昼を回ったボトムレスピットのカウンターの内側で、ミトラは踏み台に立っていた。階段二段分ほどの高さのこれがないとレジスターの端まで手が届かないので、最近のミトラはこれを置くようにしている。
以前ならレジはシラベやレヴェローズに任せきりで、自分は奥で発注表と睨めっこをしているところだった。もう少し前はそれすらカルメリエルが取り回し、彼がいない頃は父の古馴染みでもあった甲賀サブロウに頼っていた。
それが最近、こうして普通に立つのに慣れてきてる。年を食っても人は変われるものなのだと、ミトラは我が事ながら不思議な感慨を覚えていた。
「これお願いしまーす。……きみ、店員さん?」
カウンターの向こうから、小学生くらいの男の子が背伸びして訊いてきた。手にはカードのパックが一つと駄菓子が三つ。後ろには買い物袋を提げた母親が立っている。
「はい。店員で、店長です」
よそ行きの声で応じながら、ミトラは商品を受け取った。えっ嘘だぁ、と驚きの声をあげた子供に母親が小さく息を呑み、慌てて頭を押さえる。
「こらっ!」
「大丈夫ですよ。合わせて730円になります」
すみませんと母親が言いながら、早々会計が済まされていく。男の子は最後まで疑いの目を向けたまま母親に引かれていった。戸口で一度振り返って、まだこちらを見ている。よほど信じられなかったのだろうか。
ミーシャが店に立つようになってからというもの、客の目にはミトラも同じ括りで映ることが多い。何も言われなければ放っておいているが、こうして指摘されれば一応教えている。そのため、客の間ではあれでもここの店主で大人なのだという事実がじんわりと浸透してきていた。
悪いことではない。いつまでも子供と間違えられていてはシラベといちゃついているところを誰かに見られた時に変な目で見られかねないし──いや、知られていないなら子供がじゃれついているようにしか見えないのだからもっと大胆な真似をしてもいいかもしれないが──。
どちらでもいいどうでもいいことを考えているうちに、客が途切れた。ミトラは壁の時計を見上げる。
「遅いわね」
シラベは近所のジムへ運動に出ている。客の少ない時間帯なら抜けてもいいと許可を出して、以来日課のようになっていた。
あの男は言動に反して意外と時間にきっちりしていて、時間を決めて戻ると言って出た時、その言葉をそうそう違えたことはないのだが。
何かあれば電話に出られるようにしておけ、とは言ってある。ミトラはスマートフォンを取り出し、手の中で弄ぶ。何かあったのだろうか。それとも運動のあとに寄り道でもしているのか。掛けるほどのことでもない気がして、かといって放っておく気にもなれず、親指が発信の手前で止まる。
その時、表のガラス戸の向こうを見慣れた影が横切った。
「あっ」
シラベだ。肩に着替えやタオルを詰めたバッグを提げた、出て行く前と同じ姿で店の前を歩いている。
そう、歩いている。店の前で立ち止まらず、シラベの姿は戸の枠の右から左へ抜けていった。
そしてその隣にもう一人、人影があった。
背の高い女だった。ミトラに見覚えは無い。革ジャンにパンツという残暑に喧嘩を売るような格好で、指先に銀色の飾りが光っている。シラベより僅かに背が高く、すらりと細い。背の中ほどまで伸びた黒髪が、歩く拍子に揺れていた。
女の目が、横目でこちらを──というより、店を見た気がした。だが視線は何に注目するわけでもなく、よくある通行人と同じ調子で通り過ぎていく。
シラベが見知らぬ女と歩いていること自体は別にいい。ミトラと違い人付き合いというものが出来るあれに知り合いがいても驚くところではない。
気になるのは、店の前を素通りしたことだ。
あの男は女の扱いに慣れている。ミトラの性格を把握した上で甘やかしてくれる程度には慣れている。
その上で、ミトラとしては少しばかり思うところがあるというのは正直なところだが、シラベの側はどうやらミトラを嫉妬するたちだと思っているらしい。真偽のほどはミトラも意図して無視するとして──レヴェローズやカルメリエル、ヒナタと親密になった後、あの男はミトラを気に掛けてくる。頭を撫でるとか、膝に乗せてくるとか、そういうやり方で補填するように振る舞うことがある。
そこまでしなくていいのに、と思いながらも、気分がいいのでミトラはいつもそこに乗っかっている。
そういう男が、見知らぬ女と連れ立って、家族のいる店の前をわざわざ通り過ぎる。この商店街で誰かに見られて面倒の種になることを、あの男がうっかりやるだろうか。
