一階のシャッターが下りたままのボトムレスピットは、客の出入りがないぶん静かだ。その分、二階で戸棚を閉める音や水道の流れる音まで、家の中によく響く。
カルメリエルは朝食に使った食器を片付け終えると、濡れた布巾を固く絞った。流しの縁を拭き、調理台を拭き、最後に水滴の残った蛇口まで一通り磨く。
布巾を絞る音や蛇口から落ちる水滴の音がやけに近く聞こえる。いつもなら家のどこかで誰かしらが立てている物音が重なるところだが、今日はそれも少ない。
休日だからといって家事まで休みになるわけではない。むしろ店番が無い日ほど、普段は後回しにしている細かなところへ手を伸ばせる。
とはいえ、今日はやることが少なかった。朝からシラベがミーシャとレヴェローズを連れて買い物へ出ているためだ。普段はそれぞれが勝手に動いているだけなのに、いなくなれば随分と分かりやすいものだった。人が減ったぶん家事は楽になるが、手持ち無沙汰になる時間も早い。
三人分の声が無いだけで家の中は随分と静かになる。ミーシャがいれば勉強の時間をどうするか考え、レヴェローズがいれば何かと目を配る必要があり、シラベがいれば──まあ、こちらは別に世話を焼かなければならない相手ではないけれど、姿があれば自然と目で追ってしまう。
ともあれ、残っているのはカルメリエルとミトラだけで、そのミトラも朝はいつも通りだった。シラベが出掛ける支度をしている時に買い物へ一緒に来るかと声を掛けていたが、ミトラは考える素振りすらなく今日は家にいると返していた。
彼女の出不精は家族の皆が知るところなので、特に追及もなく買い物組は出ているし、カルメリエルも同じ考えだ。いつものようにミトラは部屋にこもるのだろうと、今日は二人で留守番するものだと思っていた。
しかし洗った布巾を干そうと振り返ったところで、廊下を横切る小さな影が見えた。
「あら?」
ミトラの装いが、今朝見た大きめのトレーナーにトレンカを履いただけのだらけたものから変わっていた。ラフなシャツとデニムパンツ姿で、小さな鞄を肩にかけている。特別に着飾っているわけでもない、ごく普通の外出姿である。
ただし、ミトラが休日にわざわざそこまで着替えていることの方が珍しい。朝の時点で外へ出るつもりがあったのなら、シラベの誘いに一言くらい添えていてもよさそうなものだ。
そのまま階段の方へ向かおうとしているのを見て、カルメリエルは布巾を手にしたまま首を傾げた。
「ミトラ様」
「ん?」
呼び止められたミトラが振り返る。
「どちらかへお出掛けですの?」
「ちょっと散歩」
短い返事を聞き、カルメリエルはもう一度首を傾げた。散歩などというものは、あまりにもミトラに似合わない単語だ。
肩から下げた鞄へ一度だけ目を落とす。財布か何かを入れるだけなら不自然ではない。それでも、何の目的もなく近所をぶらつく姿よりは、どこかへ用事を済ませに行く姿の方がよほど想像しやすかった。
歩くことそのものを嫌っているわけではない。必要があれば普通に出掛けるし、町内の用事だってこなす。けれど何も無い休日に、わざわざ家を出て歩き回るような趣味がこの主にあっただろうか。少なくともカルメリエルの記憶には無い。
「お散歩、ですの?」
「何よ」
「いいえ。珍しいこともあるものだと思いまして」
「失礼ね。私だって散歩くらいするわよ」
言いながら、ミトラの視線が僅かに逸れた。
その動きで、カルメリエルの中にあった小さな引っ掛かりが少しだけ大きくなる。
嘘をついていると決め付けるほどではない。ただ、聞かれたくないという雰囲気自体はよく読み取れる。カードゲームの盤外では、ミトラは笑えるほどに分かりやすい。
そこまで考えたところで、ミトラがこちらをじっと見た。
「あんた、今なんか変なこと考えてるでしょ」
「あら。心外ですわ」
「その顔で言われてもね」
いつもと同じ微笑みのつもりだったのだが、主にはあまり効かないらしい。
カルメリエルは布巾を干し終え、手を軽く払った。
