夜の通りは提灯の色に満ちていた。
連なる橙の灯はこれまで見上げるものだったのに、いまは目の高さの少し上で揺れている。屋台の天幕は張られた布の上の面まで少し見えて、あちこちから発せられるおいしそうな匂いが自分の足で歩いていた時よりずっと近くを流れている気がする。人の背中ばかりあった人混みも、頭の列を越え通りの先まで見通せた。
祭りの夜のこの通りを行くのは、ミーシャにとって四回目になる。それなのに、いま見えている景色はどこか新鮮だった。ほんの少し目の場所が高くなるだけで、知っているはずの通りが知らない雰囲気で光っている。
「なあ。本当に良かったのか?」
ミーシャの
「何が、ですか?」
「さっきの、うちのくじだよ」
片手でミーシャの脚を軽く握るシラベの声には渋いものが混ざっている。
「いきなりワゴンに来たかと思ったら、残り全部買いますとか言い出すし。……小遣いほとんど全部使っちまったろ、あれで」
「はい。使い切るくらい楽しんできて欲しい、と伺っていましたので」
「そういう使い切り方するとは思ってなかったよ、俺は」
「でも。そうしないと、お父様もお母様も、お店から離れられなかったじゃないですか」
「だからってなぁ。そもそもくじのまとめ買いなんて、あんまり行儀のいいもんじゃねえぞ。おかげで景品はそっくり二階行きだし。どうすんだあれ」
「か、考えてます……!」
シラベの頭にもたれかかりながら、ミーシャはいう。お菓子の類はレヴェローズと分け合えばすぐだし、いざとなれば大穴や壺の中に収納を任せるという方法だってある。迷惑にはならないはずだ。
「まぁ、いいんじゃないの」
シラベと手を繋いで隣を歩いているミトラが、ミーシャを見上げている。繋がれた二人の手は、上からだとよく見えた。
「ミーシャが最初の一回で一等の新弾ボックスを当てちゃった時点で、並んでたお客はほとんど居なくなっちゃったし。正直、残りが売れたかどうかも分からないわよ」
「そりゃそうかもだけどよ」
「それに」
提灯の明かりの中で、見上げてくる目が柔らかく細められた。
「ミーシャは、私たちと一緒にお祭りを歩きたかったんでしょ」
「──はいっ」
迷う理由のない問いだった。ミーシャは答えと一緒に、シラベの頭へぎゅうと抱き着く。
「おい、前が見えねえ」
「にゃあ」
文句の上に、さらに上から鳴き声が乗った。ミーシャの頭の上には大穴が丸くなっている。三段重ねの一番上で、大穴だけがゆったりと夜風に当たっていた。
「分かった分かった。……ほれ、一緒に歩くってんなら、そろそろ降りな」
シラベがその場に屈んでくれる。名残惜しさはあったものの、ミーシャは促されるままに素直に肩から通りへ降りた。
「じゃ、次は私」
「肩痛え。勘弁してくれ」
当然のように両手を挙げたミトラへ、シラベは首を回しながら即答した。
「ミーシャは乗せたのに」
「三十路の肩車があるか」
「歳は関係ないでしょ」
唇を尖らせるミトラと、さっさと歩き出すシラベ。ミーシャはこらえきれずに笑ってしまった。
と、その視線が通りの一角で止まる。白い電球に照らされた、水を張った浅い水槽が置かれた屋台だ。中を赤い魚たちが泳いでいる。ひらり、ひらりと翻る尾は、ミーシャの浴衣の裾を泳ぐ魚たちと同じ形をしていた。
『初日』に見て以来、あそこの屋台だけ立ち寄る機会がなく通り過ぎてしまっていたのだ。せっかくなら体験したい。
「私、あれをやってみます!」
「お、いいじゃない。金魚すくいなんてこういう時しかやらないものね」
「ほどほどにな」
小走りに近付くと、店主がいらっしゃい、と首の手拭いを直した。ミーシャは手首の巾着を開き、底に残った小銭を数えて、一回分を店主の手のひらへ乗せる。
「良かった。ようやく来られました」
「ん? はは、そうかい。ゆっくりやってきな」
思わず零れた言葉に店主は少し不思議そうな顔をしたものの深くは聞かず、丸い枠に薄い紙を張った道具を差し出してきた。ポイっていうんだ、破れたらお終いだよと言いつつ、コツをミーシャに伝える。
