むにむにと。頬にやわらかいものが当たっては離れていく。頬だけではない。顎、唇、首筋と、遠慮なく何かにつつかれていた。
鼻先を触られた何度目かのくすぐったさに、ミーシャは目を覚ます。瞼を開けると、吸い込まれそうな星屑の瞳がミーシャを映していた。
「……大穴、さん?」
胸の上に黒い毛皮のかたまりが乗っていて、そこから前脚が伸び頬や顎へと肉球が押し当てられている。乗られている重さはほとんど感じないのに、押し当てて来る柔らかな圧力だけ感じるのはどこか理不尽だ。
「んんなん」
溜め息のような鳴き声で、頭がゆっくり回り始める。窓からの光がいつもより明るい気がする。隣を見れば二組の布団はとうに空で、きちんと畳まれてすらいた。
階下からは段ボールを引きずる音や、台車の車輪の音が続けざまに聞こえてくる。その物音を割って、聞き慣れた声が張り上げられた。
『では行ってくるぞ! 神輿は任せるがいい!』
表の戸が開いて、閉まる。レヴェローズの元気な声に反比例して、寝坊と認識したミーシャの身体が燃えるような凍えるような感覚に焦がされた。
「ど、どうしましょう、急いで準備しないと。あっ、起こしてくださってありがとうございます」
「なぅう」
礼を受け取ると、大穴は役目を果たしたといわんばかりに胸から降り、今度はミーシャの布団の真ん中で丸くなり直した。畳みたいのだけれど、どかしている時間も惜しい。布団はあとで畳むことにして、ミーシャは寝間着を脱いで支度に掛かった。
昨夜はいけなかった、と身支度をしながら思う。お祭りという初めての行事が明日に迫っていると思うだけで目が冴えてしまい、何度も寝返りを打って自分で眠気を遠ざけてしまっていた。結局寝付いたのは夜半をだいぶ過ぎてからだったろうか。楽しみにし過ぎて当日に寝坊するのでは本末転倒である。
ワンピースに着替え、髪を整えて、ミーシャは階段を駆け下りた。
一階は見慣れない忙しさの中にあった。店の入り口付近は搬出作業の為に普段は動かさない棚を大きくずらし、対戦スペースの長机には菓子の箱とおもちゃの詰め合わせが積み上がっている。
シラベは店外と、在庫置き場と化した長机の間を何度も往復して、表のスペースとの動線を確認しているようだった。カウンターの内側では、ミトラが帳面と睨めっこをしている。
「おはようございます! 寝坊してしまってごめんなさい!」
「おはよ。いいのよ、気にしないで」
「朝飯そこに置いてあるぞ。悪いけど、食ったらこっち来てくれ」
「はいっ」
取り分けられていたパンと卵焼きを行儀の許すぎりぎりの速さで平らげて、ミーシャはシラベの待つ店の出入口へと向かう。開け放っているガラス戸付近では店の冷房と外の熱気が拮抗している生温さがある。
「開店はまだ先だから急がなくていい。それまでに、仕事しやすいよう準備しておきたい。道具出しとかを手伝ってくれ」
「はい!」
既に汗を滲ませているシラベの指示に、ミーシャは元気よく頷いた。まずワゴンに敷くためのクッション代わりに使い古しのプレイマットを運んでいく。
表に据えられたワゴンは町内会から借り受けたものだ。今日はこれが店本体になるので準備のやりがいがある。シラベが棚を組み、ミトラが掲示物を描き、ミーシャは二人に言われるままバックヤードと表とを行き来した。
「ミーシャ、ビニール紐どこだったか分かるか」
「はい。手前の棚の二段目、右端です」
「レジ袋の予備は」
「一番下に三箱です。持ってきますね」
夏祭りまでの間にやっていたバックヤードの掃除のお陰で、どこに何があるかミーシャの頭にはあらかた入っている。訊かれるたびに迷いなく思い出せるのが少し誇らしい。
