朝の会場は、まだ祭りの形になりきっていなかった。
屋台の骨組みは揃っているが、布看板の掛かった店は数えるほど。通りのあちこちで金槌の音と荷下ろしの掛け声が行き交っている。会館の方からは、神輿を据える男衆の声が風に乗って届いていた。レヴェローズもあの中にいるのだろうか。
白い日傘を差したカルメリエルは、その騒がしさの間を迷いなく進んでいく。てっきりまっすぐ山へ向かうものと思っていたミーシャは、隣で首をかしげた。
「あの、カルメリエル様。山へは……」
「ええ、参りますわ。その前に、ひとつだけ寄り道を」
日傘の先が広場の端を指した。白い天幕が張られ、下に長机がいくつも並んでいる。運営本部と書かれた天幕が見えて、ミーシャにも分かった。『三回目』の夜、とうとう辿り着けなかった場所だ。
近付くにつれ、中の賑やかさが聞こえてきた。まだ早いというのに天幕の下では年配たちの笑い声が幾重にも重なっている。寄り合いで見た顔ぶれも、長机を囲んでプラスチックカップを傾けていた。
「おや、玩具屋さんとこのだ」
「シスターの姉さんに、ちっちゃい別嬪さんも。どうしたね、ご相伴に与ろうって?」
「そりゃお前だろうが、こん呑んだくれが!」
勝手に賑わっていく天幕にカルメリエルは日傘を畳んで踏み込み、いつもの微笑みで一礼した。
「ごきげんよう、皆様。本日は良い祭り日和で──」
そこから先は、ミーシャにはただ見事としか言えなかった。会長と呼ばれる恰幅のいい年配を軸に、天幕の顔ぶれへ順々に言葉を配り、支度を労い、去年の秋の神輿の話でひとしきり笑わせる。
シラベであればその人心掌握の手管に薄ら寒く感じるところだが、ミーシャは純粋に尊敬するしかなかった。そのミーシャも、挨拶の間に手のひらへ誰のものとも知れない飴が二粒、いつの間にか載せられていた。
そうして場があたたまりきった頃合いに、すっとその話題は差し込まれた。
「そうそう、皆様。今夜、ささやかな余興を空へ上げたく思っておりますの。祭りに彩りを添える、奉納のようなものと思っていただければ」
「おお、いいねえ。ドローンって奴だ」
「今時じゃないの。派手にやっとくれよ」
頷き合いは、それで終わりだった。書き付けの一枚も出ないまま、天幕の中では「夜が楽しみだ」の声まで上がっている。
ミーシャの背中に、じわりと汗が滲んだ。暑さのせいだけではない。あの夜空へ繋がる話が、こんなにあっさり通ってしまっていいのだろうか。
ただ、今回のこれは、カルメリエルが全部知った上で自分から選んでいることだ。きっとこの賢い人ならなんとかしてくれる。そう思い直して口をつぐんだ。
天幕には、入れ替わりに人が出入りしていた。若い人たち──ミーシャよりは上だが、シラベよりは若い者たちが両手に包みや袋を提げて、屋台の方から頼まれ物を運び込んでくるらしい。受け取った年配が黄金色の液体を注いだカップを掲げて何かを勧め、若者が笑いながら断って、また出て行く。
その出入りの中に、見覚えのある金髪があった。
キリメだ。浴衣ではない。そっけない半袖のシャツ姿で大きな紙袋を提げ、慣れた様子で長机の端へ中身を並べている。
ミーシャは思わず見入ってしまった。キリメ姉は付き合いがあって先に行った──『三回目』にクモンから聞いた言葉が頭の中で結び付く。その言葉から会場にいたことは知っていた。けれど、こうして働いていたなんて聞いていない。一回目も二回目も、ミーシャの知らない朝に、キリメはここでこうしていたのだろう。
「ミーシャさん。どうかしましたか?」
カルメリエルが小声で聞いてきた。ミーシャも囁きで返す。
「キリメさんです。その……お話しした、告白の」
「まあ。ああ、確かにあちらに。なるほど」
カルメリエルの微笑みが、すっと薄くなった。糸のような目がカップの並ぶ長机と、紙袋を畳むキリメとを順に辿る。
「…………ふむ」
何かを数え終えたような声だった。それきり説明もなく、カルメリエルはキリメの方へと歩き出す。
「ごきげんよう、キリメ様」
「うおっ!? ……なんだ、カルメリエルさんか。びっくりした……って、ミーシャまで。なんであんたらが朝からここに」