水槽の前にしゃがみ込む。思ったより水面が見えない。屈んだ姿勢では自分の胸がつかえてしまうのだ。ミーシャは少し姿勢を直しつつ、胸越しに水の中を覗き込んだ。
「んなーぉ」
電球の光を受けた赤い魚たちがゆうゆうと行き交っている。その姿を見たせいか、頭から降りた大穴が水槽の縁に前脚を掛けた。水面に映る星屑の瞳はいつになく輝いており、瞳孔のようなものがきゅっと細くなっている。
「はいはい、あんたはこっち」
ミトラが大穴を後ろから抱き上げた。腕の中でぬなんと不満の声が伸びるが、ミトラは取り合わない。
「すくったら口に入れるでしょ、あんたは」
「にゃう」
「それ否定のつもり? 肯定のつもり?」
ミーシャはポイを握り、視線をちらりと隣にやる。慣れた様子の男の子が水面へ斜めにポイを滑り込ませ、掬い上げる流れのまま金魚を器へ運んでいる。速く静かで無駄がない。なるほど、ああやるのか。
「はっ……!」
見様見真似でぱっとポイを水へ差し入れる。が、紙は水に触れたそばから破れてしまった。魚に届くどころではない。
穴の空いた紙を魚たちは恐れもせず、悠然とくぐり抜けていく。
「あう……」
「あはは。ま、慣れよ慣れ」
悔しい。胸の奥で覚えのある熱がちりりと点いた。射的で弾を何度も買い足した時と同じ熱だ。ミーシャは無言で巾着の口を開く。くじを買い占めたとはいえ少しばかりは残っていたはずだ。
「……あれ? ミーシャ、それ」
笑っていたミトラが、その手元へ目を留めて声を上げた。
「はい?」
「それそれ。どうしたの」
ミトラの目は巾着の中を向いている。開いた口の奥、小銭と共に一枚のカードが入っていた。
荒れた野原に、大きな石がひとつ描かれた絵。名前の枠に横文字の並ぶ、「Revood」のカード。ミーシャがつい少し前まで、向かい合っていたカードだった。
「あー……えっと」
言葉を探すミーシャ。いつか説明しようと思っているものの、それは今ではない。このひと時は楽しむことにだけ使いたかった。
「その……バックヤードに落ちていたのを拾っていて。とっさにここへ入れていました」
「ふぅん?」
不思議そうにするミトラへごまかすように、ミーシャはカードを摘まんで差し出す。受け取ったミトラはカードを顔の高さへ掲げ、明かりに透かした。それからちいさく笑う。
「懐かしいわねぇ、これ。どこにあったんだか」
「し、知ってるんですか?」
「どれ」
シラベも横からのぞき込む。が、こちらはすぐに眉を寄せ、首を捻った。
「俺は見たことねえな。なんだこりゃ」
「あら、知らないんだ。──いい、ミーシャ?」
ミトラはくすりと笑って、カードの絵をこちらへ向けた。
「このカードはね。未来のカードなの」
「…………み、未来?」
思わず、カードとミトラの顔を何度も見比べてしまう。いったいどういうことなのか。やり直しの次は未来と来た。今日はどうにも、時間に関する言葉とよく出会う気がする。
「ふふ。説明は後でしてあげる。今は、金魚すくいに集中したら? もう一回やるんでしょ」
「! は、はい!」
そうだった。ミーシャは小銭を差し出し、新しいポイを受け取る。
今度こそ。水の中の赤い尾を見据えて、ミーシャはそっと、そうっとポイを構え直した。
*
小さな袋の中で、赤がひとつ揺れている。
参加賞だよと店主が入れてくれた、一匹の金魚だった。あれからポイはさらに三枚破れ、巾着の小銭は綺麗に消えてしまった。結局、自分の手で掬えた魚は一匹もいない。それでも歩くたびに揺れる透明な袋を見ると、どこか誇らしい気もしてくる。
「シラベは……あ、あそこにいた。大穴がねだったのかしら」
隣を歩くミトラが通りの先を指した。氷、と大きく書かれた旗の屋台にシラベが並んでいる。その肩には大穴が戻っていて、白く削られて器に積まれていく氷を、身を乗り出すようにして見つめていた。尻尾を大きくくねらせていて、どれだけ楽しみにしているのかがよく分かる。
「私たちはゆっくり行きましょ。──で、さっきの続きだけど」