「助かるわ。私が探すより早いじゃない」
「掃除任せといた甲斐があったな」
「えへへ……」
覚えたものがそのまま役立っているのが、掛けられる言葉からも実感出来る。頬が緩むのを抑えられないままミーシャはせっせと荷を運んだ。
準備がひと山越えた頃、ミトラが白い保冷の箱──クーラーボックスというものを指差した。
「ミーシャ、これレヴェたちに差し入れしてきてくれる? 場所は通りの先の、この間行ってもらった会館の近く。日陰になってる角のところよ」
「差し入れですね。行ってきます!」
「重そうなら代わるぞ。大丈夫か?」
「平気です!」
両手で提げると、氷と瓶の触れ合う音がした。見た目より重いが、ミーシャに運べないほどの重さではない。
朝のうちから日差しは強く、日陰を選んで歩いても首筋が汗ばんでくる。通りにはもう祭りの支度が始まっていた。電柱や街灯の間に渡された針金や紐に、樽型の飾りがずらりとぶら下がっている。
提灯と言うらしく、あれが照明になるのだと教わっているが、まだ灯は入っていない。時折吹く風に揺られており、なんだか少し眠たそうに見える。
言われた場所が近付くにつれ、威勢のいい掛け声が聞こえてきた。
「そーれ、ゆっくりゆっくり」
「もうちょい左だ、レベさん」
「うむ! こっちだな!」
「そっちは右!!」
人だかりの真ん中に、鈍色のお社があった。
ミーシャの膝小僧ほどの厚みがある、しっかりとした台車の上に据えられた鉄の神輿。金属の板を鋲で打ち固めた屋根が、朝の光を重たく照り返している。
ミトラの実家で見た時は壊れた砦の残骸のような鉄の山だったのに、あれが組み上がるとこんなに立派な形になるのか。ミーシャは思わず息を呑んだ。
曳き綱を握っているのは揃いの青い上着を着たレヴェローズを含んだ何人かで、町内会の年配たちは脇に付き添いもっぱら掛け声の係をしていた。ちょうど運び込んだところだったらしく、台車が停まると皆でわいわいと細かく調整して向きを直し、神輿は会館脇の日陰の一角に収まった。
総金属の神輿を夏の日差しに当てていると卵が焼けるほど熱くなってしまうため、目立たせたいが日陰を選ばなければならないのはなかなか手間が掛かる代物だ。
「位置はこれで良いか。うむ、我ながらいい仕事だ」
綱を外しながら、レヴェローズが豊満な胸を張る。流れている汗は重労働の証だが、本人は快活に笑っている。
「あの、皆さん。差し入れです!」
声を掛けると、年配たちが一斉に振り向いた。
「おお、気が利くねえ」
「レベさんとこの子だ。ほれ、いつぞやの」
「わざわざ悪いねえ。ありがとうねえ」
クーラーボックスを開けると、冷えた麦茶とラムネが並んでいる。一本ずつ手渡していくたびに労いの言葉が返ってきて、ついでのように飴が一粒、手に握らされた。最後の一本をレヴェローズに渡すと、待ち兼ねたようにビー玉を鳴らして呷る。
「ぷはー。生き返るな!」
「レベさんとこはいい子を育てたもんだ」
「うむ、そうだろうそうだろう」
「あの、私はレヴェローズ様の子では……」
訂正の声は神輿を眺めに集まり出した人垣のざわめきと適当な応対しかしていないレヴェローズの声に、今回もあっさり流されてしまった。
*
昼に差し掛かる前。営業を始めたワゴンには客が付き始めた。
おもちゃの詰め合わせに、菓子、それにくじ。くじの景品は賞ごとに棚が分けられていて、棚の中から好きなものを選べる形式になっている。
「えーっと、えぇっとぉ……じゃあこっち! 青いの!」
「よっしゃ、ほらどうぞ。箱から出して持っていくか? 箱捨てとくけど」
「いいの!?」
「おう。ただ引っ掛けるのは友達と的だけにしろよ」
