昼過ぎのボトムレスピットに客の姿はなかった。夏休み中とやらであっても、この時間の店はよく凪ぐことを大穴は知っている。
冷房の風音だけが低く続く一階で、シラベはカウンターに置いたノートパソコンを睨んでいた。
仕事だなんだと言って朝からずっとこの調子である。何の仕事かは大穴も知らないし、知ったところで面白くもない。大事なのは、シラベの手が朝からろくにこちらへ回ってこないという一点だけだ。
大穴は音もなくカウンターへ飛び乗り、光る画面の前へ歩み出た。まずはキーボードを踏んでやる。前脚で二歩、後脚で二歩。いつものつぶやきとやらをやってやる。
「わっ……おい、こら」
「んー」
シラベの手が頭を三回ほど撫で、そのまま大穴をキーボードの届かない脇へずらした。撫で方は悪くない。ただ三回では少ない。三十回は欲しい。
次の手だ。大穴はにじり寄り、キーの上へ戻った手の甲に顎をことりと乗せた。
「あのな。これでも仕事中なんだよ」
空いた方の手が顎の下を掻き、それから大穴の顔をやんわりと押し退ける。掻き方に文句は無いが、やはり短い。
ならば、と大穴は床へ降りた。落ち着きなく動くシラベの足の甲へどっかりと全身を降ろす。
「重い。シンプルに邪魔」
脇の下へ手を差し込まれて持ち上げられ、カウンターの端へ戻された。三度目の撫でも短すぎる。
最後の手段。いつもはミトラが占領する膝へ飛び乗り、腹へ顔を埋めながら尻を上げる。尻尾を右へ左へと大きく振ってやれば、シラベの目には嫌でも止まるはずだ。温暖な気候のせいで熱の籠りがちなシラベの膝に乗っかるのは少し居心地が悪かったが、注意を惹きつけるためには仕方がない。
「見えねえって。今日は後にしてくれ」
だが、覚悟を決めたこれでも背中をひと撫でされるだけで、また端へ寄せられる。
手は尽くした。今日のシラベはこれ以上構ってくれないらしい。もっと甘やかされたい気分ではあるが、叶わないものは仕方がない。
こういう日は外を歩くに限る。
大穴は入り口のガラス戸の前へ移って座り、シラベを振り返って一声鳴いた。
「んう」
「あん? ……ああ、散歩か」
シラベは椅子から立ち、戸を開けてくれた。開いた戸の向こうでは分厚い雲が通りの上へ低く垂れ込めている。
「うわ、曇ってんな。夕立が来るかもしれないから、遠くまで行くなよ」
「みゃ? ……んなん」
ゆうだち。聞き覚えのない言葉だった。少し考えてみたが、猫の頭はすぐにその問いを取り落とした。分からないものは出会った時に考えればいい。
返事と共に尻尾をぴんと立てて出立の合図として、大穴は生ぬるい表へ歩き出した。
「あれ猫ちゃん。お散歩かい?」
「るぅん」
立ち並ぶ商店の前で立ち話をしていた年配の女が腰を屈めて頭を撫で、日傘を差した女が指先を伸ばしてくる。商店街はいつも通りの様子だった。大穴は気が向けば足を止めて撫でを受けてやり、向かなければ素通りして気ままに進む。
歩けば誰かしらが構ってくれる。散歩とはよく出来た仕組みである。
風の匂いが変わったのは、いつもの散歩道を半分ほど行った頃だ。
埃と土の匂いがふわりと浮き上がり、湿った風が毛を煽った。見上げれば、雲は先ほどよりも重く見える。
「なう」
鼻先の地面に、黒い点がひとつ付いた。見ている間に二つ、三つと増えて、すぐに数える意味がなくなった。
初めのうちは気にも留めなかった。毛皮の表で弾いているうちは、少し騒がしいだけの水だ。だが数を増した雨は、やがて毛の根元から肌へ染みてくる。こうなると鬱陶しい。
次々と降り注ぐ粒を呑み込むことは出来る。だがそれをしていると大穴が動きづらい。雑な大穴では加減を間違えると、踏み出した足先の地面すら呑み込みかねなかった。
この雨がシラベの言っていたゆうだちなのだろうか。考えるよりも早く、猫の身体は駆け出した。
通りの外れに目が留まる。看板を下ろして久しいらしい店、そのシャッター前はまだ雨粒が付いていない。滑り込んだひさしは少し短いが、詰めれば雨をしのぐには十分だった。
「にゃぅ、ぅん」
毛繕いをしようとした時、気配に気付く。先客がいた。自分のいる所よりも隅の、暗く狭い物の隙間に小さなものが震えている。
