商店街とその周りには祭りの提灯が飾られていたが、町の境を越えて自分の町へ入る頃にはそれも見なくなる。地元のつもりで行き来していても、境界がどこにあるのかは案外こういう時にしか意識しない。
兼定キリメは家路を歩いていた。ボトムレスピットからの帰りである。いつもの角まではクモンと一緒だったが、先ほどじゃあまた明日と手を振って別れて今は一人だ。
今日の一日一戦はキリメが取った。終盤に引き込んだ除去札で押され気味の盤面を巻き返し、細い勝ち筋を拾っての逆転勝ちだ。素直に気分がいい。
ただ、昨日は負けている。その前は勝って、さらにその前は負けた。始めた頃はそこそこ貯金を積んでいた通算の星取りも、気付けばほとんど差が無くなっている。
クモンは強くなった。それは認める。こっちの手筋を覚えて雑に撒いた誘いには乗ってこなくなったし、逆にミスは見逃さず刺してくるようになった。教えてやれることなんてもうほとんど残っていないので、自然と対戦後の感想戦も実のあるものになってきた。その分だけ時間が掛かってしまうようになったのは痛し痒しと言うのだろうか。
強くなっているのは間違いないが、負け越してやる気はまだない。弟分に上回れてしまうと姉貴分の威厳というものに関わる。
(ま、明日はまたアタシが勝つけどな)
根拠のない予定を立てたところで、家に着いた。玄関の戸を開けると、廊下の奥から夕飯の支度の匂いがした。
「ただいまー」
「おかえりー。ご飯まだかかるわよー」
「あー。先に風呂入るわー」
台所からの声に返して、キリメは洗面所へ直行した。カードをやっていただけとはいえ、この時季は行き帰りを歩くだけでしっかり汗をかく。手早く脱いですぐ浴室へ飛び込んだ。
「ふぅー」
シャワーを頭から被ると、勝手に息が漏れる。一日分の汗と一緒に、先ほどまで浮かんできていた対戦の反省点も適当に流していく。四六時中カードの事を考えるカード人間になればもっと強くなれるのかもしれないが、オンオフの切り替えが出来ないと疲れるばかりだからこれでいい。
手に取ったボディソープで泡を立て、身体を洗いながらキリメはふと動きを止めた。
……胸も、尻も、また育った気がする。春に買い直した下着が既に頼りないし、去年の夏に着ていた服も、何枚かは今年になってひっそり戦力外にした。育ち盛りといえば聞こえはいいが、財布には優しくない体質である。
「バイト増やすか? でもなぁ……」
いまの居酒屋バイトだけでも結構大変だし、一週間の予定を埋めていく感覚はあまり好きではない。夏の間だけの短期バイトでドカンと稼ぐ、なんてものがあればいいと思いはするが、いざ調べるのはなんだか面倒くさい。
ま、いいやとキリメは思考を投げ捨て、風呂から上がり、寝間着用の短パンとタンクトップに着替える。クモンの前で着ていたのとは違う、わざと大きなサイズで買って長く着ているだらけた部屋着だ。どうせ家の中、楽なのがいちばんである。
濡れた髪をタオルで拭きながらリビングへ向かうと、隣の和室の襖が開け放たれていた。畳の上には衣装ケースがいくつも広げられ、母がその真ん中に座り込んで夏物の整理をしている。台所を見るとあとは炊飯器待ちのようで、その隙間時間にこなしていたらしい。
キリメが来たのに気付いて顔を上げるなり、母は呆れた声を出した。
「あんた、またそんな着古したの着て」
「いーじゃん別に。家ん中だし、兄貴はどうせ仕事でいないし」
「そういう問題じゃないの。もう高校生なんだから、少しは慎みってものを持ちなさい」
「しょうがねーだろ、近ごろ服がキツくてさ。親譲りなもんで」
「あら、言うようになったじゃない」
母は怒るでもなく受け流して、畳んだ服をケースへ納めていく。キリメは扇風機の風が届くあたりへ腰を下ろし、髪を拭き続けた。母の手元では、見覚えのある服や膝掛けのような布ものが仕舞う組と出す組に振り分けられていく。
「今日もクモンくんとおもちゃ屋?」
「ん」
「毎日毎日、飽きないわねえ」
「しゃーないだろ、クモンに付き合ってやってんの」
「はいはい」
母は手元の布ものを畳み直しながら、思い出したように続けた。
