最寄り駅のホームで電車を待ちながら、シラベは電光掲示板の時刻をもう一度確かめた。ここから在来線で新幹線の乗換駅まで出て、そこから先がようやく本番の長旅になる。
ホームの人影はまばらだった。ベンチに作業着の男が一人座っているほかは、少し離れたところでスーツ姿が何人かいるくらいのものだ。
その中で、ミトラがさっきから同じ方向ばかり見ている。視線の先にいるのはレヴェローズだった。乗車位置の印の上に陣取って、まだ影も形もない電車を待ち構えるように線路の先へ目を凝らしている。
今のところ何かをやらかしたわけではない。それでもミトラは警戒している様子で、何かあればすぐ止めに入れる位置を保っているらしかった。
シラベの方は、正直そこまで心配していなかった。
レヴェローズもカルメリエルもミーシャも、これまで出掛けた先で何度か電車には乗っている。まったくの未経験というわけではない。
彼女らは見方によっては異世界人じみた者たちだが、どうすればいいのかを一度覚えてしまえば順応できる頭はある。カルメリエルとミーシャは元々周りをよく見て動く方で、容姿のせいで車内の視線を集めることはあっても、それ以上の面倒が起きたためしはない。
意外なことにレヴェローズも問題を起こさなかった。初めて乗せた時には興奮を見せたものの、電車の中では騒ぐなと一度言い含めたきり、それからは大人しく乗っている。どうも身内では弛むようだが、決まり事には存外に従順なのだ。
だから他の三人はミトラに任せておけばいい。シラベが目を離せないのは、腕にぶら下がっているもう一人の方だった。
大穴は普段、猫の姿で暮らしている。人の姿をした大穴を連れて出歩いたことなど、シラベには一度もない。
大穴がディーヴァ・アリーナへ姉妹と揃って乗り込んできた時も、行きはどうやって来たのかシラベは知らない。一緒になった帰りの電車では、猫の姿で眠りこけているのをいいことに、カルメリエルがぬいぐるみのように膝へ抱いてごまかしていた。シラベの方はといえば、遊び疲れて寝てしまったミトラを抱えるので手一杯だったが。
人の姿をまともに見るのは久しぶりだが、どうも以前より仕草が猫の方へ寄りすぎている気がする。
今もそうだ。ホームの端を鳩が首を前後に振りながら歩いていると、大穴はシラベの腕に絡んだまま腰を落とし、黒い瞳をそちらへ据えて動かなくなった。白いワンピースの尻を小さく左右に揺らしているのは、どう見ても飛びかかる直前の猫の仕草だ。
「やめとけ」
シラベは絡められた腕に力を込め、大穴の体をこちら側へ引き寄せた。
大穴は鳩から目を離さないまま、渋々といった様子で腰を上げた。
鳩を諦めると、今度は手元に興味が移ったらしい。シラベの腕に絡んだまま、空いている方の手で胸元に挟んだ自分の切符を摘まみ上げ、裏に返しては表へ戻し、不思議そうに見つめている。
小さな紙切れ一枚にずいぶん熱心だが、指先の持ち方はいかにも危なっかしい。風に飛ばされてしまうか、どこかに落とすか。
「それ、俺が預かっといてやる」
手を差し出すと、大穴は切符とシラベの手のひらを見比べてから、素直にそれを載せてきた。
シラベが受け取った切符を上着のポケットへ仕舞ったところで、電車の到着を告げる案内放送が流れた。ほどなく、車両がホームへ滑り込んでくる。
乗り込んだ電車は早朝とあって空いており、六人がまとまって座れるだけの席もあった。向かい合う長い座席に三人ずつ分かれ、シラベの両隣にはミトラと大穴、向かいにはレヴェローズとカルメリエルとミーシャが並んで腰を下ろす。座ってもなお、ミトラの目は相変わらず向かいの金髪へ向いていた。
扉が閉まり、電車が走り出す。すると隣で大穴がもぞりと動いた。
何をするのかと思えば、座席へ膝で乗り上げ、背後の窓に額をくっつけている。ホームが後ろへ流れ去り、電柱が一本、また一本と過ぎていくたびに、大穴は首を巡らせてそれを追った。
小さな子供がやるならまだ微笑ましく見えるが、漆黒の肌の美少女がやればさすがに人目を引き過ぎる。あとシンプルに行儀が悪い。シラベは大穴の肩を掴んで窓から引き剥がした。
「ほら、ちゃんと座れ」
「んぁ」
不満げな声を漏らしながらも、大穴はのそのそと座席に尻を落とした。
かと思えば、今度はそのまま脚を畳んで座席の上で丸くなり、シラベの太腿へ頭を載せてくる。額をぐいぐい押し付けてくるのは、いつもの猫の姿で言えば撫でろの合図だ。
妙なことはするなと、出掛けに言っておいたはずだった。だが考えてみれば、何が妙なことなのかは教えていない。
窓に張り付くのも膝を枕にするのも、大穴にとっては家でいつもやっていることの延長でしかないのかもしれない。言い付けを破ったという自覚など欠片もないのだろう。