暗がりに身を潜めていても、夜闇よりも暗い大穴の本性は容易く見通す。
それは白灰色の毛を持つ子猫だった。首には黄色い首輪と小さな鈴が見える。毛並みはすっかり濡れて体に張り付き、ただでさえ小さい体が二回りは細く見える。血の匂いはしない。怪我はしていないのだろう。
子猫は大穴に見られている事に気付いたのか、口を開けた。
「……しゃっ」
威嚇の声は掠れて小さく、濡れそぼった背中の毛は満足に逆立ちもしなかった。
「るぁん」
大穴は猫の姿をしていても、本物の猫の言葉はそれほど上手くない。聞き取りは多少出来ても鳴き方が普通の猫とどこか異なるのか、思ったように伝わらないことが多い。試しに何していると伝えようとしてみるが、子猫は身を硬くして黙り込むだけだった。
見つめ合う時間はそう長くは続かなかった。大穴はそれを何とも思わなかったからだ。大穴は子猫から離れ、軒下の反対側で丸くなった。
シャッターの前に雨の幕が下り、通りの色彩が鈍色がかってくる。傘のない人が小走りに軒を伝い、自転車が水を跳ねて走り抜けた。
子猫は時折、思い出したように細い唸りをどこかに向けていた。もしかすると大穴に向けての鳴き声だったのかもしれないが、赤子の言葉のように大穴には理解が出来ない。
やがて、風向きが変わった。
雨が斜めに流れ、軒下の奥まで吹き込み始める。真っ先に濡れたのは子猫のいる側だった。子猫は暗がりでいっそう身を縮め、それでも足りなくなったのか隙間から這い出してくる。
「にぃっ」
そして、あろうことか大穴の腹の下へ潜り込んできた。
濡れた鼻先と前脚が毛を割って押し込まれ、そのまま動かなくなる。
「んぐる」
大穴は不満の声を出した。冷たいのだ。腹の一番柔らかいところに冷え切った濡れ雑巾を押し当てられたに等しい。
こんな蛮行は店の面々にも許していない。彼らが腹毛を求める時、大穴は厳格な基準をいくつか設けている。不愉快な汚れはついていないか、乱暴ではないか、騒がしい音を立てないか、等々。こうして腹毛に分け入り、小さな口で体に付いた凹凸を探ろうとする行為など許したことはない。
いっそ呑み込んでしまおうか。腹は減っていないが、大穴には本来それは無い概念だ。たとえ今降る雨粒全てを飲み込んだ後でも、こんな子猫を腹に収めるのは容易いことだ。
「にぁ……」
音もなく腹肉が虚無の入り口に変わりかけるが、大穴は思い留まる。食べるものは餌皿にあるものか、誰かの手で差し出されたものか、特別に指示があったものに限る。誓約ではない単なる決め事だが、それを守って食べるものの方が質が良く感じるのは確かだ。
それに、腹越しに伝わる子猫の体はあまりにも軽い。骨の細さまで分かるようで、触れていることさえ見失いそうな軽さだった。しかもそれが、絶えず細かく震え続けている。
こんなものを呑んだら、ひょっとすると腹の中でも震え続けるかもしれない。それは鬱陶しい。かといって引き剥がして雨の中へ出すのもいかにも面倒だ。
どうせ雨が止むまでこちらも動かないのだから、どこにいられても同じことである。大穴は子猫を潰さないよう四肢の位置を選び直し、小さな体を囲う形で丸くなる。
「……にぃ」
くぐもった声と共に、震えが僅かに落ち着いた気がした。
雨は、止むどころか勢いを増していた。
ひさしを叩く音に厚みが出て、軒先から落ちた水が地面で跳ね、細かな飛沫が大穴のいる場所にまで吹き込んでくる。道の端には浅い流れが生まれ、その一筋が軒下へ枝を伸ばしてきた。
その水は、大穴たちの伏せている場所へ真っ直ぐ伸びてくる。
大穴は子猫を腹の下へ入れたまま体を半分だけずらし、それから意識して重くなる。大穴の重さはある程度大穴の好きに出来る。これで少なくとも、水に押されて身じろぎするような重さではなくなった。
地を這う流れが黒い毛皮へぶつかり、左右へ逸れていく。子猫の収まった腹の下を避けて水は店の前を流れ過ぎていく。
代わりに、大穴はずぶ濡れになった。