三等を引いた男の子が水鉄砲と光る独楽を前にさんざん唸った末に選んだ水鉄砲を、シラベに箱から出してもらって嬉しそうに掲げながら走っていく。
選ぶ時間ごと楽しんでもらえているのなら、案を出した甲斐があったというものだ。午前のうちに主要な手伝いがお役御免となったミーシャは、店内側からワゴンを眺めてこっそり満足していた。
店先にはシラベとミトラが並んで立っている。それぞれがくじと詰め合わせの対応をしていくが、あまりレジに立たないミトラもシラベとそれほど遜色の無い速度で捌いていた。景品の受け渡しなども互いが応対する間に準備をしていたり、息がぴったり合っているのが分かる。
くじの列は子供が主で、時々その親が交ざる。そんな列のあちこちに、毛色の違う客がいた。
今、ミトラの前に立っているのは若い男の人だ。祭りを楽しみに来たという風ではなく、不満であることを隠さない態度で景品の棚を睨んでいる。
「なぁ。その一等んとこのパックさぁ、くじじゃなくて普通に売ってよ」
「申し訳ありません。本日は催事のみの営業で、景品の販売は致しかねます」
応じるミトラの声は不自然なまでに高く、口調も相まってミーシャには別人のように思えた。近いのは電話に出ている時だろうか、ミトラはたまにあんな声で長電話をする事がある。
「金は出すって言ってんじゃん。客が欲しいから言ってんの」
「くじの景品ですので、致しかねます」
「あー、子供じゃ話通じないから責任者呼んでよ責任者」
「私が責任者です」
ミトラの声は揺れなかった。男の人はミトラを上から下まで見て、何か言いかけて、やめて舌打ちだけを残して人混みへ消えていった。隣のシラベは子供にくじを引かせながら、目だけをずっとそちらに置いていた。
列が一瞬途切れた頃合いで、ミトラが下がるのが見えた。麦茶の入ったペットボトルを呷り、息を吐いてから小さな声が漏れる。
「……新弾とはいえ、祭りの景品に転売屋が狙ってくるとかあり? 暇なのあいつら」
それに応じるように、シラベが景品選びに迷っている客から一瞬顔を離してミトラを向く。
「ブログに告知打ってたカルメリエルが、妙にアクセス数が増えてるとか言ってたな。パックの名前で何かのクローラーに引っ掛かって狙いつけられたか」
「今回の収録って結構渋いはずでしょ。シリアル狙い?」
「じゃねえの、知らんけど。ま、てっきりお前がキレるんじゃないかと身構えてたのが無駄になってなによりだ。えらいぞ」
「何目線の言葉よそれ」
てんばいや、という言葉をミーシャは知らないが、二人が手を焼いているのは伝わってくる。今でさえ一人が水分補給しようとすると列が溜まっていくのが見えて、なかなかの重労働になりそうなのが窺えた。汗をぬぐうミトラの元にミーシャが駆け寄る。
「お母様。あの、やっぱり私も店番を──」
「却下」
ミトラの言い切りは早かった。ペットボトルを置いて、先の愚痴を言っていたのとは異なる穏やかな顔でミーシャを見てくる。
「あんたの今日の仕事はもうおしまい。あとは遊ぶこと、楽しむことを考えておけばいいから。……それより、二階に行ってきなさい」
「二階、ですか?」
「うん。カルメリエルが準備して待ってるから」
それだけ言うとミトラはさっさとワゴンへ戻ってしまった。
準備して、というのが分からなかったが。行けと言われれば行くしかない。階段を上がって相部屋の戸を開けると、そこには藍色が広がっていた。
「お待ちしておりましたわ、ミーシャさん」
カルメリエルの膝の前に、見覚えのある布が丁寧に広げられている。藍の生地に魚の絵。ミトラが実家から持ち帰ってきたという、あの布だ。
「これは……上着、ですか?」
