店の裏手の路地は表通りの賑わいからそう離れていない。それでもミーシャが通るそこは、不思議と静かだった。
昼下がりの日差しが地面を白く灼くなか、ミーシャは裏口の戸をそっと開き滑り込む。バックヤードの空気は昼の熱を溜めてむっとしていた。
カーテン一枚向こうの店側から、冷房の涼しさがかすかに染みてくる。自分の家なのに忍び込むような気持ちになるのは、どこか奇妙な感じがする。
棚の並びの奥、段ボールの陰になった一角には小さな机がある。カルメリエルの作業机だ。掃除を任された時には近寄らずにいた場所へ、今日は真っ直ぐ手を伸ばす。
机の上には、聞いていた通りの機械が置かれていた。
デッキケースを二つ並べた程度の大きさの黒い箱。上の面には小さなモニターとスイッチがいくつかあり、横の面にはカードを差し込むための細い口が開いている。肩から提げられるよう、太い紐まで付けてあった。
ミーシャはそれを首から下げて、カーテンの方へ向かう。
店側へ出ると冷えた空気が首筋を撫でた。在庫置き場になった長机の間を、表のガラス戸から入る明かりだけがうっすらと照らしている。
その表からは、ワゴンに並ぶ客たちの賑わいが届いていた。子供のはしゃぐ声。客あしらいをするシラベとミトラの声。表は表で平穏に回っているらしく、ミーシャは安堵の息を漏らす。
カウンターの傍にはショーケースの小さな鍵が置かれていた。今日一日出番は無かったはずだが、今回は使わせてもらう。前にぞんざいな扱いをしたレヴェローズが叱られていたし、大切なものだとは分かっている。勝手に使う罪悪感はあったが、今ばかりはこれが必要だった。
ショーケースの中で、その一枚は目立たないよう片隅の場所に飾られている。
『賭博都市の女帝、レディ・ローマ』。
長銃を構えた、艶やかな婦人の絵。音を立てないように鍵を開けると、ガラス戸の向こうからミーシャはそれを取り出した。
これはレヴェローズやカルメリエルと同様に、精霊を宿したカードなのだという。
けれど、何度眺めてみても実感は湧いてこなかった。レヴェローズたちのカードなら中身の本人をよく知っているし自己主張が激しい。だが手の中の一枚には、彼女らから感じるものがない。ただ綺麗な売り物のカードにしか見えなかった。
それでも、役に立ってくれるのはこの一枚だけなのだという。首から下げた装置の細い口へとカードを滑り込ませる。小さな手応えの後、電源のスイッチに指を掛けたまま、ミーシャは山での話を思い返していた。
*
「ミーシャさんは、この繰り返しをどう思っていらっしゃいますの?」
「どう、というと……」
「憎らしいのか、ありがたいのか。ミーシャさんの目に、これがどう映っているのかですわ」
すぐには答えられなかった。改めて言葉にしようとすると、胸の中にあるものは思いのほか形が定まっていない。
「……最初は、怖いだけでした。でも今は……私の失敗を、挽回する機会なんだと思います。それに……」
「それに?」
言葉にしながら、頭の中を整理していく。
「後悔したままで、終わらないための……そういう機会でもあるのかな、って」
『一回目』の喧嘩も、『三回目』の墜落も、やり直してもらえたからこそ取り返しがついている。ミーシャにとってそれは、助けられているようなものだ。
「なるほど。──では、恐らくですけれど」
カルメリエルは、静かに言った。
「ミーシャさんが危惧するあらゆることを解決した上で一日を終えたところで、これは繰り返しますわ」
「……え?」
「どれだけ最良の一日を送ろうとしたところで、後悔や未練は必ずどこかに残るものです。今日という日を百点で終える方法なんて、誰にも分かりませんもの。それにもしかすると、祭りそのものに未練があるからこそ繰り返してしまう、という恐れもございます」
「祭り、そのもの?」
「ええ。この楽しい時を永遠に、と。その場合、ミーシャさんがどう過ごそうと、祭りの日は終わりませんわね」
否定の言葉を、ミーシャは言えなかった。今までの繰り返しの中で悲喜それぞれあったとしても、楽しいと抱いた思いに嘘は無かった。
もし何も憂いなく祭りを過ごした時、それを笑顔で見送るだけで済むだろうか。もっと、とねだりたい気持ちをまったく抱かないでいられるか。
