カナデの首がほぼ真横に傾く頃、その口がまた開いた。
「ねえ。この子に苗字変えてもいいって言ったの? なんで子供が親の苗字の話をするのさ……え、待って。この子あんたの子じゃないの? てっきり高──」
「子供じゃねえ」
ミトラの背後で長い溜め息が落ちた。
「こいつ、三十五歳」
「は?」
カナデの首が元へ戻った。見開かれた目がミトラの頭から爪先までをゆっくり往復する。
「……ほんとに?」
「えっと、はい」
疑われるところまで含めて慣れている。ミトラは服のポケットから免許証を抜き出し、カナデへ差し出した。
写真を見て、生年月日を見て、ミトラの顔を見る。それからまた写真へ戻った。ミトラにとってはおなじみの光景だ。
「うわ、本当だ。……ごめんなさい」
「別に。いつものことなので」
両手で返された免許証を受け取り、ポケットへ仕舞う。これで誤解は解けたはずだ。そう思ったのだが、カナデはミトラの腰から下へ目を向けた。
正確には、ミトラが座っている場所へ。
「で、なんで三十五歳の人を膝に乗せてるの?」
「…………」
「…………」
今度はシラベも助け舟を出さなかった。ミトラも何も答えないまま膝を滑り降り、シラベの隣へ座り直す。
「えーっと……いや、違う。色々聞くことありそうだね」
カナデは納得したのかしていないのか分からない声で言うと、革ジャンのポケットを探った。そこから取り出した長財布をいきなりシラベに投げる。
「シラベ、飲み物買ってきて。近くにコンビニあるでしょ」
「はあ? なんで俺が」
「種類は任せる。あとアイスも」
「聞けよ」
文句を言いながらも、シラベは立ち上がった。投げられた財布を自分のポケットへ突っ込んでからミトラに振り返る。
「ちょっと行ってくる」
「……うん」
気に掛ける声色にミトラは内心嬉しく思うものの、戸口を抜けた背中が見えなくなると急に心細くなった。見上げれば自分より遥かに背の高い女が見つめてきている。普通に怖い。
その女が、先ほどまでとは少し違う笑い方をした。子供を怖がらせないためのものではなく、いつかヒナタの会社に呼ばれた時に見せられたような、いわゆる社交用の顔だ。
「弟が戻るまででもいいので、少しお話しませんか。ミトラさん」
「……はい」
名前にさんを付けられたことに、ミトラはほんの少しだけ姿勢を正した。
カナデはシラベが空けた場所へ腰を下ろした。並んで座ると、ミトラの目線はようやく相手の肩まで届く。
「まず……ミトラさんはシラベと、どういう関係?」
来ると分かっていた質問なのに、いざ向けられると答えに詰まりそうになる。何度か深呼吸をしてから喉を震わせた。
「シラベが働いてる店の、店長です」
「店?」
「近くのおもちゃ屋、ボトムレスピットっていうんですけど」
店の名前まで教えていいものか一瞬迷ったが、シラベもごまかし続けられるとは思っていないだろう。言ってしまった方が気が楽だ。
「ボトムレスピットって、あのカードやってるところ?」
「知ってるんですか?」
「店の前までは何度か行ったよ。学生の頃のシラベが入り浸ってたから」
「ああ……はい。そこで彼は、今働いてます」
「前の会社は?」
「うちに来ることになった時には、もう辞めてました」
「どうして?」
「詳しいことは、私も知らないんです。本人も、あんまり言いたがらなくて」
「そっか」
言葉が止まる。それ以上追及されなかったことにミトラは少し安堵する。
「それと、一緒に暮らしてます」
「へ? 同居してるの?」
「……付き合って、いる、ので」
言ってから、ミトラは自分の膝へ目を落とした。本人の前では出てこなかった言葉が、いなくなると出てくるらしい。情けない度胸の出方だ。
ちらと横目を振る。カナデは驚いた顔をしたものの、とりあえず嫌そうにはしなかった。シラベが出て行った戸口を見てから、いかにも納得したというように頷く。
「はぁ~……なるほど……なる、ほど……? いやまぁ、そっかぁ……」
「……やっぱり変ですよね、私のナリじゃ……」
「え? ああ、違う違う。シラベはそういうの気にしないだろうし。ミトラさんかわいいから安心して。そうじゃなくて……そっか、あれがねぇ……」
何がおかしいのか、カナデは楽しそうに笑っている。
それ以上のことをミトラは話さなかった。店にカードの精霊が二人と娘が一人と猫が一匹とで一緒に暮らしている、などと説明するのは劇薬が過ぎる。
