新幹線を降りるなり、レヴェローズはホームの真ん中で足を止めた。
鼻から大きく息を吸い込み、屋根の下をぐるりと見回す。柱、案内表示、向かいのホームに停まっている車両。目に入るものを一つずつ確かめるように、視線をあちこちへ移していく。
「……ふむ。なにやら、空気の匂いが違うな」
「そりゃ、だいぶ遠くまで来たからな」
言われてみれば、ホームの端から吹き込んでくる風は、乗った駅よりいくらかひやりとしている気がする。もっとも、レヴェローズの言う違いがそういうことなのかは分からないが。
当の本人は屋根の切れ間から覗く空を見上げ、何やら一人で頷いていた。
大穴は今度こそ抱えられずにホームへ降りてきていた。車内で言い渡したことが効いたのかもしれないが、ミトラのパーカーの裾を摘まんで歩く足取りはどうにも危なっかしい。
他の客に混じって階段を下り、改札を抜けると、天井の高い通路のような場所に出た。正面のガラス張りの仕切り越しに、土産物屋や飲食店の看板が奥までずっと続いているのが見える。
通路の脇で足を止めると、ミトラがシラベを見上げた。
「ここからバスだっけ?」
シラベはスマートフォンを取り出し、調べておいた時刻を確かめた。
「そうだな。次のだと……あと一時間くらい。それで行くか」
「一時間!? そんなに間が空くのか!」
声を上げたのはレヴェローズだった。事前になんとなくのタイムスケジュールは伝えていたはずなのだが、この総督閣下が細かい時間割を覚えているとは思えないので、この驚きもシラベにとっては想定内だ。
「別に急ぐ理由もねえし、のんびり行けばいいだろ」
「む……それはそうだが」
レヴェローズはまだ不満げに唸っている。
そこに、ミトラがぱんと手を叩いた。
「というわけで。今から一時間は自由行動ね。この駅ビルでも見て回って、適当に時間潰してきなさい。荷物は私が見てるから」
シラベは頷く。電車と新幹線とバスの時間を並べてみた時点で、ここでどうしても待ち時間が出来るのは分かっていた。ただ待っているくらいなら観光がてら駅の中を見て回る時間にしてしまおうと、計画の段階で決めてあったことだ。
とはいえ、その時の話では荷物は駅のコインロッカーにでも預けてしまうつもりだったはずだが。
「ロッカーに入れてくんじゃなかったのか? お前ここから動けなくなるぞ」
「いいわよ。歩き回っても疲れるし。それに、こっちもまだ眠そうだから」
ミトラは近くのベンチを顎で示し、それから自分の隣へ目をやった。
大穴はミトラの傍で、立ったままゆらゆらと体を揺らしていた。目はとろんとしていて、前へ傾いでは戻り、後ろへ傾いではまた戻る。この調子で人混みを連れ歩くのは確かに怖い。
「じゃ、頼む」
シラベがボストンバッグをベンチの脇へ下ろし、姉妹とミーシャの鞄もその横に並ぶ。ミトラがベンチの端に腰掛けると、大穴も隣へ崩れるように座り込み、小さな肩へ頭を預けた。
ミーシャが小さく手を挙げた。
「私、クモンさんとキリメさんへのお土産を見ておきたいです。帰りにここで買えたらと思って」
「ああ、帰りもここ通るしな。いいんじゃねえか」
「ならば、私も付いて行こう」
すかさずレヴェローズが名乗りを上げた。
「土産というものは慎重に決めるべきだと聞いた。相手がどのようなものが食べたいか、その量が適切か、判断するには相談相手がいるだろう」
「そ、そうですね……まだ食べ物と決まったわけではないですけど」
殊勝なことを言っているようだが、ミーシャの返事を聞く限り、魂胆はとっくに見透かされているらしい。土産物屋なら試食の一つや二つは置いてあるだろう。つまりそういうことだ。
それに、ミーシャはスマートフォンを持っていない。レヴェローズが付いているなら、はぐれてもどうにかなる。
「一時間後にここな。何かあったらすぐ電話しろよ」
「うむ。任せておけ」
「はいっ。行ってきます」
ミーシャはぺこりと頭を下げ、ずれかけた麦わら帽子を直してから、レヴェローズと並んで通路の先へ歩いていった。
さて、とシラベも歩き出した。行き先なら、前々から当たりを付けてある。
土産物屋の並ぶ一角を過ぎ、案内板で道順を確かめながら進んでいく。その途中、ふと横の店のガラス戸に目がいった。
映っているのは自分の姿と、そのすぐ後ろを歩く、ピンク色の頭だった。
気のせいかと思って歩き続けても、足音は一定の間隔を保ったまま付いてくる。エスカレーターに乗れば一段下に乗り、降りればまた後ろに並ぶ。
