箸で切り分けた卵焼きは、口の中でも『昨日』と同じ味がした。
朝の一階は搬出の物音で満ちている。長机の端で朝食をとりながら、ミーシャはそっと目だけを動かした。
シラベが店の出入口と長机の間を行き来して、荷を運ぶ道筋を確かめている。三度目の往復で立ち止まり、床の段ボールを爪先で少し内へ寄せる。知っている。この後、首に掛けた手拭いで額を拭くのだ。
カウンターの内側では、ミトラが帳面をめくっている。頁の角を指で二度弾いて、鉛筆を耳に挟む。それも知っている通りだった。
確かめれば確かめるほど、『昨日』が正確になぞられていく。夢というものが、こんなに細かいところまで続きを合わせてくるものだろうか。
卓の下で、ミーシャは足の指をそっと動かしてみる。昨夜はあんなに熱く食い込んでいた鼻緒の痛みが、歩き回った疲れごと消えてなくなっている。
「あの、お母様……」
呼び掛けてから、続きを持っていないことに気付いた。
顔を上げたミトラは帳面を開いたまま、ん、と首を傾げている。その向こうではシラベが菓子の箱を数え直していた。
今日は『昨日』と同じ日なんです。私はお祭りを一度経験して、悲しいことがあって、やり直したいと願ったら朝に戻っていたんです──言葉に並べてみたそばから、力を失っていくのが自分でも分かる。信じてもらえるとは到底思えない。
「……卵焼き、おいしいです」
「そう? よかった」
ミトラは笑って、帳面へ戻っていく。
やり直したいかと問うあの囁きに、やり直したいと応えたのは自分だ。それなら、今日をやり直すのは自分の役目のはずだ。両親が忙しく働くところを邪魔しては悪い。
そう決めたのなら、この日起こることを知っている自分がどうするべきかを考えることが先決だ。ミーシャはパンを口に運びながら考えを切り替えようとする。
『昨日』の出来事がどうして起きたのか。答えなら一晩──と呼んでいいのかは分からないが、既にミーシャは思い至っていた。自分がクモンの隣にいたからだ。あの二人は最初から会う約束をしていた。そこに自分という異物がいたせいで、キリメもクモンも調子が狂ってしまったに違いない。
それなら、対処は簡単だ。今日は二人に会わないようにすればいい。
卵焼きの最後のひと切れを飲み込んで、ミーシャは静かにそう心を決めた。
*
午前は覚えている通りに流れていった。朝食の後の手伝いではビニール紐の在り処を聞かれて同じ棚を答えて同じ感謝の言葉を受け取り、クーラーボックスに入った差し入れの運搬を任されるのも同じだ。
鉄の神輿が台車ごと日陰の角へ収められていくのも、綱を外したレヴェローズが胸を張るのも『昨日』見た通りである。
「おお、気が利くねえ」
「レベさんとこの子だ。ほれ、いつぞやの」
同じ声が、同じ順番で掛かる。飲み物を配り終えると、皺の寄った手が飴をひと粒、ミーシャの手に握らせてくる。
赤い包み紙の捻り口の折れ具合まで、『昨日』もらったものと同じに見えた。あの飴は確かに受け取り巾着に入れて持ち歩いていたはずなのに、今もう一度手の中にある。
うなじのあたりがすうと冷えた気がしたが、ミーシャはぎゅっと目を瞑って振り払う。朝からずっとその調子なのだから、家族以外もみんな同じなのは当然だ。数え始めたらきりがない。
ミーシャは飴を握り込み、深くお辞儀をしてその場を後にした。
昼前にワゴンが開くと、客の列も『昨日』の通りに伸びる。同じ頃合いに、あの若い男の人が現れた。景品の棚を睨み、同じ文句を言い、最後は責任者と名乗ったミトラの圧力に負け、同じところで舌打ちをして人の波へ戻っていった。
ミーシャは芝居の幕引きを見届けるような心持ちでそれを見送る。てんばいや、という言葉の意味は今日も分からないままである。
