平日のボトムレスピットで、シラベは棚の前にしゃがんでいた。足元の段ボールからスリーブの袋を取り出し、空いているフックへ掛けていく。
同じ色でも寸法の違うものが混じっているから、客が取り間違えないように配置も工夫していかなければならないのが意外と手間だ。
近所の小学生の間では、スリーブを重ねてどこまで硬くできるか競うという、いかにも子供らしい流行りも出てきている。これを機会に死蔵されていた最高硬度スリーブを売ってしまいたいという思惑から、設置位置を若干下げて子供でも手に取りやすくしている。
最後の袋を掛け終え、腰を伸ばす。対戦スペースでは何人かの客がカードを広げていて、カウンターのミトラはレジの前で小銭を数えていた。
その脇にいることの多い銀髪が見えない。
店の奥まで見回してみるシラベ。ストレージの並ぶ長机にも、駄菓子の棚の向こうにもいない。さっきまで店に出ていた気がするが、二階へ戻ったのだろうか。
別に、ずっと立っていろと言い付けているわけではない。用事があればいつでも抜けていいし、休みたければ休めばいい。ただ、いつもは一声掛けてから行くので、何となく気になった。
空になった段ボールを抱え、バックヤードへ向かう。カーテンを片手で持ち上げたところで、探していた頭が見つかった。
ミーシャは棚の脇の椅子に座っている。揃えた膝の上には大穴が横たわり、黒い尻尾が片側へ垂れていた。
シラベには気付かず、ミーシャは大穴の背をせっせと撫でているようだ。首から尻尾の付け根まで手を滑らせ、戻した指で耳の後ろを掻く。もう片方の手は腹の下へ添えられたままで、ずいぶん丁寧な扱いだ。
「ここ、お好きですよね」
「うるるん」
大穴が顎を上げる。指がその下へ回ると、ごろごろという音がこちらまで届いた。
また膝を取られたのか、とシラベは呆れる。大穴がどれくらいの割合で猫を気取っているのか知らないが、膝に乗る時の遠慮のなさだけは猫そのものだ。
ミーシャもなかなか断れないので大穴が気を良くして居座り、ますます立つに立てなくなる。そんなところまで含めて珍しくもない組み合わせだった。
シラベは段ボールを抱え直した。あんなに撫で続けていれば、いつまで経っても解放してもらえないだろうに。
声を掛けようとした時、ミーシャの手が大穴の脇へ差し込まれた。
ようやく下ろす気になったのかと思えば、逆だった。ミーシャは大穴を抱き上げ、豊かな胸の上まで引き寄せた。その丸い頭へ自分の顔を近付けていく。
頭の匂いでも嗅いでいるのだろうか。そういうことをしたくなるのはシラベにも分かる。膝から下ろすどころか、さらに甘やかすつもりらしい。
だが、猫耳の陰でミーシャの口が何かを囁くように動いたのがシラベには見えた。
その途端、大穴の前脚が上がる。
「あぅ」
疾風の如く繰り出された猫パンチでぺちりと額を叩かれ、ミーシャが目を閉じる。その隙に大穴はぎゅるんと身をひねった。緩んだ腕の間から黒い身体がするりと抜け、床へ着地する。
ミーシャが手を伸ばした時にはもう歩き出していた。
シラベの横を通る時にも立ち止まらず、尻尾で足首をひと撫でして、短い足音が階段の方へ遠ざかっていく。
「……うーん」
ミーシャは額をさすりながら首を傾け、黒猫が歩いて行った方へ目を辿らせる。それからやっと、カーテンのところにいるシラベに気付いた。
「あ、お父様」
「おう」
ミーシャはシラベの抱えた段ボールを見ると、バツが悪そうに目を逸らした。仕事をしている人間をよそに猫を堪能していて罪悪感が湧いたのだろうか。
「す、すみません。すぐ戻ります」
「いや、別に急がせに来たわけじゃねえけど」
ミーシャは椅子の背に掛けていたエプロンを取り、頭を通した。腰の紐を後ろで結びながら、シラベの脇を通って売り場へ出ていく。
ほどなく、いらっしゃいませと明るい声が聞こえた。
シラベは段ボールを潰しつつ、二階を見上げた。撫でられている間はあんなに満足そうだったのに、急に気が変わるのだから猫の相手も楽ではない。
*
別の日の昼。カウンターで値札を書いていたシラベに、二階から降りてきたカルメリエルが声を掛けた。
「シラベ様。お昼ご飯を作りましたので、上で休憩なさってくださいな」
「ん。もう昼か。じゃ、頼むわ」
「ええ。ごゆっくりどうぞ」
書きかけの一枚を仕上げてからカウンターを明け渡して、シラベは二階に上がった。キッチンにはチャーハンの皿が一人分、スプーンを添えて用意されている。卵と刻んだねぎの色が混じり、まだ湯気が出ていた。
皿を取って自分の部屋へ向かう。昼を過ぎると二階は暑くなるが、扇風機の前に座れば飯くらいは落ち着いて食える。
戸へ手を掛けようとした時。