やらない。やるとすれば意図がある。
つまりこれは、シラベなりの合図なのではないか。誰かに見つけて欲しいというアピールなのではないか。ミトラのなかでそういう辻褄が合ったことにする。
レヴェローズはミーシャを連れて買い出しに出ている。店に残っているのはもう一人だけだ。
「カルメリエル、ちょっとレジお願い」
バックヤードのカーテンへ声を投げると、返事より先に糸目の顔が覗いた。
「あら。どちらへ?」
「ちょっと野暮用」
「はぁ、かしこまりました」
適当な言い方でも応じてくれるのはありがたい。ミトラは踏み台から飛び降りて、表口から外に出る。二人が歩いて行った方向を向くと、背中はまだ見えていた。
追い掛けるが、距離が縮まらないうちに二人は通りの途中で右へ折れた。店と店の間にある細い路地だ。
路地の角にはお誂え向きの電柱と自販機が並び立っているため、ミトラはその陰へ体を滑り込ませる。こういう時だけはこの成長しない身体が役に立つ。自販機の幅で余裕を持って隠れられるのだから。
息を整えて、そっと顔を出す。
路地には室外機とビールケースが雑然と積まれている。ごちゃついたその中ほどで、二人は立ち止まって話していた。
シラベはこちらへ横顔を向けて、壁に背を預けている。腕を組み、目線は女から逸らして足元の辺り。どこか鬱陶しげな顔だった。店でミトラに厄介事を頼まれた時に見せる顔とよく似ている。
女の方は、対照的だった。シラベの正面に立ち、上から覗き込むように顔を寄せている。距離が近い。
「──そりゃあ気になるよ。失踪でもする気だった?」
女の低めの声は、路地によく通った。室外機の音にも
「二年くらい、別に普通だろ」
「三年だよ。というか電話どしたの、繋がんなかったんだけど」
「色々あった。そんだけ」
「どういう色々さ。面倒くさがらないでよ」
笑い声。それから何か続いたが、通りを抜けていく自転車の音に半分持っていかれた。ミトラは聞き耳を立てる。
「……たまにはいいじゃん。ダメ?」
「無理」
「お金くらい出すよ? 遠慮するなって」
「遠慮じゃねえ。金なら一応、貯めてるし」
「ああ、ここらで働いてるんだっけ。結局どの店? 教えなよ」
「嫌だ。覗きに来るつもりだろ」
「正解」
シラベの言葉に女がまた笑って、今度はシラベの頬を指で突く。シラベはそれを払おうとしないが、嫌そうな顔だけはしている。
誰なのだろうか。馴れ馴れしい距離感は店の面々ともヒナタとも違う感じがする。
(……元カノ、とか)
その言葉が頭に浮かんだ途端、さもありなんとミトラは思ってしまう。シラベの様子を見ればそういうのが以前にいても不思議ではない。
それをどうこう言うのは、自分には荷が重いとミトラは思う。人と人との繋がりは商売でもそうそう切れないものもある。シラベの過去を干渉する権利だってミトラにはない。ただ、あの女の顔をもう少しよく見ておきたいとは何かがくすぶる。
その思いで角から半歩、身を乗り出した時。かこんと軽い音が足元で鳴る。
「やばっ」
転がっていた空き缶につま先が当たってしまった。気付いた時には缶は路地の中へころころと転がり、二人の視線を釣り上げながら室外機の脚に当たって止まる。
缶から流れた二人の視線がミトラに向かう。
女の目がミトラを捉える。切れ長の目が興味深げに。シラベの目もこちらを向いて、その顔が、なぜかほっとしたように緩んだ。
「──悪い悪い! 待たせちまったよな!」
わざとらしいほど大きな声で言いながら、シラベが駆け寄ってくる。何がと訊く前に脇へ手が差し込まれ、両脚が地面から浮いた。
「わっ」
抱え上げたまま、シラベは女へ向き直った。
「悪い姉貴、知り合い待たせちまってるからこれで!」
「は? おい、シラベ──」
呼び止める声には振り向きもせず、シラベは走り出した。路地を飛び出し通りへ出て店へ──ではない。ボトムレスピットの前を通り過ぎて、どんどん走っていく。
景色が上へ下へと弾む。片腕で尻を支えられ、もう片方の腕は背中に回されて、ミトラの体はシラベの肩口へ押し付けられていた。ジム帰りのせいか、汗と嗅ぎなれない石鹸の混じった匂いがする。
「し、シラっ、ねぇっちょっ、とぉ!!」
「悪い、全部後だ!」
誰なのか。なぜ逃げるのか。どこへ行くのか。今の呼び方は何なのか。聞くべきことはいくつもあった。だが混乱の上で揺さぶられるせいで言葉はうまく紡げず、シラベも聞く耳を持たない。
ミトラは訳の分からないまま、シラベの首に両腕を回してしがみつくことしか出来なかった。