煎餅の袋を持ってミトラの部屋へ戻ると、待ちくたびれた当人が卓に頬杖をついていた。
「遅い」
「レヴェローズに絡まれてただけだ。ほら、つまみ」
「ん」
袋を卓へ置く。ミトラはさっそく一枚取り、ぱきりと割って口へ運んだ。
さっきまでまだ飲むと言い張っていたくせに、もう目元がだいぶ重そうだ。缶を持つ手にも力がなくなっていて、シラベが取り上げても文句らしい文句は飛んでこなかった。
「もう寝ろ。明日起きられなくなるぞ」
「……まだねない」
「その顔で言われても説得力ねえよ」
「こどもあつかいすんなぁ」
言い返す声にも普段の棘がない。シラベは空いた缶を卓の端へ寄せ、壁に背を戻した。すると待っていたようにミトラがこちらへ寄ってくる。これなら好都合だ。
「そら」
シラベがミトラの両脇へ手を入れて持ち上げる。軽い身体を膝の上に乗せると、ミトラは一応むっとした顔をして振り返った。
「……シラベ」
「なんだよ、眠いんだろ」
「だからぁ……」
文句が口から出るのはそこまでだった。残りの言葉はもにょもにょとごまかされた。
背中を胸元へ預けさせると、腹の前へ回した腕を、ミトラがすぐに抱え込んだ。シラベは艶やかな黒髪を撫でる。二度、三度と髪を梳いているうちに、肩から力が抜けていくのが分かった。抵抗する気がなくなったミトラは頬を押し当ててどんどん溶けていく。
あまりのちょろさに手が止まると、とろんとした黒目が見上げてくる。
「……つづけて」
「子供扱いは?」
「いまはいいから、ほら」
「都合いいな、お前」
「うるさい」
強気の返事の後は早かった。頭を撫で続け、時折何か言おうと口を開くたび、よしよしと撫でてやれば、言葉になる前にまた閉じていく。やがて呼吸が一定になり、腕を抱えていた指も緩んだ。
「寝付きだけはいいんだよな」
返事はない。膝の上で眠りきったミトラをシラベは抱え直し、敷いてある布団へ運ぶ。横にして薄い掛け物を腹に掛けても目を覚ます気配はない。起きている時は子供扱いするなと言いながらも、こうして眠くなって気ままに寝ているのはまさしく子供がやることだろう。
シラベは晩酌の残骸を袋にまとめてから、キッチンへ向かう。缶を軽くゆすぎながらも、行きそびれていた廊下端の戸へ目をやった。物干し台のあるバルコニーへ出る戸だ。レヴェローズの言葉が正しければ、ミーシャは風呂上がりに物干し台で涼んでいるはずだ。
大まかな片付けを済ませてから、三人部屋の様子をちらりと窺う。キッチンでアイスを食べていたレヴェローズはごろ寝の姿で携帯ゲーム機を手にしており、カルメリエルは明るい室内に構わず布団で横になっている。いつも糸目なものだから寝ているのかは分からない。
そして、ミーシャの姿はない。まだ表にいるのだろうか。
確認するべく、バルコニーへ向かうシラベ。戸を開くと、ひやりとした風が入り込んでくる。
「……涼しくなったな」
昼間はまだ夏の名残がしつこく居座っているのに、日が落ちれば風の中に冷たさが混じるようになった。秋になりつつあるらしい。店の中にいるだけでは分かりづらい季節の変化が、こういう時だけ妙に分かりやすかった。
ついこの間までと比べれば肌寒さすら感じそうだったが、酒の回った身体にはちょうどいい。外履きのサンダルへ足を入れ、短い階段を上がる。
洗濯物は取り込まれた後で、物干し台の上には何も揺れていない。街灯と周囲の家の明かりだけが古い床板を薄く照らしていた。
「ミーシャ?」
呼んでみるが、返事はなかった。大穴の鳴き声もしない。
一階でまた本を読んでいるのだろうか。そう思いかけて、シラベは足を止めた。
この物干し台には『下』がある。屋根の傾斜と台を支える足場が作った、細長い空間だ。外からはトタンが目隠しになっていて、入り口を知っていなければまず気付かない。以前、一人になりたくて潜り込んだところを大穴に見つかり、その後ミトラにまで見つかっている。
その時は、どうしてミトラに居場所が分かったのか聞いても、ないしょで済まされた。
後になって理由を知ってみれば、何ということもない話だった。夜になると通りの街灯や向かいの建物の明かりが屋根の下へ斜めに差し込む。そこへ誰かが寝そべっていれば、物干し台の隙間から見える明かりに影が出来るのだ。隠れている本人からは見えづらいのに、上にいる側からはわりと目立つ。
