二階の相部屋は階下より一段と暑い。開け放した窓から祭りの支度の音が遠く届くなか、ミーシャは畳の上に膝をついていた。
「大穴さん、大穴さん、起きてください」
声を掛けながら、布団の上で丸くなっている黒い体をそっと揺する。手のひらが沈む毛並みは相変わらず柔らかく心地が良い。
揺すっている手は自然と撫でる手になっていく。耳の間、首の後ろ、背中。場所ごとに手触りが少しずつ違う。耳の間は短い毛がくすぐったく、首の後ろが一番ふわふわで、背中は撫でるほどつやが出る。丸まっているせいでどの場所も近くにあるものだから、指が勝手に行ったり来たりを始めてしまう。
「……んぁぅ」
しばらくそうしていると、丸まっていた体がもぞりと動いた。不機嫌を隠さない声とともに、星屑の瞳が薄く開く。
「す、すみません。おやすみのところ。でも、大事な用なんです」
ミーシャは首から提げた探査装置を持ち上げ、モニターの面を大穴へ向けた。
「これは、精霊の宿ったカードを探す機械……なんですが」
「ふぬん……なぁ……」
大穴は大きな欠伸で応えた。話を聞く気配はあまりない。それでもミーシャは続ける。
「レディ・ローマという方のカードをここに収めているので、この家の中ではレヴェローズ様とカルメリエル様、それと大穴さん三人分しか見えないはずなんです。なのに反応は4つと出ていると書いてあって」
モニターには反応数を示す数字は4と表示されている。だが装置を中心とした位置表示を見ると、光点は少し離れたところに2つと、機器のすぐ近くに1つ。
離れている2つはドゥブランコ姉妹のものだと分かる。至近のものは大穴だが、それだけでは数が合わない。
「よく見てみたら、大穴さんのところで反応が重なっているみたいなんです」
大穴と思われる部分の光の点をじっと見ると、他の2点よりも光の具合がどうもおかしい。それ以上は機械に詳しくないミーシャには分からなかったが、大穴の習性を考えると一つの可能性が出てくる。
「大穴さん。なにか、カードを飲み込んでいませんか?」
大穴が何でも呑み込んでしまうことはミーシャも知っている。もしかすると誰も知らないうちに、そういうカードをお腹に収めてしまっているのではないか。
「…………にゃ」
大穴は心底眠たそうにミーシャを見上げ、それからごろんと横に転がり、お腹を天井に向けて見せる。喉だけを低く鳴らし続けて答える気配のないまま、瞼はすとんと落ちてしまった。
「い、いえ。お腹を撫でたいのではなくて……」
言っても瞼は開かない。仕方なく、もう一度起こすためにミーシャはお腹の毛へ手を沈めた。
指が付け根まで埋まる。背中とも耳とも違う、ふかふかというよりふよふよな手触り。押し返してくるくせに、どこまでも受け止めてくれる。埋めた手をゆっくり開いたり閉じたりしていると、呼吸に合わせてお腹ごと持ち上げられて、それがまた気持ちいい。
大穴のお腹の毛が格別なことは家の皆が知っている。ミトラやレヴェローズもたまに顔を突っ込んでは堪能していて、度が過ぎると肉球で叩かれ大穴はさっさと逃げてしまうのが常だった。ミーシャも一度だけ頬を叩かれたことがある。肉球だったので少しも痛くなかったけれど。
大穴のお腹に顔をうずめていても怒られないのはシラベだけだ。休日の昼下がりになると、大穴を顔に乗せて寝転がっている姿をたまに見る。
今の大穴は眠りかけだ。起こしてもぐでんとしているし、逃げないでいてくれるかもしれない。
ちょっとだけ。ちょっと休憩するだけ。誰にともなく言い訳をして、ミーシャはその柔らかさへ顔をうずめた。
「……もふ」
温かくて、暗くて、いい匂いがする。お日さまに干した布団の匂いと、それから甘いような塩辛いような、うまく言えないが大穴の匂いのようなもの。毛の中で息をすると、得も言えぬぬくもりが顔全体に広がる気がした。
「んぐ、ぅんにゃ」
少し苦しそうな声を漏らすが、それでも大穴は逃げない。ついでに空いた手を肉球に添えて感触を味わうが、手足をぴくりと動かすだけで反応は鈍い。
もう少しだけ、と息を吸った、その時だった。
「もふもふも……ふぇっ?」
ずるりと。顔に感じていたぬくもりも、感触も、全てが一斉に消えた。
悲鳴を上げる間もなかった。バランスの崩れた身体は、部屋の床からあっという間に。まるで穴に落ちるように──ミーシャは、大穴の中へ落ちていた。
「わっ、ちょっと──!?」
風の音はしない。慌てて手足を動かしても、触れるものは何もない。落ちているはずなのに、浴衣の裾も結い上げた髪も、揺れひとつしなかった。
どちらへ落ちているのかも、体を起こしているのか仰向けなのか、くるくると身体が回るうちにもう判然としない。
「と、ま──!!」
止まって、と思った途端に身体が止まり、『足元』が出来上がる。頭上のはるか遠くに小さな明かりがある。あれはきっと、落ちてきた部屋の明かりだ。
