肉球は今朝も、頬から顎、それから唇、首筋の順で巡っていく。いつもなら二巡目が始まる前に、ミーシャは目を開けて挨拶をしている。
今朝は、三巡目が終わっても瞼を上げられなかった。
「んに?」
前脚が止まり、胸の上で黒いかたまりが座り直す気配がする。重さのほとんどない温かさが、居場所を作り直していた。
起きなくてはいけない。それは分かっている。
キリメとクモンが喧嘩をしたお祭りが『一回目』。二人が警察の人に連れて行かれたお祭りが『二回目』。空で機械たちとヘリコプターがぶつかって、悲鳴だらけになったお祭りが『三回目』。そして今日が『四回目』になる。
目を閉じたままでも、直前の夜のことははっきり思い出せる。夜空を渡っていく影の列。赤い点滅。降ってきた高笑い。火花と、黒い煙と、夜の底を突き上げたあの音。
ヒナタに電話をしたから、ヒナタは来てしまった。
カルメリエルに回収の話をしたから、機械たちは夜空へ上がった。
だから今日は、電話をしなければいい。回収の話もしなければいい。そうすれば二つは空で出会わないし、あの夜のような結末は来ない。頭の中ではそこまで分かっている。
それでも、体が動かなかった。
怖いのはそこではない。電話も回収の話も、どちらも良かれと思って選んだことだった。そうして選んだ道が、あんな結末を辿ってしまった。だとすれば、今日これから選ぶ一つ一つにも、同じようなトラブルが混ざっているかもしれない。どれがそうなのかは、起きてしまうまで分からない。
それに──次に間違えた時も、やり直しが効くとは限らない。朝はこれで三度も戻ってきてくれたけれど、次も戻ってきてくれるとは分からない。あんな結末の待つ一日を、今度こそ最後まで渡り切れるのか、自信がない。
それでも、いまミーシャはこうしてやり直しの朝の中にいる。布団は温かく、階下の物音は変わりなく、あの悲鳴はどこにもない。ほっとしている。
大丈夫、今日はもう一度やれる。そう思えてしまう自分が、ひどく嫌だった。あんなものを見ておいて、どうして大丈夫なんて思えるのだろう。
頬に、ざらりとしたものが触れた。
肉球ではない。小さな舌が、目尻の際を丁寧に拭っている。そうされて初めて、涙が零れていたことに気付いた。
「なぅーん、んるるんにゃぅるるんぬ」
大穴が、何かを言い聞かせるように鳴いた。鳴き声はまるきり猫のもので、意味はひとつも取れない。それでも慰められていることだけは、なぜだか分かった。
「……ありがとう、ございます」
ミーシャは寝転んだまま、両腕を黒い毛皮へ回した。
「るるんぐる」
抱いた胸の中で、喉の音が返事のように鳴る。規則正しい振動に合わせて、詰まっていた息が少しずつほどけていった。
階下の物音は今朝も同じ道筋を辿っている。棚の脚が床を擦る音。台車の車輪の音。レヴェローズの声が神輿の段取りを高らかに請け負って、表の戸が開いて、閉まった。
しばらくそのまま、大穴の温かさに甘えていた。前回の早さを求めた動きよりも、今はもう少し立ち止まっていたかった。
やがて、廊下から足音が近付いてきた。静かに揃った歩みが部屋の前で止まって、戸がすっと開く。
「ミーシャさん?」
カルメリエルだった。腕には畳んだ布──ミーシャの浴衣を抱えている。布団に猫と寝転んだままのミーシャを見付けて、戸口の姿がわずかに傾いだ。
衣擦れの音をさせて、カルメリエルが布団の脇に膝を折る。浴衣を静かに畳へ置くと、白い手が伸びて、ミーシャの目元にそっと触れた。
「……どうか、なさいましたの」
濡れた跡を、指の背が確かめるようになぞる。問い掛ける言葉は、いつも通り上品な調子のまま、それでもはっきりと心配の色をしていた。
ミーシャは、すぐには答えられなかった。
話せば巻き込むことになる。また何かトラブルを招きかねないし、カルメリエルは事故の一因となった相手だ。