「ちょっとした社会科見学ですわ」
「なんだそれ」
「お、おはようございます、キリメさん」
「おう」
キリメは空いた手を上げて返し、あらためて二人を見比べた。その視線がミーシャの浴衣に留まる。
「ミーシャ、もう浴衣かよ。気合入ってんな」
「き、着る練習も兼ねて、です」
「キリメ様は、お仕事ですの?」
「ん? ああ。バイト先がここに店出しててさ、アタシは昼まで手伝い。つっても雑用がほとんどでさ。いまも届けて、並べて、空いたのを下げるだけの楽な仕事じゃん」
言いながら、キリメは長机の端の空いたカップを手早くまとめていく。その手つきをカルメリエルはにこにこと眺め──それから、ごく自然な動作で、ミーシャの首から水筒の紐を持ち上げた。
「キリメ様。こちらを、どうぞ」
「あん?」
差し出された水筒を、キリメは受け取るともなく受け取ってしまい、まじまじと見下ろした。
「なんだよこれ」
「麦茶ですわ。今朝、店で淹れたものですの」
「いや、貰う理由がないんだけど」
「今日は暑くなりそうですから。水分補給は欠かさず、どうぞ」
それはもう、聖女の微笑みだった。押し返す隙のない笑顔に、キリメは水筒とミーシャを二、三度見比べ、結局、首をかしげたまま紐を肩に掛けた。
「……ま、くれるって言うならありがたく貰っとくけど。変なこといきなり言うんだな」
「ふふ。よく言われますわ」
じゃあな、と手を振って、キリメは次の届け物へ戻っていった。半袖の背中が人の間に見えなくなるまで、カルメリエルは笑みを崩さなかった。
天幕を離れて、二人はあらためて山への道を歩き出す。会場の外れ、道の脇の自動販売機の前でカルメリエルは足を止めた。小銭を入れ、冷えたお茶のペットボトルを一本、ミーシャに握らせる。
「水筒の代わりですわ。ごめんなさいね、勝手をいたしました」
「い、いえ。それは構わないんですけど……あの、どうして、キリメさんに水筒を?」
カルメリエルはすぐには答えず、日傘の柄を肩に預けて、短い間を置いた。
「一応の、保険ですわ」
「ほけん……?」
「ええ、備えです。あれで防げるとは思っておりませんけれど、出来ることはしておきたいですから」
何から防ぐのか、は教えてもらえなかった。代わりにカルメリエルはミーシャの顔を覗き込み、いつもより一段やわらかい声で付け足した。
「ミーシャさんも、お気を付けになってね」
「は、はい……?」
何に気を付ければいいのかも、分からないままの返事になった。ただ、カルメリエルが天幕の方を一度だけ振り返って、それきり何も言わなかったので、ミーシャもそれ以上は聞かないことにした。
自動販売機から出たばかりのお茶は、指が痛いくらいに冷えていた。
*
山の上の境内には、蝉の声が絶え間なく降っていた。
『二回目』には下駄を脱いで忍び登った石段も、履き慣れた靴で真昼前に登ればどうということはなかった。夜には影の塊にしか見えなかった二本柱の門も、獣を象った石の像たちも、日の下ではただ古びて静かなだけだった。
その静けさの中で、カルメリエルだけが忙しい。
神輿とどこか形の似た建物──本殿だの本堂だのと呼ぶのだと、石段の道すがらに教わった──その裏手、茂みの陰から引き出した箱を開けて、カルメリエルは敷いた布の上に小さな機械を一つ、仰向けに寝かせていた。バックヤードで見たものと同じ、四枚の羽根の付いた機械だ。
白い指と細い金具のような道具が、その上を滑るように動く。留め具が外れ、羽根が外れ、殻が外れ、中の細かな部品が布の上へ整然と並んでいった。
速い。台所で魚の下拵えをしている時もこれほど速くはないだろう。ミーシャには外された部品のどれ一つとして名前が分からないが、カルメリエルからは一緒に見ておくようにと言わんばかりの目線をもらい、機械が骨と皮と臓腑とに分けられる姿を眺め続けた。
やがて、カルメリエルの襟の後ろから黒く細い線がするすると伸びてきて、その先が機械の中へ差し込まれた。カルメリエルは目を伏せ、動きを止める。眠っているようにも見えるけれど、伏せた瞼の下で、視線だけが何かを読むように動いていた。
