商店街の入り口は、行き交う人の合流点になっていた。夕暮れの空にはまだ茜の名残があるが、通りの奥では屋台の電球が先に夜の雰囲気を作り始めている。篝火よりも明るいはずなのに、店や家の明かりに慣れた今では暗いもの思えてしまう。
その明るさの境目にあたる柱の脇に、白地の浴衣がひとつ、人待ち顔で立っていた。
鮮やかな黄色の花弁が目立つ大輪の向日葵を載せた白い浴衣は、薄暗がりの中でもよく目を引いた。着ている本人は柱に軽く背を預け、時折思い出したようにスマートフォンを出しては、何も見ないまま仕舞っている。
「あ……いた。キリメ姉!」
クモンが手を挙げて駆け出そうとして、下駄に足を取られ、慌てて歩幅を戻した。
呼ばれた顔がこちらを向き、ぱっと灯が入ったみたいに明るくなったようにミーシャには見えた。けれどそれは一瞬のことで、すぐに唇が尖る。
「おせーよ。何分待たせんだ、お前」
「え、ご、ごめん。でも、そんなに過ぎてないじゃん……」
「待つ側の五分は長いんだよ」
「なにそれ……」
クモンが眉を下げて口を曲げる。理屈のような理屈でないような文句に、待ち合わせとはそういうものなのだろうかとミーシャは自分の知識の浅さの方を先に疑った。いずれにせよ、遅れの原因に心当たりはある。ミーシャは一歩進み出て、頭を下げた。
「あの、ごめんなさい。私がクモンさんを呼び止めてしまって。それで遅れてしまったんです」
顔を上げると、キリメがこちらを見ていた。今初めてミーシャに気付いた、という目だった。その目が、ミーシャとクモンの間を一度、二度、往復する。
「……あー。えっと……ミーシャ、だったよな。店の」
「はい。その節はどうも」
「お、おう」
キリメはなぜか視線を斜めに逃がして、直す必要もなさそうな帯のあたりに手をやった。怒っているのとも違う、どこか居心地の悪そうな仕草だった。
「キリメさんも、浴衣で来られたんですね」
ミーシャは改めて、白地の浴衣を眺める。その着方は、今朝カルメリエルに教わったものとは少し違っていた。襟は教わったより緩く、下に着ている白い肌着をいっそ見せるかのようだし、裾もいくらか短い。崩れていると言ってしまえばそうなのかもしれない。けれど不思議と、キリメが着るとそれは乱れではなく着こなしに見えた。型を知らないのではなく、知った上でずらしている、その加減まで見て取れた。
「とても素敵です。よくお似合いです」
「うぇあ……えっと、ど、どうも」
真っ直ぐに伝えると、キリメは変な咳払いをして横を向いた。
「キリメ姉、その……」
クモンが何か言いかけた。が、続きはいつまで経っても出てこない。キリメも続きを待つように黙っていたが、クモンが視線を逸らしたのを見て息を吐いた。
「……ま、いいや。ほら、行くぞ。混む前にひと回りしちまおう」
白地の背中が先に立って、提灯の列の下をくぐっていく。ミーシャとクモンは顔を見合わせて、その後を追った。
屋台の連なる通りは、昼間の設営の景色から様変わりしていた。幕が張られ、品が並び、呼び込みの声が重なる。焼ける醤油と砂糖の匂い、氷を削る音、袋の中で色を競う菓子。歩くほどに違う匂いが押し寄せてきて鼻が忙しいし、目に飛び込んでくる景色もどこか眩い。
「わ……これは、お面、ですか」
「そう。狐とか、ひょっとことか。テレビでやってるアニメのもあるよ」
「かぶって歩くための物なんですね。……儀式などではなく?」
「ぎしき?」
「な、なんでもないです。忘れてください」
昼間に赤い魚を眺めた屋台の前も通った。水槽は電球に照らされ、袖のような尾がいくつも光の中を揺れている。屋台の人がミーシャを覚えていたようで手を振ってくれていたが、先を行くキリメの歩調は緩まなかったので会釈だけを返す。それを相手は気を悪くした風もなく、新たに立ち寄る客への応対を始めていた。
「あ。キリメ姉、たこ焼きあった!」
クモンが指差した先、湯気と香ばしい匂いを上げる屋台には、なかなかの行列ができていた。
「約束の、買ってくるよ。二人はここで待ってて」
「あ、おい──」
キリメが何か言うより早く、クモンは人の間を縫って行列の尻へ付いてしまった。
二人になると、途端に会話がなくなってしまう。ミーシャにとって、この沈黙は苦ではなかったが、隣のキリメはそうでもないようで、立ったまま体のあちこちを落ち着きなく動かしている。