代わりに、カナデと連絡先を交換した。これでまた弟の電話が繋がらなくなっても安心だと言われたのは、あまり安心していいことではない気がした。
慣れない電話番号登録を終えたところで、表の戸から足音が聞こえてくる。コンビニの袋を提げて戻ってきたシラベは、二人の手にあるスマートフォンを見比べて露骨に顔をしかめる。
「なんで連絡先交換してんだよ」
「あんたがまた消えた時のため」
自分よりもよほど人馴れしているだろうシラベがこうして心配されているのと、そんなシラベより自分が頼られているのが、ミトラの心を奇妙にくすぐっていた。
それからしばらくして。シラベが買ってきた飲み物とアイスを手に、三人は風の通る場所として庭に面した縁側へ移った。
ミトラとカナデは縁側に並んで座っている。
二人の間には空になったアイスの包みが二つと、お茶のペットボトルが二本。買い物袋の中では、三つ目のアイスが誰にも開けられないまま溶けかけている。風が通り抜けるたび、包装の端がかさりと鳴る。
シラベはお茶を半分ほど一息に飲むと、縁側で話に花を咲かせ始めた二人を見て何を思ったのか、庭へ下りて草をむしり始めた。
「シラベー、あんたもこっち来なよ」
「…………」
聞こえているはずなのに返事は無い。不愛想な様子にカナデはキキキと甲高い笑い声を噛み殺す。
「昔からあれなんだよね。母さんにテスト見せろって言われると、急に玄関を掃き始めたり、風呂を洗い始めたりしてさ」
「ああ……なんか分かるような」
「ほんと変わってないわ、あのバカ。別にイヤな事は聞かないってのに」
カナデが声を立てて笑う中、庭ではシラベが抜いた草を一箇所へ集めながら、こちらへ背中を向け続けていた。
知っているようで知らない話を楽しそうに語るカナデを前に、ミトラは少しばかり気後れしていた。それでも、もっと聞きたいという気持ちの方が勝った。
「カナデさんは今、ご両親と暮らしてるんですか?」
「うん。今の職場が実家から近いから、一緒に住んでる」
「そうなんですね」
勤め先に合わせて住む場所を変える。この家と店の二階の間でしか住まいを移したことのないミトラには、頭では分かっても実感の湧かない話だった。
「それで最近、親がさ。シラベが何してるのか全然分からないって結構気にしてて。電話は繋がらないし、じゃあちょっと見てくるかって新幹線の切符取って来たわけ」
「うわ。フットワーク軽い」
「思い立ったがってね。でも住んでるはずのアパートへ行ったら、もう別の人が住んでてさ。さすがにマジかよって思った」
そのまま帰る気にもなれず、昔シラベがよく歩いていた辺りを探し歩いたという。自身の学生時代のことも思い出しながらぶらぶらしていたところへ、当の本人が通り掛かったのだと。
「今日見つけられたのは運が良かったよ。どこ調べればいいか全然分かんなかったし。あいつが居そうな場所なんてここいらしか知らないから」
カナデは笑って、ペットボトルを傾けた。
「さっきもちらっと言ったっけ。あいつの就職先が決まった頃、親が田舎へ戻るって話になってね。で、シラベはこっちに残るから新しく部屋を借りたんだ」
「じゃあ、その時からシラベは一人で?」
「いや、心配だったし最初の数か月は私も一緒に住んでた。大学を卒業する前には、私も仕事の都合で親のところへ移ったけど」
「心配って?」
シラベの生活態度が心配というのは、ミトラの認識とはあまり噛み合わなかった。自分よりも生活力があるあの男ならどうとでもなるのではないか。
だがカナデは、だってねぇと含み笑いをしながら首を振る。
「あいつ、大学行きながら昼も夜もバイトして、余った時間にはカードで遊んでるような変人だもん。それで就活も済ませたわけだし、どれだけ体力あるんだよって思ってた」
カナデの目線に沿って、ミトラは庭へ目を向けた。シラベは額の汗を腕で拭い、次の草へ手を伸ばしている。
「シラベとは、その数か月で最後なんですか?」
「うん、そう……いや、違うか」
ばさりと黒髪を振ってから、カナデの声が少し低くなった。
「……三年くらい前だったかな。一度、シラベから電話が掛かってきたんだよ。時期的に、就職してすぐの頃」
カツ、と硬い音が小さく鳴る。カナデの歯が、ペットボトルの口に当たる音だった。
