夕食後のシラベの部屋。布団を外したこたつは春夏とちゃぶ台の代わりを務め続け、本来の姿を取り戻す時期まであと僅かとなってきている。
そんな古びた四角い卓を囲むように、今夜も家族が思い思いの格好で転がっていた。
ミトラの定位置は座椅子に座ったシラベの膝の上だ。背中を胸に預け、腹の前に回された腕を肘掛けにしている。
その腕の先で、シラベの指がミトラの手を弄んでいた。指の付け根を親指でなぞり、手の甲を撫で、また掌へ戻る。特に意味のない手慰みだろうと放っておいたら、指の動きがふと止まった。
「なんか塗った?」
「は?」
「手。いつもと触った感じが違う……気がする」
シラベはミトラの手を持ち上げ、裏返したり指を摘まんだりしながら首を捻っている。
「すべすべしてるっつうか、柔らかいような。化粧水でも塗ったか?」
「別に何も」
本当に何も塗ってはいない。心当たりがあるとすれば、このあいだカルメリエルと出掛けてサウナで汗を流したことくらいだ。あれから数日経っているが、効き目が残っているのだとしたら大したものである。
シラベたちも買い物に出ていたあの日、ミトラとカルメリエルがどこで何をしていたのかは話していない。わざわざ聞かれてもいないことを話すのは面倒だ。
「ふーん」
シラベはまだ腑に落ちない顔をしていたが、それ以上は聞いてこなかった。質問の代わりに手の甲をもう一度撫でて、そのまま頬にまで移してくる。
「こっちもか」
「知らないってば」
口ではそう言いながら、ミトラは頬を大人しく差し出してやった。指の腹が頬の丸みをなぞっていく。くすぐったいが嫌ではない。
こたつの向こう側ではカルメリエルが膝に大穴を乗せ、ブラシで黒い毛並みを梳いていた。ブラシが通るたびに大穴の喉が低く鳴っている。また寒くなってくればあの毛がもこもこになるのだと思うと今から待ち遠しい。
ミーシャはその隣で、こたつの天板に本を立てて読んでいる。図書館で借りてきたものだろうか。集中しているようで、頁をめくる音以外ミーシャの方からは何も聞こえてこない。
部屋の隅に目をやると、金魚鉢の中では赤い魚がのんびりと向きを変えていた。住人全員からほどほどの注目を受けて飼育されているそれは、家に来たときよりすこしでっぷりしてきてるかもしれない。食べる姿が面白いからとミトラがこっそり餌を与えていることは関係ない、はずだ。
皆が好きなことをしていて、静かに時が過ぎていく。そういう夜の空気は、ミトラにとって密かな楽しみになってきた。
「はぁぁぁ……」
その空気を、長い溜め息が揺らした。
シラベの傍で、レヴェローズが畳にうつ伏せで寝そべっている。両肘を突いて顎を乗せ、目の前に広げた薄い冊子を眺めていた。見ているうちにまた一つ、分厚い胸の底から絞り出したような溜め息が漏れる。
ミトラはシラベの膝の上から首を伸ばした。冊子の表紙には嘘のように青い海と白い砂浜が刷られている。椰子の木が並ぶその下には聞いた事があるようなないような横文字の地名が書いてあった。海外旅行のパンフレットだ。
「どしたの、あれ」
シラベを見上げて聞くと、シラベはミトラの頬から手を離して顔をしかめた。
「こないだ買い物してる最中に、こいつが旅行代理店の客引きに引っ掛かりやがったんだよ」
「はぁん。わざわざご苦労なことね」
シラベとミーシャの周りをちょろちょろしながらあちこちに目を奪われ、そこに声を掛けられる金髪の姿が目に浮かぶようだ。
シラベはレヴェローズの後頭部を顎で示した。
「面倒だから買い物終わるまで相手しててもらうかと思って放っといたんだよ。で、呼びに行ったらそれ抱えてやがった」
「託児所扱いはやめなさいよ」
「ミーシャの靴見てる最中だったからな。いちいち引っ張り出してもあいつ暇だろうし」
呼び込みの結果とはいえ金を持たない客の応対をさせられ、店員もいい迷惑だっただろう。ミトラは会ったこともない旅行代理店の店員に少しだけ同情した。
「それからずっとこれだ。海に行きたいってしきりに言いやがる」
ミトラは首を傾げた。
「ドゥブランコって、海の中の連中と戦ってたんでしょ。海なんて嫌いじゃないの?」
ミトラもECのストーリーは覚えている。ドゥブランコの物語において海とは、海の底に拠点を構える敵に手を出せず苦戦を強いられた戦争の話が主となるはずだ。かつての相手の住処を喜んで見に行きたがるものだろうか。