『昨日』はこの後、自分が店番を申し出て、却下されたのだった。同じように言うべきだろうか。言わずにいたら、何かが変わってしまうだろうか。迷って半歩踏み出したところで、ミトラが先に顔を上げた。
「心配しないで。お店は平気よ」
「……はい」
「それより、二階に行ってきなさい。カルメリエルが待ってるから」
似たような言葉に背を押され、同じ物事が進んでいく。着付けをしてくれるカルメリエルが感嘆とも溜め息ともつかない声を漏らしてから、白い布で胸を巻かれていくのも覚えている通りだった。自分が恥ずかしがらなかった分、手際は『昨日』より早かっただろうか。
増えた重さの巾着を受け取り、真新しい下駄に足を通して表へ出る。ワゴン越しに、ミトラがミーシャを上から下までゆっくり眺めた。
「ん。上出来」
同じ言葉だ。それでも母親が自分を見て認めてくれているということは何も変わらず、掛けられる言葉の温かさは心地よいままだ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
「気を付けてな」
重なった二人の声に背中を押されて、ミーシャは通りへ出た。
*
夕方前。会場の外れには近付かず、ミーシャは商店街の入り口が見渡せる場所に立った。
角の屋台の脇、幟の陰。人の流れが二筋に割れて、どちらからも顔を覗かれにくい立ち位置だ。屋台の人からは少し変な目で見られているものの、子供の遊びだろうと思ってくれたのか追い払わずにいてくれたのが良かった。
やがて、白地の浴衣が待ち合わせの柱の脇に立った。大輪の向日葵は、遠目にもよく映える。キリメは落ち着かない様子で、スマートフォンを出したり仕舞ったりを繰り返していた。
提灯にはまだ灯の入らない、明るさの残る時刻。人の間を縫って、紺の浴衣が小走りに現れた。下駄を履くせいで歩幅が乱れ、直して、また速める。ミーシャとの会話が無かったから、『昨日』よりは早く着いているはず。これならクモンも遅れの文句は言われないはずだ。
クモンが手を挙げて、何かを言う。キリメの顔が遠目にも分かるほどにやけて見えたが、それから慌てたように唇が尖る。『昨日』聞いた遅刻の文句は無いと思うのだけど、何か不満があったのだろうか。
二人は向かい合ったまま、少しの間何か話しているようだった。だがミーシャの目には、二人の挙動がどこか不思議に見える。クモンが何か言ったかと思えば、キリメがそっぽを向いて帯の結び目を指先で何度もいじり、そしてクモンも何故か目線を逸らしている。
「大丈夫でしょうか……」
心配が口に出てしまう。二人が離れ離れになる姿を一度見てしまった以上、不和があるのではと思うと落ち着かない。
だが、お互いに怒っているのでないことは、そのまま並んで歩き出した二人の近さで分かった。肩と肩の間が、『昨日』より掌ひとつ分は狭い。
良かった。ミーシャは幟の陰で、ひとり小さく頷いた。やっぱり、自分がいなければそれだけで良いように進む。今日のあの二人は、『昨日』よりずっと柔らかい空気の中にいる。
見届けたのだから、もう離れよう。あとは一人で屋台でも眺めよう。そう思って踏み出しかけた足が、止まった。
それはミーシャ自身、意識していない気持ちだった。心配していた二人が仲良く歩いていく、その姿を見たせいで揺り動かされた名状しがたい思いがミーシャの内にある。
万一、ということがある。その思いが、そう呟かせた。今日は何も起きないと決まったわけではない。遠くから、見えるところにいるだけでいい。二人の末路の一つを見てしまった身としては、本当に良いように変わったのか見届ける必要があるのではないか。
「……心配、ですものね」
自分に会っていたのが元々の行動だった。会わないという行動もまた、自分が選んだ行動だ。その結果というものは、何かしら知るべきなのではないか。