シルエットとしては、両腕を横に上げた人だろうか。袖があり襟があり、ぺたんとしていて少し幅広に見えるが肩の幅も分かる。腕の長さに比べて身丈が長いように見えるのがミーシャには気になった。
ミーシャの考察する顔を見ていてニコニコとしていたカルメリエルが、いつもの勉強の時のように指を一本立てる。答えを教えてくれるときの合図だ。
「浴衣と言いますのよ。夏のお祭りに着る、民族衣装と言っていいでしょう」
ゆかた、と口の中で言葉にしてみる。そういえば、通行人にもこんな質感の服を着ている人がいた気がする。横を見てみれば、その人らが腰に巻いていたような帯もあった。
複雑な衣装な気がしていたが、広げてみるとこういうものなのか。ミーシャは細工箱の中身を見たときのような、知的好奇心のくすぐりをわずかに感じていた。
これがこうして置かれて、準備と言われているということは。くすぐりの感覚が、まさかという感情に変わっていく。
「これを……もしかして、私が着るんですか?」
「ええ。ミトラ様に頼まれて、ミーシャさんの寸法に合わせて仕立て直しましたの」
カルメリエルはこともなげに言うが、急に言われたミーシャは無造作な言葉を受け止める準備が出来ていない。仕立て直し、ということは随分と手間も時間も掛けてくれている。そんなことをしてもらっていたなんて全く知らないままだったので、嬉しさよりも申し訳なさが頭を覗かせた。
「で、でも。これは……えっと、お母様がわざわざ持っていらしたもので……しまっていたものということは、大事なものなのでは……」
「大事かどうかは分かりませんが、ミトラ様が子供の時分、お祭りのたびに着ていらした浴衣だそうです。もっとも、今でも着られるでしょうけど」
「それは……それを着ていいというのは、嬉しい、ですけど」
ミトラの年齢をミーシャはぼんやりとしか認識していないが、それでもおそらく十年以上、二十年以上は保管されていたものだろう。
古くからあるもの。今のような夏祭りという思い出が詰まっているだろうもの。それを自分が着るなんて、いいのだろうか。
心配をするミーシャに、カルメリエルは糸目のまま笑う。
「ミトラ様は、ミーシャさんの浴衣姿が見たいから、と私に仕立て直しをお願いなさったんですのよ」
「…………」
「ですから遠慮などせずに、着て差し上げるのが一番の親孝行ですわ」
言葉に詰まり、ワゴンの前で客をさばいていたミトラの顔を思い出す。
遊ぶこと、楽しむことを考えて、と言ってくれたあの人が、自分がこれを着ることを望んでくれた。それならいい、と肯定するのは心根としては難しいが、掛けてくれた期待に応えたいと思えば飲み込めた。
ミーシャは姿勢を正し、深く頭を下げる。
「……着させて、いただきます」
大袈裟な礼を、カルメリエルは静かに受け止めた。
「それでは、着方を教えていきますわね」
カルメリエルの着付けは淀みなかった。袖を通し、腰のあたりで布を折り返して丈を合わせていく。一度ばらして足りない分は継いだのだと言うが、どこで継がれたのか見たままでは全く分からない。
ただ、淀みなく動いていた手が胸元まで来て、止まってしまう。
「……あら」
「あの……?」
「胸元には余裕を持たせたつもりでしたのに。……ミーシャさんは、本当にご立派ですわねぇ」
合わせた襟は、押さえる手を離すとゆっくり開いてくる。収まるべきところに、収まりきっていない。カルメリエルは感心とも溜め息ともつかない声を出し、なぜか自分の胸元にも一度目を落としてから、何事もなかったように微笑み直した。
「こんなこともあろうかと思いまして」
取り出されたのは、白い布の巻物だった。
「こちらはさらし、と言いますの。胸を少し押さえておきましょうね。はい、一度脱ぎましょうか」
