぽつんと巌が佇む、それだけの静かな絵。
絵に何か感じるところがあったのではない。頭の上で、ぴくりと重みが動いたせいだ。
「大穴さん?」
どうかしたかと問うより早く、視界の端から黒い前脚が伸びて、ぱしりとカードを弾いた。
「あっ」
ひらりと紙片が宙を舞う。
考えるより先に手が出た。指先が空を掻き、腰が浮いて、膝の上の箱が滑る。
体が傾いでから、自分の愚行に気付く。
ああ、落ちる。そう思ってからの一瞬は、妙に長かった。傾いていく棚の景色。手を離れた箱の口から、カードがゆっくりと広がっていく。一緒に倒れた脚立が何かに当たって派手な音を立てるのがどこか遠い。頭の上の重さが、ふっと消えた。
ミーシャはぎゅっと目を閉じ、備える。痛いのは耐えれば済む、一瞬で済む。引き延ばされた時間の中であっても、考えられるのはそればかりだった。
だが。いくら待っても硬い床との衝撃が来ない。代わりに、どこまでも沈み込む柔らかい熱さが、自分の体を包み込む。
温かく、かすかに上下している。閉じた瞼の裏でミーシャは覚えのある感触を探した。ヴェルカたちの毛皮に似ているが、あの大狼の背よりずっと柔らかい。
「ミーシャ!? 今すげえ音がしたけど──うおっ!?」
カーテンが勢いよく捲られる音がしたかと思えば、シラベの言葉が詰まる。ミーシャはおそるおそる目を開けた。
「……もふ?」
黒い毛並みが視界いっぱいに広がっている。その毛並みに埋もれた口が困惑を伝えようとしたが、妙な言葉にしかならない。
慌てて身を起こす。バックヤードの通路を幅いっぱいに、黒い毛皮が塞いでいた。
ミーシャの体はすっぽりと受け止められている。毛皮の山の端からは太い尻尾が伸びて、いつもの調子でゆらり、ゆらりと揺れていた。大きさのほかは、何もかも見慣れた猫のままだった。
「お、大穴、さん……?」
「なおぉん」
尻尾の反対側がむくりと起きて一鳴きする。鳴き声まで大きい。
どういうことだと視界を巡らせてから、声を掛けてきていたシラベにようやく意識がいくミーシャ。そのシラベは倒れた台と、床に散らばったカードと、通路を塞ぐ黒い山と、その上のミーシャとを順に見比べて、開いた口をゆっくり閉じた。
そして息を吐いてから、一言。
「……ああ、うん。大穴か」
それで切り替えが出来たのか、シラベは周囲の傾いたものに手を当ててひとまず戻していく。
「どうしたのだ!?」
「こっちは平気だ、店番してろ」
カーテンの向こうからレヴェローズの声が飛んでくるが、返すシラベの声はもう平常だった。ミーシャの知る限り、大穴がこんな姿になるのは初めてなのだが、シラベは即座に適応しているようだった。
「脚立を立ててて、そこから落っこちたのを受け止めたのか? 怪我させなかったのはえらいぞ」
「ぐるるるる」
大穴の鼻先をわしわしと撫でるシラベ。それに応じる喉の音まで低く大きい。褒め言葉に機嫌を良くした山がのそりと起き上がり、ミーシャを床へそっと滑り降ろしたかと思うと、そのままシラベに伸し掛かった。
「おい待て、分かった、分かったから──重い重い重い」
黒い巨体の下から、くぐもった声がする。撫でろの続きを要求しているらしく、大穴はぐいぐいと頭を擦り付けては体重を預けていた。
「お、大穴さん! お父様が潰れてしまいますから……!」
ミーシャがおろおろと山の周りを回るうちに、下敷きになっているシラベの腕がどうにか抜け出して、二度三度と首元を掻いてやる。それでようやく気が済んだのか、黒い山はひとつ伸びをしたかと思うと、まばたきの間にいつもの猫の大きさへ戻っていた。
何事もなかった顔で床に座り、毛づくろいを始めている。
「……ったく、とんでも生物め」
埃を払って身を起こしたシラベが、大穴と床を見回して息を吐いた。その視線が散らばったカードに触れた途端、ミーシャは我に返って頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! カードを、こんなにぶちまけてしまって……売り物を、私」