シラベは足を止め、振り返った。
「どうかされましたか?」
にこりと微笑んでくるカルメリエルが、そこに立っていた。いつも通りの、何を考えているのか読めない糸目の笑みだ。
「どうかされましたか、じゃねえよ。何も言わずに後ろから付いてこられるのはこええんだよ」
ミトラが自由行動を言い渡している間も、カルメリエルは一人だけ口を挟まずに話を聞いていた。てっきりミーシャたちに付いていくか、ミトラの横に残るものだとばかり思っていたのだが、何故かシラベをターゲッティングしていたらしい。
「あら、それは失礼いたしました。では、こうしましょう」
言うが早いか、カルメリエルはシラベの隣へ回り込んだ。日傘を持っていない方の腕がするりとシラベの腕に絡み、そのまま肩へそっと頭が添えられる。身を寄せた分だけ、ニット越しの膨らみが二の腕に触れてくる。
「おい、やめろ。恥ずかしい」
「あら。わたくしの容姿に恥ずかしいところなどございませんわ」
「そういう話じゃねえよ」
分かった上でずらした回答をするからたちが悪い。
引き抜こうとしてみたがびくともしない。相手は見た目こそ淑やかでも、人間離れした膂力の持ち主である。本気で掴まれていたらシラベにはどうしようもない。どうやら離れるつもりはないらしい。
すれ違う人たちが、ちらりとこちらへ目をやっては通り過ぎていく。知った顔に出くわす心配のない土地なのを慰めにして、シラベは諦めて歩き出した。
「言っとくけど、お前が楽しめるかどうかなんて知らねえからな?」
念を押しても、カルメリエルは返事の代わりににこにこと笑うばかりで、シラベの腕に抱き着いたままだった。
通路をしばらく進み、目当ての店が近付いてきた頃だった。
絡んでいたカルメリエルの腕が、ぴくりと動いた。
「……シラベ様。この匂いは、まさか」
肩から頭を起こしたカルメリエルが、通路の先を見つめている。いつもの涼やかな声ではなく、どこか困惑したような響きだった。
そんなに匂うだろうか。シラベも鼻を利かせてみると、花のような甘い匂いがかすかに漂ってきている気がする。言われなければ気付かなかった程度のものだが、苦手なものだと敏感になるのかもしれない。
「多分、想像してる通りだよ」
シラベが足を向けたのは、駅ビルの中に構えた立ち飲み屋の一種だった。
入り口は酒蔵の装いを真似たような見た目をしている。単なる飲み屋にしては凝ったつくりだが、酒蔵を真似ている理由はきちんとある。
正面から見るとすぐ分かる。壁にずらりと並べられたドリンクバーのような自販機にはそれぞれ日本酒のラベルや名前が貼られており、それがシラベの目当てだ。受付で少しばかりの金を払えば自販機用のコインが渡され、それで好きな銘柄を飲み比べられるというシステムだ。
待ち時間をどう潰すか調べていた時に見つけたのがこの店だった。一杯の量は少ないが、その分あれこれ試せるのは面白いし、この後も予定が入っているなら少量で済むのはむしろありがたい。
「だから、お前が楽しめるかは知らねえって言っただろ」
シラベは隣を見下ろして笑った。カルメリエルはというと、入り口の装いを見つめたまま珍しく返事に詰まっている。
「俺のことは気にしなくていいから。お前は好きなとこ見てこいよ」
そう言って腕を抜こうとしたが、抜けなかった。それどころか、絡んだ腕にさっきよりも強く力が籠もる。ニットの胸元がぐいと押し付けられ、二の腕が柔らかさの中へ半ば埋まった。
「いいえ。一緒に参ります」
微笑みは崩れていない。だが、声には有無を言わせない硬さがあった。
大穴に続いて、今度はこいつを運ぶ羽目になるのだろうか。シラベの頭に、いつだったか居酒屋で酔い潰れ、妹の肩に担がれていったカルメリエルの姿が浮かぶ。高い山が如く歩いていくレヴェローズはあの時ばかりは頼りになった。
「無茶はするなよ」
「承知しておりますわ」
本当に承知しているのかは怪しいものだったが、シラベはそれ以上は言わず受付で二人分の代金を払う。引き換えに、それぞれ五枚のコインと小さなおちょこを手渡された。
店内に入ると、外から見えていた酒の自販機が長く連なっているのが分かり、事前情報で知っていたシラベも少し心が躍ってくる。
「どれにすっかな……これでいいか」
ざっと見ただけでも百はありそうな銘柄の中から、シラベは適当に一本を選んだ。ラベルに『純米大吟醸』の文字を見つけて、なんとなく良さそうだと思っただけだ。