「お、押さえる!?」
「はい。押さえます。このままだと収まらないようですので、仕方ありませんね?」
それはそうなのだが。他人の手で服を着せられるのでも羞恥心的には限界ギリギリだったのに、ここからまた自分の体を整えてもらうというのは裸を見られる以上に恥ずかしいモノがある。
「じ、自分で巻けますから……!」
「あら。巻けまして?」
試しにぐるり、と回そうとするが、片手で胸と布を抑えたまま回すというのは思いのほか難しい。慣れれば出来そうなのだが、今こうしてカルメリエルに見られながら練習するというのは現実的ではない。
「……お願いします」
「ふふ。大丈夫ですわ、すぐに済みますから。はい、腕を上げて。息を吐いて」
布は思いのほか優しく巻かれていった。カルメリエルは加減を確かめながら手を進め、最後は少し緩めに留めてくれた。
「きつく巻いては、苦しくてお祭りどころではありませんもの。これで整えるだけでも、着崩れはしにくくなるはずです。押さえは、まあ、気持ち程度ということで」
「ありがとう、ございます……」
そこから浴衣を着直し、帯を結んでもらい、長い髪も手早く結い上げられた。うなじに触れる風が新鮮だ。
首を回すと、窓ガラスにぼんやりと自分が映っていた。藍色の中を、自分の腰から足にかけて魚が泳いでいる。結い上げられた銀の髪は少し頭を重くしていた気がするが、涼しげな見た目と襟足を抜ける風を思えばむしろ心地よい。
子供の頃のミトラも、この魚たちと一緒にお祭りを歩いたのだろうか。そう思うと、帯の下がじんわりとあたたかい気がした。
「はい、出来上がりです。よくお似合いです」
「ありがとうございます、カルメリエル様」
「どういたしまして。それと、こちらはミトラ様から。お小遣いですわ」
手渡されたのは、小さな巾着だった。着物に合わせて持ち物を変えるのも風習だという。
受け取って、思わずミーシャは持ち直す。ミトラに預けていたお金の量は覚えているが、それよりも明らかに重い。
「あの、これ、いつもより……」
「もちろん、いつも以上に手伝いをしてもらった分も足してあります。これを使い切るくらい楽しんできて欲しい、と二人は笑っておりましたわ」
「つ、使い切る……」
じゃら、と内側で鳴る巾着。お祭りというのはいったいどれほどお金が掛かるのか、詳しくないミーシャにはこの重みだけでは測り切れない。
「ふふ。行ってらっしゃいまし、ミーシャさん。ああ、階段の脇に合わせた下駄という履き物を置いていますから、そちらを使ってください。たしか以前に教えたことがありましたね?」
「はい。鉄で出来てたり蹴飛ばして攻撃するものですよね」
「それは漫画のやり方なので真似してはいけません」
軽く説明されてから階下に降りると、カルメリエルの言葉通り真新しい下駄が置かれていた。足を通して表へ出ると、ワゴンの前には列が伸びている。
シラベが先に気付いて、お、と眉を上げる。釣られて顔を上げたミトラは、客の相手の手を一瞬だけ止めて、ミーシャを上から下までゆっくり眺めた。
「ん。上出来」
それだけ言って、次の客へ向き直る。
「お母様──」
「はいそこ、くじは一回ずつ順番ね。一気に掴まないこと」
言いかけた声は客への応対の声と次々に伸びる子供の手に挟まれた。シラベもミトラも、休む間もなく手を動かしている。
ミーシャは続きを飲み込んで、代わりに深くお辞儀をした。
「……いってきます!」
「いってらっしゃい」
「気を付けてな」
二人分の声に送り出されて、ミーシャは祭りの通りへ踏み出した。
*
昼になっても提灯にはまだ灯が入らない。それでも通りは、祭りの匂いで満ち始めていた。