「それと、もうひとつ。この現象を起こしている何者かに意思があるのでしたら、何が起ころうとも、わたくしどもは閉じ込められたまま、ということもあり得ますの」
うまくやればそれでいい。失敗さえしなければいいのだと、心のどこかでそう思い込んでいた。足元がすっと薄くなるような心地がして、ミーシャは日傘の柄を握り直した。
「で、では、どうすれば……」
「そこで。ミーシャさんには、探し物をお願いしたいのです」
頭の上では蝉が相変わらず鳴き通し、じっとしているだけで肌がじわりと汗ばむなか、カルメリエルはにこりと微笑む。
「探し物……ですか?」
「ええ。この日を幾度も引き戻している何者かを、ですわ」
カルメリエルの物言いは、暑さとは別の場所にいるように涼しいままだった。
「時を巻き戻すなどという御業は、並の人間にはもちろん出来ることではございません。あるとすればわたくしと同じ、カードに宿る精霊の仕業。恐らく、ですけれど」
「カードの、精霊……」
「ミーシャさんに囁いたのが何者なのかは、まだ分かりません。しかしそれが本当に精霊なのでしたら、必ずカードがあるはずです。この祭りの、どこかに」
祭りのどこかと言われても、カード一枚を探すとなるとあまりに範囲が広すぎる。
「そのための道具が、店にございますの」
ミーシャの不安を汲み取るようにそう言ったカルメリエルは、茂みの陰からもう一つの箱を引き出してきた。敷き直された布に、小さな機械が仰向けに寝かされる。
「……あの、まだ作業を?」
「ええ。お話は、手を動かしながらでも出来ますもの」
機械の留め金を外し始めるのを、ミーシャは日傘の影がその手元へ届くよう、そっと持ち直しながら見守った。
「バックヤードの奥に、わたくしの作業机がございますでしょう。あそこに精霊を宿したカードを探すための、探査装置を出したままにしてあったはずです。あれをミーシャさんにお貸しします」
「そんなものまで、作れるんですね……」
「以前、店に招かれざる精霊が入り込んだことがありまして。ああいう手合いに次はいち早く気付けるようにと作成していました。ただ白状いたしますと、まだ未完成なんですの」
カルメリエルは機械を触りながら説明していく。
「探せるのは精霊そのものではなく、カードのみ。そして探すためには照合するための媒体として、精霊のカードを一枚収めておかなくてはなりません。また、探知の範囲は広くありませんので、広い範囲を調べるなら歩かなければいけません」
「精霊のカードというと、カルメリエル様のをお母様に借りる必要があるんでしょうか」
「いえ、ミトラ様のお手を煩わせる必要はありません。ショーケースの隅に一枚だけ飾られている、レディ・ローマというカードがございますでしょう?」
「え? えーと……」
毎朝あの硝子は拭いているけれど、飾られたカードを一枚ずつ眺めたことはなくて、名前から思い出そうとしても絵柄は浮かんでこなかった。
「『賭博都市の女帝、レディ・ローマ』。あれは実は、レヴェローズやわたくしと同じ、精霊を宿したカードなのです」
「ええっ!?」
思わず大きな声を出すミーシャ。カルメリエルもその反応を予想していたのかうんうんと頷いている。
「そんなカードが、どうしてショーケースに?」
「一年ほど前、ヒナタ様が絡んだ騒動がございましてね。紆余曲折あり、あそこに飾られています」
「そうだったんですか……知りませんでした」
「ふふ、シラベ様もミトラ様も呑気に飾ってあるだけですものね。──ゆえあって、宿っている精霊は表へ出てこられません。ですから、怖がることはございませんわ。あれが精霊を宿すカードである、それだけ覚えていらっしゃれば十分」
表へ出てこられない。その経緯に興味は惹かれたが、今はそれどころではないとミーシャは頷くだけにした。
「レヴェローズのカードはシラベ様が、わたくしのカードはミトラ様がお持ちです。大穴のカードは……本人が飲んでいるのかしら。ともかく、あれなら自由に動かせます。具体的なカードの使い道は──」
そこからカルメリエルは、装置の使い方を教えていく。電源の投入方法。モニターの見方や変更のやり方。いつもの授業同様、カルメリエルの教え方はミーシャの耳によく馴染み、実物がなくとも十分に理解させた。
