「──はい。それでは、どうぞよろしくお願いいたします。失礼いたしますわ」
カウンターの内側で、カルメリエルが受話器を置いた。
客の途切れた平日の午後。対戦スペースにも人影はなく、店内に響いていたのはさっきまでの電話の声くらいのものだった。
カルメリエルは受話器から手を離すと、バックヤードの方へ向き直る。仕切りのカーテンは半分ほど寄せてあり、奥の机ではミトラが店のノートパソコンに向かっている。
「ミトラ様。取材の件ですが、先方はこちらの都合に合わせてくださるそうですわ。少し間が空いても構わないと、了承をいただきました」
「ん。了解」
ミトラは画面から目を離さないまま返事をした。
電話の相手は例の動画のマネージャーだろう。前に掛かってきた時はレヴェローズと受話器を奪い合っているうちに切れてしまったが、カルメリエルが出れば話は滞りなくまとまるらしい。
シラベはカルメリエルの後ろを抜け、そのままミトラの椅子の後ろへと回り込んだ。抱えていた箱を棚の空いた段へ押し込む。中身は店先に出していた水鉄砲やビーチボールの売れ残りだ。夏の間は子供たちがそれなりに手に取っていったが、今の時期に並べておいても仕方がない。海へ行く相談をしている店で、海のおもちゃを片付けているのだから妙な話である。
ミトラの肩越しに覗いた画面には、店のブログの編集ページが開いていた。『臨時休業のお知らせ』という見出しの下に、休みにする日付と、お決まりの詫びの文句が並んでいる。カーソルが下書き保存のボタンへ動き、画面の隅に小さく完了の表示が出る。
シラベは棚の脇の椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「で、事前の準備はこれで大体済んだか」
カルメリエルがにこりと頷く。ミトラも画面を見たまま、顎を引くようにして頷いた。
シラベは椅子の背にもたれて、凝った肩を回した。
思い返せば、一番気が重かったのはサブロウへの電話だった。
*
「シラベが掛けてよ」
数日前の朝。皿が二階の流しへ運ばれていった後の長机で、ミトラは店の電話の子機をシラベの胸へ押し付けてきた。
「なんでだよ。サブロウさんとはお前の方が付き合い長いだろ」
「いいから」
「よくねえよ。理由を言え理由を」
ミトラは子機を押し付ける手を引っ込めないまま、そっぽを向いた。
「……ちょっと恥ずかしいし」
その様子を見てなおさら何がどう恥ずかしいのかまで言わせたいところだったが、それでは埒が明かない。仕方なくシラベは子機を受け取り、便箋の末尾に書かれていたサブロウの喫茶店『ニアミント』の店の番号を押す。
『――はい、喫茶ニアミントです』
呼び出し音が三度、四度と鳴ってから、落ち着いた男の声が聞こえてくる。記憶にあるより少し掠れている気がするが、聞き間違えようはない。
「あ、ご無沙汰してます。ボトムレスピットの押江シラベです」
『──ああ、押江さん! お久しぶりです』
名乗ると一拍の間を置いてから、年配の声がぱっと明るくなった。同僚だった期間こそ短いが、学生の頃から店で聞き慣れた調子だ。
「急に連絡してすみません。開店のお知らせもいただいてたのに(ミトラが)返事もしないままで」
『いえいえ、とんでもない。こちらこそ送りっぱなしで失礼しました。皆さん、お変わりありませんか』
「おかげさまで、なんとか」
それからしばらくは社交辞令が続いた。互いの店の様子だとか、向こうの暮らしには慣れたかだとか。サブロウは一つ一つに丁寧に答えてくれる。勤めていた頃と同じで話の運びにそつがない。
『レヴェローズさんとカルメリエルさんもお元気ですか』
「ええ。不調な時が無いってぐらい元気ですよ」
嘘は言っていない。そもそも精霊に体調の波があるのかどうかもシラベにはよく分からない。
サブロウの中では、あの二人はシラベの知り合い筋ということになっている。頼るところのなかった二人のために、バイトで雇われたばかりのシラベが厚かましくもミトラに頼み込み、しぶしぶ居候させてもらった──そういう筋書きだ。カードから出てきた精霊です、と正直に言うわけにもいかない以上、他に説明のしようがなかった。
我ながら、ずいぶんと図々しい新人に仕立てたものである。それでもサブロウは、新人が連れてきた妙な二人組にミトラが良いならと、嫌な顔一つ見せなかった。
話していると、脇腹に重みが掛かった。隣の椅子から身を乗り出したミトラが、シラベの胴へ両腕を回して抱き着いている。顔を半分シラベの脇へ埋め、見えている方の頬は膨れていた。人に押し付けておいて、いざ和やかに話が弾み出すと面白くないらしい。
子機を持っていない方の手で頭を撫でてやると、腕の力が少しだけ強くなった。
