アパートの錆びた鉄階段をシラベはいつになく軽い足取りで上り、玄関の鍵を開ける。片手に提げたコンビニ袋の中身は発泡酒のロング缶、半額シールの唐揚げ弁当、それに週刊少年誌。今朝まで水道水で飢えを凌いでいた男にしては上出来の戦利品だった。
粗大ゴミ級の王女様を放置して荷物をひっくり返し続けた結果、運が巡って来たのか古いポチ袋から三万円が発掘された。誰に貰った金かも思い出せない札に運命を感じ、そのまま駅前のパチンコ屋へ特攻。そして勝った。
おかげで当面の家賃と食費は確保できた。まさに起死回生。ギャンブルを金策と呼ぶ神経は我ながらどうかと思うが、勝てば官軍だ。
「ただいまー。……って、まだいんのかよ」
上機嫌で靴を脱いだシラベの視界に入ったのは、部屋の隅で体育座りをしている美女の姿だった。
ドゥブランコ王家第三王女にして植民地総督、レヴェローズ・ドゥブランコ。
数時間前、あれほど威風堂々と顕現した彼女は今、膝に顔を埋め、マントをみのむしのように被って、この世の終わりみたいな空気を漂わせている。
「……コスト8……棒立ち……インクの染み……」
「……環境についていけない……旧世代の遺物……」
「……姉様なら一万……私は百……」
漏れ聞こえるのは怨嗟というより自傷だった。プライドの高い奴が現実という鈍器で殴られるとこうなるらしい。顔と身体が良いだけに、陰気が倍増しで部屋に染みていた。
「おい、いい加減にしろよ。鬱陶しいな」
「誰のせいだと……」
恨み節は終わる様子がなく、シラベは呆れたまま弁当をちゃぶ台に置いて胡座をかいた。
来月分の家賃まで確保した余裕か、久しぶりに浴びた脳汁の余韻か、指先が勝手に懐かしいものを求めていた。ストレージボックスの脇から、プラ箱に収まった古びた束を引き抜く。
大学時代に使っていた、レヴェローズ入りの「構築済ドゥブランコ王家デッキ・改」だ。
「……ま、飯食う前にちょっといじるか」
その一言でみのむしが跳ねた。バッと上がった顔、涙に濡れた紫電の瞳が期待に輝く。
「契約者! 私を……私を再び戦場に!?」
膝立ちのままずるずると擦り寄り、胸を突き出すように身を乗り出してくる。圧が凄い。だが。
「いや、それはねえよ」
「即答!?」
「さっき言ったろ。お前重いんだよ。現実見ろ」
シラベは淡々と作業を始めた。かつての自分が組んだデッキをスリーブから抜き、バラしていく。
『機甲兵の補給』? 遅い、抜き。『王家の威光』? ロマン枠、抜き。『レヴェローズ』? 論外、抜き。
「ああっ! 私の近衛兵が!」
「そ、そのカードは私とのシナジーが……!」
背後で上がる悲鳴は無視した。現代の細かい裁定は知らないが、基本は変わらないはずだ。昔を思い出しながらカードを並べていく。コストの帯域を整え、低コストの機甲兵系を厚くし、除去は腐りにくい万能札を選ぶ。フィニッシャーは……ストレージにあった中堅レアの『機甲竜』でいいだろう。
「よし、こんなもんか。……まともな方の紙束にはなったな」
完成したデッキを混ぜ、指が覚えていたままにシャッフルを重ねる。カードの擦れ合う乾いた音が、思っていたよりも素直に耳へ馴染んだ。
やっぱり、カードに触っている時間は悪くない。
「ま、組んだところで相手がいねえんだけどな。一人回しも虚しいし……おい、レヴェローズ」
「……なんだ、私を追放しておいて。総督だぞ。えらいんだぞ」
解雇通知を受けた総督閣下は、またもやいじけてそっぽを向いている。
「そこらへんのコモン束ねてやるから、壁打ちの相手しろよ。一人回しよかマシだ」
「誰が壁だ! 無礼な……!」
「おう、悪かった。壁っつーか山だな」
彼女の胸は豊満だった。
「重ねて無礼な! そもそもドゥブランコの誇りにかけて、借り物の雑な紙束など握れるか!」
レヴェローズは憤然と立ち上がると、自らの胸元──張り詰めて今にも中身が零れそうな装束の谷間に、右手を突っ込んだ。
ぎょっとして凝視するシラベの前で、そこから紫の燐光を纏う結晶じみたデッキケースが引き抜かれる。
「我らカードの精霊は、己の存在証明たるデッキをその身に宿しているものだ」
