シラベはスマートフォンに表示された地図を確かめながら、四辻を曲がっていく。左手に提げた菓子折りの紙袋ががさりと音を立てた。
隣ではミーシャが薄緑色のワンピースの裾を揺らしている。ミトラとカルメリエルの見立てで新しく買ってもらったばかりの服だ。
「気に入ったか」
「はい、とっても。サイズもぴったりです!」
「そりゃよかった」
重要なことなのだろうが、堂々と胸に手を当てるのはやめてほしい。
出掛ける前にも鏡の前で何度も様子を確かめていたようだが、今でも歩くたび揺れる裾を見て笑っている。店を出てからこちら、ミーシャの足取りは軽い。
それに引き換えシラベの方は歩くほどに落ち着かなくなってきた。通り過ぎる一軒ごとの敷地が広く、スケールの違う世界にでも迷い込んだかのようだ。建っている家を見上げたつもりがよく見れば車庫だったりするから余計に自分が小さく見える。
塀の切れ目から覗く庭には何のために置くのか分からないオブジェや電柱のようなものまで立っているのを眺めると、桁の違う方々の暮らしとはこういうものなのかと思い知らされる気分だ。
「ここら辺でいいはずだが……というかこれ、地図じゃ正面がどこか分からねえけど大丈夫だよな」
「あっ。お父様、この文字」
ミーシャの呼び掛けに、シラベが顔を上げる。指で示された先には石造りの門柱があり、そこには『亜修利』と書かれた表札があった。
「お、入り口ここか。ありがとな」
スマートフォンを仕舞ってミーシャの銀髪を撫でるシラベ。ちょっとだけ得意げな顔にどこかの金髪の様子が重なった気がした。
柱に連なる鉄の門扉から中を覗いてみると、そこから繋がるアプローチの先に古い洋館が建っていた。
薄い色の壁と縦長の窓が並び、玄関の上だけが大きくせり出していた。窓枠や屋根の縁には細かな飾りが付いている。建ってから相当経っていそうなのに、荒れたところが目に付かないのがまた立派だった。
シラベは表札の文字をもう一度見る。間違っていてほしいわけではないが、いざ見ると疑いたくもなる。
「大きなお家ですね……」
ミーシャも圧倒されているのか、感嘆を漏らして口をあんぐり開けてしまっている。建物の端から端まで見ようとして首を動かしているのが小動物のようだ。
シラベは手に提げた紙袋へ目を落とす。中の菓子折りは駅前で買った普通のものだ。渡す相手はヒナタなのだから気にすることもないはずだが、こういう家の前で提げていると急に頼りなく見えてくる。
「連絡はしてるわけだし、気負わなくてもいいよな。呼び鈴どこだ呼び鈴」
口に出してしまうと虚勢を張っているようだったが、シラベは構わずインターホンを探した。こういう屋敷にあるものなのだろうか。
「やあ。いらっしゃい、二人とも」
門柱の裏まで見そうになっていたところで、その内側から声が掛かった。
門から屋敷に続く石畳をヒナタが歩いてくる。顔も声も間違いなくよく知っている相手だったが、その下がどうにも見慣れない。
首元まできちんと閉じた襟に、手首を覆う白い袖口。足首近くまである黒いスカートの上には白いエプロンを重ねてある。頭にも控えめな白い飾りを載せていた。
黒を基調としたメイド服だ。ふざけた格好、というには似合いすぎている。
いつもの男物の服では目立たない腰のくびれが、今日ははっきり出ている。その分、胸の豊かな膨らみが白い布を大きく押し上げていた。
長い裾を扱う手つきまで落ち着いている。門扉を細く開ける指を目で追ってから、シラベはようやく顔へ視線を戻した。ヒナタが笑っている。
ここで見惚れた顔をするのは何だか負けた気がする。
「……タイミングいいのな。俺らが来たの、監視カメラででも確認してたか?」
門柱の上へ目を逸らしながら言うと、ヒナタは不思議そうに瞬いた。
「自分の家に監視カメラがあるのは普通のことだと思うが」
「ああ……そりゃそうか」
言われてみれば当然だ。この広さで防犯も何もありませんという方が困るだろう。日頃の素行からつい余計な疑い方をしたが、自宅を見張っている分には文句の付けようがない。
逸らした目をどこへ戻すか迷っていると、ヒナタがくすくす笑った。