レヴェローズはだらしなくパンフレットに頬を乗せ、ぐんにゃりと首だけをこちらへ向けた。
「それは我々の脊界の話であろう。こちらの海はとても綺麗で、楽しく遊べるというではないか」
「まあ、そうね」
「見ろ店長。水がこうも透き通っている。底が見えるのだぞ。何かが潜んでいたとしても一目で分かるではないか」
「そこなんだ」
楽しみ方の基準が妙なところにある。
レヴェローズは再びパンフレットへ顔を戻したが、その横顔は晴れなかった。指先で砂浜の写真をなぞり、また溜め息を吐く。
「だが、この国の海というのは夏に遊ぶものなのだろう? 秋になってしまった今では難しく、来年まで待たねばならんとは……」
そう言って、今度はパンフレットに額を落とす。紙が小さくくしゃりと鳴った。
ミトラにはその態度が意外だった。パンフレットに載っているのはどう見ても海の向こうのあちこちだろう。今からでもこの暖かい国へ行こう、とでも言い出しそうなものなのに、レヴェローズは来年の夏を待つつもりでいる。
このポンコツにしては、随分と謙虚な物言いかもしれない。
「分かってんなら来年まで待てばいいだろ……あ」
シラベがやれやれとでも言いたげに首を振ったかと思うと、ふと動きを止めた。
その目がこたつの向こうへ向いている。視線を辿ると、大穴にブラシを掛けているカルメリエルがいた。シラベはしばらくそちらを眺め、何か考えているような顔をした。
「……そういや、お前も皆で旅行に行きたかったんだっけ」
「はい?」
唐突に話を振られたカルメリエルが、ブラシを止めて顔を上げる。
「ええ、まあ……機会がございましたら」
動かなくなったブラシを追うように、大穴が頭をぐいとカルメリエルの手へ押し付けた。
「ぅなぁん」
「あら、ごめんなさい」
カルメリエルがブラシを動かし直す。その様子を見ながら、ミトラはシラベの顎を下から見上げた。
「何の話?」
「去年の喧嘩神輿の件だよ。あれの優勝賞品、団体旅行券だっただろ」
言われて、ミトラの頭に鉄の塊が浮かぶ。去年の秋祭りに向けてカルメリエルが大人から子供まで巻き込んで組み上げた、あの物騒な神輿だ。
「それ目当てにあんなもんまで作ったんだから、相当行きたかったんだろうと思ってな」
「……別に、いいではありませんか。今更皆の前で言わなくても、そんな……」
カルメリエルは否定こそしなかったが、ブラシを動かしたまま口を尖らせている。
そんな理由だったのか。拗ねた口調も相まってミトラは呆れた。
旅行に行きたい気持ちとあの鉄の塊を作り上げるという決断を下す間には随分な距離がある。旅行がしたいならそう言えばよかったのではないだろうか。他にもっと別の手段を思い付かなかったのか。
もっとも、カルメリエルのことだ。旅行に行きたかったのも、神輿を作りたかったのも、きっとどちらも本気だったのだろう。片方をもう片方の口実にしていたわけではなく、両方同時に全力だった。そう考える方が、あの時の目の輝き方には納得がいく。
シラベは考えるように天井を見上げた。
「泳ぐのは無理でも、どこか遊びに行くくらいはいいかもな」
ぴたりと、レヴェローズの溜め息が止まった。
「行くのだな?」
「まだそうとは言ってねえ」
シラベが釘を刺すが、レヴェローズはもう聞いていない。畳から身体を起こすと、パンフレットを机の上へ広げ始めた。
するとどこまで聞いていたのか、ミーシャが本から顔を上げる。
「お出掛けするんですか?」
「考えてみるか、くらいの話だよ」
シラベはレヴェローズよりも優しく諫めようとするが、それよりも早く動く口があった。
「泊まりでしたら、お店のお休みも考えませんと」
答えたシラベに被せて、カルメリエルまで話に加わってくる。ブラシを持つ手は気付けばまた止まっていて、大穴が不満げに尻尾でカルメリエルの太ももを叩いていた。
ついさっきまで全員がそれぞれ別のことをしていたはずだ。それがいつの間にかパンフレットへ視線が集まっている。
ミトラは膝の上からシラベを見上げた。
「迂闊なこと言うから」
「……うるせえ」
シラベは渋い顔をしたが、言い出したことを引っ込める気はないらしかった。案外この男も、行きたいとは思っていたのかもしれない。
「海へ行くのでしたら、ミーシャさん用の水着を用意しませんと。これくらいの歳の女の子が着るスクール水着というのがあるのでしょう?」