骨組みだけだった屋台には次々と幕が張られ、氷の一字の旗が立ち、どこからか鉄板の焼ける匂いが流れてくる。甘くて香ばしくて、少し焦げたソースの匂い。嗅ぎ慣れないのにおいしいものだと分かってしまい、お腹が正直な音を立てそうになる。
骨組みが立ち、幕が張られ、荷が運び込まれていく手際は、どこか野営の設営にも似ている。ちょうど、ミトラたちに拾われる前、村にいた頃の自警団の準備がこんなだったろうか。
ただ並んでいくのは武具ではなく、甘い匂いを纏わせる雲のようなものや細長い揚げ物のような食べ物である。こちらの方がずっといい。
会場の隅では、水を張った水槽に赤い魚が移されていた。ひらひらと袖のような尾で泳ぐ小さな魚は、自分の浴衣に描かれているものに似ている気がする。何をするための魚なのかは分からないが、見ていて飽きなかった。屋台の人と目が合い、始まったらおいでね、と笑われて、ミーシャは慌ててお辞儀をした。
手首に提げた巾着は、歩くたびに小さく鳴る。増やしてもらったお小遣いの使い道を考えては、まだ開かない屋台の前で立ち止まる。それを繰り返しているうちに影は伸びて、通りを行く人が少しずつ増えてきた。
じりじり焼いてきていた日はあっという間に傾いていき、空が少し茜がかってきた頃。人の流れから外れた会場の外れで、ミーシャは足を止めた。
自分と似たような色だからか、その浴衣に目が留まったのだ。浴衣の男の子は歩いては止まり、屈んで足元を気にしてはまた歩いている。履き物に難儀しているらしい。その横顔には、見覚えがあった。
「クモンさん」
声を掛けると男の子──クモンが顔を上げた。目が合う。
「こんにちは。クモンさんも来ていたんですね?」
合ったまま、クモンは固まっていた。
「……あの、クモンさん? どうかしましたか?」
「──っ、み、ミーシャちゃん!?」
返事はたっぷり遅れて返ってきた。目を白黒させ後ずさった拍子に下駄が鳴る。よほど驚かせてしまったらしい。それとも、ちょうど足が痛いところだったのだろうか。
「お、おおお久しぶり。えっと、その」
驚きがまだ抜けきらない様子のクモンに、ミーシャは改めて向き合う。まず何を話せばいいか少し迷い、そして自然と共通の話題を見つけ出す。
「浴衣、とっても似合ってます」
真っ直ぐ褒めたつもりだったのだが、クモンは声にならない声を出して、視線をあちこちへ泳がせた。
「……ど、どうも」
消え入りそうなお礼だった。耳まで赤いのは、西日のせいだろうか。
「ミーシャちゃんも、その。に、似合って……ます、すごく」
「ありがとうございます! 今日、初めて着せていただいたんです」
胸を張って答えると、クモンはなぜか明後日の方を向いてしまった。そんなに気になるものがあるのだろうか。
「クモンさんはお一人ですか?」
「え。あ、うん、今は。これから、キリメ姉と待ち合わせで……あ、キリメ姉っていうのは」
「キリメさん、ですね。お店でお会いしました」
「そっか、そういえばそうだった」
クモンの行き先は、ミーシャが歩くつもりでいた方向と同じだった。それならばと、自然に並んで歩き出す。クモンも何も言わないまま、示し合わせたように隣に付いてきた。
「クモンさんも、下駄は初めてですか?」
「え。わ、分かる?」
「はい。私もなんです。鼻緒というところが、少し痛くて」
「そうなんだよ。なんかこう、指の間がね」
「ええ。カルメリエル様から、ゆっくり歩くのがコツだと教わりました」
「そっか。じゃあ、その、ゆっくり行こう」
揃わない下駄の音がふたつ、屋台の間をゆっくり抜けていく。頭上では灯の入る前の提灯が、夕方前の光を透かして揺れていた。