夕飯の片付けが済んだ後のボトムレスピットの二階は、昼の熱を壁ごと抱え込んだままだった。開け放した窓から入る夜風はぬるく、扇風機がそれを掻き回しているだけで、涼しくなる気配はない。
夜の集いは今夜、早めに散っている。ミトラは眠いと言って自分の部屋へ引き上げ、カルメリエルは店の帳簿を見ると言って一階へ降りた。シラベの部屋に残っているのは、四角いテーブルの上に載った丸い金魚鉢と、それを床から見上げる二つの頭だけだ。
金色と黒。レヴェローズと大穴である。二人揃って畳に腹ばいになり、同じ角度で首を傾げていた。
「ほう。これがミーシャの祭りでの釣果か」
「おまけで貰ったやつだけどな」
座椅子にもたれたまま、シラベは訂正を入れた。ポイを四枚破って一匹も掬えず、参加賞として袋に入れてもらった一匹である。もっとも、持ち帰った当人がそれを宝物のように提げて歩いていたのだから、釣果と呼んでやってもいいのかもしれない。
袋のまま置いておくわけにもいかず、翌日には器を探す羽目になった。買いに走る前に思い出したのがミトラの実家で、在庫の箱の隙間から埃を被った金魚鉢が出てきた時には、あの物置に手を合わせたくなったものだ。
「ミトラの実家に金魚鉢があって良かったよ。あそこ、探せば大抵のものが出てくるな」
「うむ。物持ちの良い家だ」
赤い魚はそんな話に興味も示さず鉢の中を回っている。ひらついた尾が水の中で開いては閉じるように揺らめき、部屋の明かりを受けてときどき鱗が光った。
レヴェローズは顎を畳に着けたまま、その動きを目で追っている。大穴も同じ姿勢で、尻尾の先だけを畳の上で緩く振っていた。
「大穴。言っておくが、これは食べてはダメだぞ」
「んなっ」
鉢から目を離さずにレヴェローズが言う。大穴の首がぐりんと回り、星屑の瞳がレヴェローズをじろりと見た。
心外だとでも言いたげな一声を返すと、また黒猫は鉢へ視線を戻した。食べてはいけないものだとは分かっているのだろう。だがそれはそれとして、目は離せないらしい。
シラベは漫画を開いたままその様子を横目で見ていた。家の中のものを勝手に食った前科は、少なくともシラベの知る限りでは無い。黒光りするあいつの時は食ったのではなく駆除だと認識しているし、あの時は大いに叱ったので同じことはしないはず。多分大丈夫だろう。多分。
「しかし、何故契約者の部屋に置いているのだ?」
「置き場所がねえんだよ」
シラベは漫画を閉じた。
「店の方に置くには、うちはちょっと狭い。カウンターの上は物で埋まってるし、商品棚や対戦スペースは論外。お前らの三人部屋は隅に置いてもお前の寝相で蹴倒しかねないだろ」
「む。私の寝相がなんだというのだ」
「自覚ねえのか」
レヴェローズは反論しかけて、口を閉じた。心当たりくらいはあるらしい。
「で、ミトラも自分の部屋にはちょっとって言うから、俺にお鉢が回ってきたわけ」
シラベは座椅子の背から体を起こして、テーブルの上を見た。
「まあ、世話はミーシャが見てるから、俺も文句は無いしな」
餌やりも水の様子を見るのも、ミーシャが毎日きっちりやっている。シラベがやるのは、部屋の移動で鉢を蹴らないよう気を付けることくらいだ。
「ふむ。では私も世話を手伝ってやろう」
「あん? なに言ってんだ」
レヴェローズは畳から身を起こし、鉢の横に置かれた小さな筒を手に取った。金魚の餌の容器である。
「見ろ契約者、こうも痩せっぽちでは可哀想ではないか」
言いながら蓋を開け、添えてあった小さな匙で中身を掬う。一杯では足りないと思ったのか何度か掬い直して、匙の上に赤茶色の粒をこんもりと盛り上げた。鉢の中の魚より大きい。
「おい待て。それ全部入れる気か」
「当然だ。腹一杯食わせてやらねば」
匙が鉢の縁を越えようとした、その時だった。
「ダメですよ、レヴェローズ様」
