商店街を抜けて住宅街へ入り、角を二度曲がった先の古い門の前で、ようやくシラベの足が止まった。
門柱の表札は文字が日に焼けて薄く、玄関までの飛び石は相変わらず草に半分埋もれている。ミトラの実家の前だ。誰も住まなくなって久しい家は、物置として有効活用するようになった今も古ぼけている。
「はぁ……しんど。運動したあとに走るもんじゃねえな」
シラベは門柱に背を預け、肩で息をしている。抱えられたままのミトラの体も、その呼吸に合わせて大きく上下していた。
なぜ逃げたのか、どういう状況だったのかも、まだ聞けていない。それよりまず暑い。汗で湿ったシャツ越しに、走ったばかりの体の熱が押し付けられてくる。
ただでさえ日差しの下だ。降ろせと文句を言うべきなのだろうが、ミトラは首に回した腕を解く気になれなかった。
耳のすぐ横で息が乱れている。吸って、吐いて、それでも追い付かなくてまた吸って。こんな呼吸をミトラは別の場所でも聞いたことがある。明かりを落とした部屋の中で、今よりもっと近い距離で。
思い出した途端、回した腕へ余計な力が入った。汗の匂いが濃くなった気がする。真昼間、それも実家の門先で思い出すようなことではない。分かっているのに、ミトラは額をシラベの肩に押し付け続ける。
頭に手が乗る。
「急に悪かったな」
二度、三度と軽く叩くように撫でられる。返事をしようとしたが、ろくな声にならなかった。撫でる手も心地よくて、もう少しこのままでいたい。
「……おい?」
顔を覗き込まれて、ミトラは瞬きをした。すぐ近くに汗の玉を浮かべた顔がある。なんだろう。もっと近付けてくれてもいい。というか届かないから近付けて欲しい。
目の前のそれが怪訝そうに眉をひそめているのに気付いて、やっと正気に戻ってしまう。
「え。……ん、うん」
自分でも意味の分からない返事だった。ミトラが腕を離すと、体がゆっくりと降ろされる。靴の裏に地面が戻ってきた。
シラベは肩からずり落ちかけていたバッグを掛け直し、門を押し開けた。飛び石を踏んで玄関まで進むと、ポケットから鍵束を取り出す。在庫の出し入れを任せるようになってから、この家の合鍵も店の鍵と一緒に持たせてある。
「日向にいるよりはマシだろ。ちょっと休憩しようぜ」
そう言いながら、シラベは戸を引く。締め切っていた家の中もやはり暑い。それでも言ったとおり外よりはマシで、埃っぽさも以前ほどではない。店から荷を持ち込むようになって、人の出入りが増えたせいだろう。
二階へ上がる急な階段の周囲には運び込んだ在庫の箱が積まれ、玄関を入ってすぐの横手には分解したフルメタル神輿の板や骨組みが積み上げてある。またすぐに出すつもりなのか、置き場所は見るたびに入り口へ近付いている。製作者と同じで、黙っていても妙な圧を掛けてくる代物だった。
シラベは戸を開け放したまま、正面の上がりかまちへ腰を下ろして長く息を吐いた。
ミトラはその膝の上に座る。背中をつけた胸板の奥で、心臓はまだ動きが速い。
「おい、暑い」
「いいじゃん別に。この家じゃあんたの膝の上が一番きれいなんだから」
「汗がつくだろうが」
取り合わずにもたれる位置を直す。正気にはなったが、別に行動を改める必要は無い。
「そんなことより。さっきの人は、結局なんなのよ」
シラベはすぐに答えなかった。視線を横へ逃がしてから、渋々というふうに口を開く。
「……俺の姉だよ」
「それは分かる。姉貴って呼んでたし。聞いてるのは、なんであんたがお
「今、なんか変な言い方しなかったか?」
「気のせいよ」
今は本題ではないのでそういうことにする。押し切ると、シラベは納得のいかない顔をしながらもそれ以上は追わなかった。