『……ですから、その……』
中から何か聞こえ、咄嗟にシラベは耳を澄ました。
薄く開いている戸の隙間から漏れてくる、ミーシャの声だ。
『……こちらでどうでしょうか』
何の話だ。シラベは戸を動かさず、隙間へ目を寄せた。
ミーシャが床に座っている。その向かいには伏せをした姿の大穴がいて、鼻先へ袋が差し出されていた。
見覚えのある袋だ。上半分を透明にした包装の中に、細く裂かれた白いものが詰まっている。大穴の好物のさきいかだ。
ミーシャは袋の口を開き、中を見せるように傾けていた。自分で食べている途中に分けてやっている、というような様子でもない。正面に座り直し、大穴の反応をじっと待っている。
何かの交渉だろうか。ミーシャがやけに真剣なので、声を掛けずに見ていたくなる。
大穴相手に何を頼んでいるのか知らないが、品物の選び方は悪くない。シラベも何度かあれで機嫌を取ったことがある。
大穴の鼻が袋へ近付いた。ふんふんと匂いを確かめ、前脚を伸ばして袋の端を軽く叩く。ミーシャの顔がぱっと明るくなった。
『はい。どうぞ』
袋がもう少し前へ出される。
大穴は再び前脚で触れたが、中身を食べようとはしなかった。やがて顔を横へ向け、そのまま立ち上がってしまう。
『大穴さん?』
追い掛ける声を背に、大穴は開いていた窓へ跳び乗った。窓枠に四つの足を揃えたのも一瞬で、すぐ外へ身を躍らせる。黒い尻尾の先が窓の下へ消えた。ミーシャは肩を落としてうなだれる。
好物を断って出ていくとは、大穴らしからぬ行動だ。それだけ嫌な頼み事だったのか、単に散歩へ行きたかったのか。猫の行動は判断のしようもない。
シラベは戸を開けた。
「何やってんだ、ミーシャ」
「ひゃっ」
銀髪が跳ねた。ミーシャは振り向き、手にしていた袋をさっと体の後ろへ隠す。既に見えていたものを隠されても反応に困るが、指摘しないくらいの情はシラベにもある。
「あの、大穴さんがお父様のお部屋にいたので、お話ししてました」
「……おう。そうか」
大穴が言葉を理解しているのは自明なので、猫相手に何をとは言うまい。だが、贈り物でご機嫌を取ろうとする姿はお話というにはやや生々しい。
「し、失礼します。お店に戻りますね」
ミーシャはそそくさと立ち上がり、背中に袋を隠したままの妙な歩き方で戸口を抜けていった。シラベはチャーハンの皿をテーブルへ置き、腰を下ろしながらその後ろ姿を見送った。
この間はバックヤードで抱いていたところを逃げられ、今日はさきいかまで用意してあのザマだ。何を頼めば、あの食い意地の張った猫に断られるのだろうか。
気にはなるが、今から追い掛ければ飯が冷める。シラベはスプーンを手に取った。
*
また別の日の夜。ミトラの部屋の小さな卓に、飲みかけの発泡酒とつまみの皿が並んでいた。
シラベは壁を背に座り、隣へ寄り掛かってくるミトラの髪を撫でている。風呂を済ませてから飲み始めたので、あとは眠くなったら寝るだけだ。
ミトラはもう少しでその段階に入りそうだった。頬を赤くして、さっきから何度もシラベの腕へ頭を寄せてくる。撫でる手を止めると顔を上げるので、シラベは片手だけで缶を扱っていた。
「眠いのか?」
「まだ。もうちょっと飲む」
「飲むなら自分の缶持てよ」
「んー」
返事はしたが、ミトラの手はシラベの腕に回ったままだった。自分の缶は卓に置きっ放しで、取りに行く気配もない。
シラベが取ってやると、ようやく片手が離れた。ミトラは一口だけ飲み、またシラベへ渡してくる。
「俺は缶置きじゃねえんだけど」
「近いんだもん」
その理屈ならシラベが持っていても卓に置いてあっても大差はないのだが。ミトラはご機嫌に笑い手を元の位置へ戻してしまった。
シラベも言い返すのはやめ、缶を卓へ返す。そのついでにつまみへ手を伸ばしたが、指に触れたのは皿の縁だけだった。
見れば、小皿は空になっている。隣の菓子袋を振ってみても、底に細かな欠片が残っているだけだ。
「なくなったな。なんか持ってくる」
ミトラの肩から手を外し、立ち上がろうとする。すると、腕に回っていた両手へ力が入った。
「やだ」
「つまみ取りに行くだけだって」
「あとでいいじゃん」
「なんか食べながらじゃないと悪酔いするぞ」
こちらが立とうとするたびに、ミトラが抱えた腕を引っ張る。なだめるつもりで頭を撫でたら、またその手へ頬を寄せられた。これでは出ていけない。
「すぐ戻るから。な」
「……すぐね」
「分かってる」
何とか腕を抜き、シラベは立ち上がった。戸を閉める前に振り返ると、ひらひらと手を振りながらふやけた笑顔を浮かべている。なんだかんだぐずっても、結局何をしていても楽しそうで羨ましい限りだ。