戸の方から声が飛んだ。振り向くと、ミーシャが本を一冊胸に抱えて立っていた。風呂上がりの銀髪はまだ少し湿って、いつもより艶めいて見える。
「金魚のご飯は、一日に二回くらいで大丈夫なんです。それも、すぐに食べきれる量が良いそうです。多く入れてしまうと、食べ残しで水が汚れて、金魚が病気になってしまうので」
ミーシャは部屋へ入ってくると、レヴェローズの手元を覗き込んで困ったように眉を下げた。
「その量は多すぎます。それに、今日のご飯はもう済んでいます」
「むぅ」
匙が止まる。レヴェローズは盛り上げた餌と鉢の中とを見比べて、渋い顔をした。
「だがもっと食べないと大きくなれんぞ。我が家で暮らすなら、もっと強くなければ」
何と戦わせる気なのか。シラベは口を挟まずにおいた。
「身体を大きくしたいなら、一度にいっぱい入れるのではなくて、小分けにして入れるのが良いそうですよ。でもあんまり身体を大きくしてしまったら、今住んでいる鉢の大きさと合わなくなってしまいます」
「……むぅ。まだ食べられそうな顔をしているが」
「お前と一緒にするな」
レヴェローズは匙と金魚とを交互に見て、しばらく未練がましく手を止めていた。それから、自分を納得させるように頷く。
「いや。これはミーシャの戦果であったな。ミーシャがそう言うのであれば、それに従おう」
「ありがとうございます」
餌が容器へ戻される。匙も収めて蓋を閉めたところで、ミーシャの顔がほころんだ。
「ずいぶん詳しくなったな」
「はい。家で飼うなら、しっかり調べようと思って。駅前の図書館で色々調べてみました」
「図書館……ああ、最近駅の方に行ってるのはそれか」
夕立の日もミーシャは駅の方へ出掛けていた。どこへ行っているのかは聞かずにいたが、そういうことらしい。教わったことをよく覚える子だとは思っていたが、いつの間にか自分で調べに行くようにまでなっていたようだ。餌を山盛りにする手伝いよりもよほど頼もしい。
シラベの目がミーシャに抱えられた本へ落ちる。表紙には校舎らしき建物と、大きな時計の絵が描かれていた。
「じゃあ、それも図書館で借りてきたやつか」
「あ、そうです。お父様、この本のことで聞きたかったんでした」
部屋に来た用件はそれだったのだろう。ミーシャは本を開き、栞を挟んであった頁をシラベへ差し出した。
覗き込むと、字の大きな児童書だった。放課後の学校に、主人公にしか気付けない秘密の時間が生まれる。チャイムが鳴った途端に校舎中の時間が止まり、動けるのは主人公だけで、止まった学校の中を一人で歩き回る──そういう筋らしい。
「ここの、チャイム、というのが」
ミーシャの指が一行をなぞる。
「何度も出てくるんですけど、何のことなのか分からなくて。学校に鐘があるんでしょうか」
「たしかに鐘みたいなもんだ。授業の始まりと終わりに、学校中に鳴る音があるんだよ。今は大体、放送で流す」
「放送、というのは」
「校内に音を流す仕組み。天井にスピーカーが付いてて、そこから声とか音楽とかが出る」
「スピーカー……」
一つ答えると、次の言葉が引っ掛かる。ミーシャは頁を一枚戻して、別の行を指した。
「この、上履きというのは」
「学校の中で履く靴。外の靴とは玄関で履き替える」
「建物の中で靴を履くんですか?」
「ほら。うちの一階もサンダルで歩き回ったりするだろ」
「なるほど……? じゃあ、この職員室は」
「先生たちの部屋。授業の準備したり、クーラーで涼んだりする場所」
「給食は」
「昼飯。残った飯をじゃんけんで奪い合う」
「時間割」
「授業の順番を書いた表。……これ結構古い本だな、俺の時って六時間目まであった気がするけど……」
一行進むごとに質問が増えていく。文章自体が難しいわけではない。児童書とはいえ、学校というものに通ったことのない人間が読むには知らない言葉が多すぎる。一つ一つ説明してやるのは構わないが、この調子だと一頁に十分は掛かる。