「ただ、今は違うよ。そろそろ時間だろうと思って出てみたら、君たちの声が聞こえてね」
「そうかよ」
「ヒナタ様。今日はお招きいただいて、ありがとうございます」
横からミーシャが丁寧に頭を下げた。シラベも紙袋を持ち直す。
「これ、土産。大したもんじゃねえけど」
「ありがとう。気を遣わせてしまったね」
ヒナタは袋を受け取り、門を大きく開けた。
「さぁ、どうぞ。天気がいいから、今日は庭に席を用意したんだ」
招き入れられた先では、建物の脇へ石畳が続いていた。手入れされた植え込みを回ると、大きな木の陰にテーブルと椅子が置かれている。葉の隙間から落ちる日差しが白い天板に細かく散っていた。
歩きながら、シラベは前を行くヒナタの姿を見る。スーツとも、無論バニーとも違う恰好の彼女は嫌でも視線を引き寄せてくる。
「お前、家だとそういうタイプなのか」
「そういう、とは?」
「いや、その格好」
振り返ったヒナタは自分の胸元を見下ろし、片手でスカートを少し持ち上げた。
「いつも着ているわけではないよ。たまにはこういうのもいいだろう?」
「自分の家で自分がメイドやるもんなのか?」
「今日は君たちのお相手だからね」
話が通じたようで、肝心なところは外されている。隣でミーシャがとてもお似合いですと素直に褒めると、ヒナタは嬉しそうに礼を言った。
そこへ同意するのも何となく癪で、シラベは黙ってテーブルへ進んで椅子を引いた。
「そういうわけだ。せっかく来てくれたのだから、今日は私にもてなさせてくれたまえ」
ヒナタは二人が座るのを見届けてから、すぐ傍の掃き出し窓へ向かった。開かれた窓の内側にはワゴンが寄せてあり、茶器や皿が既に用意されている。受け取った紙袋を脇に置いてから、代わりに盆を持って戻ってきた。
シラベは室内を観察するが、他に誰か出てくる様子はない。ヒナタが一人でカップを並べ、菓子の皿を運んでいる。
そのままミーシャの方を見やる。こちらはこちらで膝へ両手を置いたまま、庭を見たり洋館を見上げたりとなかなか忙しそうだ。
何らかの順番に則って並べられていく食器を見て、シラベはそっと椅子から離れた。どこまで準備してあるのか知らないが、席へ腰を落ち着けて待っているだけというのも居心地が悪い。
「何か運ぶもんあるか。手伝うぞ」
ヒナタが室内へ戻ったところで、後を追って声を掛ける。ヒナタは盆に伸ばしていた手を止めた。
「おや。お客様を働かせたとあっては、私の立つ瀬がないよ」
「何往復もするより早いだろ」
「ふむ。別に早く済ませたいわけではないのだけど」
んー、と一つ唸ってから、ヒナタは手ぶらのまま近付いてきた。シラベのすぐ前で足を止め、わずかに身を屈める。
「メイドの仕事を取らないでくれたまえ、ご主人様」
声が低くなる。顔を覗き込まれたと思う間に、唇が近くなった。
「おい」
シラベは思わず顎を引いた。背後の窓は開いているのだから、下がれば庭へ一歩出られる。それくらい分かっているのに、足を動かすより先に相手の口元を見てしまった。
触れ合う手前で、ヒナタが止まる。
「気にせず、席で待っていてくれ」
楽しげに囁いてから、何事もなかったようにワゴンへ戻っていった。シラベはその背中を追いそうになった目を庭へ向け直す。
「疲れても知らねえからな」
「大丈夫さ。そんな時が来たら、君は助けずにはいられないだろうから」
ヒナタの都合のいい想像に言い返すことが出来ず、結局何も持たずに席へ戻ることになった。まったく何のために立ったのか。
椅子の背へ手を掛けたところで、シラベは隣を見た。
ミーシャがいない。
「あれ?」
屋敷と庭を見渡してみると、少し離れた芝生の端に薄緑色が見えた。大きな白いものの傍へしゃがみ込んでいる。
「犬?」
真っ白な長い毛に覆われた犬が、前脚を揃えてミーシャの傍で伏せていた。随分でかい。ミーシャが横に並んで寝れば同じくらいの丈があるかもしれない。
厚い毛に半ば埋まった顔から黒い鼻と穏やかな目が覗いている。ミーシャは首の周りの毛へ両手を差し入れ、存分に撫でている。
「ミーシャ、何してんだ」
「あ、お父様。えーっと……ちょっと、ご挨拶を?」