「仕事どうだって聞いても全然話してくれなくて、何を聞いても適当にごまかして。それより姉貴はどうなんだ、親はどうしてるんだって。そんな話ばっかり」
指先で弄んでいたペットボトルが止まる。
「結局、それが最後になっちゃってたな」
──違います。俺はそんなことやってません。
いつだったか、眠りながらシラベが絞り出していた言葉が蘇る。
何を否定していたのか、ミトラは知らない。前の職場で、身に覚えのない何かを押し付けられたのではないか。なんとなくそう思ってはいるが、聞くのも聞かされるのも少し怖い。
「ミトラさん」
呼ばれて、庭から隣へ視線を戻す。
「シラベを、よろしくね」
「はい。もちろんです」
答えに迷う理由は無かった。
カナデは目を伏せて微笑んでから、また庭へ顔を向けた。
やがて、カナデがスマートフォンで時刻を確かめた。
「おっと。そろそろ行かないと新幹線間に合わないな」
二人で縁側を下り、庭のシラベに近付く。
「シラベー。そろそろ姉ちゃん帰るよー」
「そうかい」
返事はするが、顔は上げない。カナデが呆れたように息を吐く。
「まったく。……ねえ、シラベ」
「なんだよ」
「今の仕事は楽しい?」
「楽しいよ」
草を抜く手を止めないまま、すぐに答えが返ってくる。ミトラの耳へまっすぐ入ってくる。自分が褒められたわけでもないのに、口元が緩むのを隠せなかった。隣ではカナデも実に嬉しそうに笑っている。
「そっか」
短い声は、それで充分だと言っているようだった。
そのまま見ていたカナデが、ふと眉を寄せる。
「……あんた、耳まで赤くなってない?」
「んだよ。照れるところないだろ」
「そういうんじゃなくて」
「暑いからそう見えてるだけだって、平気」
シラベが土を払って立ち上がろうとして、その膝が伸び切る前に肩が不自然に傾いた。
「ちょっと!」
ミトラは咄嗟に駆け寄り、ほとんど抱き着くような形でシラベを支えた。遅れて伸びたカナデの手がシラベの背へ添えられる。
「言ったそばからこれか、まったく」
「ただの立ちくらみだって、大袈裟な……」
「はいはい、言ってな」
ぶつぶつ言うシラベを二人掛かりで縁側へ座らせる。ミトラは置いてあったシラベのペットボトルを押し付けた。本人は不服そうにしながらも、言われるまま何口か飲んでいく。
受け答えにもおかしなところがないのを確認して、ミトラもカナデも胸を撫で下ろした。
「しばらく休ませてから、家へ連れて帰ります」
「それがいいわ。でも、ミトラさんだと運ぶの大変じゃない? 手伝おうか?」
「いえ、大丈夫です。うちには──店には、力持ちの店員がいますから。連絡すれば来てもらえます」
「……まあ、それならいいけど」
カナデはまだ少し心配そうだったが、シラベがもう一口お茶を飲むのを見て頷いた。
それから、座ったままの弟の頭へ手を乗せる。
「あんまり無茶するなよ」
「……子供扱いかよ」
「残念、これは弟扱い。一生やってやるわ」
がしがしと髪を撫でてから、カナデは手を離す。シラベは嫌そうな顔こそしていたが、最後まで払いのけようとはしなかった。
「今日はありがとう。じゃあね、ミトラさん。また連絡する」
「はい。お気を付けて」
ミトラは門の外まで付いて行き、カナデを見送った。長い黒髪が角の向こうへ消えるまで立ってから、また庭へ戻る。
縁側ではシラベが片膝を立てて、お茶の残りを飲んでいた。
「横になりなさいよ」
「もう平気だって」
聞こえないふりをして、ミトラはシラベの隣へ腰を下ろす。シラベの肩を引いて横にさせると、その頭がミトラの膝へ収まった。帽子も被らずにいた短い黒髪は、日向ぼっこしたばかりの大穴のように暑いしちくちくしている。だが、ミトラにとっては心地よい感触だった。
「……お前、これがやりたいだけじゃねえだろうな」
「黙って休んでなさい」
まだ冷たさの残っているペットボトルを、赤みの引かない肌へ押し当てる。少し身を固くしたシラベだったが、徐々にミトラに体重を預けてくる。
先ほどカナデの手が触れていた辺りを、今度はミトラの指がゆっくりと梳いていく。
汗で湿った髪は、いつもと同じようにミトラの指へ馴染んだ。
※作中時間が経過しているので本当はもうちょい歳行ってますがざっくり進行で。
気になったら正確な年齢に直すかもだけどとりあえずミトラさんじゅうごさい、いいね?