でも。一人では、どうにもならなかった。それが『三回目』で分かったことだ。ヒナタに聞き、レヴェローズに助けられたこと自体は、間違いではなかったはずだ。
ミーシャは大穴を抱いたまま、布団の上に身を起こした。
「カルメリエル様。……ご相談したいことが、あります」
「ええ。伺いますわ」
中身を聞くより先に、カルメリエルは居住まいを直して、ミーシャとまっすぐ向かい合った。
同じお祭りの日を繰り返していること。一回目、二回目、三回目の行動のそれぞれと、その顛末。説明の途中に、カルメリエルはほとんど口を挟まなかった。相槌は静かで、いつもは細くしている緑の瞳が薄くミーシャを見つめている。機械についての話が出た時には、その目が僅かに開かれた。
「その機械は──羽根が四枚で、手のひらに載るほどの大きさでした?」
「は、はい。お掃除の時に店の奥で見つけた物とそっくりでしたから」
「…………続けてくださいまし」
もう一箇所、声が挟まったのは『三回目』の夜の話に差し掛かった時だった。堂々と飛ばしてしまえば誰にも手出しが出来ない、奉納の余興として運営に認めてもらった──ミーシャがそこまで話したところで、カルメリエルの口から小さな声が漏れた。
「まあ……堂々と飛ばしてしまえば、誰にも……なんて名案」
「カ、カルメリエル様……?」
「──失礼いたしました。続きをどうぞ」
挟まれた咳払いはたいへん上品だったが、ミーシャの背中を嫌な汗がひとつ伝った。この話をすること自体が、新しいトラブルの種になっていたりはしないだろうか。
それでも、隠さず知っておいてもらうために、ミーシャは最後まで話した。機械の列とヘリコプターがぶつかったこと。爆発と逃げ惑う人たち。そこで目の前が暗くなって、気が付いたら今朝の布団の中にいたこと。全部だ。
話し終えて、ミーシャは頭を下げた。
「それと……『三回目』の私は、カルメリエル様に嘘を吐きました。回収のお話は、本当はその前の日に立ち聞きしただけで、あの時は何も聞いていませんでした。……ごめんなさい」
「あらあら」
困った子を見る顔のまま、カルメリエルは小さく笑った。
「その謝罪はわたくしではなく、『三回目』のわたくしが受け取るものですわね。……ふふ。我ながら、不思議な言い回しですこと。それに、おそらく辿る道筋が同じであったなら、同様に回収騒ぎになっていた事でしょう。嘘とまで思わなくてもよろしいのではないかしら」
それきり、カルメリエルは黙った。頬に指を添えて、微笑みだけを浮かべている。何を考えているのかは外からは少しも読めない。
「──分かりました」
やがて、カルメリエルは頷いた。
「信じる信じないのお話でしたら、もう済んでおりますわ。あの子たちを山へ運んだことは、この家の誰にもお話ししておりませんの。ミーシャさんが知るはずのないことを、ミーシャさんが知っている。それで十分ですもの」
それに、と続いた声が、少しやわらかくなる。
「今日はヒナタ様ではなく、わたくしに話してくださった。それがちょっとだけ、嬉しいですわね」
「カルメリエル様……」
「一緒に、解決していきましょう」
ヒナタも、カルメリエルも、自分をこうして信じてくれる。頷いた拍子にまた目尻が熱くなりかけて、ミーシャは慌てて大穴の毛皮に顔を埋めた。
「なうん」
「ふふっ。つきましては、ミーシャさん」
カルメリエルは畳の上の浴衣を手早く整え直しながら続けた。
「これから、山まで付き合ってくださいますか? 確認しておきたいことがございますの」
「や、山、ですか? あの、確認というのは……」
「ええ。あの子たちは飛ばす際に灯りを点ける筈ですのに、ミーシャさんのお話では点いていなかったご様子。それが事故の一因やもしれませんので、確かめておきたいのですわ」