「そういえば、向こうの商店街のお祭りってもうすぐでしょ」
「あー。もうそんなか」
「あんたも行くんでしょ?」
「……まあね」
誰と、とまでは言わない。だが母の手が一瞬止まる気配がして、キリメは嫌な予感を覚えた。昔からこっちが伏せたいことに限って鼻が利くのが親というものだ。
「麦茶取ってくる」
突っ込まれる前に立ち上がり、台所へ逃げた。冷蔵庫からポットを出してコップに二杯。時間稼ぎのつもりでゆっくり注いだが、稼いだ時間で反撃の手が浮かぶわけでもなかった。
適当に生返事していれば向こうも飽きるだろう。キリメは雑に見積もって和室へ戻ると、母が畳の上に一枚の浴衣を広げていた。
白地に向日葵の柄模様には見覚えがある。キリメが小学生から中学生にかけての頃、祭りのたびに着せられていたやつだ。
「なっつかしいなぁ。まだあったんだ」
「そりゃあるわよ。おばあちゃんが作ったもの、簡単に捨てるわけないでしょ。ほら、着てみなさいよ」
「は? アタシが? 無理だろもう、クモンにでもやれよ」
「バカ言わないの、これ女物よ」
「いいじゃん別に」
麦茶のコップを母の脇へ置いて、キリメは浴衣を見下ろした。あの頃から背は伸びた。胸まわり尻まわりに至っては比べるのも馬鹿らしい。丈も幅も足りているとは言い難いはずだ。
「結構ゆとりがあったと思うから。試しにほら」
「サイズ合うわけねえじゃん。それこそ慎みのない格好になるって」
「ふぅーん」
母は意味深に笑った。
「……なんだよ」
「べつにー?」
言いながら、母はエプロンのポケットからスマホを取り出した。画面を何度かつついて、こちらへ突き出してくる。
それはいわゆるトークアプリとか言われるやつで、相手方の名前には【クモン母】と登録してある。母親同士が仲良くしているのはなんとなく知っているが、こういうのを見せられるとどこかむず痒さがある。
だが、話の本題はそこではない。大写しになっている写真の方を、母は指先で示している。
「一昨日だったかしらね、クモンくんのお母さんが送ってくれたの。良さげなのが出てたから買っちゃったんですって」
画面の中に、クモンがいた。紺の浴衣を着て、家の居間らしき場所に突っ立っている。着せられたはいいがどうすればいいのか分からない、という所在なさげな立ち姿。カメラから微妙に逸らした目が、早く撮り終われと訴えているようだ。
へえ、とキリメは相槌だけ返したがその実、画面から目が離せなくなっていた。
見慣れているはずの奴がベツモノのように感じられて仕方がない。浴衣というのは不思議なもので、まっすぐ通った襟から覗く細い首筋やちらりと見える鎖骨の線がいつもより──
(何見てんだ、アタシは)
何かの寸前で視線を引き剥がした。危なかった。今、絶対に変な顔になりかけていた。
「クモンくん、こういうの着ると案外様になるのねえ」
「……そーかよ」
「それでね」
母はスマホを引っ込めると、にんまり笑った。
「あんた、どうせ当日はクモンくんと一緒に回るんでしょ。だったら、こっちも併せといた方がいいんじゃないの?」
「はあ!? べ、別にそういうんじゃねーし。たこ焼き奢るって話をしてるだけで、回るとかはそんな……」
「あらそう。でも、間抜けは見つかったようだけど」
「~~ああもう、ちっ」
実に鬱陶しい。母に隠し事が通じた試しは思えば一度もない。
キリメはそっぽを向いて麦茶を呷った。その間にも、頭の別の部分が勝手に算盤を弾き始めている。
──向こうだけ浴衣で、こっちが普段着。それで隣を歩くのは、なんというか、据わりが悪いかもしれない。祭りに浮かれてますという感じを出したいわけではないが、釣り合いが取れてない、バランスの悪い並びというのも、それはそれで落ち着かない。別に着たいわけではないし、クモンのためでもない。あくまで周囲からの見え方の問題である。
言い訳が積めるだけ積み上がったところで、キリメはコップを置いた。
「……着れるか試すだけだかんな」
「はいはい」
母の返事は、どこまでも軽かった。
結論から言えば、浴衣は着れた。着れてしまった。