線で機械と繋がる姿は初めて見るものだったが、驚きはあまりなかった。カルメリエルなのだからそういうものなのだろう。
ミーシャは日傘を作業するカルメリエルの上へ差し掛け続ける。今のところ、役に立てるのはこれくらいしかない。
どれほどそうしていたか。線が音もなく戻っていき、カルメリエルが顔を上げた。
そして、長い息を吐いた。
「…………はぁ」
「カ、カルメリエル様?」
「わたくしとしたことが。──失態、ですわね」
珍しいものを二つ続けて見てしまった。溜め息と、その言葉と。
「照明を司る回路の造りに誤りがございましたの。一基のみ動かすなら問題無かった所が、編隊モードでは同期が取れていないままとは。試験飛行というものの重要性が分かりますわ」
そこから続くカルメリエルの説明はよどみなかったものの、ミーシャには半分も分からなかった。それでも、肝心なところだけは分からないなりに分かる。
「直せる、ものなんですか」
「ええ。原因さえ分かれば、あとは手を動かすだけですもの」
カルメリエルは部品を手早く組み戻しながら、いつもの調子を取り戻していく。
「今夜も飛ばすんですか? その、先ほどお許しをいただいていましたけど、皆さんあまり深く考えていなかったような……」
「直り切らなければ、飛ばしませんわ。灯りの点かない子を夜空へ上げてはいけないと、よくよく身に沁みましたもの」
組み上がった機械を箱へ戻し、蓋を閉める。それから、カルメリエルは膝の埃を払ってミーシャへ向き直った。
「ですが。せっかく準備をしたのですから、諦めるというのは惜しいと思いませんか?」
少し嫌な予感がしたけれど、答えの前にカルメリエルは胸元から折り畳んだ紙を取り出した。
「ミーシャさん。こちらを」
「これは……?」
「見て覚えたら処分します」
受け取って、開く。書かれていたのは、たった二つの言葉、『改宗者』『底なし亭の聖女』だけだった。
「かいしゅう──」
「お声に出すのは、その時までお預けですわ」
白い人差し指が、唇の前に立てられた。
「その時……?」
「次に、同じ朝へ戻ってしまった時のことですわ」
ミーシャは目を見開いた。今から周回してしまった時のことを考えておくなんて、どこまで先を見ているのか。いやそもそも、なぜ今聞かせた言葉が役立つというのか。
「わたくしの力が入り用になりましたら、その二つの言葉を本人から聞いたと前置きしたうえで、わたくしの耳元で囁いてくださいまし。そうすれば、こんな山までお付き合いいただかなくとも、わたくしはその場でミーシャさんに全面的なご協力をいたしますわ」
「……?」
ミーシャは紙とカルメリエルとを見比べた。意味が理解出来ない。どういうことなのか。
「あの。どうして、この言葉で……?」
「…………」
黙り込むカルメリエル。その頬に、うっすらと赤みが差していた。
「……その二つと、わたくしとを結び付けている者に──わたくしは、逆らえないことになっておりますの」
「はあ……」
「それ以上は、聞かないでくださいまし。ね?」
有無を言わせない念押しだった。分からないことだらけだったけれど、関係者だけが分かる合言葉と思えばそれほど不思議はない。きっとそういう約束事なのだろう。
ミーシャは紙面をもう一度だけ目でなぞり、宝物の缶へ仕舞うように、胸の内で二つの言葉を繰り返して覚え込んだ。頷いて差し出すと、紙は白い指に回収され、細かく畳まれ、さらに細かく破かれて──紙片はどこかへ消えた。
「これで、よし。……さて、ミーシャさん」
箱を茂みの陰へ戻したカルメリエルが、日傘の影の中へ入ってくる。
「これからは対外的なことは、どうぞわたくしにお任せくださいまし。そちらは大人の仕事ですわ」
「は、はい」
「その代わり──」
緑の瞳が、糸目の間からちらりと覗いた。
「ミーシャさんには、ボトムレスピットで、やっていただきたいことがございますの」
「わ、私に出来ることでしょうか」
「ええ。おそらくミーシャさんにしか、出来ないことですわ」
カルメリエルの言葉に、ミーシャは唾を飲み込んでいた。