「『スパイラル・パイライト』のイラストがどう見ても胸揉んでてエロいってネタ思い出したわ。つーかそこから出すとカード温まってそうだな」
「黙れ。……契約者よ、貴様は私を『弱い』と断じたな」
レヴェローズがシラベを指差す。浮かべているのは挑戦的な笑みだ。さっきまでのみのむしはどこへやら、そこには王族の矜持が戻っていた。
「ならば証明してみせよ。貴様の組んだその紙束で、私の統率する王家軍に勝てるかどうかをな」
「ほう? やる気か」
シラベの口元も自然と緩んでいた。ただの産業廃棄物かと思っていたが、こいつは思ったよりノリがいいらしい。
堂々と仁王立ちしたまま、王女は宣言を続ける。
「ただし、タダで相手をしてやるほど私は安くないぞ。これは『決闘』だ。相応の賭け金を要求する」
「アンティかよ、古臭えな。……まあいいぜ、何が望みだ」
「私が勝ったら……」
言いかけて、視線が泳いだ。数秒の逡巡の後、意を決したように王女は叫ぶ。
「私が活躍する場を用意しろ! 具体的には、貴様のデッキに私を必ず入れ、どんな決闘でも最優先で召喚することだ!」
「うわ、重っ。呪いの装備かよ」
負ければデッキパワーがガタ落ちする縛りプレイ確定の要求だ。罰ゲームとしてはたしかに適正だが、そういうつもりで言われていないのが困る。
それでもシラベは退く気は起きなかった。長らく休んでいたとはいえ腐ってもカードゲーマー、売られた喧嘩を買わない選択肢はないのだ。
「いいだろう。じゃあ、俺が勝ったら──」
視線が迷った末に行き着いたのは、軍装を限界まで押し広げる双丘だった。ついさっきデッキが出てきた、あの未知の収納空間である。男の本能と軽い悪ふざけが、そのまま口を突いて出た。
「その乳揉ませろ」
「は?」
レヴェローズが凍りついた。
白い顔が、みるみる沸騰した薬缶の色に染まっていく。
「な、ななな、何を言って……! き、貴様、王族に対してなんと不敬な……!」
「嫌ならいいぜ。俺は飯食って寝るだけだ」
「ま、待て!」
シラベが弁当の蓋に手を掛けると、悲鳴じみた制止が飛んだ。
王女は真っ赤な顔のまま、唇を引き結んで黙り込む。羞恥か、己の価値を証明したい渇望か。天秤の軋む音がこっちまで聞こえてきそうだった。
数秒の沈黙の後、彼女は震える声を絞り出した。
「……わ、分かった。受けて立つ」
「マジで? 結構安いな、王族のプライド」
「うるさい! 勝てばいいのだ、勝てば! 私が負けるなどありえん!」
叫ぶと同時に、掲げられた結晶のデッキケースが眩い光を放った。
部屋の空気が一変する。
六畳間の薄汚れた壁紙が、デジタルな紋様の走る光の壁へと塗り替えられていく。畳は硬質なフィールドへ変わり、二人の間にホログラムめいたゲームテーブルが出現した。
「『レーラズ・フィールド』展開。戦闘結界、構築完了」
宣言に応えて、シラベの目の前にライフやマナのゲージが宙に浮かぶ。ガキの頃に少年誌で読んだ販促漫画、そのワンシーンの中へ放り込まれたようだった。
「うお……すげえ。これマジで実体化してんのか」
目を輝かせて見回すシラベの対面で、レヴェローズが不敵に立っている。背後にはドゥブランコ帝国の要塞が幻影となって聳えていた。
「驚くのはまだ早いぞ、契約者。私の真の力、その身に刻んでやる」
王女は右手を掲げ、高らかに宣言する。
「さあ、まずは先攻後攻を決めるぞ! 行くぞ、最初はグー!」
「じゃんけんかよ」
そこはダイスロールとかコイントスじゃないのか。壮大な演出と庶民的な儀式の落差に呆れつつ、シラベは拳を握った。
「じゃん、けん、ぽん!」
シラベはチョキ。
レヴェローズはパー。
「くっ! 初手から読み負けるとは……!」
「運も実力のうちだ。先攻は貰うぜ」
シラベは口の端を上げ、デッキから初期手札の七枚を引き抜く。指はまだカードの広げ方を覚えていた。
「──対戦、よろしくお願いします」
口が勝手に、染み付いた挨拶をなぞっていた。対面の王女が一瞬きょとんとして、それから居住まいを正す。
「うむ。よろしく頼むぞ、契約者」
賭け金はデッキの枠と、王女の乳。人生でも指折りにくだらねえ賭けだと言うのに、シラベの口元は緩みっぱなしだった。