会館裏手の水場に蛇口の音だけが流れている。手洗いの脇の小さな明かりには、羽虫がいくつも輪を描いていた。表の通りの賑やかさは建物一枚に遮られ、薄い膜を隔てたような音になって届いている。
そんな喧騒から遠い植え込みの前に立ったまま、キリメは動かなかった。薄暗い裏手でもはっきり分かるほど顔が赤く、口は何か言いたげに開いては、声になる前に閉じてしまう。
「あ、キリメさん」
巻き終わりの布の端を内側へ挟み込んで、ミーシャは立ち上がった。ちょうど良いところに来てくれた、という気持ちの方が先に立っていた。
キリメの顔が赤い理由をミーシャは深くは考えていない。日が落ちてもなお暑い程度に思っていた
「キ、キリメ姉、あの、これはね、その。へんなことしてるんじゃなくて」
水場の縁で立つクモンの声が裏返る。その言葉を引き取るように、ミーシャはキリメへ歩み寄った。
「クモンさんが足にお怪我をされていたんです。私が急がせるようなことを言ったせいで……今、保護できるように布を巻いていました。キリメさんは、なにか治療できるものをお持ちではないですか?」
キリメは答えなかった。
代わりに、大きく息を吸った。吸って、止めて、長く吐く。もう一度、吸って吐く。
急にどうしたのたろうか、とミーシャはクモンにも問うように視線を向けるが、クモンはミーシャの視線を受けてなぜか目を逸らしてしまう。キリメは今、深呼吸をするほど何かを抑えているのだろうか。抑えなければならない何かがあったのだろうか。
「キリメさん? どうかしましたか?」
何度目かの深い呼吸の後、キリメはようやく動いた。無言のまま両手を伸ばし、ミーシャの浴衣の合わせを掴んで、ぐい、と力づくで引き寄せ上げる。
「わぷっ」
視線を落として、ようやく気付いた。屈んで作業をするうちに合わせが緩んで、胸の谷間や先が覗いてしまっていたらしい。キリメの手がそこを覆い隠すように布を整えていく。
「……絆創膏とかなら、祭りの運営事務所にあるはずだろ。そこ行くか」
喉の奥で一度つかえてから出てきたような声だった。それから、とキリメの両手がミーシャの肩を掴む。
「あと、ミーシャ。女の子があんまり、見せるもんじゃないぞ」
笑顔だった。笑顔のはずなのに、肩に置かれた指には少しずつ力がこもっていく。
「あ、その……みっともなかった、ですよね。でも、怪我を守れそうなものが、ちょうどさらしくらいしか無くて」
「見せる、もんじゃ、ないぞ」
同じ言葉が、ゆっくり繰り返された。笑顔のまま顔が近付いてくる。明かりを背にしているはずなのに、その笑顔だけは妙にはっきり見えた。指の力も増していく。
「は、はい」
圧に負けてミーシャは頷く。
その拍子に、ふ、と鼻先を掠めるものがあった。
キリメから知らない匂いがする。甘い、とは違うが似ていて、それでいてつんと鼻の奥を刺すような。菓子の香りとも、屋台の煙とも違う。どこかで嗅いだ覚えがある気がするのに、思い出せそうで思い出せない。
考える間もなかった。キリメはぱっと手を離すと、すばやくクモンへ向かった。
「ほら、クモン。一緒に行くぞ」
「うん。……って、うわっ!? なんだよキリメ姉、抱き上げなくていいって!」
キリメがクモンの正面で屈み、膝の裏へ腕を差し入れようとしていた。クモンは逃れようとしているが、足が動かせず逃げ切れていない。
「なんだよ、別にいいだろこれくらい。足ケガしてんだから仕方ないだろ、我慢しろ」
言いながら、今度は正面から抱き合うような形で抱え上げようとする。クモンは水場の縁にしがみついて抵抗した。
「や、やめてよ! なんかキリメ姉くさいし!」
「なんだとコラ」
キリメの両腕が、がばりとクモンを抱きしめた。じたばたともがく音と、悲鳴とも文句ともつかない声が水音の上に重なる。
止めるべきかどうなのか、あまりに二人が密着していてみーしゃには割り込む隙が見つからなかった。
運ばれるか、歩くか。押し問答はしばらく続いて、最後はおんぶで手打ちになった。脱いだままの下駄をキリメが拾って、一行は表へ戻る。
裏手の暗がりを抜けると、提灯の橙色が一度に戻ってきた。その光の下、クモンはおんぶの上でも不服そうに口を尖らせている。その一方で、前を歩くキリメの横顔はどこか機嫌が良さそうに見えた。
怪我人を背負って運ぶ光景は見慣れているつもりだった。ただ、運ぶ側がこんなに嬉しそうにしているのは、初めて見る気がする。