雨から逃れていたはずなのに、何故こうして濡れているのか。失策を悟る大穴だったが、今更遅い。一度呑まないと決めた子猫が自分に擦り寄っている中で、自分に掛かる水だけ飲むほど区別の付いた飲み込み方は大穴には出来なかった。
子猫など気にせずにいればよかった。そもそも雨だってどこか道の端で飲み込み続けていればいずれ終わっただろうに、後付けされた猫の本能のせいでこうしている。
あるがままに呑み喰らうだけで在れば楽なのに、どうして。
何かを求めるように顔を埋め続ける子猫を眺めながら、大穴は丸くなり続けた。
どれほどそうしていたか。
雨音の向こうから、声が聞こえた。
「おーい、大穴ー」
シラベの声だ。呼びながら、通りをこちらへ近付いてくる。
跳ね起きて声の方へ飛び出そうと、四肢に力が入った。いつもならそうする。だがここには、毛を掴んだまま丸くなっている小さなものがいる。
大穴は伏せたまま首だけを起こし、その場から長く鳴いた。
「なぁーうー……まぁぁぁぉぉぉぅ……」
雨音を割って通るよう、腹の底から声を押し出す。
「……あん?」
足音が止まり、それから急ぎ足になって近付いてきた。ビニール傘と見慣れた顔が現れて、大穴と、その腹の下から覗く白灰色とを順に見た。
「……お前、何拾ってんだよ」
口ではそう言いつつ、シラベの動きは早かった。傘を立て掛けて羽織っていた薄手の上着を脱ぎ、大穴の腹の下へ手を差し入れると子猫を上着でくるみ抱え込む。
「ふぃぎぃっ」
「落ち着け落ち着け。俺は喰ったりしないから」
くぐもった抗議は一瞬で、布の温かさに気付いたのかすぐに静かになる。続いて差し出された腕に、大穴はすぐに濡れた身体を預けた。冷えた毛皮へ腕の熱が染みてくる。
「うお、冷てえ。どんだけ濡れてんだよお前」
「うみゃ」
文句の割に、抱え直す腕はしっかりしていた。この状況だ、撫でられないのは我慢するしかない。
「あ、肩登るなよ。濡れるとこ広がらせたくないから」
「にゃっ」
大穴の了承の鳴き声にシラベは頷き、二匹を抱えたまま傘を差す危なっかしい格好で雨の中を歩き出した。
いつもの肩の上より、ずいぶん低い眺めだった。それでも文句を言う気は、今日のところは起きなかった。
店へ戻ると、ガラス戸の音を聞き付けたミトラがカウンターから出てきた。
「おかえり、大穴見つかった……って、ちょっと。何その子」
「軒下でこいつが抱え込んでた。首輪してるから、どっかの飼い猫だと思うけどな」
「あらあら、まあ」
奥からカルメリエルも現れ、シラベの腕の中へ目を留めた。上着ごと子猫を受け取ると、用意していた乾いたタオルに手早く包み直して胸元へ抱える。あの胸元がこの家で一番柔く温かい場所であることを大穴はよく知っている。
「まずは温めませんと。……あらあら、こんなに震えて。もう大丈夫ですわ」
ミトラは椅子に登って子猫の様子を窺い、黄色い首輪を検分している。
「名前と連絡先、書いてある? この辺で迷い猫の話なんてあったっけ」
「どうだったっけな。ミーシャは帰ってるか?」
「まだ。駅の方に行くって言ってた」
シラベとミトラがそれぞれスマートフォンとやらを弄り始めたところで、二階から騒がしい足音が降りてきた。レヴェローズである。
「契約者、何やら騒がしいが……む!? なんだその小さいのは」
「迷い猫。大穴が拾ってきたの」
「なんと」
レヴェローズはカルメリエルの胸元の子猫と床の大穴とを何度も見比べ、それから目を見開いた。
「まさか大穴、貴様の隠し子か!?」
「はあ?」
「ああ、すまんな。事情があるなら私は何も聞かんぞ。子に罪はないのだからな!」
「何考えてんだか。毛の色が全然違うし、よその首輪付けてるでしょ。大体こいつ子供出来るのかしら」
ミトラが画面から顔も上げずに切って捨て、レヴェローズはそうかと頷いた。何やらろくでもない話をされている気配はあったが、あの金色のポンコツが口から出すものはいつも似たような物なので気にしない。
「ほら、お前もこっちだ」
シラベに首の後ろを摘ままれ、カウンターの上でタオルを被せられた。頭から尻尾の先まで、遠慮のない手つきでがしがしと拭かれる。
「んなおっ」
「ん、悪い、ちょっと雑だったか?」