カルメリエル自身の仕掛けなのだから、そこは気に掛かって当然だろう。しかし、ミーシャ自身にも、今回はまだ出来ることが残っている。
「でも、私はクモンさんのところへ行かないと。今度こそお怪我をさせないで、キリメさんより早く待ち合わせに着いてもらえるようにしないといけなくて」
「ご安心なさいませ」
カルメリエルは胸の前で軽く手を合わせた。
「今でこそ彼のお心はわたくしから離れてしまいましたけれど──彼がカルメリエル十字軍の一員であることに、変わりはございませんの」
「くるせいだー……?」
問い返すより早く、カルメリエルは胸の谷間からスマートフォンを取り出して操作をした。
「──ごきげんよう、クモン君。カルメリエルですわ」
機械の向こうから、ひっくり返った声がかすかに漏れた。
「ふふ、そんなに畏まらなくてもよろしいのに。……あら、宿題の最中でしたの。感心なことですわ。お邪魔してごめんなさいね、少しだけ世間話にお付き合いくださいまし」
世間話、と言った通り、話は祭りの人出やら、宿題の進み具合やらをゆっくりと巡っていく。それからカルメリエルは、ごく何気ない調子のまま、すっとその一言を滑り込ませた。
「そういえば、今日はこの夏一番の暑さになるそうですのよ。お祭りは夜まで長うございますし──履物は、慣れない下駄よりも、履き慣れた運動靴になさいませな」
機械の向こうで、声が何かを言い淀んだ。浴衣に、と聞こえた気がする。
「浴衣に運動靴でも大変結構ではありませんの。下手に慣れない装いで怪我でもしてしまうと、殿方の格を下げますわ。キリメ様にもそのような姿は……いえ、ええ。ええ、そうなさいませ。それでは、良いお祭りを」
電話を終えたカルメリエルは、胸元にスマートフォンを差し込んで戻す。
「これで問題ありませんわ」
「こ、これでですか?」
「ええ。履き慣れた靴なら怪我の心配もなく、道を急ぐのも造作ありませんもの。あの子は素直ですから、こうして忠告しておけば年上の言うことはちゃんと聞きますわ」
ミーシャは、すぐには言葉が出なかった。『三回目』の自分がどうにかしようと駆け回ったあれこれを、ついさっき聞いたばかりの話をもとに、電話一つで収めてしまった。
「……すごいです、カルメリエル様」
「これくらいなら、ミーシャさんもスマホを持っていれば簡単に出来ますわ。今度ミトラ様におねだりしましょうか」
「おねだりなんてそんな、私に勿体ないですよ」
「ふふっ、ミトラ様なら喜ぶでしょうに。さぁ、ミーシャさんも支度をなさって。山道ですから、足回りは歩きやすい恰好にしましょう」
「は、はいっ」
腕の中の大穴を布団へ下ろすと、大穴は名残を惜しむようにひと鳴きして、枕の隣へ移っていった。ミーシャは寝間着を脱ぎ、急いで着付けを開始した。
一階は今朝も搬出の忙しさの中にあったが、カルメリエルが先に立って声を掛けると、話はあっという間に付いてしまった。
「ミーシャさんを少しお借りしますわね。お祭りの前にこそ出来る社会科見学もあると思いますので」
「ふーん……あんたは交代までには帰って来なさいよ。ミーシャ、朝ごはんは?」
「こ、これから食べます!」
「悪い、そこのパンと卵焼きだけな。麦茶も持ってけ」
長机の端の朝食を、行儀が音を上げない速さで平らげた。履き慣れた靴の紐を結んでから、シラベが用意した麦茶の水筒を首に下げる。
前回はもっと慌ただしく動いていたところだったのに、こうも早く時間を作れたあまりの呆気なさに力が抜けそうになる。大人が隣にいるというのはこういうことらしい。
表に出ると、通りは祭りの支度の音で満ち始めていた。その流れに背を向けて、二人は歩き出す。
「さぁ、参りましょうか」
カルメリエルが白い日傘を開く。その影は、ミーシャの肩の上まで届いていた。