改まったやり取りが苦手なのか。それともかしこまった電話そのものが苦手なのか。長電話となれば子機片手にうろうろ歩き回るくせに、と思うとどちらとも言い切れない。いずれにせよ、脇腹にしがみついてむくれている三十五歳児はなかなか可愛らしかった。
「それで、今日は一つご相談がありまして」
『はい、何でしょう』
「実は店長と相談して、慰安旅行の行き先を考えているんです」
『……ミトラさんが、そんなことを?』
声が一段高くなった。電話越しでも目を丸くしているのが分かる。
シラベは苦笑するしかなかった。長くこの店に勤めた人の反応がこれである。出不精で従業員の慰安など考えたこともなさそうなミトラへの評価は今も健在らしい。
「最近ちょっと成長したらしくて。外に出るのも嫌じゃないみたいですよ」
茶化すように言った途端、頭を撫でていた手首を掴まれた。
そのまま引き下ろされた手の、親指の付け根にかぷりと歯が立つ。痛いというほどではない。甘噛みの範囲だが、抗議の意思だけは十分に伝わってくる。
シラベは噛まれた手をそのままにして、残りの指でミトラの顎の下を撫でてやった。大穴をあやす時と変わらない手つきだったが、それでも噛む力はわずかに緩んだ。
「その流れで、海の近くに行こうって話になったんですよ。だったら、サブロウさんのお店の近くには海もあるし、一度ご挨拶に伺おうと思いまして」
『それはそれは。わざわざありがとうございます』
サブロウの声がほころんだ。
『今の時期は海水浴もオフシーズンですからね。来るのは近所の顔馴染みくらいのものですし、そういうお客さんばかりのうちは、いつ来ていただいても空いてますよ』
「あー、なるほど」
自分の店の暇を朗らかに言われても、返事に困る。シラベは曖昧に相槌を打ってから、ついでにもう一つ確かめておくことにした。頭に浮かぶのは、パンフレットに刷られた海から目を離さなかった金髪である。
「……やっぱり、海ってもう入れる温度じゃないですよね」
『うーん』
サブロウはしばらく唸った。
『天気が良ければギリギリ……ですかねぇ』
「なるほど」
毎日海を眺めている人間が唸った上でのギリギリだ。土地に不慣れな連中がはしゃいで飛び込めば、ギリギリの向こう側へ転がり落ちるかもしれない。海で遊ぶのは出来ない前提で考えておいた方がいいだろう。
そこから日取りの話になった。臨時休業に出来そうな日をいくつか挙げ、向こうの店の都合と擦り合わせていく。サブロウは手帳でもめくっているのか、紙の擦れる音を挟みながら一つずつ返事をくれた。
ひとまずの日取りが決まったところで、サブロウが思い出したように言う。
『そういえば、一泊されるということでしたが、泊まる場所はもう決まっていますか』
「いえ。これからホテルを押さえようかと」
『でしたら、ウチで良ければ泊まってもらって構いませんよ』
「え。いいんですか」
『ここの建物、前の持ち主がもともとコテージでもやるつもりだったらしくて。客室だけはやたらと多いんですよ。一人じゃとても使い切れませんで』
シラベは脇腹のミトラを見下ろした。いつの間にか噛むのをやめていたミトラが、シラベの脇に頬を付けたまま小さく頷く。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
『ええ、ぜひ。お待ちしてますよ』
*
思い返して、シラベの胸に今更ながら後悔のようなものが滲む。
サブロウが知っているのはシラベとミトラ、それに居候の姉妹までだ。あの時、ミーシャと大穴のことを話し忘れていた。
辞めた後に増えた娘が一人と猫が一匹。客室が多いというなら一人増えるくらいは何とかなるだろうが、飲食の店に猫を連れ込んでいいかは別の話だった。
そもそもミーシャのことをどう説明したものか。お父様、お母様と呼ばれている現状をそのまま話せば電話口でまたサブロウを驚かせることになる。
どこかのタイミングで追って連絡するか。それまでに上手い言い方の一つも考えておかなければならない。
昼を過ぎてから、レヴェローズとミーシャの姿を見ていない。
「そういや、あの二人は?」
「まだ二階で不貞腐れてるんじゃない? 別に水着くらい何でもいいでしょうに」
「水着?」
ノートパソコンを閉じながらどうでもよさそうに言うミトラだが、シラベには話が見えない。カウンターの方を見ると、カルメリエルが眉尻を下げて微笑んでいる。
「どうも、お二人で水着を買いに行かれたようなのですけれど。気に入ったデザインのものが無かったようで」
「あー」
レヴェローズとミーシャは、おそらく店の中で海を楽しみにしているツートップだ。その準備が一歩目からこけたなら、それは面白くないことだろう。