シラベは溜め息を吐き、大穴の脇へ手を差し入れた。
「いいか。座る時は尻を座席に付けて、足は下。背中はここ」
一つずつ言いながら体を起こさせ、背もたれへ寄り掛からせる。手を離すと、大穴は言われた姿勢のまま固まった。人形を座らせたようなぎこちなさだが、ひとまず形にはなっている。
だがその姿勢を保つだけで相当神経を使うらしい。ものの数十秒もしないうちに背中がぐにゃりと曲がり、シラベの腕へ自分の腕を絡め直してきた。
もう一言言ってやりたいところだが、さっきまでよりはマシだ。これくらいは見逃すことにする。
他は大丈夫かと車内を見回すと、向かいの席ではレヴェローズが腕を組んで座っていた。
背筋はぴんと伸び、口は真一文字に結ばれている。視線は正面の一点に据えられたままで、まるでまともな美人のようなツラをしている。
あまりに微動だにしないので、さすがのミトラも拍子抜けしたのか。シラベの隣から少し体を前へ出し、通路越しに声を掛けた。
「ねえ、レヴェ──」
レヴェローズの眉がむっと寄った。
「電車の中では騒がないものだ、店長」
小声できっぱりと言い切ってから、レヴェローズはふふんと鼻を鳴らして胸を反らした。組んだ腕の上で豊かな膨らみがぐいと持ち上がる。得意満面とはこのことだ。
少なくとも、レヴェローズ自身が騒いでいないのは確かだ。だが、あのポンコツにまともな理屈を諭されて、ミトラは呆気に取られたように口を半開きにしている。シラベには少し不憫だった。
しばらくそのまま固まっていたミトラは、やがて何も言わずに座席へ背中を戻した。それきり、ミトラの目がレヴェローズを追うことはなくなった。
レヴェローズの隣では、カルメリエルが畳んだ日傘を膝の間に立て、いつもの微笑みを浮かべている。一応、彼女の主張通り日常の風景に溶け込もうとはしている。
だがその目論見はあまり効果を発揮していないようだった。途中の駅で乗ってきた背広の男が前を通り過ぎざまにカルメリエルへ目を奪われ、座ってからも盗み見るようにそちらを窺っている。
当然ながらカルメリエルはそれに気付いている。男の方へほんの少しだけ顔を向けた。
そして糸目のまま、柔らかく微笑んでみせる。それだけで男は弾かれたように目を逸らし、鞄から出した新聞を顔の前に広げてしまった。
見ていたことに気付かれたと思えば、気まずくもなるだろう。目で追ってくる客がいるたびに同じことをしているのだから手慣れたものだった。
その隣のミーシャは、扉の上に貼られた路線図を見上げている。停車のたびに唇だけを動かしていた。駅名には普段見慣れない字面もあるので物珍しいのだろう。
いくつ目かの駅で、ペットキャリーを提げた女性が乗ってきた。
女性は大穴から一人分の間を空けた席に腰を下ろし、キャリーを膝へ載せた。
その途端、大穴がシラベの腕へぎゅうとしがみついた。
「うお」
大穴は肩をすぼめて身を縮め、シラベの陰に隠れるつもりなのか、二の腕へ頬を押し付けてきた。家でキャリーを見ただけで逃げ出した時と同じ反応だ。
狭いところなら自分から潜り込んでいくくせに、あの箱だけはどうしてこうも嫌がるのか。一体何が気に入らないのだろう。
ところが、大穴はふと顔を上げた。
鼻がひくりと動き、その目がキャリーの網目の奥へ吸い寄せられていく。中で茶色い縞の毛並みが身じろぎした。
猫だ。
そうと分かるなり、縮こまっていたのが嘘のように大穴は身を乗り出した。空いた座席に手を突いて、網目すれすれまで顔を寄せ、中をじっと覗き込む。
そして、喉の奥から細い声を出した。
「なぁぅ……みぅ、るるぅ、なぁお……んにぃぃ……」
節を付けて歌うような、長々とした鳴き声だった。閉じ込められた(元)同類を慰めているつもりなのかもしれない。
中の猫には通じなかったらしい。縞模様の毛玉はキャリーの一番奥まで後ずさり、低い唸り声を返してくる。
飼い主の女性は、膝の上のキャリーと、そこへ張り付いて鳴いている少女とを交互に見ていた。どんな顔をすればいいのか分からないという顔だった。無理もない。
シラベは大穴の腰に腕を回して引き戻した。
「すみません。こいつ、猫が好きで」
「あ、いえ……」
女性はぎこちなく笑うと、キャリーを自分の体の方へ少し寄せた。
席へ戻された大穴は、まだ網目の方へ首を伸ばしている。
「……キャリーに収まってる方が、よっぽど行儀いいじゃねえか」
小声でぼやいても、大穴の鼻先はキャリーの方へ向いたまま、ひくひくと動いている。結局、次の駅で女性が降りていくまで、その顔がこちらへ戻ることはなかった。
乗換駅が近付くにつれ、車内には少しずつ人が増えていった。空いていた席も埋まり、扉の前に立つ客の姿も目立ち始める。
