朝の光で相部屋はもう明るい。窓の外から蝉の声が遠慮なく入り込み、扇風機は三組の布団へ順にぬるい風を送っている。それでも、いつもミーシャに揺り起こされる頃よりだいぶ早いはずだ。
腕の中が空だ。抱き寄せていたはずのぬくもりがないせいで、勝手に目が覚めてしまったらしい。
レヴェローズは寝転んだまま隣へ顔を向けた。
すぐ隣にはミーシャの布団。その向こうではカルメリエルがまだ布団の中で、規則正しい寝息を立てている。カルメリエルが朝までぐっすり眠るのも少し珍しい。
肝心のミーシャは、自分の布団にうつ伏せで寝そべり、顔を黒い毛玉へ埋めていた。大穴は仰向けにひっくり返り、柔らかな腹の毛を天井へ晒して抵抗らしい抵抗もしていない。
「んなぅ」
不満げな鳴き声が上がった。それでもミーシャはお構いなしだ。いつから起きていたのやら、レヴェローズが目を覚ましたことにも気付かず、顔の位置を少しずらしては埋め直し、また頬を擦り寄せている。時折こらえきれない笑いが毛皮へ吸い込まれていった。
(私の腕から抜け出してまで転がり込む先が、あの腹か)
レヴェローズは寝起きの頭で横になったまま頬杖を突き、しばらくその光景を眺めることにした。
あの腹の毛が別格であることはレヴェローズも身をもって知っている。家族の誰もがたまにああして顔を突っ込んでは堪能しているのだ。度が過ぎた先に待つ仕打ちも決まっている。
「うなぉ」
二度目の鳴き声は少し低い。畳を叩く尻尾の音が次第に速く、強くなっていく。
そろそろだな、と見当を付けたところで、大穴の前脚がすいと持ち上がった。
「あうっ」
肉球がぺちりとミーシャの額を打つ。実に軽い音だった。その音を合図に、大穴は身をよじってミーシャの腕をすり抜ける。畳の上でひとつ大きく伸びをすると、振り返りもせず細く開いた戸の隙間から出ていってしまった。
額を叩かれたミーシャは半身を起こし、戸口へ向かって小さく手を振っていた。
「ふふ。行ってらっしゃい」
銀の髪はあちこち跳ね、額には黒い毛が数本くっついている。それでいて顔は緩みきっていた。叩かれてなお幸せそうというのは、なかなかの図である。
「随分と嬉しそうだな、ミーシャ」
声を掛けると、ミーシャはぱっとこちらを向いた。
「レヴェローズ様! おはようございます。起こしてしまいましたか?」
「うむ、おはよう。心配いらん、勝手に目が覚めただけだ」
挨拶はいつも通り。だが、何かが違う。
声は半音ばかり高く、仕草もどこか落ち着きがない。祭りではしゃいでいた時とも違い、今朝のミーシャは――レヴェローズの感覚でいうと、浮ついて見えた。
「どうかしたのか?」
「んー……」
ミーシャは膝の上で手を重ね、少し考えてからふにゃりと微笑んだ。
「どうもしなくなったのが嬉しくて」
「?」
レヴェローズは首を捻ってから、それ以上の追及はしないと諦めた。何かあったのかもしれないが、ミーシャがこれだけ嬉しそうなのだ。ならば何か良いことだったのだろう。
問いの代わりに、間の抜けた音が盛大に鳴った。レヴェローズの腹の虫である。
「ふふっ」
「……うむ。何はともあれ、まずは朝食だな」
*
レヴェローズはシラベの部屋の戸を遠慮なく開けた。
「契約者よ、朝食はどうするのだ」
「……せめてノックしろよ」
シラベは布団の上に大の字で転がっていた。起きてはいるらしいが、体を起こす気配はまるでない。薄い掛け布団は足元へ追いやられ、枕元では扇風機が首を振っている。
「朝食だ。どうする」
「聞こえてるよ。ってかお前、昨日の夜あんだけ食っといて、もう腹に入るのかよ」
昨夜は祭りの天幕で家族総出の粉物の宴だった。たこ焼きにお好み焼きに焼きそばと、あれもこれも片端から平らげた自覚はある。だが、それとこれとは話が別だ。
「うむ、当然だ。あれは祭りの宴の分だからな。今日の朝ごはんの分と収まる腹の位置が別に決まっているだろう」
「決まってねえよ。どういう腹の作りしてんだ……」