「少々気になっただけですわ。今朝、シラベ様に誘われた時には今日は家にいると仰っていたでしょう?」
「別に予定が変わることくらいあるでしょ。散歩なんて思い付きでやってもいいし」
「もちろん、そうですけど」
「じゃあそれでいいじゃん」
会話を切り上げようとするミトラが背を向けた事で、カルメリエルの好奇心は一気に熱を帯びる。
けれど、ミトラは三歩も進まないうちに足を止めた。振り返らないまま肩だけが僅かに落ちる。
「……はぁ。別に大した用事じゃないから、ほっといて留守番してて」
釘を刺すような声に、カルメリエルはにこやかに頷いた。
「ええ、分かりました。シラベ様にも秘密にしておきます」
「本当に分かってんの?」
今度こそミトラが振り返った。少し白々しいセリフだったかもしれない。
もっとも、こうして念を押してくる時点で、ミトラ自身もカルメリエルが素直に引き下がるとは思っていないのだろう。そう考えると、止められているというより警戒されているようで、余計に楽しくなってくる。
カルメリエルは緩みそうになる頬を引き締めて頷いてみせる。
「ええ。きちんとお留守番をいたしますわ」
「……ならいいけど」
まるで納得していない顔だったが、それでもこれ以上言っても仕方がないと思ったのか、ミトラは階段を下りていった。ほどなく一階の戸が開き、閉まる音が響く。
カルメリエルはその場で数秒待った。それから、台所の窓へ歩み寄る。
カーテンの隙間から下を覗けば、通りを歩いていく小さな背中が見えた。急ぐ様子はなく、肩の鞄が歩調に合わせて小さく揺れている。事情を知らない者が見れば、そこいらに小学生が歩く姿とまるで変わらないだろう。
どこへ行くか考えながら気ままに歩いている、そういう様子ではなかった。角へ近付いても足を緩めず、そのまま迷いなく曲がっていく。
「…………さて」
カルメリエルは静かにカーテンを戻し、頭の中で一つずつ言い訳を組み立てていく。
「さて、さて、さて」
ひとつ条件を並べるたび、結論の方からこちらへ寄ってくる。
家事は概ね片付いている。一階は休日で閉店中。シラベたちが戻ってくるまでにはまだ時間がある。
そして何より、自分の主が、家族の誰にも用事を告げずに休日の外へ出ていった。
ここで大人しく帰りを待つ理由がどうにも見当たらない。
「お留守番は、戸締まりさえしておけば問題ございませんわね」
誰にともなく呟く。
少なくとも、シラベへ知らせないという言葉は守るつもりだ。ミトラの邪魔をするつもりもない。戸締まりさえしておけば、留守番としての役目も果たしていると言って差し支えないだろう。
ただ少し、何をしに行くのか見届けるだけである。それを何と呼ぶかは見解の分かれるところだろう。
カルメリエルは手早く出掛ける支度を整えた。家事用のエプロンを外し、髪を確かめ、必要なものだけを胸元へ収める。最後に戸締まりを確認し、表へ出た。
通りの先にもうミトラの姿はない。けれど向かった方角は先ほど上から見て概ね分かっているため、迷いなく歩き始めた。
休日の通りには買い物袋を提げた人や、自転車を押して歩く者がぽつぽつといる。カルメリエルもその流れへ紛れ、前方だけを見続けないよう店先のガラスや道路脇の反射を拾っていった。
尾行というものに特別な経験があるわけではないが、対象を見失わず、こちらの存在を悟らせなければよいだけだ。防犯設備の配置を考える時と同じで、相手から見える範囲と自分が拾える情報を押さえればいい。真正面から見続ける必要はなく、道の先、店の窓、曲がり角の影。使えるものはいくらでもある。
少し先の交差点で、見慣れた小さな背中を見つけた。
距離は十分。間には何人かの通行人もいる。これならミトラが何気なく振り返ったところで、真っ先にこちらへ目が留まることもないだろう。
カルメリエルは歩調を緩める。
ミトラは一度も振り返らない。道端の店へ寄るでもスマートフォンを見るでもなく、ただ決めた方向へ歩いていく。