明かりの落ちた廊下を抜けてキッチンへ向かう途中、冷凍庫の閉まる音がした。
寝間着姿のレヴェローズが、棒アイスを咥えて立っている。シラベを見ると顔をほころばせ、早速こちらへ寄ってきた。
「契約者。どうした、貴様も食べるか?」
「いらねえよ。つまみ取りに来ただけ」
レヴェローズはアイスを口から離し、それを持つ手を脇へ避けながら、もう片方の腕をシラベの背へ回してきた。覗き込む顔が近い。
「まぁそう言うな。私のを一口やろう」
「だからいらねえって。自分で食ってろ」
「そうか?」
レヴェローズはまだシラベにくっついている。面倒なのでそのままにして、シラベは戸棚を開けた。
「ストックなくなったら買ってこいよ。最後の一本食って終わりにすんなよ」
「まだあるぞ。がりがりかじる奴とチョコがバキバキする奴と歯磨き粉の奴と」
「なくなった時の話な。カルメリエルにねちねち言われるのは勘弁だぞ」
頷いたレヴェローズがアイスをかじる。今ので覚えてくれたならいいが、次に冷凍庫を開けて自分が困るまで忘れている気もする。
シラベは戸棚の中を見た。買い置きのつまみはこの段へまとめてある。手前の煎餅をずらし、横の袋を起こしてみるが、目当てのものがない。
「あれ。さきいか、あと一袋くらいあったよな」
奥へ指を入れて探る。袋の陰に押し込まれているわけでもなかった。
今夜出したのは別のつまみだし、その前に飲んだ時も全部食べてはなかった。どうせ日持ちするものだからと多めに買っておいた記憶はある。
「お前食ったか?」
「私ではないぞ。大穴がつまみ食いしたのではないか?」
アイスを持つ手を下ろしてレヴェローズが答える。
「いや、あいつは前にきつめに叱ったからな。勝手に食わねえはずだけど」
大穴が家族に加わったばかりの頃、戸棚の袋を中身ごと呑もうとしたところを捕まえて言い聞かせたことがあった。それ以来、戸棚から物が消えることはなくなった。
人が食べていれば寄ってきて催促はする。もらえるまで居座ることもあるが、少なくとも置いてある袋を勝手に開けるような真似は見せていない。
シラベは棚に入れていた手を止めた。
そういえば、この間ミーシャがさきいかの袋を持っていた。大穴の前へ差し出して、断られた挙句に背中へ隠していたあの袋だ。
あの時はミーシャが自分で買ってきたものだとばかり思っていた。小遣いで菓子を買ってくることはあるし、それを大穴に分けようとしているのならシラベが何か言うことでもない。
もしや、ここから持っていったのだろうか。
袋を隠したのは頼んでいるところを見られたからだけではなく、さきいかを見られたくなかったからかもしれない。あの不自然な帰り方にもそれなら合点がいく。
「契約者? どうしたのだ?」
ぐりぐりと金髪を押し当ててくるレヴェローズ。そのつむじを掻いてやりながら、シラベは戸棚の扉に手を置いて止まっていた。
親の食い物を黙って失敬する程度ならシラベも散々やった。家にあるものだから自分も食べていいだろうと都合よく考えてしでかしたものだ。食べ終わった袋を捨てる時だけは多少の後ろめたさもあった気がするが。
あのミーシャが同じようなことをしているのかと思うと、なかなか面白い。何をするにも伺いを立てていた頃を思えばなおさらだった。
ただ、そこで喜んで終わっては親としてどうなのか。そういう立場でいる以上、持っていく前に一言くらい言えという注意はしておくべきだろう。
もちろん、本人に聞いてからだ。ミトラかカルメリエルが食べたのであれば、シラベが勝手に娘を疑っているだけになる。
「なあ。ミーシャ、どこ行った?」
「ミーシャか? 風呂上がりに物干し台で涼むと言っていたぞ」
レヴェローズがアイスで廊下の端の戸を指した。
「大穴も一緒か?」
「む、どうだったか。今日はミーシャが風呂へ連れて行ってから見ていないが、一緒かもしれんな」
ついでに何を大穴へ頼んでいたのかも聞いてみるか。シラベは煎餅の袋を取り出し、戸棚を閉めた。
ひとまず様子だけでも見に行こうと、廊下へ顔を向ける。
『シラベー。まだー?』
そこへ、コントロール使いの打ち消しが差し込まれた。戸棚を探してちょっと話していただけなのだが、ミトラにとっては待ちくたびれる長さだったらしい。シラベは溜め息を吐く。
「今行くよ」
まずはあちらの世話が先だ。すぐ戻ると言った手前、これからミーシャを捕まえて話し込むわけにもいかない。
「面倒を見る者が多いと大変だな、契約者」
「お前もだよ」
レヴェローズはシラベに腕を回したまま、いかにも感心したように言う。自分を顧みない、なかなか図太い感想である。
シラベは空いた手で、その金髪をくしゃりと撫でておいた。