シラベであれば出歯亀根性と評しただろう初めての欲求にミーシャは突き動かされ、人の流れに紛れて二つの浴衣を追い始めた。
屋台二つ分の距離を保って付いていくのは、思ったより難しくなかった。祭りの人出がちょうどいい茂みの代わりになってくれる。
りんご飴の屋台では、赤い玉を一つずつ持った二人が、掲げて見比べて笑っていた。射的の屋台では、クモンが銃の形の道具を構えて五発撃ち、五発とも棚の箱を揺らすだけに終わった。『昨日』と同じ結果だったが、隣で肩を揺らして笑うキリメの遠慮のなさと、言い返すクモンの口の元気さは以前よりもよほど明るい。
たこ焼きの行列には、今日は二人で並んでいた。受け取った舟型の器を挟んでつつく姿は、周囲の人混みに流れないようにだろうか、ぴったりと寄り添っていて仲睦まじい。
日が落ちて、提灯に灯が入った。通りの色が変わっても、ミーシャは今日は足元を気にせずに済んでいる。ゆっくり歩くという下駄のコツは、後を尾ける歩調とちょうど相性が良かった。
変化があったのは、祭りの流れがいちばん濃くなった頃だった。
会館の方へ折れると思っていた二つの浴衣が、逆へ折れた。
屋台の並びが切れ、提灯の間隔が広くなり、やがて頭上から灯りの色が消える。人の声が背中側へ回り、前を行く二人の下駄の音が急によく聞こえるようになった。
同時に、自分の下駄の音もである。
からん、と鳴るたびミーシャは首を竦めた。前の二人が立ち止まれば自分も止まる。すると音も止まる。静かな通りでは、これはあまりに分かりやすい。
少し迷ってから、ミーシャは物陰で下駄を脱いだ。鼻緒を指に引っ掛けて左手に提げ、素足で歩く。少しいけないことをしている気持ちになるが、足の裏に伝わってくる熱がむず痒さと共に肯定してくれている気がした。砂粒を踏むちくちくとした感触はあるが、音は綺麗に消えてくれた。
これで音は問題ないが、二人はどこへ行くのだろう。家々の窓明かりと街灯だけの道を、ミーシャは前を行く下駄の音だけを頼りに、暗がりを選んで付いていった。
どれほど歩いただろうか。住宅の並びが途切れ、前方に黒々とした盛り上がりが見えてきた。
低い山である。二人の下駄の音が、そこで止まった。
街灯の届く際から、石の段が上へ延びている。その入り口には、柱を二本立てて上に横木を渡しただけの、簡素な門のようなものが立っていた。扉も壁もないのに、そこから先の空気が変わって見えるのが不思議だ。
クモンが段の下で足踏みをして、何か言っている。キリメが笑って、先に段へ足を掛けた。慌ててクモンが続き、二つの影は木々の間の暗がりへ吸い込まれていった。
ミーシャは門の前で、少しだけ迷った。夜の山に明かりも持たずに入るのは、この世界が葬送外野ほど危険ではないと言っても少し恐ろしい。獣がいるかもしれないし、足元も見えない。
けれど、あの二人が入っていったのだ。ここまで来たならここで引き返すのは違うだろう。下駄を提げ直して、ミーシャは石段に素足を乗せた。道路の黒い石畳と違う、不思議な石の冷たさが足の裏から静かに上ってくる。
段の数を二十ほど数えた頃だった。がさりと脇の茂みが鳴った。
やはり獣か、とミーシャはびくりと身構えた。咄嗟に下駄を掲げて、いつでも投擲出来るように構える。
がさりがさがさ、と茂みの音が大きくなる。ミーシャの心臓が高鳴っていく中で暗がりに現れたのは、人間大の人影だった。
「──ぬ?」
その人影は暗がりでも薄らと光って見える金の髪を持ち、紫の瞳をぱちくりと瞬かせていた。
ミーシャも良く知る顔が、ポカンとしたままで口を開く。
「ミーシャではないか。こんなところでどうした?」
「レ、レヴェローズ様……!?」