シラベは呆れ半分の息を吐き、片手だけひらりと振った。
「悪いけど、俺はまだ腹一杯な気がするからいらねえ。適当に食パンでもかじっててくれ。それか、ミーシャが昨日買い込んだ菓子の詰め合わせでも分けてもらえ」
「うむ、分かった。では両方だな」
「勝手にしろ」
両方を食べてよい言質は取った。朝食の算段がついたところで、レヴェローズは次の用件へ移る。
「して、今日の店はどうするのだ」
「ミトラが言ってただろ。休業。祭りの翌日まで開ける元気はねえよ」
シラベは天井を向いたまま答え、それから思い出したように付け足した。
「あー……そうだ。悪いんだけど、昨日使ったワゴンだけ後で会館に返しといてくれ。町内会の借り物だから」
「承った。契約者はやらんのか」
「立ちっぱなしで一日働いた後に、お前とカルメリエルまで肩に乗っけたせいで腰いてえんだよ。今日は休ませろ」
ああ、と手を打つレヴェローズ。ミーシャばかりずるいと順番を求めた甲斐あって、レヴェローズとカルメリエルは一人ずつシラベに肩車をしてもらい、祭りの夜を望み通り高みから見物したのだった。
「うむ、あれは良いものだった。世界の見え方が変わったぞ」
「そりゃ何よりだ」
シラベの声は普段の二割増しに素っ気ない。よくよく見れば顔色も冴えない。昨日は朝から晩まで働き詰めだったのだ。今日くらい休ませてやるのも、やぶさかではない。
「仕方のないやつめ」
レヴェローズは布団の脇に膝をつくと、シラベの頭へ手を伸ばした。寝癖のついた髪をゆっくりと梳くように撫でてやる。
「今日はゆっくり休むといい。些事はこの私に任せるのだな」
我ながら優しい声が出た。シラベは目を細め、大人しく撫でられるに任せている。いつもと逆の構図だが、これはこれで悪くない。
「……ま、あれだ」
シラベが薄目を開け、ぽつりと言った。
「お前とカルメリエルが交代の時間にちゃーんと帰ってきてれば、俺もここまで疲れてねえんだけどな」
撫でる手がぴたりと止まった。
「……よし! ではワゴンを返してくるとしよう。うむ、善は急げだ!」
レヴェローズは返事も待たず、素早く部屋を後にした。背後で何か言われた気がするが、聞こえなかったことにする。
*
会館でワゴンを返し、年配たちの礼や世間話にひとしきり付き合った帰り道。レヴェローズは買い食いした棒アイスの封を切った。
ソーダ味の氷は歩くそばから溶け、青い雫が棒を伝って指へ落ちてくる。夏の日差しは今日も相変わらずだ。
だが、通りの様子は昨日とまるで違っていた。
電柱の間に渡されていた提灯の列は、朝のうちにすっかり外されたらしい。屋台の並んでいた場所には骨組みの一本も残っていない。位置を示していた白いテープの跡だけが、等間隔にアスファルトへ残っていた。店々の軒先はやけに広く見え、昨日あれだけ溢れていた音も匂いも今日はどこにもない。
通りを行くのは、買い物袋を提げたいつもの装いだけ。祭り一色だった商店街が、たった一晩で普段の顔に戻っていた。
「ふむ。あっけないものだな」
組み上げるのが早ければ、畳むのも早い。撤収の手際としては見事だが、あれだけの賑わいの跡がこうも綺麗に消えていると惜しくもなる。
アイスの最後のひと欠片を噛み砕く。通りの先には、頼りない足取りで歩く中学生くらいの男子がいた。店の大会で何度か見た顔である。名前は確か──思い出すより先に、向こうがこちらに気付いた。
ふらついていた足取りが嘘のように止まり、こちらへ向き直った。
「あーーっ! レヴェローズさん!」
「む?」
「レヴェローズさんって、浴衣とか着れないっすか!?」
「……藪から棒に何を言っているのだ、お前は」
胡乱げな目を向けるレヴェローズに、男子は勢いよく自分の胸を叩いた。
「あっ、自分、店の大会によく出てる根巻マナブっすよ! 覚えてますよね!?」
「まあ、一応」
「で、それより浴衣っすよ、浴衣!」