あの時の自分はわざわざ毛布まで持ち込んでいたから、なおさら分かりやすかっただろう。文字通り年季が違うミトラに秘密基地ごっこと笑われても仕方がない。
シラベは床板の隙間へ目をやった。街灯の光が下の暗がりを細く切っている。
その中に、ごくわずかな影があった。
「……ったく」
口元が緩むのをそのままに、階段を下りてバルコニーの縁に片膝をつく。手を掛けて身体を乗り出し、屋根との隙間を覗き込んだ。
「ひっ」
暗がりからの声を頼りにするまでもなく目が合った。銀髪の頭が引っ込みかける。
狭い空間の奥にいるミーシャは、こちらを見上げたまま固まった。そのすぐ横には大穴が身を低くしており、黒い毛をぶわりと膨らませていた。
「何してんだ、こんなところで」
「あ、あの……」
「とりあえず上がってこい」
シラベが片手で示す。ミーシャはしばらく目を泳がせていたが、逃げ道なんてあるわけがない。四つん這いで狭い隙間をこちらへ寄ってくる。
近くまで来たところで、シラベは両手を伸ばした。
「ほら」
「すみません……」
さっきミトラにやったように、ミーシャの脇の下へ手を入れて持ち上げる。ミトラより幾らか重たい気がする身体を引き上げてやると、ミーシャはすすすと距離を取るかのようにバルコニーの隅へ座った。
続いて大穴が隙間から顔を出す。
「お前は自分で上がれるよな」
「なん」
言われるまでもなかったようだ。大穴は伸びあがると前脚を縁へ掛け、ひょいと身体を持ち上げた。着地すると、そのままシラベの脚へ身体を擦り付けてくる。毛を逆立てていたくせに、見つけたのがシラベだと分かればこれである。
「お前も一緒になって隠れてたのか?」
「なぅ」
判断が難しい鳴き声を上げる大穴。その顎に指を這わせながら、シラベは目を戻す。ミーシャの手には見覚えのある袋が握られていた。
戸棚に買い置きしていたさきいかだ。中身はまだ残っている。
「う……」
視線に気付いたミーシャがとっさに袋を両手で覆いかけるが、もじもじしたままで終わる。
そして何も言わないまま、座り直して膝を揃え、背筋を伸ばした。
綺麗な正座だが、ミーシャが自主的にやり始めると妙な違和感がある。
「誰に教わったんだ、それ」
「え?」
「いや、いい」
カルメリエル辺りだろうか。悪いことをした時はまず姿勢から、とでも吹き込まれたか。あの女なら、こうやって見せれば誠意が伝わるとでも言いそうだ。
もっとも、どういう教わり方をしていても、ここまで分かりやすく反省の姿勢を見せられれば、シラベも長々と説教する気にはならない。元々人を叱るのには慣れていないのもある。面白くもないし、何をどこまで言えばいいのかもよく分からない。怒鳴って言うことを聞かせる趣味もない。
それにミーシャは賢い。自分から正座まで始めたなら、何が悪かったかくらいはもう理解しているだろう。
シラベはミーシャの前にしゃがみ、目線を合わせた。
それから、彼女の手にある袋を指差す。
「それ、棚から取ったやつか?」
ミーシャの肩が小さく縮こまった。
こくん、と一度頷く。
「……ごめんなさい」
少し遅れて、声がついてきた。
「そのごめんなさいは、勝手に持ってったことに対してのやつか?」
「……はい」
今度は声と一緒にミーシャは頷いた。深刻そうな顔をしているせいで変な気分だが、こんな程度のちょろまかしはかわいいものだ。
だが、もう一つ触れておくべきか。シラベが確かめるよりも先に、ミーシャの口が開く。
「それと。隠そうとして、ごめんなさい」
「……ああ。そうだな」
ミーシャの言葉に、シラベは頷く。やってしまったことそれ自体よりも、やったことを隠そうとしたこと。それは確かに、食べ物の持ち出しよりも指摘するべき点だろう。
とはいえ、それを自分で言い出せるのであればもう言うべきことはない。シラベは手を伸ばし、銀色の頭を軽くぽんぽんと叩いた。ミーシャが恐る恐る顔を上げてくる。
「分かってんならいい。次からは、持ってく時は一声掛けろ。食うなとは言わねえから」
「……はい」
「ん」
これで終わりだ、と頷き、大穴を撫でるのに戻る。そんなシラベに、ミーシャは拍子抜けしたように瞬きをした。
「それだけ、ですか?」
「他に何か怒られたいことでもあんのか?」
「い、いえ。ありません」
「じゃあ終わり」
説教なんて、長くするほど気分の悪いものだ。他に何かやらかしているとは思えないし、細かいことまでわざわざ掘り返していったらキリがない。