思わず出た声の大きさに、自分で慌てて口を押さえる。レヴェローズは箱を抱えたまま、器用に茂みを潜り抜けて隣に立った。
「あの……レヴェローズ様こそ。というか、その箱は……?」
「うむ。見回りの者に頼まれてな。山で妙な機械が見つかったとかで、回収の仕事を手伝っておったのだ」
誇らしげに掲げられた箱の中身は、暗くてよく見えない。がちゃがちゃと何かが鳴っている。
「それよりもだ。ミーシャよ、なぜ一人でここへ? 祭りはもう少し遠いだろう」
誤魔化しの言葉は浮かばなかった。ミーシャは観念して、正直の少し手前までを白状する。
「キリメさんと、クモンさんを……その、見守っていて」
「ほう? 二人がここに来ているのか」
「はい。さっき登って行きました。……その、夢を見たんです。お二人がひどい喧嘩をしてしまう夢で。それが心配で、遠くから見ていようと……」
我ながら苦しい説明だと思ったが、レヴェローズはうむうむと重々しく頷いた。
「なるほどなるほど。気にするのは分かるぞ」
「し、信じるんですか?」
「ま、夢がどうこうは分からんが。ミーシャがやることだ」
それに、と言いながら、レヴェローズの目が石段の上を向く。暗がりでもそれと分かるほど、その目は輝いていた。
「つまりお前は今、隠密行動の最中というわけだな?」
「お、隠密……はい、そうなり、ます……」
「面白い。私も行こう」
言うが早いか、レヴェローズは石段の下へ向かって疾走した。ミーシャが驚く間もなく麓に到達すると、山の入り口辺りにいた人影に抱えていた箱を押し付けている。
「すまんがこれも頼む。私は急用だ」
「えっ、ちょっ、レベさん!?」
戸惑う声に構うことなくレヴェローズは押し付け終わり、身を翻して段を駆け戻ってきた。
「よし、急ぐぞミーシャ。見失っては元も子もない」
「は、はいっ。……いいんでしょうか、お仕事……」
「集めるのと運ぶ手伝いは済ませた。届ける手伝いまで引き受けた覚えはない」
図々しい言い分だったが、ミーシャも深くは追及しなかった。レヴェローズのやることだから仕方がない。
レヴェローズの登り方は見事なものだった。段の縁を選んで踏み、体の大きさに見合わない静けさで先を行く。時折振り返っては、ミーシャの様子を窺う余裕まで見せていた。
「ふむ。履き物を脱いだのか」
「音が鳴ってしまうので」
「良い判断だ。見込みがあるぞ」
「はぁ、どうも」
「それにしても、あの二人がこうして人目を忍んで来ているというのは……むふふ、何が起こるか見物ではないか」
何を想像しているのかミーシャには分からなかったが、レヴェローズはこの状況を全力で楽しんでいるようだ。
石段を登り切ると、開けた場所に出た。正面には古びた建物が据わっている。会館の脇に飾られていたあの神輿と、どこか形の似た造りだった。屋根の反りも、正面の構えも。あの神輿はこういう建物の写しだったのかもしれない。
建物の脇に置かれた長椅子に、白と紺の浴衣が並んで腰を下ろしている。
「こっちだ」
袖を引かれ、ミーシャは石段から外れて境内の際の木陰へ身を入れた。太い幹と藪がちょうど二人の姿を隠してくれている。
祭りの喧騒から離れているものの、夜風が街中よりも速く、方々で虫が鳴き続けているせいで、二人の話し声はここまで届かなかった。長椅子に座る二人が何かを話しているのは分かるが、それ以上は分からない。
クモンが何か言い、キリメが短く答える。それきり黙る。また、どちらかが口を開いて閉じる。静かなやり取りが続く中、ミーシャの胸の内に焦れる気持ちがどこか生じていた。
「ええい焦れったい。何をしているのだ二人とも」
レヴェローズと同じことを考えていたのを、ミーシャは何故か分からないが恥じ入る気持ちになった。