少し様子を窺うと、キリメは向かいの屋台へ目を向けていた。視線の先には艶やかな赤い玉が串に刺さって、斜めの台にずらりと並んでいる。
屋台の旗には「りんご飴」とある。林檎は知っている。飴も知っている。合わさるとどうなるのかは知らないが、電球の光を映して並ぶ様子は、宝石の陳列だと言われても信じられそうだった。
もっとも、キリメの目は、その赤い玉を見ているようで見ていないように思えた。
「……なあ」
不意に、キリメが口を開いた。
「やってから後悔するのと、やらずに後悔するのって、どっちがマシだと思う?」
「え、えっと……」
何の話だろう。りんご飴を買うかどうかだろうか。それにしては声が重すぎる気がする。
「どうせ後悔すんなら、やってからの方がいいよな?」
問いの形ではあるが、答えよりも同意を求めているかのような言い振りだ。それならばと、ミーシャは頷いておく。
「そ、そうなんじゃ、ないでしょうか」
「……だよな」
キリメは小さく頷いて、それきり黙り込む。動いていた体は静かになったものの、寛いだというより、張り詰めている方が近い。
「お待たせ!」
湯気の立つ舟型の器を掲げて、クモンが戻ってきた。丸い生地が八つあり、上に載った薄い削り物をゆらゆらと躍らせている。生きているようにも見えるが、湯気で動いているだけらしい。
「はい、キリメ姉。たこ焼き」
「ん。……おう」
受け取ったキリメの表情がふっと緩む。今日会ってから初めて、店で見るいつもの顔に近付いた気がした。
「これでようやく負債は帳消しだな」
「分かったってば。細かいなぁ」
「うるせえ。ほら、ミーシャも食いな。熱いうちが一番うまいから」
爪楊枝を渡され、舟に乗る球を狙う二人に混じるミーシャ。立ち昇る湯気におっかなびっくり一つ刺し、口に運んでミーシャは目を白黒させた。
「はふ……っ、あう、あついです……!」
熱い。外側の生地はあんなに柔らかいのに、中は思っていたよりずっと熱い。
「言ったろ、熱いって。あ、慌てて飲み込むと大変だぞ、口開けて冷ませ」
「ほう、ひいんでふか……」
「ジュースも買ってこようか?」
「だ、だいじょふ、です」
おかしな喋り方になってしまい、キリメが笑う。クモンも笑う。涙目のまま、ミーシャもつられて笑ってしまう。
なんとか口の中の熱さに慣れてくると、味を楽しむ余裕が出てくる。生地とソースが混ざる香ばしさの奥から、噛むほどに味の出る弾力のある具の味がする。
「この具はなんでしょう。お肉?」
「タコ。海のいきもの。屋台のたこ焼きなのにでけえな、最近高いのに」
「海の……」
海というものをミーシャはまだ見たことがなく、写真や知識で知るだけだ。家の食事に出てくる魚も海のものだと教わっているが、このタコというものは魚とはまた違う食感で悪くない。
姿も知らない海のいきものは、祭りの雑踏のただ中で大したごちそうになっていた。
*
日が落ちて、提灯に灯が入った。
合図の声が聞こえたわけでもないのに、通りの奥から手前へ、順々に点いていく。たったそれだけの変化なのに、通りは別の場所のようになっていた。
屋根より下だけがあたたかな橙色に染まり、人の顔も屋台の品も、昼間より上等に見える。照明だと教わっていたが、あれは明るくするための道具とはまた違うのだとミーシャは理解した。明るさでいえば街のそこここに立つ街灯でいい。提灯は、この場を祭りにするための道具なのだろう。
灯りに引き寄せられるように人も増えた。肩と肩の間を縫うような人出になり、三人は自然と縦に並んで歩くようになった。
「ミーシャちゃん、射的やってみる?」
クモンが指したのは、棚に菓子や玩具を並べ、銃の形をした遊び道具で狙う屋台だった。的当ての遊びらしい。銃という道具は勉強で習ったが、習ったものより随分と軽そうに見えるし、先から飛ぶのはコルクの栓だという。
「コツはね、景品のど真ん中じゃなくて、上の角を狙うんだ。当てるだけじゃ落ちないから、倒れることを意識しないとね」
「なるほど……奥が深いんですね」
「お前、前にやった時はさんざん講釈垂れて、一個も取れてなかっただろ」
「い、いいんだよ別に。理論値引ければ勝てる、デッキ構築と同じ」
「安定性の無いやつめ」
