開店前のボトムレスピット一階。対戦スペースの長机は、朝晩だけ食卓になっている。
カルメリエルが焼いたトーストと目玉焼き、皿の隅に添えたサラダ。麦茶のポットは汗をかいて、下に敷いた布巾へ丸い染みを広げていた。
シラベの隣にはミトラ。向かいにミーシャと、その横で早くも二枚目のトーストへ手を伸ばしているレヴェローズ。給仕を終えたカルメリエルが最後に端の席へ着き、床では大穴が餌皿の野菜の外葉を音を立てて噛んでいる。
いつもの朝だった。目玉焼きの黄身を潰したところで、向かいの椅子が小さく鳴った。
ミーシャが姿勢を正し、膝の上で両手を揃えている。
「お父様。お願いがあります」
「ん? どうした、改まって」
シラベはトーストを持ったまま目を向けた。ミーシャは一度唇を結んでから、真っ直ぐこちらを見た。
「前にお話しした、お祭りの時のことなんですけど。あの時、ヒナタ様にもお世話になっていたので……直接、お礼を言いたいんです」
「ヒナタ?」
横から口を挟んだのはレヴェローズだった。トーストをかじりながらもごもごと言葉を続ける。
「ヒナタなら祭りの次の日にうちへ来ていたではないか。あの時に言えばよかったのだ」
「あの時は、あまりお話出来なかったので」
言われてシラベも思い出す。祭りの翌日の夜、延長戦だと勝手に押しかけてきたヒナタのことだ。土産の缶ビールを次々と開けたかと思えば祭りに来られなかったことを何度も蒸し返し、まぁまぁ自棄になっていた。
それでいて自分の情けなさは分かっていたらしく、今夜の私は娘には見せられないね、とほざきながらぐちぐちとやかましかった。菓子の袋を抱えて突撃してきたポンコツが加わっても、ヒナタは最後までその調子だったのをシラベは覚えている。なるほど、確かに話す暇など無かったわけだ。
「確かヒナタ様は、お電話で相談に乗ってくださったのでしたね?」
カルメリエルがグラスを置いて確かめる。ミーシャは大きく頷いた。
「はい。それでその後に急いで来てくださろうとして……乗ってきたヘリコプターが落ちてしまって」
語尾が下がり、皿の上へ目を落としている。その時のヒナタを気の毒に思っているらしい。
その話を初めて聞かされた時、シラベはひどく反応に困ったものだ。仕事を終えてヘリで祭りに乗り付ける。悪夢にしたってアホすぎる登場の仕方で、しかもあっさり落ちて被害を齎している。笑うところなのか心配するところなのか、今もって判断がつかない。
そんな奴にも礼を言いたいというのだから、律儀なことだ。
「でもねぇ。どうせヒナタは覚えてないんだし、そんなことでお礼言っても仕方ないんじゃないの」
ミーシャを殊勝な奴だと思っていたシラベとは正反対に、隣からは気のない声が上がった。ミトラがフォークの先でサラダを突いている。
ミトラなりに母親をやろうとしているのはシラベも日頃から見ている。普段なら、世話になった相手へ礼を言いたいという話にこんな返しはしないはずだ。
だが相手がヒナタだと昔からの気安さが先に出てしまうようだ。あいつなら別にいいでしょ、で流す癖まで娘に見せることはないと思う。
「それでも、私は覚えていますから」
シラベが口を挟むより早く、ミーシャが答えた。声は静かなまま、背筋を伸ばした姿勢も変えずミトラを見ている。
ミーシャらしからぬ強い調子だった。あるいは、遠慮が抜けてきたミーシャのこれが地金なのか。ミトラも思いがけなかったようで動きを止めている。
「ほら。娘がこう言ってるんだし」
シラベが横から援護射撃を入れると、ミトラは口をへの字にしてシラベを見上げ、それから息を吐いた。
「……まぁ、いいけど。私が許可出すことでもないけどね」
一拍置いて、念を押すように付け足す。
「言っとくけど、私は行かないからね」
「分かってるよ。俺が付いて行く」
ミトラを迎えたあの女が喜び勇んで何をしでかすかを思えば、行かないという判断はむしろ正しい。
「契約者が行くのであれば、私も──」
「お前は留守番。ミトラの手伝いしてろ」
「……むぅ」
レヴェローズの肩が落ち、乗り出しかけた体を椅子へ戻した。遊びに行くと決まったわけでもないのに、何故当然のように付いてくる気になるのか。こちらが家を空ける分は働いてもらいたい。
レヴェローズも食い下がりはせず、ジャムを厚く塗ったトーストをかじった。
その時、膝に軽い衝撃があった。
「おっと」
グラスを長机へ戻しながら目を落とす。いつの間に餌皿の前を離れたのか、大穴が太腿の上に収まっていた。前脚をシラベの腹へ掛け、こちらの顔を見上げている。
「何だ。お前も行きたいのか」
「にゃあ」
本人はそのつもりの顔をしている。少なくとも、このタイミングで乗ってくればそういう話になる。
「お前も留守番。レヴェローズの見張りしてろ」