「そんなん着れるのミトラくらいだぞ」
「あ?」
「砂浜を歩くにはビーチサンダルや、パラソルというのも必要なんですよね。砂が焼けるほど暑いと本に書いてありました」
「そうなのか? この写真の者たちは皆、裸足だぞ。それに海というのはうねるものだ、サンダルなど流されるのではないか」
「るにゃ」
大穴までこたつの縁に前脚を掛け、パンフレットを覗き込んでいる。海と聞いて何を想像しているのかは分からないが、この猫もどきも魚を連想することが出来るのだろうか。
「おお、これだ。こうして海を眺めながら食事をするのも、よいではないか」
レヴェローズが一枚の写真を指で叩く。海へ張り出した店のテラス席の写真だった。白い日除けの下で客が細長いグラスを手に寛いでいる。
「泳がずとも海は楽しめる。これなら秋でも問題あるまい」
「それはそうだけど。わざわざ海の近くまで行って飲み食いして、それって楽しい?」
「景勝地というのはそれだけで楽しいだろう!」
何故か自慢げに言うレヴェローズに、ミトラは首を傾げてしまう。別に引きこもりを気取るつもりはないが、そこまで景色そのものに執着する感覚はよく分からない。
「……ああ。そういや」
何かを思い出したような呟きが、ミトラの上から降って来た。シラベはミトラの脇腹を軽く叩く。
「ミトラ、ちょっとどいてくれ」
「えー」
せっかく落ち着いていたのに。不満は顔に出すだけ出してから、ミトラは膝から降りた。座椅子の横に座り直すと、いつしか涼しくなっていた空気が背中へ回り込んでくる。さっきまでそこにあった温もりが恋しい。
シラベは立ち上がり、部屋の隅の棚へ向かった。書書類や郵便物をまとめて突っ込んである引き出しを開けて中身を一つずつ確かめ始める。
「何探してんの」
「サブロウさんから来た手紙。ここでまとめて入れてたはずだけど」
「サブロウさん?」
「お前、忘れたんじゃないだろうな」
「んなわけないでしょ。十年以上の付き合いなんだから」
甲賀サブロウ。シラベが来る前から店を手伝ってくれていた老人で、元は父の古馴染みだ。十五年とちょっと前、この店で一人ぼっちになったミトラには何かと面倒を見てくれていた。シラベとドゥブランコ姉妹がこの店に来てからはたちまち身辺整理をして、田舎で喫茶店をやりたいという夢を叶えるために辞めていった。
いささか淡泊な別れだったものの、湿っぽいのはミトラも苦手なのでむしろ助かった。どこまでも気働きが上手い人だったのだと、まともな人間の素振りを学び始めたミトラは今になって彼の優秀さを噛みしめている。
喫茶店を開いたという知らせが届いた時にはミトラも読んだ。読んで、良かったなと思って、それきりだ。いつか顔を出そうとは思っていたはずなのに、日々の用事に紛れて訪ねる話にはならないままだった。
「あった。これこれ」
シラベが封筒を手に戻ってきた。
座椅子に座り直し、中から便箋と一枚の写真を取り出してこたつの上へ置く。パンフレットの隣に並べられたそれを全員が覗き込んだ。
写真に写っているのは、こぢんまりとした店だった。白く塗られた壁に緑色の日除け。建物の脇にはテラス席として小さなテーブルと椅子が並び、外でも座れるようになっている。その向こう、店の屋根越しに、やや灰色がかった海が広がっていた。
店の前にはエプロン姿の老人が一人立っている。白髪に眼鏡。背筋を伸ばしてこちらを向いているが、笑い慣れていない人間が写真のために頑張って作ったような、少し硬い笑顔だった。
「そうそう、海のそばだって書いてあったんだよ。すっかり忘れてた。海を見に行くっていうなら、ここを目的地にするのはどうだ?」
シラベが写真の奥を指で示しながら言う。海が話題になって思い出せたということらしい。
ミトラは便箋を自分の方へ引き寄せ、目を通した。開店の挨拶から始まり、当時の近況が細々と続いている。
客の入りはまずまず。朝は近所の漁師が一杯飲みに寄ること。豆はこだわって取り寄せていること。定休日と営業時間。店の前の道は冬場に風が強くなるので、外の席は春まで片付ける予定であること。
店の中のことを、まるで引き継ぎの書類のように順番に書いている。昔から手順書だの申し送りだのをきっちり残していく人だったが、自分の店の紹介のつもりで書いてもそうなってしまうらしい。
「ほう、あの老人の店がこれか。海の家というやつか?」
「喫茶店って言ってたけどな。夏にはそういう営業もしてるんじゃねえかな」