マナブはレヴェローズの返しなどろくに聞いていなかった。両の拳を握り固め、悔しさを噛み締めるように空を仰ぐ。
「俺、今年こそは浴衣の似合う彼女を作って、夏の思い出作るって決めてたんすよ! なのに昨日、朝から腹下しちゃって……祭り、一秒も行けなくて……!」
「そうか。それは災難だったな」
「だから!」
マナブは腰から直角に頭を下げた。
「レヴェローズさん! 俺の浴衣彼女になってください!!」
マナブの馬鹿らしい頼みに、レヴェローズは少しも迷わず答えた。
「断る」
「はやっ!?」
「私にはもう心身ともに捧げている契約者がいるのでな。ゆえに、あり得ん」
レヴェローズが言い切ると、マナブはみるみるうちに目の縁へ涙を溜めた。
「彼氏いんのかよぉ!! ちくしょー! またかよぉぉぉ!!」
泣き声を撒き散らしながら、マナブは走り去っていった。なんだったのだ、というのもアホらしい気がする。
「……なんの騒ぎだよ」
入れ替わるように、通りの向こうから見知った顔が近付いてきた。キリメだ。
「うむ、キリメか。いまナンパをされていたのだ」
「ナンパぁ? えっ、レヴェさんにナンパ?」
キリメは走り去っていく背中とレヴェローズとを見比べ、眉を上げた。
「そんなに意外か」
「いや、だってレヴェさんって……」
言いながら、キリメの視線がすっと下がる。レヴェローズの胸元と腰の線とを順になぞり、また顔へ戻ってきた。
「まあ、そうか。レヴェさん、見た目はいいもんな」
「おい。今の『は』はなんだ」
「で、ああいうの結構されんの?」
流された。まあいい。レヴェローズは指を折って数え始める。両手が二巡りしたところで、数えるのはやめにした。
「今月でもう二十回は超えたな」
「へー」
返ってきたのは気の抜けた音だけだった。
いつものキリメならモテんじゃんなり暇な奴らだななり、もうひと言は乗せてくるところだ。それが今日は素通りである。かといって機嫌が悪いわけではない。むしろ口元はむず痒そうな笑みの形をしている。
「キリメ。お前、どうかしたのか」
「あん?」
「いや。なんというか……浮ついているのか」
咄嗟に出たのは、今朝のミーシャを見た時に抱いたのと同じ感想だった。あれとは違う気がしたが、だが口に出してみるとしっくりくる。キリメは浮ついているのだ。
キリメは言葉に詰まった。視線が泳ぎ、通りの端へ逸れる。それから唸ったかと思うと、口元がにへらと緩んだ。
「……まあ、あれだ。人生が潤ったかな、って」
「なんだそれは」
ミーシャはどうもしなくなって嬉しいと言い、キリメは人生が潤うなどと言っている。今日はどうも訳の分からんことを言う者にばかり当たる日らしい。どちらも言葉だけではさっぱりだ。
だがしかし。ミーシャの方はともかく、キリメのこれには心当たりがある。昨夜のあの映像が脳裏をよぎった。
「……ああ、なんだ」
得心がいって、レヴェローズは頷く。
「クモンと番ったからか」
瞬間。視界が揺れ、遅れて目の前に火花が散った。
「ぶっ!?」
「やっぱあの時覗き見してたのはお前らかッ!!」
拳が顔面にめり込んでいたらしい。のけぞった体を、伸びてきた手が胸倉ごと掴んで引き戻してくる。揺さぶられる頭の隅で、レヴェローズは唸った。今のは良い正拳だった。踏み込み、腰の返し、予備動作のなさ。どこで覚えたのかは知らんが、実戦の拳である──などと採点をしている場合ではない。鼻の奥がじんと熱い。
「だ、誰が番うか! 番ってねえ! ……つーか、見たのかよ!? どっからどこまで見てたんだよ!!」
真っ赤な顔のキリメに揺さぶられながら、レヴェローズは片手だけを挙げて降参を示した。
祭りの抜けた静かな商店街に、キリメの怒鳴り声がしばらく響いていた。
*
夜。風呂から上がって濡れた髪を拭いていると、廊下のぬるい空気が肌へまとわりつく。暑いのは変わらないのだが、しかし水気のある体だと不思議と冷える気がしてくる。