ミトラが指の間でカードを立てた。屋台の明かりを受けて、荒れ野の巌の絵がにぶく光る。
「昔々、エインヘリヤル・クロニクルではジョークパック……おふざけのパックを出したことがあるの」
「おふざけ、ですか? カードで?」
「そ。効果もめちゃくちゃなのばっかりでね。たとえば、対戦相手が握手に応じたなら、互いにカードを一枚引くとか」
「あ、握手……。え、応じなかったら?」
「逆に手札を捨てるとかだったかな。あとは絵の枠が空っぽで、自分でその場でカードの絵を描いて、周りの観客に評価してもらって効果が決まるやつとか。場にあるカードの名前の文字を並べ替えて、別のカードの名前がちゃんと完成したら、そのカードの効果をまるごと使えるやつとか」
「ええ……?」
「で、そのジョークパックの中にね」
ミトラはカードを指先で裏へ返した。
「未来のエインヘリヤル・クロニクルでは、いつかこんなカードが作られるでしょう──って、予言みたいな
「よ、予言……」
「いつかその時が来たら、公式の対戦でも使えるようになりますって触れ込みでね。実際、後から本当に使えるようになったカードもいくつかあったんだけど──」
ミトラは名前の枠の横文字を、指の先でとん、と叩いた。
「『現在のターンをやり直す』。……ふふ、ま、このカードが使える日は来ないでしょうね」
知っている。その効果の悪用の仕方は十分に理解している。
「まぁ……これを複製で使い回せたりしたら、無限ループになってしまいますものね」
「そうそう。もう一回、もう一回、私は今日もとやってたらどれだけ劣勢でもこれ使い続けたら時間切れ狙えるし、──って、待って」
同意しかけたミトラの目が、まじまじとこちらを見た。
「複製なんてよく知ってるわね? 教えたっけ、そんなの」
「あああえっと、ショーケースに並んでいたのを見たことがあって……!」
「そうなの?」
あはは、と付け足した笑いは、ミーシャ自身でも変に上ずって聞こえている。
疑っているような、感心しているような目だったが、ミトラはそれ以上は追及してこなかった。ま、店の子だものね、と笑って話はそれきりになる。
「あの。カードを見せてください」
ミーシャの手にカードを乗せるミトラ。改めて眺める。大きな石がひとつあるだけの静かな絵だ。あの場のように、目を凝らしても意味が流れ込んでくることはない。
「これって……価値のあるカードなんですか?」
「うーん」
ミトラは軽く夜空を仰いだ。
「ジョークパックってだけで欲しがる人もいるけど、数はそれなりに刷られてるし、別に希少ってわけでもないし。……正直、100円もしないと思うわよ」
「そう、ですか」
「なに。気に入った?」
答えの代わりに、ミーシャはカードを胸の高さで持ち直した。それをどう受け取ったのか、ミトラはふっと目元を緩める。
「欲しいならあげるわ」
「……ありがとうございます」
ミーシャはカードの表面を指の腹でそっと撫でた。つるりとした、ただの紙の手触りがする。
思い返すのは、大穴のお腹の中でのことだ。
不思議と生理的嫌悪を催す杖を封じた後。いくつかの妨害の応酬はあったものの、結局ライフレースを競り勝ったのはミーシャだった。
バニーガールに障壁ごと蹴り飛ばされた石造りの写し身はあっけなく崩れ落ちた。派手な音や光も無く、人の形が細かな砂へとほどけながら足の下の闇へ落ちていく姿をミーシャは覚えている。
声を掛ける暇も無かった。全てが闇に沈んだ後、そこには一枚だけ、写し身が宿していたカードが残されていた。
直後に真っ暗な空間が大きく震えたため、あの時は拾い上げるだけで精一杯だった。大穴が咽てしまったようで、そのショックで吐き出されていたのだ。
「──対戦、ありがとうございました」
あの場で言えなかった終わりの言葉を呟くが、祭りのざわめきがすぐに攫っていく。隣のミトラにも届かなかっただろう。
それでいい。ミーシャはカードをもう一度だけ眺めてから、そっと巾着の中へ戻した。