シラベは本を受け取って、閉じた。
「よし、分かった。読み聞かせしてやる」
「え?」
「俺が声に出して読む。分かりにくい言葉が出てきたらそこで言い直して教える。たぶんこれが早い」
シラベは座椅子へ座り直した。足を組み、膝を軽く叩いてミーシャを呼ぶ。
「ほら、ここ来い。横から覗いてると首疲れるし、こっちの方が一緒に見やすいから」
ミーシャは膝とシラベの顔を順に見て、不思議そうに瞬きをした。
「私がお父様のお膝に座っても、お母様に何か言われないでしょうか」
気後れしている声ではなかった。誰が使っていい場所なのかを、ただ確かめているらしい。ミトラが普段から当然のように占拠しているせいだろうが、別に所有権を与えた覚えはない。
「親子っていうならこれくらい普通だろ」
「そうなんですか?」
「たぶん」
ミーシャは少し考えて、それから納得した顔で頷いた。
「では、失礼します」
組んだ足の上に、ミーシャがちょこんと腰を下ろす。ミトラより一回り大きい。本を持つために腕を前へ回すと、ミトラの時には無い柔らかいものに肘が当たった。それ以上は考えない。
湿った銀髪が顎の下で揺れる。シャンプーの匂いはミトラが使っているものと同じだった。
「見えるか?」
「はい」
シラベは最初の頁へ戻り、読み始めた。
教室で主人公が忘れ物に気付く場面から、早速ミーシャの質問が入った。日直とは何をするのか。黒板は誰が消すのか。上履きは部屋に入るたびに履き替えるのか。
その都度、区切りまで読んでから答えたり、挿絵を指して見せたりする。学校に通っていた頃には説明するまでもないことが、聞かれてみると意外と言葉にしづらかった。
「では、毎日みんなで掃除をするんですね」
「場所を分けてな。ちゃんとやらねえと怒られるけど、サボる奴もいる」
「契約者はどうだったのだ」
「俺はほら、真面目だから」
話に加わりながら、レヴェローズが畳の上をずるずると這い寄ってきた。金魚には飽きたのだろう。シラベの脇に寝そべって肘で頭を支え、聞く姿勢を取る。大穴だけがまだ鉢の前に残って、回り続ける赤を見上げていた。
主人公が止まった校舎を歩き回るあたりで、ミーシャの質問は減っていった。分からない言葉があっても、前後から見当が付くようになったのだろう。代わりに、頁が進むたびに小さく息を呑む音が顎の下から聞こえる。
脇で聞いていたレヴェローズの相槌は、章が変わる頃には途切れていた。見れば、支えていた頭が滑り落ちて畳に頬を着け、口を半分開けて眠っている。金魚を見ていた大穴がいつの間にかその腹の横へ移って丸くなっていた。
シラベは呆れたが、起こすほどでもないので声を少し落とした。
本の全体の三分の一ほどを読み終えた頃。章の切れ目で顔を上げ、傍らのスマートフォンを裏返すと、画面は十一時を過ぎた時刻を映していた。
「……っと。もうこんな時間か。そろそろ寝るか」
ミーシャの頭が動いて、同じ画面を見た。それから、シラベの顔を覗く。眉が下がって、口が小さく尖っている。残念そうな顔だった。
「……もうちょっとだけ、お願いします」
まだ読み足りないのだろう。閉じられそうな本の端へ指を添え、名残惜しそうにしている。
「あんまり夜更かししてると、ミトラに叱られるぞ」
「お母様だって、よくお父様のお部屋で夜更かししてますよね?」
「いいんだよ。大人だから」
シラベは天井の隅へ目を逸らした。それ以上突っ込まれなかったのは幸いだった。ミーシャがどこまで分かって言っているのかは、確かめないでおく。
「それにしても、こんなに本好きだったっけ?」
勉強の本は毎日見ている。だがこういう本を自分から抱えてくるのは、ここへ来た頃には無かった姿だ。ミーシャは膝の上でしばし考えてから答えた。
「最初は、お礼として読んでいたんですけど。だんだん、自分で読むことが楽しくなってきて」