むしろ、家にあるものを勝手に持っていくくらいのことをするようになったのは、ミーシャ自身がこの家に慣れてきた証拠だろう。遠慮がちにお伺いを立ててくるより、よっぽど打ち解けている。
だからといって何も言わなくていい話ではないが、カルメリエルを慕い、ミトラを慕い、レヴェローズと戯れているミーシャであれば、そこに一線があると教えておけば十分だ。
正座を崩していいと手で示すと、ミーシャはほっとしたように足を横へ流した。大穴はシラベの手の下で毛繕いを始めている。
シラベはそれを見てから、ふと思い出した。
「で」
「はい?」
「結局、大穴に何させようとしてたんだ?」
緩んでいたミーシャの身体がたちまち固まった。
「え、えっと……」
言葉もすっかり固い。素直に謝っていた目が、今度は斜め下へ逃げていく。
「今更恥ずかしがることでもねえだろ。何日もこいつに頼み込んでたくせに」
「見てたんですか?」
「二回ほどな」
「うぅ……」
ミーシャはさきいかの袋を膝の上へ置くと、両手で顔を覆ってしまう。小さい手の隙間から赤らんだ頬が見える。どうやらバレていないと思っていたらしい。
しばらくそのまま悩んでから、観念したように息を吐く。
「その……大穴さんに……また、大きくなっていただきたくて」
「……はあ?」
予想していなかった答えに、シラベは首を傾げた。
「なんでまたそんな。態度だけならもう十分でかいぞ」
「ぷしっ」
シラベの指差した先で、大穴がくしゃみをしてみせた。
ミーシャはまだ言いづらそうに指先で袋の端を弄っている。
「この間、ヒナタ様のお屋敷へ行った時に、私、ヤサマルさんと遊んでいたでしょう?」
「ヤサマル?」
一瞬誰の話か分からなかった。一拍考えて、庭にいた白い大型犬を思い出す。
「ああ、あの白い犬か。あんな名前だったのか、あいつ」
「はい。ヒナタ様がそう呼んでいました」
シラベはそこまで聞いていなかった。ミーシャがあっという間に懐かれ、庭で好き放題じゃれついていたのは覚えている。
「あの時のヤサマルさん、思い切り抱き着いてもぜんぜん動じなくて、とてもふわふわしていて……」
話し始めると、ミーシャの声が少しずつ滑らかになる。
「大きな体に埋もれて、毛皮をいっぱい触っていたら、向こうにいた頃にヴェルカやモンちゃんと一緒にいた時のことを思い出してしまったんです」
「はあん、なるほど」
そこまで聞けば、シラベにも何となく話の先が見えた。
「それで、そういえば大穴さんも体を大きく出来ると思い出して。……お願いしたら、また出来ないかな、と」
「そのために何日もご機嫌取りしてたのか」
「……はい」
膝に乗せて撫でさすって。さきいかまで持ち出して。
シラベは額へ手を当てた。レヴェローズらとはある種出自が違う彼女がどういうお願い事をするのかと思っていたが、なんともコメントに困る願いだった。大穴があれほど嫌がっていたのも分かるような気もする。
「お前なあ……」
「すみません」
「いや、謝らなくてもいい。……いや、まぁ……うん……今夜ここに来てたのも、大穴を追ってか?」
「はい。お風呂から上がったら、大穴さんがぴゃって飛び出していってしまって……この辺りで見失ったので探していたら、下にいらっしゃって」
「そういうことか」
大穴があそこに入ってきたとき、レヴェローズには話すなよと言ったのをシラベは覚えている。それを受けてこの猫は機嫌をよくしていた。
ともすると台の下で毛を逆立てていたのは、シラベにではなくあの場所に入り込んできたミーシャに威嚇していたのかもしれない。
一連の事が分かりスッキリはしたものの、後に困る。別に何も起きていないのだからいいのだが、その執念を他に使えなかったのかとは思う。
「んぐるるる……」
頭を抱えていると、足元から低い声がした。大穴である。毛繕いをやめ、話の中身が聞こえていたらしくイカ耳にしてミーシャを見ている。
「大穴さん……」
「んぎゃんる」
ミーシャが声を掛けると、大穴はぷいと顔を背けた。やはり相当鬱陶しかったらしい。
シラベが苦笑したところで、大穴がこちらへ跳び上がった。
「おっ」
前脚が肩へ掛かり、器用に身体を乗せてくる。いつもの定位置だ。
かと思えば、大穴は身体を丸める代わりにシラベの首元へ顔を押し付けてきた。