言われながらもクモンは一回分を払う。そうして五発とも丁寧に構えて、五発とも景品の箱を揺らすだけに終わった。理論と実践の間の溝は、どこの世界でも深いらしい。
それからのクモンは、よく気の付く案内役だった。段差の前では振り返って教えてくれるし、人の流れの速いところでは、ミーシャが押されないよう半身になって壁を作ってくれる。
同じほどの年頃だろうに、とミーシャが内心遠慮を覚えるくらい、その気遣いは板に付いていた。
その一方で。キリメの下駄の音は、いつからか半歩遅れて付いてくるようになっていた。
話し掛ければ返事はある。けれど二言目が続かない。屋台を指しても、ん、とか、そうだな、とか、短い音が返ってくるだけになっていた。
どこか気になるところがあるのだろうか、とミーシャは思う。あるいはもっと食べたいものがあったり、欲しいものがあるのかもしれない。けれど一番の年長であるキリメがそういうことを言い出しにくいのは、なんとなく分かる気がした。
会館の前まで来ると、ひときわ大きな人だかりがあった。
朝、日陰へ収まるのを見届けた鉄の神輿に、ちょうど提灯の灯りが差している。鈍色の屋根が灯りの色を淡く照り返して、昼間とはまた違う顔をしていた。見物人が代わる代わる足を止めては、写真を撮っていく。
その人だかりの手前で、先を歩いていたクモンが振り返った。
「あれ、キリメ姉、どうかした?」
無邪気な声だった。釣られてミーシャも振り返る。キリメは人だかりの少し手前、提灯の灯りの届きにくいところで足を止めていた。
「……いや。なんでもねえよ」
「ほんとに? さっきから静かじゃん」
クモンがすたすたと戻って、屈み気味に顔を覗き込もうとする。
「なんか具合悪い? 人酔いした?」
「う、うるせえな! 大丈夫なんだよ!」
破裂したかのような大声だった。近くの屋台の売り子が一瞬こちらを見たほどの声量に、ミーシャの肩も跳ねる。
クモンの顔から、心配の色が引いていく。代わりに、むっとしたものが乗った。
「なんだよそれ。心配しただけじゃん。そんな言い方ないじゃん!」
「だから……!」
「お、落ち着いてください、お二人とも」
思わず、ミーシャは間に割って入っていた。キリメの目がキッとこちらを射る。射られて首を竦めたが、キリメはそのまま何かを噛み殺すように口を結んで、何も言わなかった。
言わなかったことが、かえってクモンの何かを固くしたらしい。
「……もういいよ」
吐き捨てるような声だった。
「キリメ姉は、たこ焼き食べて満足したでしょ。機嫌悪いなら……もう、どっか行ってよ」
「お前なぁ……ッ」
キリメの手が握られて、上がりかけて、下りた。荒い息をひとつ、無理に呑み込む音がした。
クモンはもう、キリメを見ていなかった。
「行こ、ミーシャちゃん」
こちらへ伸ばされた手が、ミーシャに届く前に止まった。
キリメが、その手首を掴んでいた。
「な、なんだよ」
「…………」
キリメは、自分の手を見ていた。勝手に動いた手を今初めて見付けた、そんな目だった。掴んだまま、口が幾度か、開いては閉じる。
「……行くなよ」
絞られた声は、さっきの大声と同じ喉から出たとは思えないほど小さかった。
「なんで」
クモンが問う。キリメは答えない。
祭りの音だけが、二人の間を流れていった。呼び込みの声、綿菓子の機械の唸り、どこかの子供の笑い声。通りはこんなに賑やかなのに、目の前の沈黙だけが濃かった。
「……お前が」
やがて、掠れた声がした。
「いや……お前と……もっと、一緒に」
「え? なに?」
周囲の雑踏がキリメの声を圧し潰し、クモンの耳へと届かない。キリメの手が見るからに力み、クモンの小さな体を引き寄せた。
「お前が、好き、だから」
ミーシャは、瞬きも忘れて二人を見ていた。
好き。言葉そのものは知っている。けれどキリメの声に乗ったそれは、ミーシャの知っているどの「好き」とも重さが違って聞こえた。
クモンは、固まっていた。
止まっていた目が、やがてせわしなく泳ぎ出す。左、右、人だかり。人波は三人を避けて流れていくだけで、足を止める者など一人もいないのに、クモンは大勢に見られている最中のように肩を縮めた。