「先に申し上げておきますと、家の中では初めから三つ映りますわ。シラベ様とミトラ様がお持ちの二枚。それから大穴の分がどこかに一つ。この三つはいてくれなくては困りますから、数に入れておいてくださいまし」
「わ、分かりました。それで、どこから探せば……」
「装置に慣れがてら、今日はまず店とその周りから。会場は広いですから、順々に、ですわ」
ミーシャは頭の中で、祭りの案内図を思い浮かべる。通りの端から端。屋台の並び。会館の周り。もしこの山まで入れたら、とても今日一日では回り切れない。
「あの……全部を回るのに、今日一日で終わるでしょうか」
「いえ、終わりませんわね」
カルメリエルの言いように、ミーシャはびくりとする。
「ですから。次の朝がまた来てしまいましたら、合言葉をわたくしに伝え、今日のようにやるべきことを任せて、ミーシャさんは捜索の続きを行ってください。その次も、またその次も。見つかるまで、探してください」
それは、ミーシャも薄っすらと考えていたことでもある。この繰り返しが途中で終わらず、ずっと続くのであれば、繰り返し続ければいつか望む形を掴み取れるのではないか。だがそれをやるためにどれだけの時間を費やすか、どれだけ良くない結末を見るか。
カルメリエルはあっさりと、それをしろという。ミーシャは初めて、目の前の女性がレヴェローズに警戒されている理由に触れた気がした。
「わたくしどもは、繰り返すたびに忘れてしまいます。ですからどうぞ、わたくしのことは道具とお思いになって、繰り返すたび遠慮なくお使いなさいな」
「道具だなんて……」
「あら、頼りにされるのは好きですのよ、わたくし。道具扱いも慣れておりますし」
ころころと笑うカルメリエルは気軽だが、頼る側からすると気遣いもしたくなる。一体どれだけ迷惑を掛けてしまうのか分からないというのに。
「それに。ミーシャさんだけにお任せするのは歯痒い思いもありますから」
ぼそりと付け加えた後、カルメリエルは居住まいを正した。
「徒労に終わる朝もあるかもしれません。何日探しても、何も見つからないかもしれません。それでもよろしくて?」
手にしていた部品を布へ置いて、カルメリエルはミーシャへ向き直る。問いの形はしていても、試すような響きはなかった。先に知っておいて欲しい、というだけの声だった。
やり直しの朝が来るかどうかも分からないうちから、来てしまった時の段取りを整えておく。この人の備えは、一歩どころか、一周先まで届いている。そしてその備えは今、全部ミーシャのために並べられている。
「……やります」
ミーシャの言葉は、思いよりも早く出てきた。
「私にしか出来ないんですよね。だったら私、何回かかっても、探し続けてみせます」
「その意気ですわ」
カルメリエルは目を細め、それから、すっと真顔になった。
「最後にお約束をしてください。何かを見つけましたら、お一人でどうにかしようとなさらないこと。わたくしでも、シラベ様でもミトラ様でも、レヴェローズでも構いません。必ず、どなたかへお伝えなさいまし」
「……皆さんに、どこまでお話しすれば?」
「その時にお考えになればよろしいのです。一人で抱えることだけは、なさらないで。よろしいですわね?」
「は、はい。約束します」
頷いたミーシャの頭を、白い手がゆっくりと撫でていった。
話は済んだ。あとは店へ戻って始めるだけ。そのはずだったが、当のカルメリエルは立ち上がる様子はなく、早くも次の機械へ手を伸ばしている。
「ところでカルメリエル様、お店の方には戻らないのですか?」
「わたくしはこの子たちのお世話をする必要がありますので」
当たり前のことのような返事だった。交代までには帰って来なさいとミトラに言い付けられていたはずの人は、機械を膝に載せて実に楽しそうだ。
対外的なことはお任せを。あの頼もしい言葉を、ミーシャは少しだけ疑うことにした。
境内を後にして、一人で石段を下りる。
中ほどの木々の切れ目で、視界が開けた。見下ろす先に町が広がっている。通りに沿って屋台の屋根が列を作り、その間を人の流れがゆっくり動いていた。風に乗って、支度の物音とだれかの張り上げる声が届く。
あの端から端までを、この足と、狭いという探知の範囲で探していく。長い探し物になるかもしれないけれど、やるしかない。
石段を下りきる頃には、蝉の声より祭りの音の方が近くなっていた。