「疑問形で言うなよ」
振り向いたミーシャは、勝手に触っていたのが少し気まずいのか、妙な声の調子になっている。それでも犬から離れようとはしない。
このまま好きなようにさせていいのだろうか。シラベが考えていると、ミーシャはまた犬へ向き直った。首を撫でていた手を背中へ回し、白い毛へ頬を寄せている。犬は嫌がりもせずのんびり口を開けていた。うちの黒いのにも大体あんなことをしているが、相手側が大きく大人しいからぬいぐるみに埋もれているかのようだ。
「うーん。微笑ましいものだね」
振り返ると、ヒナタが盆をテーブルへ下ろしながらミーシャの方を見ている。
「悪い、勝手にさせて」
「構わないよ。私もあの子をそのままにしていたから」
「ああ。……まさか、ミーシャを懐柔するために手配したんじゃねえだろうな」
ミーシャがああいう毛皮の類を好んでいるのをヒナタは知っていただろうか。知っているならこいつはやりかねない。
しかし、ヒナタはふるふると首を横に振る。
「とんでもない。ずっと前から私の家で飼っているんだよ。あれで四代目だったかな」
「四代……あれ、犬の寿命ってえーっと」
「大体十年ほどだね。私の親が初代を飼っていて、その子が産んだ仔犬を私が譲り受けて、またその子の仔を、という感じさ。まあ、海外には連れていけなかったからずっと飼っているというとちょっと語弊がありそうだが、それでも写真や動画を送ってもらったりね」
「ふーん」
無駄に壮大な話になりそうだとシラベは適当に聞き流す。白い塊へ目を戻すと、ミーシャは今度は耳の周りを撫でながら顔を埋めていた。
「一応番犬なのだけど、あの子があんなに慣れるとはね。ミーシャくんは動物に好かれるたちなのかな」
「どうだろうな。大きいのに慣れてはいると思うが」
向こうで人が跨るサイズの狼の世話をしていたことを思えば、多少大きな犬を怖がる理由もないのだろう。犬の方までなぜ初対面の相手に身を任せているのかは分からないが、どちらも気にしていないのなら構わないだろう。
「ミーシャくん、お待たせしたね。こちらへどうぞ」
「はい」
ヒナタの呼び掛けに、ミーシャは犬の首をもう一度撫でてから立ち上がった。ワンピースに付いた白い毛を手で払い、何度も振り返りながら歩いてくる。
それに応じるかのように、犬ものっそり立ち上がった。寝そべっていた時よりでかく見える。
「お前も来るのか?」
そうだ、と言わんばかりに付いてきたのを見て、シラベは自分の椅子を少しずらした。ミーシャの隣まで来た犬は、テーブルの陰を選んで再び腹を下ろす。
その様子を眺め、どちらともなくヒナタとミーシャは笑い合う。
茶と菓子が三人分揃ったところで、ヒナタも席に着いた。メイド服という役割には特段縛られるつもりはないようで、当たり前のように茶を口へ運んでいる。
シラベも自分の前に用意されたものを見る。縁に細い金の線が引かれたカップは普段使いの湯飲みなんかよりよっぽど高そうだし、菓子を取るために小さなトングをわざわざ置くような上品さには気後れしてしまう。
「一応言っとくが、こういうのの礼儀なんて知らねえからな」
「大丈夫だよ。君とは何度も喫茶店へ行っているけど、所作はそれほど悪くないと知っているから」
「そんなの見てたのかよ」
「それに、ミーシャくんだっているんだ。肩肘張る必要はないよ」
気安く言われるが、見られていたと知ってしまうと、普段の自分がどうやっていたのか少し不安になる。小指を立てて飲んだりはしてなかったと思うがどうだったか。
シラベは余計なことを考えるのをやめて最大の見本、すなわちヒナタを見ながら対処することにした。同じようにカップの取っ手へ指を掛け、口へ運んでみる。
馴染みがなさすぎて、香りは悪くないという以上の感想は出てこないが、砂糖などを入れなくても飲みやすいのはきっと良い点なのだろう。
ミーシャもカップに口を付けているが、一口飲んでからカップの中を覗き込んでいた。品よくヒナタが飲んでいるのを見て何か期待していた味があったのかもしれないが、肩透かしだったのだろう。ヒナタはミーシャに何も言わず、菓子の皿を手の届きやすい方へ寄せていた。