丈は短い。すねの半ばで切れて、ふくらはぎがちらと覗く。肩も身幅もぎりぎりで、胸元に至っては明確に布が足りていない。
それでも母はキリメを着せ替え人形にして、おはしょりの取り方と帯の位置とでどうにか調整の範囲へ収めてしまった。年を経て機会は無くなったが、かつてはキリメとタバラ、二人の着付けをしていた腕は鈍っていない。
「丈はいいわ。今どきはこれくらい短く着る子もいるし。胸はダメね、これ。動くと開いてくるかも。本番はシャツでも着ときなさい」
「浴衣の下にシャツて。どーなんだよそれは」
「見えるよりましでしょうが」
襟元へ容赦なく指を差し込んで確かめてくる母を押し退けて、キリメは襟を掻き合わせた。実際、うっかり屈めば長い谷間の線が見えかねない。こればかりはどうにもならなかった。
ぐいと肩を掴まれ、姿見の前へ立たされる。白地に向日葵。数年前までは年に一度姿を見せていた自分が、鏡の中に立っていた。
思ったほど、悪くない。中学の頃はもう少し、着物に呑まれて肩肘張ってしまっていた印象があったものの、今はそれがなくなっている。丈の短さも、言われてみればそういう着崩しのうちに見えなくもない。白地が日に焼けた肌に案外映えているようで、向日葵の柄の子どもっぽさが、体の凹凸の派手さを打ち消してくれている気もする。
背後から鏡を覗き込んだ母が、意外そうに言った。
「ちゃんと女の子してるわよ。よかったわね」
「うっせ」
適当に返しながら、鏡の中の自分から目を逸らすタイミングを逃していた。
「決まりね。当日はこれで行きなさい」
「いや、試すだけって言っ──」
「はい決まり決まり。ほらそのまま、今のとこでピン打っておくから動かない」
言うが早いか、母は素早く印かわりに安全ピンを刺してから、畳の上に転がっていたキリメのスマホを取り上げてレンズをこちらへ向けた。
「はい、記念」
「撮んな!」
シャッター音が続けざまに鳴る。奪い返した時には、フォルダに何枚か増えた後だった。
*
自室のベッドに転がって、キリメは天井を見ていた。
壁際には、さっきの浴衣がハンガーごと鴨居に掛かっている。電気を消しても、白地はぼんやりと浮かんで見えた。
祭りの日の予定は前から決まっていた。クモンの奢りのたこ焼きを食う。いつかの借りを利子付きで取り立てる、というくだらない名目のあれだ。それだけの日であって食い終わった後のことは別に決めていないが、もしクモンがまだ一緒にいたいなどと言うなら、まぁ、叶えてやらないでもない。あくまで姉貴分の器の話としてだが、どうしてもというなら応じてやるくらいの気持ちはある。
自分への説明を済ませてから、キリメはスマホを点けた。写真フォルダの一番上に、さっきの数枚が並んでいる。ぱっと見は悪くない写りだった。我ながらそこそこ──いや、それはどうでもいい。
ふと、これをクモンに送ってやったら、と思った。あいつのことだ。当日いきなり浴衣で現れたら驚くより先に固まるに違いない。それはそれで見てみたい気もするが、前もって知らせておくのが親切というものだろう。向こうだって浴衣を着る羽目になって気後れしているかもしれない。
送る前の点検のつもりで、キリメは写真を拡大した。
そして、無言でスマホを伏せた。
角度が悪かった。屈みかけの一瞬でも撮られていたのか、襟の奥に詰まった胸元の谷間がしっかり深く長く写っていた。こんなものを小学生に送りつけたら、姉貴分どころかただの事案である。
いやでも。あいつはでかいのが好きだから、こういうのは案外、いやいや送ってどうすんだ何を期待させる気だ。そうじゃなくて、写真は無しで浴衣で行くからと一言だけなら、ただの連絡でいい、しかしそれはそれで楽しみにしてます感が出過ぎるか、いやいやいや……。
「……別に楽しみにしてないとかじゃなくて、でも違うんだよ。なんもないのとは別で……」
いつの間にか口から洩れていた独り言ごと呑み込むように寝返りを打ち、枕の位置を直す。
祭りまで、あと何日かある。それまでに考えていけばいいだけだ。答えを出せないままスマホを握り直した。
手の中でいつまでも熱いのがどこか気に障った。