「カードなんかいいんだよ。怪我ないか。手ぇついたりしてないか」
言葉に被せる速さだった。シラベはミーシャの前に屈み込み、目の高さを合わせてくる。ぺたぺたと身体の具合を確かめられるが、痛みが走る部分は無い。
「は、はい。大穴さんが受け止めてくださったので、どこも。……でも、あの。せっかく任せていただいたのに、きちんとお仕事ができなくて、申し訳ありません」
「そっちも謝んなくていい。一人で作業させて様子を見に来なかった俺が悪い。仕事を任せた側の責任だ」
シラベは倒れた台を起こしながら、なんでもないことのように続けた。
「ちなみに、なんで落ちたかは分かるか?」
「えっと……大穴さんが弾いちゃったカードを取ろうと……」
即座に大穴を睨みつけるシラベだが、大穴はミーシャの足元に回り込んでそっぽを向いている。当然隠れきれてはおらず、シラベは大穴の狭い額にデコピンをした。に゛、と鳴くが大穴はじっとしたままだ。
「災難だったな。ただ、次から高いところやる時は俺かレヴェローズを呼べ。いいな」
「……はい!」
叱られるとばかり思っていたから、頷く声が少し遅れた。任せた側の責任、という言葉をミーシャはもう一度なぞった。そういう言い方もあるのか、と心の中で意味を考えてみる。
シラベはしゃがんで、散らばったカードを数枚まとめて箱へ戻していく。ミーシャもあわててそれに倣って手を動かす。
「あの、これ、棚の奥にあったんですけど、どういうカードなんでしょうか。文字が読めなくて」
「ん? ああ、こっちは英語版だな。これはフランス語、イタリア語、中国語……多言語版をまとめて整理し忘れてた感じか?」
シラベは一枚を摘まんで裏表を眺め、興味の薄い顔で箱へ入れ直す。
「棚の奥にあったってことは、何年も忘れられてたやつだろ。無理に全部集めなくていいぞ。棚の下に滑ったとしても、掃除してればそのうち見つかるだろうし」
「は、はぁ」
売り物への扱いとは思えないおざなりさだったが、被害範囲はカードだけではなく、倒れた後に大穴に押し退けられた脚立やそれに当たったもの、押しつぶされて乱れた棚に乗っていたものもある。これにばかりかかずらっているわけにもいかない。二人で拾える範囲を拾い、箱は棚の一番下へ移された。
「あー、それとな、ミーシャ」
台を畳みながら、シラベがこちらを見ずに言った。
「今日のこれ、ミトラに知らせると怒るだろうから。……内緒な」
言ってから、鼻の頭を掻いている。ミーシャはミトラの顔を思い浮かべ、また怒らせたり心配させたりするのは悪い気がした。
「はい。内緒にします」
「んん」
神妙に頷くミーシャ。足元で大穴が短く鳴いた。同意なのか、呆れなのかは分からない。
そこから脚立を表へ戻し、床を掃き直し、降ろした荷を拭き終えて棚へ返す。後始末の作業がちょうど一段落した頃だった。
カーテンの向こうで表の戸が開いて、帰宅の声と、レヴェローズの嬉しそうな出迎えが聞こえた。
「ただいまー」
「ただいま戻りましたわ」
「うむ、戻ったか二人とも」
ミーシャがシラベと売り場へ出ると、ミトラとカルメリエルが戸口に立っていた。カルメリエルの腕には、大きな風呂敷包みが提げられている。
「おかえりなさい、お母様、カルメリエル様。……あの、それは?」
「ん、これ? ふふ」
ミトラは妙に機嫌が良かった。目配せを受けたカルメリエルが、客がいなくなった対戦スペースの長机に包みを置いて結び目を解いていく。現れたのは、丁寧に畳まれた藍色の布だった。
「実家からね、回収してきたの」
ミトラが布を摘まんで広げてみせる。藍の生地に、白い魚が泳いでいた。裾へ向かってゆらゆらと揺れるように描かれているのがどこか涼やかだ。
「これは……?」
確かに美しいが、いったいこの布はなんなのか。ミトラに聞こうと目線を向ける。
「ま、お楽しみに、って感じね」
にやにや笑いの母親は、それしか答えてくれなかった。