だが、レヴェローズが気に入るデザインと聞いてもまず良い予感がしない。金ぴかだの銀ぴかだの宝石だのがついた煌めくやつで、布地の少なさを誇っているような代物を手に取ってはしゃぐ姿なら容易に想像がつく。店に並んでいなかったのはむしろ幸いだったのではないか。
ただ、もう一人の方は意外だった。
「ミーシャもか? あっちはそういうの気にしない……とまでは言わないけど。色々折り合いつけそうだが」
好みを押し通して拗ねるような性格でもない。
カルメリエルは頬に手を添え、言葉を選ぶように続けた。
「ミーシャさんの場合は、そもそも体に合う水着があるかどうか、というところでして」
「……そうか」
言われてシラベも思い出す、というより意識から敢えて外していた部分に向き合う。背丈はミトラとさほど変わらないのに、胸の方はカルメリエルといい勝負なのがミーシャという娘である。子供向けの売り場では胸が収まらず、大人向けの売り場では丈が余るのだろう。
それは確かに、店で探してどうにかなる話ではなさそうだった。
「で、お前はどうするんだ? そっちも探すの大変じゃないのか」
「わたくしは別に。泳ぐつもりはございませんから」
カルメリエルはさらりと答えた。最初から土俵に上がらないつもりらしい。
このままカルメリエルを傍観者の立ち位置に置いておくと、往々にして残りの苦労はシラベが背負うことになってしまう。少し考えてから、シラベは舌を回した。
「お前だったら水着くらい作れるんじゃないか? ディーヴァ・アリーナのイベント、あのときヒナタが着たコスプレ衣装もお前が作ったんだろ。あれなんかほとんど水着みてえなもんだったし」
「そうですわね。出来ないことは無いでしょうが」
「じゃあ、あいつらになんか繕ってやってくれよ。このまま拗ねられてたら面倒だろ」
カルメリエルは返事をせず、代わりに小さく溜め息を吐いた。
「なんだよ」
「いえ。シラベ様は、わたくしに振ればなんでもやると思っていらっしゃるようでしたので」
実際、振ればやるだろうとは思っていた。図星を指された手前、言い返すのも癪である。
シラベは頭を掻き、それから一つ思い付いた。
「じゃあ、あれだ。お前の水着姿が見たいからってことで。あいつらはそのついで。それならいいだろ」
カルメリエルの動きが止まった。糸目のままこちらを睨んでいる。瞼は少しも開いていないのに、視線の圧だけはじわじわと伝わってくるのだから器用なものだ。
やがて、カルメリエルはもう一度溜め息を吐いた。
「……準備はしてみます」
それだけ言うと、くるりと身を翻してカウンターへ向き直る。ピンクの髪が背中で大きく揺れた。
「チョロいわね」
「チョロいな」
ミトラとシラベの声がほとんど同時に揃うと、カルメリエルの首だけがこちらへ振り向いて睨み付けてくる。これ以上ここにいると次に何を言われるか分かったものではない。
「ちょっと上の様子見てくる」
シラベは椅子から立ち上がり、カルメリエルが口を開くより早く階段へ向かった。
二階へ上がると、三人部屋の引き戸がぴたりと閉まっていた。
珍しい。あの部屋は普段、誰かしらが出入りしては開けっ放しにしていくのが常だ。
「おーい」
呼び掛けながら、シラベは戸を軽く叩いた。
返事の代わりに、中でばたばたと忙しない物音がした。何かを引きずる音。敷き布団を踏む足音。布の擦れる音に、ひそひそと交わされる声。ものを押し込むような音がして、また足音。
しばらく待たされてから、戸が細く開いた。
「ど、どうした契約者?」
隙間から覗いたのは、レヴェローズの顔だけだった。肩で息をしていて、額にはうっすら汗まで浮かんでいる。
そして、戸の縁から見える襟元と肩口がおかしい。
普段のだらけた部屋着ではない。胸元を大きく開けた赤い軍服に、肩へ掛かる灰色のコート。カードの絵の中でレヴェローズが纏っている、総督閣下の一張羅だった。明らかに怪しい。
さっきまで中で何をしていたのか。その格好で何をするつもりなのか。問い質すべきなのだろうと、シラベは一瞬考えた。
これがカルメリエルなら即座にそうしていただろう。戸の向こうで装甲車の一台も組み上がっていそうで到底放ってはおけない。
だが、しかし。相手はレヴェローズである。態度と胸がデカいだけのこのポンコツに、一体なにが出来るというのか。
どうせ大したことは出来やしない。あと、面倒くさい。
「……いや、別に。なんでもない」
「そ、そうか! ならばよい!」
レヴェローズの顔が引っ込み、戸がぴしゃりと閉まった。間を置かず、さっきの物音の続きが聞こえ始める。
シラベはそれを聞かなかったことにして、上がってきたばかりの階段を引き返した。
次回更新は10月5日予定です