「お礼?」
「あ」
ミーシャの口が丸く開いた。説明を一つ飛ばしていたと気付いたようだ。
「えーっと。お祭りの時に、色々とトラブルがあったと前にお話ししましたよね」
「おう」
祭りが終わってしばらくして、ミーシャが家族の前で打ち明けたことだ。祭りの日を何度も繰り返す羽目になったという話。夢だと言われた方がまだ納得できる内容を、本人はいたって真面目に、順を追って話した。
実害を被ったのがミーシャ一人らしい、というのがシラベの気に掛かっている点だった。だが当人がもう大丈夫ですと豊満な胸を張るものだから、じゃあ大丈夫か、と家族の間では落ち着いている。
「その解決に、レディ・ローマさんのお力をお借りしたんです。それで対価として、お店で本を読んでほしいと言われまして」
「へえ。そんなことでいいのか」
「はい。レディさんの暇つぶしになるように、週に一度くらい」
「なるほどな。……ん?」
頷いてから、二拍ほど遅れて言葉の中身が追い付いてきた。
「えっ、レディ・ローマって店にうろついてるのか?」
「はい、そうですよ?」
ミーシャは首を回してシラベを見上げてくる。その顔はきょとんとしていた。
「お店の様子は眺めているけど、物を手に取ったりは出来ないそうです。でも私が本を開けば一緒に読めるそうで。そういうことです」
シラベは天井へ目をやった。そこには何もいない。少なくとも、シラベの目には。
レディ・ローマの騒動があったのは、一、二年ほど前のことだ。ヒナタが貸出用の箱に放り込んであった白と黒のケース──レディ・ローマと大穴の二つの構築済みデッキ──を持ち去り、そこから魔改造されたデッキをバニーガール姿で持ち込んだ珍事。勝負に勝ったシラベがアンティで呑ませたのは、ヒナタに取り憑いていた精霊が人間へ一切干渉しないという誓約だ。
それでレディ・ローマの一件は終わった。シラベはそう思っていたし、ショーケースの片隅に一枚だけ飾られているカードを見ても何かを思うことは無くなって久しい。まさかその中身が店の中を歩き回っていたとは。
「……ミーシャは、レディの姿が見えるのか?」
「いえ、見えないんです」
ミーシャは首を横に振った。
「一度お会いしてから、たまーに、気配みたいなものは感じることがあるんですけど」
言いながら、ミーシャの視線が部屋の中を一巡りした。天井、窓、鉢、そして戸口。そこで止まる。
「今は、あそこにいる気がします」
小さい指が、閉じた戸を指した。
シラベもつられて戸を見る。板張りの、見慣れた自分の部屋の戸である。何もいない。それはそうなのだが、指を差されただけで何かがそこに立ってこちらを見ているように思えてくる。何とも言えない気分だった。
ふと、視界の端で黒いものが動いた。レヴェローズの腹の横で丸くなっていた大穴が、頭だけを起こしている。その顔はミーシャの指の先と寸分違わぬ方向、戸口へ向けられていた。
星屑の瞳が、何もない板を静かに見つめている。
「お前もかよ」
「にゃう」
返事なのかどうかも分からない一声だった。ひとしきりそうしてから、興味を失ったように頭を下ろした。
シラベはその辺りをじっと見ていた。誰かがいると思って目を凝らしてもやはり何もない。声もせず、戸が動くこともなかった。
精霊が家の中にいる。それ自体は今更だ。二階には二人も寝起きしているし、猫の形をしたのが一匹、今もすぐそこにいる。見えない分だけ厄介だが、干渉されないなら見られていようが同じことだ。
まあ、いいか。
開き直って、腕の中のミーシャを抱え直す。痺れかけた足を組み替え、温かな背中を腹の前へ引き寄せてから本をもう一度開いた。
「次の章まで続けるか」
「はいっ」
ミーシャの背中が嬉しそうにシラベの胸へもたれてくる。戸の方はもう見なかった。ただ読み上げる声は少し大きめに、頁をめくる手はさっきより丁寧にするよう意識した。