そして、クモンとミーシャの視線が交わる。震える瞳の動きが、ミーシャの目に焼き付いた。一瞬がやけに長く感じられる中、クモンの瞳に稲妻が走り空気が動く。
「……ッ」
クモンを掴んでいたキリメの手が、振り解かれた。
「そ、そういうの……僕、よく分かんないから」
声を絞り出してからクモンが顔を背ける。キリメの目が、見開かれたまま動かなくなっていた。唇が動きかけて、結ばれて。
次の瞬間、白地の向日葵が翻った。
「あ──キリメさんっ」
咄嗟に伸ばしたミーシャの手は届かない。下駄の音を荒く鳴らして、白い背中が人混みへ割り込んでいく。あんな速さで駆けたら鼻緒が食い込むだろうに。そんな見当違いの心配しかミーシャには追い付かなかった。
「キリメ姉!」
クモンが我に返って追う。だが、ちょうど神輿の見物を終えた一団がどっと通りへ流れ出して、小さな体はあっという間に押し戻された。人の壁の向こうに、白地はもう見えない。
戻ってきたクモンは、肩で息をしていた。俯いた顔は、提灯の灯りの下でも色がなかった。
「あの、クモンさん。キリメさんは、その……」
「…………ごめん、ミーシャちゃん」
何に謝るのか分からない言葉に続き、クモンは頭を下げた。こんな時なのに丁寧なお辞儀だったが、きっとクモンもどうすれば良いのか分かっていないのだろう。それきり顔を上げないまま身を翻して、紺の浴衣もまた、雑踏に呑まれて消えた。
「クモンさん!」
呼び止める声は祭りの賑わいに埋もれて、たぶん、届かなかった。
急に、立っている場所だけが静かになった気がした。
キリメを追うべきだったのか。クモンを引き留めるべきだったのか。分からないまま突っ立っていても仕方がない。ミーシャには歩くことしか出来なかった。
りんご飴の屋台。射的の屋台。赤い魚の水槽。来た道を戻り、行かなかった筋を覗き、待ち合わせた商店街の入り口まで戻ってみる。
柱の脇には、もう誰もいなかった。
提灯の灯りは途切れなく人の顔を照らしていくのに、二つの顔はどこにもない。白地の向日葵も、紺の浴衣も。どれだけ回っても見つからないまま、鼻緒だけが足の甲に熱く食い込んでいった。
*
ボトムレスピットの前まで戻ってきた頃には、通りの人出もまばらになり始めていた。
店の先では、ワゴンの片付けが始まっていた。シラベが棚板を外し、レヴェローズが空の箱を三つも重ねて軽々と運んでいる。その脇で、カルメリエルがシラベの腕に縋りついていた。
「……シラベ様ぁ……私の、私の子らが行方不明なのです……どうかご協力を……」
「勝手なことしてるからだろ」
シラベは呆れた声のまま手を止めもしない。カルメリエルは今にも泣きだしそうな、むしろもう泣いていそうな哀しい顔をしている。何の話なのかミーシャには分からなかった。いつもなら駆け寄って聞いていたかもしれない。
今日は、足が動かなかった。あの輪に入って、いつものように手伝いますと言える元気がどこにもない。
ミーシャは灯りの届かない建物の際を回って、裏口の戸をそっと引いた。鍵は開いていた。真っ暗なバックヤードでも、どこに何があるかは体が覚えている。物ひとつ倒さず階段まで辿り着けてしまって、覚えたことがこんな形で役に立つのは、少し寂しかった。
相部屋の戸を開けると、今朝畳めなかった布団が敷きっぱなしのまま待っていた。帯も解かず、ミーシャはその上に横になる。行儀が悪いと分かっていたが、体を起こしている気力の方が足りなかった。
手首から外した巾着を頭の近くに置くと、じゃら、と音が鳴った。
朝とほとんど変わらない重さの音だった。使い切るくらい楽しんできてと望まれ、その音がそのまま期待の重さになって胸にのしかかる。
開け放した窓から、祭りのざわめきが遠く届いている。提灯の色が、夜空のふちをうっすら染めているのも見えた。祭りはまだ続いているのだ。あの人混みのどこかに、あの二人はまだいるのだろうか。
廊下に足音がして、部屋の前で止まった。
「あ、帰ってたのね」
戸口からミトラが顔を覗かせていた。朝と変わらない優しい声だ。
「おかえり。……楽しかった?」
答えようとして、言葉が喉の奥でほどけなくなった。
楽しかった。それは嘘ではない。たこ焼きは熱くて美味しかった。提灯の灯りは綺麗だった。射的の話は奥が深かった。その全部の続きに、あの沈黙があるだけで。
「……はい」
それだけを、ようやく返した。