そのままどれほど経った頃か。キリメが、立ち上がった。
二歩でクモンの正面へ回り、まっすぐに向かい合う。俯きがちだった顔が上がり、月明かりの下でも分かるほど、背筋が伸びた。
何かを告げている。声は届かない。けれど『昨日』、雑踏の中で聞いたあの言葉と同じものだと、疑う気は起きなかった。
「おお! ミーシャよ。キリメが好きだと言ったぞ! ようやくだな!」
隣のレヴェローズの嬉しそうな言葉に、ミーシャは慌ててその袖を引いた。声が大きい。出来がいい耳を持っているのは分かったが、こうして嬉しそうにしているのはどうなのだろう。
そしてレヴェローズを心の中で非難したミーシャは、自分も同じような気持ちでいることに遅れて嫌気がさした。
「うぅ……」
「む、どうしたのだミーシャ」
「い、いえ、なんでも」
自分がどれだけみみっちい行いをしているのかようやく気付いたミーシャだが、もうこうなったら見届けるほか道は無い。気を取り直して二人の様子を窺う。
クモンは、長椅子に座ったまま動かない。キリメも動く様子は無いが、ミーシャは知っている。彼女はクモンの応答一つで、すぐさまこの場から逃げてしまうかもしれない人だ。
虫の声だけが降り積もっていく中。ミーシャは知らぬ間に、胸の前で両手を握り合わせていた。『昨日』と同じ言葉は、もう告げられた。あとはここでクモンがどう応じるかでキリメの対応が変わる。自分が介在しないのであれば二人は一体どうなるのか。
やがて。クモンの頭が、こくり、と縦に動いた。
「──っ」
声を上げそうになった口を、自分の手で塞ぐ。
やり直せた。『昨日』、あの雑踏で砕けてしまったものが、いま目の前で結び直された。胸の奥が一息に熱くなって、目の縁まで何かがせり上がってくる。隣のレヴェローズも腕を組んだまま、うむうむと満足げに鼻を鳴らした。
その直後だった。白地の浴衣が、跳んだ。
感極まったとしか言いようのない勢いでキリメがクモンに飛びつき、二つの影が長椅子の向こうへもつれて倒れ込む。下駄が片方、乾いた音を立てて転がった。
「わ……だ、大丈夫でしょうか、お二人とも、今、倒れ──」
身を乗り出したミーシャの視界が、突然、闇に覆われた。
大きな手のひらが、目元をすっぽりと塞いでいる。
「レ、レヴェローズ様……?」
「ま、待て! ミーシャにはまだ早い!」
押し殺しているのに妙に力のこもった声が、頭のすぐ上でした。
「で、でも、お二人が転んで」
「転んだのではない。あれは……うむ、あれだ。組み手だ。心配はいらん」
『ちょ……キリメ姉、まっ……わかったから、わかったから帯はなんで──』
闇の向こうから、砂利の擦れる音と、布の乱れる気配と、クモンの上擦った声が切れ切れに届いてくる。
「あの、レヴェローズ様、やっぱり何か、変な音とか声が」
「聞かなくていい!」
覗こうと首を動かすと、指の隙間まできっちり塞がれた。一筋の月明かりも通してくれない。
どれくらいそうしていただろう。レヴェローズがうわぁとかそんなにかなどと呟く声が何度か聞こえるだけだったが、そんな耳にふと、別の音が交ざった。
石段の方から、複数の足音が上がってくる。硬い靴の音だ。それに、瞼と指越しにも分かる白い光が、ちらちらと揺れながら近付いてきていた。
『──こっちです。この上』
『麓に仕掛けられてた機械は回収したんだな?』
『ええ。後はこの境内だけで』
『祭りの晩に、ご苦労なこった』
姿の見えない声が、切れ切れに聞こえてくる。目元を塞ぐレヴェローズの手が、ぴくりと強張った。
「……む。まずいぞ、これは」
「あの、誰か、来て」
「静かに」
足音が境内へ上がり込み、白い光がひと回りして、長椅子の向こうで止まった。
「──何をしてるのかな、君たち」