「今はこの屋敷で暮らしてんのか?」
焼き菓子を摘まみながら、シラベが気になっていたことを聞く。ヒナタはカップを手にしたまま、いいやと言う。
「こちらには休日に帰ってくるくらいだね。会社の近くのホテルを長期契約しているから、そちらにいる方が多いよ」
「こんな家があるのに?」
「出勤のたびにここから移動するのも手間だからね」
ヒナタはこともなげに言うが、庶民感覚から外れている物言いにシラベは疑いの目を向ける。その目線にもう少し説明がいると思ったのか、ヒナタはカップを置いて口を開く。
「遅くなった時にもすぐ休めるし、翌朝の支度も楽だ。部屋の掃除も任せられる。往復する時間が減るだけでも随分違うよ」
「それは、分かるけど」
仕事場から家が近いとありがたいのはシラベにも分かる。だからといって、住める家を置いておいてホテルへ金を払い続けるという発想になるものだろうか。
「そっちにいる間、この家どうしてんだ。犬もいるだろ」
「家の管理もあの子の世話も使用人に任せているよ」
「そういうのはちゃんといるのか」
「当然さ。今日は私がやりたいと言って下がらせているけど」
留守でも家は手入れされ、犬の世話も頼んである。その上で本人は別のところへ泊まる。さて、費用がどれくらい掛かるのか考えかけたが、そもそも使用人に払う金の相場からしてシラベは知らない。
「そうして浮いた時間に仕事を片付けていけば、こうしてのんびり出来る。そのためだと思えば、私には悪くない使い方なのさ」
ヒナタはポットを持ち上げ、空きかけたシラベのカップへ茶を足した。
帳尻が合っているのなら、それ以上シラベが何か言えるところはなかった。会社の仕事と自分の時間をどう勘定するかという話になれば、シラベよりこの女の方が詳しいだろう。
ただ、階段を下りれば職場であるシラベの今の暮らしを思うと、それもだいぶ贅沢なのかもしれない。通勤時間だけは社長に勝っている。
「まあ、お前が休めてんならいいけど」
「うん。心配してくれて嬉しいよ」
「心配はあんまりしてないんだよな。どっちかというと宇宙人の生態を見てる気分」
「おや、そこまで熱烈に観察してくれるなんて、君も好きだね」
「言ってろ」
言い返しながら隣を見ると、ミーシャはもう菓子を食べ終えていた。膝の上で手を重ね、二人のやり取りが途切れるのを待っている。シラベが目を向けると小さく頷き、ヒナタの方へ顔を戻した。
「あの、ヒナタ様」
「何かな?」
ヒナタの手が止まり、持ち上げかけたカップをソーサーへ戻してミーシャの方へ体を向ける。話があると分かったらしい。
「今日は、お礼を言いたくて来たんです」
シラベは口を閉じ、音を立てないようカップから手を離す。
「ヒナタ様が来れなかった、あのお祭りの日。実は私は、あの日を何度も繰り返していたんです。その途中でヒナタ様にお電話をして……どうしたらいいか、相談に乗っていただきました」」
ヒナタには覚えのない話のはずだが、口を挟まずじっと聞いている。ミーシャは言葉を選びながら続けた。
「私がうまく説明出来なくても、最後まで聞いてくださって。信じるとおっしゃってくださったので、それで、とても助かったんです」
ヒナタが小さく頷いた。ミーシャはその顔を見て、膝の上で重ねていた手の力を少し緩める。
「教えていただいたことを全部うまく出来たわけではないんですけど。でも、あの時にお話を聞いていただけて、嬉しかったので」
そこで言葉が止まった。ヒナタは続きを待っていたが、ミーシャは少し考えてから背筋を伸ばした。
「ありがとうございました、ヒナタ様」
ミーシャが頭を下げる。
ヒナタは下げられた銀髪をしばらく見つめていた。ミ
「もう、困っていることはないかい?」
ミーシャが顔を上げると、ヒナタは静かにそう問い掛けた。
何のことだと聞き直すでもなく。何を話したのかと確かめるでもなく。まるで電話での相談の続きをするように、ヒナタはミーシャを慮っていた。
「はい」
ミーシャは頷いた。
「今は、もう大丈夫です」
「そうか。それならよかった」
ヒナタがにっこり笑う。シラベは何も言わず、注がれた茶を飲むに留めた。