ミトラは戸口からしばらくミーシャを見ていた。それから柔らかい声色のまま、ミーシャに語り掛けて来る。
「初めての祭りだと疲れるでしょ。湯船にお湯張るから、そこでゆっくり足ほぐしたらどう?」
言うだけ言って、返事を待たずに足音は風呂場の方へ遠ざかっていった。お礼を言いそびれたことに気付いたのは、その足音が聞こえなくなってからだった。
ミーシャは、目を閉じる。
瞼の裏で、今日の景色が逆さに流れていく。翻る白地。振り解かれた手。瞳。楽しいはずのお祭りが、どうしてあんなことになってしまったのだろう。
きっと、自分が何かしてしまったのだ。
あんなに仲の良い二人だったのに。間に自分がいたから。自分が呼び止めて、自分が隣を歩いて、自分が割って入ったから。どこで間違えたのかは分からない。分からないけれど、間違えたのが自分であることだけは、疑いようがない気がした。
やり直せたらいいのに。
煮詰まってとろけていく意識の底で、ミーシャはそう思った。やり直して、今度こそ、笑ったまま帰れるお祭りを──
『──やり直したい?』
その囁きは、自分の声によく似ていた。
夢だろうか。夢なのだろう。それならば、答えるのに遠慮はいらない。
やり直したい。
そう応えたのが口だったのか、胸の内だったのか。確かめられないまま、ミーシャの意識は深いところへ沈んでいった。
*
むにむにと。頬にやわらかいものが当たっては離れていく。頬だけではない。顎、唇、首筋と、遠慮なく何かにつつかれていた。
鼻先を触られた何度目かのくすぐったさに、ミーシャは目を覚ます。瞼を開けると、吸い込まれそうな星屑の瞳がミーシャを映していた。
「……大穴、さん?」
胸の上に黒い毛皮のかたまりが乗っていて、そこから前脚が伸び頬や顎へと肉球が押し当てられている。乗られている重さはほとんど感じないのに、押し当てて来る柔らかな圧力だけ感じるのはどこか理不尽だ。
「んんなん」
溜め息のような鳴き声で、頭がゆっくり回り始める。窓からの光がいつもより明るい気がする。隣を見れば二組の布団はとうに空で、きちんと畳まれてすらいた。
階下からは段ボールを引きずる音や、台車の車輪の音が続けざまに聞こえてくる。その物音を割って、聞き慣れた声が張り上げられた。
『では行ってくるぞ! 神輿は任せるがいい!』
表の戸が開いて、閉まる。
あれ、と寝起きの頭が引っ掛かった。神輿を運ぶのは、昨日終わったはずではなかったか。それとも、あれは夢の中の話だったか。
長い夢を見ていた気がする。賑やかで、最後に哀しい夢を。寝起きの頭では、夢と昨日の境目がうまく見付けられなかった。
「あの……起こしてくださって、ありがとうございます」
「なぅう」
礼を受け取ると、大穴は役目を果たしたといわんばかりに胸から降り、ミーシャの布団の真ん中で丸くなり直した。その一部始終にさえ、なぞったような見覚えがある。
寝間着を脱いで、ワンピースに袖を通す。着替えの間もずっと頭の隅で何かが引っ掛かり続けていたが、階下の物音が、それを何度も押し流していった。
階段を降りると、一階は見慣れない──あるいは見慣れた忙しさの中にあった。
店の入り口付近は普段動かさない棚が大きくずらされ、対戦スペースの長机には菓子の箱とおもちゃの詰め合わせが積み上がっている。シラベは店外と長机の間を往復して動線を確かめ、カウンターの内側では、ミトラが帳面と睨めっこをしていた。
どこからどこまでも非日常だというのに、見覚えのある光景だった。
「お、おはようございます。……あの、寝坊して、ごめんなさい」
「おはよ。いいのよ、気にしないで」
「朝飯そこに置いてあるぞ。悪いけど、食ったらこっち来てくれ」
「……はい」
同じだ。声も、言葉も、肌に感じる空気も。昨日の朝と──寸分違わず同じだ。
取り分けられたパンと卵焼きの前に座って、ミーシャはおずおずと顔を上げた。
「あの、お母様。今日は……今日って、お祭りの日、ですよね」
「そうよ?」
帳面から顔も上げず、ミトラは当たり前のことのように言った。
「今日が本番。忙しくなるんだから、しっかり食べときなさい」
まだ少し温かい卵焼きは昨日と同じ形をしている。それを見下ろしたまま、ミーシャは眠りの際に聞いたあの囁きを思い返していた。