ひどく遠く見えたが、そこまで歩こうとすれば出来るという確信がある。
この感覚には覚えがあった。
あとになって、あれは大穴のお腹の中のようなものだと聞かされていたが、まさかもう一度来ることになるとは思っていなかった。
どうして呑み込まれてしまったのだろう。もしや、顔の埋め方が気に障ったのだろうか。
謝ろうとしてふと、足元に目が行った。暗がりに、カードが一枚浮かんでいる。
『全てを喰らう大穴』と書かれたカードには、黒いシルエットのような少女が描かれている。
本人が飲んでいるのかしら──カルメリエルはそう言っていたが、どうやらその通りだったらしい。
ハッと思い、首から提げた装置を覗き込む。モニターには光る点はふたつ。ひとつは真ん中で、これは足元の一枚だろう。表のワゴンの方にあったレヴェローズとカルメリエルの反応は消えてしまっていた。その代わり、いま立つ場から離れた場所にぽつりと灯っている。
大穴は気まぐれで自分を呑み込んだのではない。きっと、ここにカードが在ると言っているのだ。
……呑み込む前に、一言だけ教えて欲しかったけれど。あとどうせなら吐き出してくれれば良かったのに。もしかして、飲み込むのは得意でも吐き出すのは苦手なのかもしれない。
ミーシャは装置を握り直し、スイッチをいじって表示を切り替えていく。離れた場所のあの点の方角はかろうじて拾えているため、向かうことはできるはずだ。
ミーシャはそちらへ体を向けた。足の下には何の手応えもないのに、行こうと思った方へは歩くように進むことが出来た。理屈は分からないが、ここは二度目だ。歩くような泳ぐような奇妙な感覚のままに進んでいく。画面のもうひとつの点が、進むほどに真ん中へ寄っていく。
どれほど歩いただろうか。
暗闇の先に白っぽい人影が立っているのを見て、ミーシャは足を緩める。
背を向けた細い後ろ姿。人型だが、細かいシルエットは長い髪に隠れている。声を掛けるべきだろうか。決めかねているうちにも、画面の光点は真ん中で強く灯り続けている。反応の主は、あの人影で間違いなかった。
人影が、ゆっくりと振り返った。
まず、体に目が行った。背格好も、肩の線も、豊満な胸の大きさとその先端まで、鏡で見る自分とそっくりそのまま同じだった。
違うのは肌だけ。継ぎ目のない、磨かれた石のような肌をしている。それでもまるで自分の裸を見せられているようなもので、頬がかっと熱くなった。せめて何か羽織って欲しい。
体のラインから目を逸らすために視線を上げたミーシャは息を呑んだ。
顔が、なかった。輪郭は自分と同じはずなのに、顔のあるべき場所だけが空洞のようにがらんどうで、その暗がりの中に、カードが一枚、ふわりと浮かんでいる。
荒れた野原に、大きな石がひとつ描かれた絵。名前の枠には「Revood」というアルファベットが並び、その下の効果の文も横文字で埋まっている。
アルファベットの基本は習ったものの、その言葉がどういう意味なのか、意味があるのかどうかも読めなかった。それでも、カードの文章は読めないなりに分かることはある。
目の前のこれは尋常のものではない。装置の反応がどうという以前に、体の方が先に強張っていた。石の体からも、空洞に浮かぶカードからも、何か雰囲気というらしいものが薄く滲み出ている。見ているだけでうなじの毛が立った。
声が震えないよう、お腹に力を入れる。まずは挨拶からだ。シラベもそう言っていた。
「こ、こんにちは」
『やり直したい?』
挨拶は返ってこなかった。代わりに響いた問いに、ミーシャの肩が跳ねる。
あの夜、夢うつつに聞いたのと同じ問い。同じ響き。この繰り返しの始まりに聞いた囁きを口にするものが、目の前にいる。
「あなたが……私にやり直しをさせてくれていた、カードですか?」
『やり直したい?』
問いには、問いだけが返ってきた。答えなのか、そうでないのか。それでも、伝えるべきことは決めてきた。ミーシャは息を整え、背筋を伸ばす。
「わ、私はもう、十分に助けてもらいました。だから、もう繰り返さなくて、いいんです。……ありがとう、ございます」
『やり直したい?』
同じ問いが、同じ響きのまま返ってくる。まるで噛み合わない。
そこでようやく、ミーシャは気が付いた。
聞き覚えがある声のはずだった。これはミーシャ自身の声だ。あの夜の囁きを自分の声によく似た声だと思っていたが、何度も聞けば気付く。似ているのではなく、声そのものだったのだ。
そして、返ってくる言葉は最初からひとつきりだ。もしかすると、あの一言しか言えないのか。
ではどう話せば通じるのだろう。言葉を、方法を探らなければならない。
「じれったいわね。こういう手合いは、さっさと誓約させてしまえばいいのよ」
背後からの声に、ミーシャは跳び上がりそうになった。
振り返る。闇の中に、羽根を背負った女性が立っていた。