廊下の先、シラベの部屋だけがやけに賑やかである。戸の向こうから笑い交じりの話し声がいくつも漏れていた。低く受け流しているのがシラベ。短く刺しているのがミトラ。そしてもう一つ、朗々とよく通る美声──ヒナタだ。
そんな部屋に向かって、盆を両手で持つカルメリエルが歩いていくのを見とめるレヴェローズ。盆の上には冷えた缶がいくつかと、小鉢に盛ったつまみが載っている。
「姉様。あれは何の騒ぎだ」
「ふふ。ヒナタ様ですわ」
カルメリエルは盆を少しだけ掲げてみせた。
「昨日のお祭りにいらっしゃれなかったのが、よほど悔しかったそうですの。せめて延長戦をなさるのだと、たくさんの土産を手に先ほど押しかけていらっしゃいましたのよ」
「それであの騒ぎか」
「ええ。朝まで付き合わされないよう、頃合いを見て切り上げさせますわ」
「ふむ」
興味がないと言えば嘘になる。祭りの話で騒ぐのは、それだけできっと楽しかろう。
だが、盆の上の缶はどれもビールである。酒なら『黄道の雌鶏』で味を覚えた蜂蜜酒がレヴェローズにとっては一番だ。それもとびきり甘いものに限る。あいにくこの家に常備されたためしはなく、酒の席で一人だけ菓子をかじるのも締まらない。そのため、家での飲みの席からは自然と足が遠のいていた。
「そうか。では姉様、給仕も程々にな」
カルメリエルは頷くだけで返し、しずしずと廊下を進んだ。戸が細く開いた一瞬、ヒナタの機嫌のいい声が転がり出てくる。
賑やかなことだ。肩をすくめて相部屋へ向かうと、ちょうどミーシャが部屋から出てきた。
その手に一冊の本がある。教科書の類ではない。どこから見つけてきたのか、店の中では誰も読みそうにない厚めの小説本だ。
「ミーシャ。こんな時間にどうしたのだ」
「あ、レヴェローズ様。ちょっと、寝るまで本を読んでいようかと思いまして」
「本? 別に、この部屋で読めばいいではないか」
ミーシャは一度だけレヴェローズから視線を外し、すぐに戻した。
「多分、一階の方が集中出来ると思うので」
「む。まあ、それはそうかもしれんが」
「はい。では、おやすみなさい」
ぺこりと頭を下げて、ミーシャは階段を降りていった。軽い足音が遠ざかり、やがて階段の下がほんのりと明るくなる。
確かに、隣室から宴会の声が聞こえる中で文字を追うのは骨だろう。だがそれにしては、ミーシャの視線はシラベの部屋ではなく、どこか空中を見ていた気がする。
読もうとする本人が言うのだから、そうなのだろう。レヴェローズはそれ以上考えず、相部屋の戸を引いた。
明かりを絞った部屋に布団が三組。扇風機が首を振るたび、電灯から吊るされた紐が揺れる。ミーシャの布団はしばらく空いたままだろうし、カルメリエルも給仕やら何やらで深夜までは戻るまい。ひょっとすると、酒に弱い聖女様は朝までシラベの部屋に転がることになるかもしれない。
レヴェローズは自分の布団へ体を投げ出した。
壁と廊下を挟んだ向こうから、シラベの呆れ声、ミトラのツッコミ、ヒナタの高笑いが届く。昨日の祭りの大らかさとはまた違う、どこかぞんざいで、なじみ深い騒音だ。
手を伸ばし、枕元に置いていた菓子の詰め合わせを引き寄せた。今朝ミーシャから分けてもらった、くじの景品の袋である。開けると色とりどりの包みが手のひらへ滑り出てきた。
一つ剥いて口へ放り込む。甘い。うまい。うまいのだが。
カルメリエルは働き、ミーシャは一階へ降り、大穴に至っては朝に出ていったきり姿も見ていない。いつもより広く感じる部屋で、包みを剥く音だけがやけに大きく鳴る。
(……これは、あれだ。認めよう。少しばかり寂しい)
ならば話は早い。こういう夜にどうすればいいかなど、考えるまでもなく決まっている。
「うむ。決めたぞ」
誰にともなく宣言し、レヴェローズは菓子の袋ごと立ち上がった。
宴に混ざりに行くのではない。シラベに甘えに行くのだ。そこにたまたま宴があるという、ただそれだけの話である。レヴェローズは理屈を完成させて、シラベの部屋へ突撃した。
次回更新は9月1日です。