神輿脇の長椅子ではレヴェローズが剣の玩具を片手に待っていた。戻ってきた三人に気付いて、玩具を膝に下ろす。
「おお、戻ったか。……ふむ?」
レヴェローズは、キリメの背中のクモンをしげしげと眺めた。
「相変わらず仲が良いな、お前たちは」
「なっ……な、なに言ってんだよ、レヴェさん」
緩んでいた横顔が、慌てて引き締められる。キリメはわざとらしい咳払いをひとつ挟んで続けた。
「そんなことより、レヴェさん。祭り運営の法被着てるってことは、運営側で動いてるんだろ?」
「うむ? まあ、手伝いのようなものだがな」
「なら事務所の場所も分かるよな。クモンが足ケガしちまってさ、絆創膏とか借りたくて。場所教えてくれよ」
「なに、そうなのか」
レヴェローズの目がクモンの足元の白い布巻きに留まった。
「道理で運ばれている訳だ。うむ、本部の天幕なら場所は分かるぞ。救急箱くらい置いてあるだろう。案内してやる、ついて来い」
レヴェローズは長椅子の戦利品を積み直して片腕に抱え、空いた手に持った玩具の剣を掲げて先頭に立つ。ミーシャも置いたままだった機械人形の箱を抱え上げて、その後ろに続いた。
通りはすっかり夜の顔に変わっていた。昼に駆け回ったのと同じ道のはずなのに、提灯と屋台の明かりの下では道幅まで違って見える。焼ける醤油と砂糖の匂いが人の熱気と一緒に流れてきた。明かりひとつで、道の顔つきまで変わってしまうのは何度見てもどこか面白い。
人の流れに沿って歩きながら、ミーシャはそっと息を吐いた。
『一回目』にあの言い争いが起きたのは、ちょうど今くらいの頃合いのはずだ。けれど今のところ、あの夜へ繋がりそうな気配はどこにも見当たらない。クモンの怪我は本当に申し訳ないけれど、キリメの機嫌は良さそうで、行き先は皆で同じ場所だ。
この調子なら、なんとかなるかもしれない。
その考えは、通りの半ばで途切れることになった。
初めに気付いたのは、ざわめきの変わり目だった。屋台を冷やかす声や呼び込みの声に、別の色の声が混ざっていく。見れば、通りのあちこちで人が足を止め、空を指差していた。
つられて、ミーシャも顔を上げる。
空はもう、浴衣の藍色によく似た色に沈みかけていた。西の端にだけ薄い明るさが一筋残っている。
その暮れきる直前の空を、影の列が渡っていた。
鳥の群れが列を作って飛んでいるのかと最初は思った。だが、それにしては羽ばたきのような動きがない。間隔は糸で繋いだように崩れず、小さな影たちは音もなく空を滑っていく。
その一つが、屋台の明かりの上を過ぎた。ほんの一瞬、くるくると回る小さな羽根のような輪郭が見えた気がした。
掃除の日にバックヤードの段ボールの陰で見た、カルメリエルの工作物。羽根の付いた小さな機械たちと、影のかたちがミーシャの中で重なった。箱を抱える腕に、自然と力がこもる。
「へえ、ドローンショーってやつか。今年は気合入ってんなぁ、この祭り」
キリメの吞気な声がした。
「すごい数だね。……あ、ほら、形変わった」
クモンもおんぶの上から空を仰いでいる。その言葉通り、影の列はゆっくりと組み替わって、大きな輪を描き始めていた。通りのそこかしこで感嘆の声が上がる。見上げる顔はどれも提灯の色に染まって、大人も子供も、少し似た顔になっていた。
「ほほう、見事な隊列だ。む? だが、あのような出し物があるとは聞いておらんぞ」
レヴェローズが首を捻る。
「うふふ。お褒めいただき何よりです」
人垣の間から、聞き覚えのある声がした。ピンク色の髪が人の流れを縫うように近付いてくる。
カルメリエルだった。それも、いつも浮かべている微笑みとは違う。堪えきれないものが口元から溢れ出しているような、満面の笑みだった。こんなに分かりやすい顔のカルメリエルを、ミーシャは初めて見るかもしれなかった。
「ごきげんよう。祭りは楽しんでいらっしゃいますか?」
「む、姉様。……ははん、さては、あれは姉様の仕込みか」
「ええ、ええ。ふふ、貴方からの称賛であっても心地良いものではあるのですね」
「カルメリエル様……!」
カルメリエルはするりとミーシャの隣へ並ぶと、内緒話のように身を屈めた。
「ミーシャさん。昼間はありがとうございました」
「え……あ、あの」
「回収のお話を伺って、わたくし考えましたの」
空を指差す人々をゆっくり見回して、カルメリエルは声を潜めたまま続ける。