「ジムの帰りにばったり出くわしちまったんだよ。……店まで付いて来られたら面倒だから撒こうとしたのにしつこくて。誰か気付けと思って店の前を歩いたら、ミトラが釣れて助かった」
「人を魚みたいに言うな。来たのがカルメリエルだったら結構面倒なことになってたんじゃない?」
「いいんだよ別に。話を切り上げるきっかけが欲しかっただけだし」
「後先考えなさいよ。……お
「いや。親と一緒に住んでたはずなんだが」
それなら、シラベの親も近くには住んでいないのだろう。言葉の端を拾って頭の中で繋ぎかけ、ミトラはふと気付いた。もしかすると、この男の口から親類縁者についての話が出るのを初めて聞いたのではないか。
膝の上で体をひねり、顔を寄せた。
「そういえば、あんたのご両親は今どうしてるの? 学生の頃からうちに来てたし、前はこの辺りに家族で住んでたんでしょうけど」
返事は無い。シラベは露骨に顔を渋くして、土間の隅へ目をやった。
「別に、言いたくないならいいけど。気になっただけで。親の話することって、あんまりないし」
その態度に、ミトラは咄嗟に付け加えた。この質問はシラベのひどく柔らかい部分に触れてしまっているのではないか。そう思った途端、逃げ道を置く言葉が必要な気がしてしまったのだ。
もっとも、口ではそう言いながら体をどける気は無い。背中をもう一度押し付けるようにもたれ直し、ミトラは待つことにした。
「──別に隠す事じゃないって。うちの親は東北の方で暮らしてるよ。シラベは就職決まったから着いてかないで、こっちで一人暮らし始めただけ」
期待していなかった答えは、玄関の方から降ってきた。背中で受けていた胸板が硬くなる。
振り向くと、開け放した引き戸の陰から黒髪の女が顔だけを覗かせていた。妙に高い位置から長い髪が垂れ下がっているせいで、生首感がひどい。
「ひゃぅ」
「何やってんだ、お前」
ミトラの喉から出た呻きに、シラベの呆れ声が重なった。女は悪びれもせず、顔だけ覗かせた姿勢のまま眉を上げてみせた。
「あれだけ走ったのにしつけえな……」
シラベの呟きに、今度は女のほうが呆れた声を出した。
「通行人に聞いたら一発だって。あんたくらいの歳の男が子供を抱えて全力疾走してたらかなり目立つんだから、気を付けな」
「ちっ……」
女は戸の陰から出て、土間に足を踏み入れた。革ジャンの前は開いていて、中のシャツに汗の色が浮いている。追い掛けてきた分の汗だろう。
ミトラの前まで来ると、見上げ続ければ首が痛くなりそうな長身を折り畳むようにしゃがみ込んだ。
目の高さが揃う。膝に置かれた指先で、銀色のアクセサリーが光る。
「初めまして。シラベの姉の、押江カナデです」
微笑む顔はシラベと話している時よりずっと柔らかい。声もゆっくりとしていて、子供を怖がらせないようにしているつもりらしい。こうして近くで見れば、切れ長の目の作りがシラベに似ている。愛想は姉の方が幾分いい。
何と返せばいいのか、ミトラは迷った。店長です、では違う。同居人です、では足りない。もっと相応しい肩書きもあるが、いざ言うとなると度胸が足りない。
「……佐野ミトラ、です」
結局、名前だけを返して頭を下げた。するとカナデは目をぱちくりさせた。視線がミトラの顔からその背後のシラベに移る。
「あんた、苗字変わった?」
「変えてねえよめんどくせえ」
「変えてもいいって前に言ってたでしょ」
考えるより先に口を挟んでいた。言ってから、膝の下でシラベの脚が強張ったのが分かる。
「ん? んんん???」
カナデの首がゆっくりと傾く。何かがおかしいと疑問は抱いているようだったが、その正体に行きつかず不思議がっているらしい。
姉が首を捻っている一方で、弟はひどく重々しい溜息を吐いていた。