落ち着き払った大人の声が響いて、境内の空気が一変した。慌ただしく身を起こす音、下駄を探す音、上擦った二人分の声。
レヴェローズの手が、ゆっくりと外れた。
目隠しの外の景色は、すっかり動いてしまっていた。
揃いの制服を着た大人が二人、手に提げた明かりで長椅子のあたりを照らしている。制服姿には、ミーシャも見覚えがあった。街を守る役目の、たしか警察という人たちだ。
光の輪の中に、キリメとクモンが立たされていた。
キリメの浴衣は、見るからに乱れていた。襟は肩の際まで開き、帯は半分ほどけて、結び目が腰の横まで回ってしまっている。本人は裾を握って必死に直しながら、忙しく首を振っていた。
「ち、ちがうんです、これは……そういうんじゃなくて……そ、そういうのでは、あるんですけど……!」
「ぼ、僕は平気です! キリメ姉は悪くなくて、僕が、その、頷いたから……!」
「わ、悪化させんなお前ッ」
警官は顔色ひとつ変えず、うんうんと頷きながら二人に近付いていく。声はどこまでも穏やかで、それがかえって取り付く島もない。
「はいはい、事情はあるんだね。それじゃ、向こうでゆっくり聞こうか」
「え、あ、その……」
「君は下の子を連れて先に。……ああ、坊や、もう怖くないからね。おいで」
「ぼ、僕、怖くはな……」
クモンの言い分は最後まで聞かれず、片方の警官に肩を抱かれるようにして石段の方へ促されていく。もう片方がキリメへ短く何かを言い、キリメは肩を落としてそのまま後に続いた。
木陰の二人は動けなかった。動ける道理もない。キリメとクモンは何も悪くないと弁護しようにも、ミーシャは二人が何をしているのかは見えていないから知らない。言ったところで何が良くなるのかも分からない。見上げた先のレヴェローズも珍しく難しい顔で顎を撫でるばかりで、踏み出す気配はなかった。
白い光と四つの人影が、石段の下へ沈んでいく。抗いの声は次第に遠くなり、やがて虫の声に紛れて聞こえなくなった。
境内が静けさを取り戻す。月明かりと虫の声と、木陰の二人だけが残された。
「……あの」
ミーシャの声は、自分でも分かるほど震えていた。
「レヴェローズ様。お二人は……お二人は、どうなってしまうんですか」
レヴェローズは腕を組んだ。うぅむ、と唸り、実に重々しく考え込む。
「うむ……。私もこの国の掟に明るいわけではないが……未成年のああいう行いは好ましくないと伝え聞いたことがある」
「ああいう、とは?」
「そりゃあ、せ──いや、ミーシャには早い。何も聞くな。青い二人が先走ったのだと思え」
「は、はぁ。そ、それで、どうなってしまうんですか?」
重々しく考えるもったいぶった間があった。
「おそらくだが、あのまま逮捕されるのではないかなぁ」
「たい、ほ」
「まぁ、どうなるかは分からないのだが。一時でも捕まったとなれば騒ぎにはなってしまうだろう」
つかまる。さわぎ。
言葉の意味が胸に落ちた途端、目の前の暗い境内が、もう一段暗くなった。
自分がいなければ、と思って始めた一日だった。会わないようにして、遠くから見守って、確かに『昨日』の悲しいことは起こらなかった。起こらなかったのに。
結び直されたはずの二人は、連れて行かれてしまった。街を守る人たちに、悪いことをした人のように。つかまって、しまうらしい。
やり直した先で、もっとひどいことになってしまった。
「──ミーシャ?」
視界の端から、音が抜けていく。膝から力が抜けて、体がゆっくり傾いだ。
「おい!? ミーシャ!?」
慌てた声と、抱き留めてくれる腕の感触を最後に、ミーシャの意識は途切れた。
*
むにむにと。頬に、やわらかいものが当たっては離れていく。
顎、唇、首筋。遠慮を知らない肉球の感触が、また朝を告げていた。