「おい、何して──」
ぐいぐいと頭を押し込み、服の襟元へ鼻先を突っ込んでくる。そのまま隠れるつもりのようだ。
「入るな入るな。お前のサイズでも無理あるから」
「ぐにゃん」
大穴はなおも前脚で服を掴み、頭だけでも中へ潜ろうとする。ミーシャから逃げるなら他にいくらでも場所はあるだろうに、なぜシラベの服の中なのか。
「そんな嫌か」
「なーぅ」
「即答だな」
シラベは襟元へ突っ込まれた頭を掴み、ずるずると引っ張り出した。大穴は耳を伏せたまま、両前脚をシラベの胸へ押し当てている。
横ではミーシャが何も言わず、こちらを見ていた。
「あー……」
どうしたものか。
素直に白状出来た娘への褒美──というと、いささか大げさか。さきいかの持ち出しを注意した直後に褒美をやるのもどうなのかという気はするが、きっちり認めたことに対してはそれはそれ、これはこれである。
少なくとも、いつまでも大穴の機嫌を取ってこそこそ隠れられるよりは、一度満足させて終わりにした方が早い。
シラベは大穴の胴を両手で持ち直した。
「なあ。ちょっとくらい大きくなってやってもいいんじゃねえか?」
「……」
大穴がむっとした顔をしている。猫だというのに、その表情から不機嫌さが伝わってくるのが不思議だ。シラベが腹毛に顔を埋めている時でもここまで不満そうな顔はしない。
「そんな顔すんなよ。別に毎日やれって言ってるわけじゃねえだろ」
「ふしゃっ」
「今日だけ。な?」
じいっと見つめ合うシラベと大穴。大穴は瞬きもしないで睨んできて、シラベも目を逸らさなかった。
ややあって。
「……ん?」
手の中の感触が変わった。
胴が、少し太くなっている。
「おお」
いつもの猫一匹分だった大穴の身体が、ゆっくり膨らんでいく。
抱きかかえるのに両腕が必要なくらいになり、それでも止まらない。
「おお……」
肩の高さまで頭が来たかと思えば、次には胸元を覆うほどになる。黒い毛並みが視界の下半分を埋め、腕を広げても支えきれなくなってきた。
「おお?」
シラベは慌てて手を離そうとした。
が、遅かった。
「……ぐるるるるる」
低く太くなった喉の音が、目の前で響く。巨大化した大穴が前脚を床へつくより先に、身体ごとこちらへ預けてきた。
「ちょ、おい──」
シラベの身体全体に、黒い毛並みが降ってくる。反射的に後ろへ手をついたが、支えきれる質量ではない。重さにも大きさにも圧倒され、押し返そうにも柔らかな猫の毛皮はむにゅりと飲み込むばかりだ。
シラベの身体はそのままバルコニーの床へ押し倒され、次の瞬間には視界の全部が黒になった。
「待て待て待て、重──」
声まで毛に埋もれる。それに合わせるように、みしり、と身体の下で嫌な音がした。一箇所ではない。バルコニーのあちこちで古い板が悲鳴を上げている。
「おい、床が鳴ってんぞ! 洒落にならんからちょっと軽くしろ!」
慌てて叫ぶと、身体に掛かる重みがわずかに減った。板の音がやむ程度で、あくまでわずかにだが。
顔の周りも胸元も、どこを向いても柔らかい毛皮しかない。息が出来ないほどではないが、起き上がろうにも腕が埋まり、何がどこにあるのか分からない。
以前バックヤードで伸し掛かられた時と同じだ。いや、今回は最初から自分で勧めた分だけたちが悪い。いつか見た悪夢よりは呼吸が出来るから幾分かマシだろうか。
「大穴、せめて退け。おい」
「るるるるるるんんんぐぐぐ」
返事の代わりに身体の奥まで響くような喉の音がした。明らかに退く気はない。
「わぁ……!」
黒い毛の向こう、まるでずっと遠くにいるかのようにか細い声が聞こえた。耳にまで毛が来ているせいで、外の音がろくに届かない。
「すごいです、大穴さん。ふわふわです……!」
ミーシャの声が弾んでいる。続けて、毛皮を両腕で掻き分けるような音がした。念願通りに巨大化した大穴へ、思い切り抱き着いているようだ。
「大穴さん、ここもすごく柔らかいです……! もふもふもふ……」
「ぐるるるるる」
今度の喉の音は、さっきより心なしか機嫌が良さそうに聞こえた。
シラベは毛の中でもがくのをやめた。大穴はミーシャの頼みを聞いたというより、シラベを下敷きにするところまで含めてなら受け入れたらしい。
「……圧し潰すのがそんなに好きかよ、お前は」
くぐもった抗議は、巨大な黒い毛皮の中へ虚しく吸い込まれていった。