いつの間にか、シラベたちの前にも親子連れが立っていた。母親に手を引かれた、まだ吊り革にも届かないような男の子が、大穴の顔をじっと見ている。
見られている大穴の方は気にした様子もない。ふと自分の手の甲を舐めたかと思うと、その手で目元から頬へと顔をこすり始めた。猫が顔を洗う時と、そっくり同じ手つきだった。
男の子の目が丸くなった。
「ねこさんみたい」
母親が慌てて男の子の口を手で塞いだ。正解だよと返してやるわけにもいかない。すみません、と小さく頭を下げてくる母親に、シラベは曖昧な会釈を返すしかなかった。大穴とは反対側の隣では、ミトラが俯いて肩を震わせている。
それからしばらくすると、大穴は急に大人しくなった。
窓の外を見るでもなくぼんやりと体を揺らしていたかと思うと、大きな欠伸をして、こてんとシラベの肩に頭を預けてきた。間もなく、規則正しい寝息が聞こえ始める。
車内に慣れて落ち着いた、というわけではないのだろう。景色や客が変わるとはいえ代わり映えのしない時間が続いて、単に飽きて眠くなっただけだ。猫というのは一日の大半を寝て過ごす生き物である。
ミトラが首を伸ばし、大穴の寝顔を覗き込んできた。
「寝た?」
「寝た」
「そ。静かでいいんじゃない」
それはそうだが、腕の方はしっかり抱え込まれたままだ。抱きつかれていること自体は構わないが、人目のある場所では居心地が悪くて仕方がない。
やがて車内放送が、乗り換える駅が近いことを告げた。
シラベは肩の大穴を揺すった。
「おい、着くぞ。起きろ」
寝息の調子は変わらない。代わりに、絡んだ両腕へ力が籠もった。
抜こうとしても外れない。引けば引くほど締まってくる。
電車が速度を落とし、窓の外にホームの光景が広がる。向かいの三人はもう席を立ち、扉の前へ移っている。
「何やってんの。降りるわよ」
「分かってる。こいつが起きねえんだよ」
扉が開いた。周りでも降りる客が扉へ詰め掛けていく。
迷っている暇はなかった。シラベはボストンバッグを肩へ掛け直すと、空いている方の腕を大穴の膝の裏へ差し入れ、しがみつかれた方の腕をなんとか抜き、背中を支えてそのまま抱き上げた。
大穴は目を覚ますどころか、抱き上げられた拍子にシラベの首へ腕を回し直し、胸へ顔を埋めてしまった。見た目の背丈よりも、腕に掛かる重みはいくらか多い気がする。
ホームから階段を上がり、連絡通路を抜けて新幹線の改札を目指す。
朝の乗換駅は、最寄り駅とは打って変わった人出だった。スーツケースを転がす旅行客に、足早に行き交う通勤客。その間を、少女を横抱きにしたシラベも縫うように進んでいく。
すれ違う人の視線が、腕の中の大穴とシラベの顔とを行き来するのが分かった。面白がるようなものもあったが、シラベは前だけを見て歩くことに集中した。顔が熱くなっていたのは、急に増えた荷物の重さのせいだと思いたい。
人混みの先で、レヴェローズが時々振り返ってはこちらの位置を確かめている。背が高い上に金髪の目立ちたがり屋ともなれば、目印としてこれほど頼りになるものもない。
「はい、ちょっと集合して」
新幹線の改札が見えてきたところで、一行はミトラの指示のもと端に寄った。
予約で取っておいた切符は内ポケットの中だが、両腕は大穴で塞がっている。
「ミトラ。悪い、出してくれ」
「はいはい」
ミトラがシラベの前に回り込んだ。背伸びをしても胸元までは手が届かないのでシラベが膝を少し曲げてやると、上着の合わせ目から小さな手が潜り込んでくる。
大穴の体とシラベの胸の隙間を探るようにして、切符の束が引き抜かれた。
ミトラは束を手早く捌き、レヴェローズとカルメリエル、ミーシャへ一人ずつ配っていく。
「失くしたら置いてくからね」
「うむ、心得た」
自分とシラベの分を手元に残したミトラは、最後の一人分を持って大穴を見上げた。それから、シラベの腕の中で丸まっている大穴の腹をぽんぽんと叩く。
「ほら、起きて。ここからは自分で歩いて通りなさい」
大穴の瞼が薄く持ち上がった。
寝ぼけ眼が目の前に差し出された切符をぼんやりと捉える。大穴は鼻先をそちらへ近付け、すんすんと匂いを嗅いだ。
そして、そのまま口を開けた。
餌皿にあるものと、誰かの手で差し出されたものは食べていい。大穴との決め事がシラベの頭をよぎった。
「バッ――」
考えるより先に足が動いた。シラベは大穴を抱えたまま、体ごと大きく一歩後ろへ引く。
かちん、と大穴の歯が何もない空を噛んだ。
ミトラは切符を差し出した格好のまま固まっている。
「……」
腕の中の大穴は、食べ損ねたことにも気付かない様子で口をもごもごさせると、またシラベの胸へ潜り込むようにして寝入ってしまった。
次回更新は10月9日予定です