「秘密裏に事を進めるのも楽しいものですが──いっそ堂々と飛ばしてしまえば、誰にも手出しは出来ませんわ」
「は、はあ……?」
「運営の皆様には祭りに彩りを添える奉納の余興として、正式にお認めいただきましたの。寄り合いのお顔馴染みばかりでしたので、お話も早く進みました。もっとも、皆さん出来上がってしまっていたのもありますが」
付け加えるように呟いた言葉をミーシャが聞き返す前に、カルメリエルは深々とお辞儀をする。
「これも全て、教えてくださったミーシャさんのおかげですわ。……本当に、ありがとうございます」
大袈裟に感じる感謝の言葉に、ミーシャは曖昧に会釈を返すことしか出来ない。
「ただ……」
カルメリエルが空を見上げ、僅かに眉を寄せる。
「あの子たち、照明を点ける指令をうまく受け取っていないようですのね。本当は光の隊列をお見せするはずでしたのに。今の編隊行動が終わりましたら、改めて信号を送りませんと」
ミーシャはもう一度、影の列へ目を戻した。
機械たちは夜空となりつつある暗がりを飛んでいる。半泣きのカルメリエルは今回いなくなり、その代わり道行く人はどこか楽しそうにしている。
いいのだろうか、これで。少し考えて、いいのかもしれない、と思うことにした。誰も泣いていないし、誰も怒っていない。『一回目』とも『二回目』とも違う夜だけれど、悪い方へ違っているわけではない。……ないはずだ。
そのざわめきの底に、聞き慣れない音が混ざり始めていた。
腹に響く、重い連続音。太鼓とは違う。祭りの物音のどれとも違う。振り返っても音の主は見えず、代わりに、会場のあちこちで人々が空の別の方角を見上げ始めていた。
夜空の縁で、赤い光が点滅していた。
光は近付いてくる。点滅は大きな機械に侍るように付いているのだ。風を叩き付けるような音を纏って、それは会場の空へ向かってきていた。
たしか、ヘリコプター。絵と名前だけは教わったことのある、空を飛ぶ乗り物だ。本物がこんなに大きな声で飛ぶものだとは、ミーシャは知らなかった。音もなく列を組んでいるカルメリエルの小さな機械たちの方がよほど行儀が良い。
『ハハハハハハ!! アッハハハハハハ!!』
その機体から、声が降ってきた。人の喉から出たとは思えない大きさに引き伸ばされた、それでも聞き間違えようのない高笑い混じりの美声。
ミーシャは、その声を知っている。知ってしまっている。残念ながら。
『やぁ、ミーシャくん。遅れてしまって申し訳ない。仕事を終わらせて、すぐ来るにはこうするしか無く――』
「いけません!」
ヒナタの言葉はそこで途切れた。ミーシャの隣でカルメリエルが短く悲鳴のような声を上げる。
影の列は、崩れない間隔のまま輪を描いている。大きな機体は、輪の方へ。
ふたつの軌道の先が、ひとつ所で重なって見えた。
カルメリエルが胸元から取り出した薄い機械を細い指が叩く。だがその動作の途中で、空から異音が降ってきた。
紙袋が破けるような音と、剣と盾がかち合ったような金属の唸り。そが連続して弾けた。夜空に火花がいくつも散る。大きな機械の影が傾ぎ、風を叩く音の調子が変わった。
影の尾から黒い煙が伸びていく。機体は高度を落としながら会場の空を離れ、屋根の連なりの向こうへ、見えなくなった。
数拍の静寂。遠くで腹の底を突き上げるような衝撃音がした。
続いて、爆発音。夜空の縁が、ぼうっと明るんだ。
一拍おいて、会場が割れた。
悲鳴。誰かの怒号。人波が一斉に動き始めたせいで空気すらも薄くなった気がした。ぶつかられた屋台が揺れ、頭上で提灯の列が千切れて落ちる。
「あ――あ、ぁあ――……」
逃げる人の群れなら
「掴まれ! 離れるでないぞ!」
レヴェローズが戦利品の箱を投げ捨て、ミーシャの腕を引いてキリメとおんぶのクモンごと通りの壁際へ押し込む。三人の前で両腕を広げ、押し寄せる人の流れを受け止める壁になる。
レヴェローズの腕の中で、ミーシャに出来ることはもう何もなかった。屋根の向こう、煙の昇る方角を見ていることのほかには、何も。
ヒナタに電話をしたのは、自分だ。
カルメリエルに回収の話をしたのも、自分だ。
ヒナタの名前を呼ぼうとした。押し寄せる悲鳴の中で、その声は音にならなかった。
視界の端から色が抜けていく。ミーシャを呼ぶレヴェローズの声がくぐもり、音と言葉の境目が消える。
そして、途切れた。
*
頬を、やわらかいものがむにむにと押している。
遠慮のない肉球が、四度目の朝を告げていた。