「さぶろうさん、と言いますと、前にお店で働いていた方ですよね? お店の手順書に名前が書いてありました」
「そうよ。ミーシャが来るより前に辞めたけど、かなり長く働いてくれてた人」
「俺が学生の頃から店にいたんだから相当だよな。今の仕事も、随分あの人が残してったもんに助けられてる」
シラベの言葉に、カルメリエルが静かに頷いた。彼女が店の裏方業務を一人で取り回していた時期には、用意してもらった資料の世話になっているはずだ。なにせミトラはその辺を何も教えていない。
シラベはスマートフォンを取り出し、便箋の住所を打ち込んだ。
「電車と新幹線で……向こうで新幹線降りるまで三時間くらいか。で、そこからがまた遠いな。バスとタクシーで一時間以上……」
画面に出た地図をまた机に置くと、レヴェローズとミーシャが両側から身を乗り出した。二人の頭がぶつかりそうになりミーシャが慌てて引く。
ミトラも横から画面を覗いた。印の付いた場所はまるで見覚えの無い海岸線だ。写真だけ見ていた時は顔見知りも映っているせいですぐそこにあるような気がしていた。それが地図の上で見れば、やはり異なる土地なのだとよく分かってしまう。
「結構行くわね」
「まあな。日帰りで慌ただしくするより、一泊くらいした方がいいだろうな」
シラベはそう言ってから、ミトラの方を向いた。
「で。どうする、店長」
全員の目が、ミトラに集まった。
ミトラは答える前に、もう一度便箋へ目を落とした。
サブロウが店を辞めてから、それなりに経つ。一人で店を回していた頃から散々世話になっておいて、その人が始めた新しい店がどんな様子なのかはこうして写真でしか知らない。
あの人が自分の店で何を出しているのか。店の中はどうなっているのか、気になる。
「……別にいいわよ。サブロウさんの店なら、行ってみても」
レヴェローズの顔がぱっと明るくなるのが視界の端に見えた。
「ちゃんと臨時休業の手はずは整えなきゃいけないから、すぐには無理よ」
「それもそうだし、サブロウさんに連絡して都合聞かねえとな。向こうだって店やってんだし、いきなり行って忙しいですじゃ迷惑だろ」
「宿や食事処も、あちらにお住まいのサブロウ様の方がよくご存じでしょうね」
「そうだな。その辺も聞いてみるか」
日取りも宿も決まらないまま、話だけが先へ転がっていく。
レヴェローズはすっかり元気を取り戻していた。胡坐をかいてパンフレットを膝に乗せ、最初の頁からめくり直している。
「旅行となれば用意が要るな。ミーシャだけではない、我ら姉妹も水着を買わねば」
「泳げる前提で考えるなよ。海辺はもう寒い時期だろ」
「うむ、うむ。まぁ臨機応変にな」
適当に答えているレヴェローズの手は水着姿の人間が波打ち際ではしゃいでいる頁で止まっている。ミトラは何も言わないでおいた。
「泊まりがけで皆様とお出掛けするのは、楽しみですわね」
「はいっ! お店の周りには何があるんでしょう?」
「さあな。行ってみてのお楽しみだ」
カルメリエルはブラッシングを再開しながら、隣のミーシャへ微笑みかけた。大穴はようやく戻ってきたブラシに満足したのか、目を閉じて喉を鳴らしている。
ミーシャも嬉しそうに大きく頷きつつ、こたつに置かれたままのスマートフォンの地図を覗き込んでいた。
「海の見える場所で食べるなら何が良いだろうな。やはり魚か」
「こういう海の近くは市場などもあるのでしょうか。水揚げされたばかりのものを見るのも面白いかもしれませんわ」
「大穴さんは一緒に行けるでしょうか。カバンに入れますか?」
「んぅるるぅ」
具体的な日程など一つも決まっていないのに、持っていくものや食べたいものの話がもう始まっている。
ミトラは姦しい三人の様子をしばらく眺め、それからシラベの隣へ身体を寄せた。もたれかかるだけで、シラベは何も言わずに座椅子に背を預けて机との間を空ける。
用意された特等席に収まると、背中に当たる胸がさっきよりも温かい気がした。ぬくもりに身を委ねながら、机に置かれた写真に目をやる。
硬い笑顔のサブロウに再会した時、自分は何を言えるだろう。テラス席に座って海をみんなで眺める時、自分は何を思うのだろう。いつになるかも分からないその日を、気付けばもう待ちわびている。
ミトラはシラベの腕を、自分の腹の前へ引き寄せ直した。
次回更新は10月1日予定です