見覚えがあった。先ほどショーケースから取り出したカードに描かれていた姿そのままだ。長銃こそ持っていないが、長く螺旋のように巻かれた金髪とトランプの模様をあしらったドレスは間違いない。
「レディ・ローマ、様……?」
「あら?」
婦人の目が、わずかに丸くなった。
「見えてるの?」
こくこくと頷く。レディはふぅんと顎に指を添え、周囲の暗がりをぐるりと見回した。それからミーシャをじっと見る。
「あなたも純粋な人間というわけでも無さそうだし、周りに人間もいない。だから課せられた縛りから外れて姿を見せられる……という事かしら」
何かを呟き、一人で納得している。ミーシャには半分も分からなかったが、それよりも聞くべきことは他にあった。
「あ、あの。誓約、というのは……」
「もちろん、レーラズ・フィールドで行う誓約のことよ。知らない?」
ミーシャは首を傾げた。
ぼんやりした反応にレディは肩をすくめ、顔のない石の体へ流し目をする。
「ああいう理屈でしか動かない輩は、結界の──勝敗の誓約で縛ってしまうのが一番手っ取り早いわ。そもそも話し合いなんかしたところで、あれには理解出来ないでしょうね」
勝敗。その言葉で思い当たった。この世界で勝ち負けを決めるやり方といえば決まっている。店で毎日、幾度となく行われているカードの決闘。
「でも私、あのカードゲームはほとんどやったことがなくて……。それに、デッキも持っていませんし」
「デッキならここにあるわ。貸してあげましょうか?」
言うなり、レディは自分の胸の谷間へ手を差し入れ、白く輝くデッキケースを引き抜いた。
「精霊たるもの、自分を象徴するデッキは持っているもの。あの声の大きな総督閣下も言っていたでしょう?」
「そういえばそうだったような……でもなんで胸から取り出すんですか?」
「そういうものよ」
そういうものらしい。
「ただし、タダ貸しはしないわよ」
デッキケースを掲げたまま、レディはすっと目を細める。
「対価は────」
と、レディは顔を寄せて、内緒話のようにそれを告げた。
ミーシャは目を丸くした。てっきりお金や、うんと難しい仕事を言い付けられるものと身構えていたのに、告げられた中身は対価と呼んでいいのかも分からないものだった。
「え……。そ、それで、いいんですか……?」
「ええ。それがいいのよ」
悪戯めいた笑みは、それ以上の説明をしてくれそうにない。分からないなりに、断る理由も見つからなかった。
「わ、分かりました。お約束します」
「いい返事ね。賭場では、約束を守る子が一番好かれるのよ」
差し出されたそれを、ミーシャは両手で受け取る。白い光を宿したケースはほんのりと温かかった。
「細かいルールはあの夫婦に教えてもらっていたでしょう。なんとかなるわ」
ミーシャは目を瞬いた。たしかに、シラベとミトラがやっているのを眺めていた時、解説してもらってはいる。けれど、どうしてこの人がそれを知っているのだろう。
「じゃあ、うまくやりなさい。──レーラズ・フィールド展開」
問い詰めるよりも早くされた宣言とともに、白い光の線が足元を走り、闇の四方へと広がっていく。まばたきをひとつする間に、レディの姿は消えていた。
光の行き渡った先で、顔のない自分が真っ直ぐこちらを向いて立っている。空洞の中のカードが、ゆっくりと回り始めているように見える。
ミーシャは白いデッキケースを胸に抱え、息を吸った。
争いごとを厭うつもりはないが、得意ではない。それでもやらなければいけない時があることは、もう知っている。
「私が勝ったら、この繰り返しはおしまいにしてください」
空洞の中で、カードがくるりと回る。その奥から軋むような音が鳴り響いてから、石の像はようやく身じろぎをした。
『私が、勝ったら──やり直し、してください』
「っ!」
初めて、問いではない言葉が返ってきた。いまミーシャが口にしたばかりの言い方を、そっくり切り取って真似ている。
誓約が結ばれた証のように、目の前で薄く透けた板が音もなく浮かび上がった。向かい合う顔のない自分の前にも同じものが浮かぶ。教わった時を思い出しながら、ケースから取り出したデッキを板の脇に置く。
向かいの板にはいつの間にか黒いカードの束が載っていた。あれが、あのカードの精霊が持つデッキという事なのだろうか。
ミーシャは覚束ない手でデッキの上から七枚を数えて引いた。ミトラがカードを持つときはピシリと決まっていて格好良いのに、自分でやろうとしても上手くいかない感じがする。
見栄えだけではない。ここからどうしていけばいいのか、一応覚えているだけでまるで自信がない。
それでも、始まりにやるべきことは、ちゃんと教わっている。
ミーシャは手札を持ったまま、顔のない自分へ向かって深く頭を下げた。
「対戦……よろしく、お願いします」
次回更新は8月18日予定です