おちょこを注ぎ口の下へ置き、コインを入れてボタンを押す。機械が小さく唸り、透き通った酒が八分目ほどまで注がれた。
その手元を、カルメリエルが興味深そうに覗き込んでいた。
「シラベ様。わたくしは何にすればよろしいのでしょう」
「何にって言われてもな。飲みたいのでいいんだぞ」
「そう言われましても。なにか、選び方を教えていただけないでしょうか」
なら無理して飲まなくても、と言おうかと思ったが、シラベは思い留まる。自分を追い掛けてきた相手に対してそれはあまり良い答えではない。
とはいえシラベも人に教えられるほど知識は無かった。せめて指標くらいはと少し考えて、聞き方を変えた。
「お前、どういう味が好きなんだよ。たとえば辛いのは?」
「苦手ですわ」
「苦いのは」
「……苦手ですわね」
「ワインみたいなの」
「渋みがあるものですわね。あれもあまり」
「梅酒は。甘いだろ、あれ」
「甘いのはよろしいのですけれど、少し酸っぱいのが……」
一つ聞くたびに、シラベの脳裏に浮かび始めた影が濃くなっていく。甘くて、強くなくて、癖のないもの。どこかで聞いたような注文だった。
「……レヴェローズと似たようなこと言うんだな。あいつも甘い酒しか飲まねえし」
途端に、カルメリエルの微笑みが少しだけ固まった。
「……あの子と一緒にされるのは、いささか心外ですわ」
声の調子は柔らかいままだが、顔には小さく嫌だと書いてある。
シラベは肩をすくめ、壁の機械へ向き直った。
機械の脇には、銘柄ごとに短い説明書きが添えられている。甘口か辛口か、香りがどうで口当たりがどうか。シラベは壁沿いを歩きながらそれを一枚ずつ読んでいき、甘口の欄に印が付いた一つの前で足を止めた。能書きにはフルーツのような甘さだの、まろやかな口当たりだのと並んでいる。
「これでいいんじゃねえか」
示されるままにカルメリエルは注ぎ口の下へおちょこを置いて、コインを投入する。注がれていく様子をじっくりと眺めているのは、酒への好奇心よりもきっと自販機の構造の方に惹かれてのことだろう。
壁の端にはつまみの売り場もあった。コインと引き換えに二人で冷えたきゅうりを一本ずつ受け取って、ついでに味噌やら塩やらも揃えていく。
店の隅にある立ち飲みの台におちょこを並べ、シラベは自分の分を持ち上げた。
「じゃ、乾杯」
「乾杯、ですわ」
おちょこの縁が触れ合い、ちんと小さな音が鳴った。
シラベが口に含んだ酒からは、思っていたよりずっと柔らかい印象を受けた。日本酒というと薄くて辛いか薄くて甘いか程度にしか思っていなかったが、繊細な口当たりのお陰でより味と香りが掴みやすくなっている。
米の甘みのようなものが舌の上に広がり、飲み込んだ後で果物に似た香りがふわりと鼻へ抜けていく。
普段シラベが口にするのは安い発泡酒か、たまにヒナタが持ち込んでくる値の張りそうな酒くらいのものだ。後者にしても何がどう高いのかよく分からないまま飲んでいる。
それでも、これはなんとなく分かる。高いとされているだけのことはあるらしい。どこが違うのかを言葉にしろと言われれば困るが、いいものだということくらいは安酒で慣らした舌にも伝わってきた。
たまにはミトラにも薦めてみるか。そう思いながらきゅうりで口を休め、シラベは隣へ目をやる。
カルメリエルは、おちょこを両手で包むように持っていた。
恐る恐る口元へ運び、縁に唇を当てる。だが、器を傾けはしない。代わりに舌の先を覗かせて、表面をちろちろと舐めている。
舐めては離し、少し考えるように間を置いて、また舐める。普段の澄ました様子からは想像もつかない、なんとも慎重な飲み方だった。
その様子に妙な可愛げがあって、シラベは何も言わず、自分のおちょこをちびちびとやりながら眺めていた。
何度目かに唇を離したところで、カルメリエルがこちらの視線に気付いた。
「……何か?」
眉をむっと寄らせて、ずいぶん棘のある物言いをしてくる。その頬にはうっすらと赤みが差していたが、舐めた程度の酒で回ったにしては早すぎる。
「なんでもねえよ」
シラベが顔を前へ戻しても、隣からはしばらく何か言いたげな気配がしていた。やがて小さく息を吐く音がして、カルメリエルはまたおちょこへ唇を寄せた。
舌の先で一舐めしては離し、また一舐め。カルメリエルはそうやって、一杯のおちょこをゆっくり、ゆっくりと舐めていく。
この分なら、担いで帰ることにはならずに済みそうだ。シラベは二杯目を取りに立つのをもう少し先へ延ばして、残ったきゅうりをかじった。
次回更新は10月14日予定です