「おい、なぜ私が見張られる側なのだ」
「日頃の行いでしょ」
抗議の声がミトラの一言で片付けられる。
「なぉん」
大穴はもう一声鳴くと、腹に掛けていた前脚を下ろした。膝の上で向きを変え、そのまま腰を落ち着けてしまう。
引き受けたのか諦めたのか分からないが、大穴は下げていたシラベの手へ頭を押し付けてきた。撫でろという意図は間違えようもない。指を耳の後ろへ回すと、大穴はご機嫌に喉を鳴らし始めた。出掛ける話より、当面はこっちでいいらしい。
「どうせでしたら、ミーシャさんを信じてシラベ様もお留守番なさればよろしいのに」
「そういうわけにもいかねえだろ。保護者の責任ってもんがある」
カルメリエルの言葉に、シラベは大穴の背に指を動かしながら答えた。お詫びにしろお礼にしろ、子供が出向く時には親がいたほうがいいとシラベは信じている。
「それに相手はヒナタだぞ。ミーシャがどんだけしっかりしてても、気付いたら法的に親子にされてたなんてことになりかねねえ」
「あらあら、そのように憎まれ口をおっしゃって」
「笑いごとじゃねえんだよ」
口では笑い話の調子にしたが、シラベの中で半分は本気だった。あれは理由なくやらかすタイプではないが、理由があればあらゆるものを無視して突き進みかねない凄みがある。
カルメリエルはころころと笑い、ミーシャはよく分からない顔で聞いていた。
「とはいえ、相手は社長だからな。いつ会えるかは分からねえけど、とりあえず聞いてみる」
「はい。よろしくお願いします」
ミーシャは椅子に座ったまま、深く頭を下げる。その隣でレヴェローズの手が三枚目のトーストへ伸びていた。
食後。レヴェローズが皿を重ねて先に階段を上がり、ミーシャは長机を拭いていく。残った三人も後を追って二階へ上がった。流しの前ではカルメリエルが洗い、ミトラが拭き、シラベが戸棚へ仕舞う。大穴はその日の気分で丸くなる場所を決めて、動き回る者たちをぼんやり眺めている。
いつの頃からか、開店前の片付けはこの分担で落ち着いていた。最後の皿を戸棚へ上げてから、シラベはポケットのスマートフォンを取り出し、ヒナタとのメッセージ画面を開く。
ミーシャに言った通り、あの女がいつ空いているのかはシラベには分からない。まずは都合のいい日を聞くところからだ。
ただ、仕事の合間に時間を空けさせて会社の応接で、というのはミーシャの求めているところとは違う気がする。忙しい中をわざわざ、と考え始めたら、あの子は礼を言う前に恐縮しきってしまうだろう。
どうせならヒナタが休みの日がいい。あれの性格からして、身内と決め込んでいるボトムレスピット組に休日を割り込まれても嫌な顔はしないだろう。
そこまで考えたところで、シラベは手を止めた。休みの日のヒナタがどこにいるのか、そもそも知らない。
「なぁ。ヒナタの家ってどこにあるんだ?」
布巾を畳んでいたミトラが顔を上げた。
「えーっと……」
目が天井の方へ泳ぐ。思い出そうとしているらしい。
「確か……電車でちょっと行ったとこの高級住宅街に屋敷があった気がする」
「屋敷だぁ?」
思わず繰り返してから、シラベは口を閉じた。
驚くようなことではないのかもしれない。社長になる前から令嬢だの何だのと言われていた覚えはあるし、家が元から金持ちなら今の日本にも屋敷に住んでいる奴くらいはいるのだろう。そもそもあいつは色んな意味で住む世界が違う。考えても仕方がないのでそこで打ち切った。
「でも、日本に帰ってきてからはホテル住まいしてるみたいなことも言ってたし。どこにいるのかは聞いてみないと分かんないわよ」
「それもそうか」
屋敷だろうがホテルだろうが、向こうが場所を指定してくるはずだ。どうにでもなるだろう。
シラベは画面へ目を戻し、用件を打ち込んだ。ミーシャが会いに行きたがっていること。出来れば仕事のない日に、都合のいい日を教えてくれ。それだけ書いて送信する。
ポケットへ仕舞おうとしたところで、手の中が震えた。
「マジか」
返信だった。早い。
一行目には数日後の土曜の日付と時刻。続けて住所が一行と、地図サイトのURLが貼り付けてある。こちらの疑問を先回りしたような手際だった。
URLを開き、店からの道のりを軽く調べる。地図が指しているのは最寄り駅から何駅か先で、ミトラの言った通り駅名だけは聞いたことのある高級住宅地だった。
文面はそれで終わりではなかった。末尾に一行、付け足しがある。
『娘の初めての訪問だ。盛大に迎えよう』
「盛大にすんな」
呟きと同じメッセージを送るが、こちらには何故か返信は無い。もしかしたらヒナタなりの冗談のつもりだったのだろうか。そうなんだろう。そうに決まっている。
シラベは勝手にそう結論して、今度こそスマートフォンをポケットに押し込んだ。