気まぐれな散歩ならもう少し道を眺めてもよさそうなものだが、迷いない歩みがかえってカルメリエルを面白がらせる。
(さて、どちらへ向かわれるのでしょう)
高まった好奇心は、歩みを追うほどますます収まりそうになかった。
秘密というものは隠されるほど中身を確かめたくなる。まして相手がミトラなら尚更だった。家では面倒そうに寝転がっていることの多い主が何をしてくれるのか。
カルメリエルは口元の笑みを抑えきれないまま、さらに一つ角を曲がるミトラを見送った。
ここまで一度も振り返られていない。距離の取り方も悪くないし、初めてにしては上出来ではないか、と少しばかり自分を評価する。
少し間を空けるが、角の向こうから戻ってくる気配はない。カルメリエルも同じ角へ足を進めた。
「──あら?」
曲がった先に、ミトラが立っていた。
ちょうど角から出てきた人間を待ち構えられる位置で、腕を組んでこちらを見上げている。
こちらが何か取り繕うより早く、すっ、と小さな足が動いた。
「ひゃんっ!?」
カルメリエルの脛へ鋭い痛みが走った。咄嗟にその場で身を縮める。脛の真ん中をきっちり捉えており、狙いだけは正確である。
蹴られたところを両手でさすりながら見下ろすと、ミトラは呆れた顔のまま足を戻したところだった。
「いた……痛いですわ、ミトラ様」
「知ってる。痛くしたんだから」
「主が従者へなさる仕打ちとしては、少々乱暴ではございません?」
「人の言うこと聞かない従者気取りに言われたくないんだけど」
正論だったが、素直に認めるのはカルメリエルには癪だった。
「わたくしはただ、お醤油が切れていたのに気付いて出てきただけで」
「へえ」
「偶然、ミトラ様と同じ道だっただけで」
「へーえ」
言えば言うほどミトラの目が細くなる。通らないだろうことはカルメリエル自身も分かっていたが、あまりに遊びがない。
やがてミトラは腰へ手を当てたまま、深々と息を吐いた。
「はぁ……。あのね。あんたのそのデカい胸と尻で尾行とか無理だから」
自分の体を見下ろすカルメリエル。確かに、黒い衣服を大きく押し上げる胸元は隠密行動向きとは言い難いかもしれない。後ろについても事情は同じである。
「そこまで目立ちまして?」
「目立つわよ。角から半分も出てくる前に分かるっての」
「それはさすがに言い過ぎでは」
「あと、あんたを見ると通行人がなんとなくどよめくから分かりやすいのよ」
カルメリエルは脛をさすりながら黙る。そちらはカルメリエルにとってはいつも通りだったため、意識していなかった。
思い返せば、先ほども通行人の視線がこちらへ寄ること自体は何度かあった。カルメリエルにとっては日頃からあることなので尾行の成否とは結び付けていなかったが、ミトラから見れば、その視線の動きだけで後ろに誰がいるか分かりやすかったのだろう。
いつかレヴェローズに尾行された時。あれは不出来な妹だから分かりやすかったのだと思ってきたが、姉妹ともどもそういうものに向いていないのかもしれない。
「……次からは変装も検討いたしますわ」
「次やる前提で話すな」
即座に返されるが、カルメリエルは聞き流す。必要があればやるだけだ。
心の中で開き直りながらもようやく片脚を下ろす。痛みはもうほとんど引いている。
ミトラはまだ呆れた顔をしていたが、怒っているというより、諦めの方が近いように見えた。
「ったく……まぁいいや」
「はい?」
頭をバリバリ掻いたかと思えば、ミトラはカルメリエルに顎をしゃくって見せた。
「一緒に来たければ来れば」
聞き間違えたかと思ったが、問い返すより先にミトラはもう歩き出そうとしている。
追い払われるか、少なくとも説教の一つくらいは続くと思っていた。こちらが何を知りたがっているのかも分かった上で、それでも連れていくつもりらしい。
ぽかんとしてしまったカルメリエルは脛に残る僅かな痛みをすっかり忘れ、口元の笑みを深めた。