抗議の声にシラベが謝罪する。ちょっとではない。風呂上がりの時と違ってだいぶ雑だった。いつもの柔らかいバスタオルではなかったからだろうか。
「──あ。町内会のグループにあった。ねえ、これじゃない?」
ミトラの声がした。画面をシラベに向けている。
「子猫で黄色い首輪。昨日の夕方から帰ってこない、だって。写真もこの子でしょ。名前はちびこだって」
「近所か」
「そうね。連絡してみるわ」
ミトラは椅子に座り直して、画面に指を滑らせていく。シラベの緊張がどこかほどけた気配を感じ取り、大穴はごわつくタオルにもう少しだけ身を委ねることにした。
*
日が落ち切る前に、雨は上がっていた。開け放した戸口から雨上がりの匂いが流れ込み、濡れた通りが低い西日を照り返している。
子猫はカルメリエルが用意した餌で腹がくちくなると丸くなり、カウンターの上に敷かれたタオルで眠ってしまった。眠りの中でも時折、思い出したように小さく震え、それに合わせて鈴が微かに鳴る。
ガラス戸が勢いよく開いたのは、そんな頃だった。
「ちびちゃん!?」
小さな少女が転がるように入ってきた。家で一番小さいミトラよりも、さらに小さい人間だ。少女は店を見回すなり、高い声で再び同じ言葉を放つ。
その途端、寝転んでいた子猫が起き上がった。
「にぃ!」
鈴を鳴らし、掠れた声で懸命に応える子猫。カウンターへ走り寄った少女が両手で抱き上げると、子猫は少し高い音で喉を鳴らし始めた。
大穴は床からそれを見上げていた。少女の腕へ収まると、あれほど続いていた子猫の震えがぴたりと止まっていた。自分の腹に纏わりついていた時でも震えていたのに、あの腕の中は格別なのだろう。
遅れて入ってきた母親らしき女がミトラとシラベに何度も頭を下げている。雨だの、軒下だの、うちの猫がだのとしきりに話す声に大穴は興味が湧かなかった。それよりも、自分も同じ形を持つ子猫の安心した様子が、大穴の目を不思議と釘付けにしていた。
人間たちの言葉を聞き流していると、ふいに少女がこちらを向き、大穴の前へしゃがみ込んだ。
「黒猫さん、ちびを見つけてくれたんだ。ありがとうね」
小さな手が頭に載る。
撫でるというより、軽く叩いて揉むのに近い手つきだった。何の礼を言われているのかも、よくは分からない。それでも大穴は座ったまま、その手を最後まで受けてやった。少女の腕の中では、子猫が眠たげに目を細めている。
親子は最後にもう一度深く頭を下げ、帰っていった。
戸口の向こう、遠ざかる腕の中で鈴が鳴っている。聞こえなくなるまで大穴はその場で見送り、それでおしまいだった。大穴は前脚を舐め、乱れてもいない毛並みを整えた。
*
閉店後の店内。シャッターはすでに下り、店の明かりは半分しか灯っていない。二階では賑やかな話し声がする中でシラベはカウンターに残り、昼間の続きらしい仕事を片付けていた。大穴は少し離れた棚の上で丸くなり、その背中を眺めて待つ。
やがてキーボードの音が止まり、シラベが椅子の上で大きく伸びをした。
今である。
大穴は棚から降り、カウンターへ回り込んでシラベの膝の上へ飛び乗った。普段からシラベに預けている重さのまま、腿の上へ収まってやる。棚の上でたっぷりと空調の冷気を吸い込んだ今、膝の温かさも不愉快ではない。
「うおっ、と……。相変わらず急だな、お前は」
シラベは大穴を受け止め、それから息を吐いた。
「お前も、あの子猫くらい軽けりゃ可愛げがあるんだけどな」
軽くしてやる気はない。重いほど身体がシラベに密着出来て、彼がそこにいることをよく感じられる。大穴はその腹へ頭をぐりぐりと押し付け、ついでに少しだけ重くなってやった。
「……今、重くしただろ」
「んーにゃ」
シラベは文句を言いながらも、大穴を降ろそうとはしなかった。大きな手が背中へ回り、乾いて膨らんだ毛並みの根元をゆっくりと起こすように撫でていく。
腹の下にあの頼りない震えはもうない。代わりにあるのは腿の熱と、服越しの鼓動だ。それこそが自分に相応しい。それさえ確かめれば、猫の頭で考えることはもう何もない。
大穴は目を閉じ喉を低く鳴らしながら、相棒の手に全てを任せた。