頬を、小さな手のひらがぺちぺちと叩いていた。
重たい瞼をこじ開けると、すぐ目の前にミトラの横顔があった。首だけをこちらへ捻り、眉間に皺を寄せている。
「ちょっと。起きなさいってば」
声は潜めているくせに、叩く手には遠慮がない。
低い唸りを残して車体が止まり、前の方で扉の開く音がした。窓の外には、色の褪せたバス停の標識と、錆の浮いたトタン屋根の待合所が見える。
どうやら、うたた寝している間に目的地へ着いてしまったらしい。
ミトラはシラベの膝の上に座っていた。腹の前ではシラベ自身の両腕ががっちりと組まれている。眠っている間もしっかり抱えたままだったようだ。
「早く降りるわよ。……ほら、腕」
「ん、ああ」
ミトラは正面へ向き直り、腹に回った腕を指でつつく。言われるままに解いてやると、弾かれたように膝から降りて通路へ出ていった。後ろ姿の首筋が、ほんのりと赤い。
他の連中は、もう先に降りてしまったらしい。シラベは足元のボストンバッグを肩に掛け、周囲に軽く頭を下げてから後に続いた。
ステップを降りると、ミトラが待ち構えていた。
「あー、もう。いらない恥かいたわ」
「ちょっと寝てただけだろ」
途端に、ミトラがキッとこちらを睨み上げた。
「あんたが詰めて座ろうとか言って、無理やり私を膝に乗せたんでしょうが! どうせ目立たないとか言ってたのに、あんたが起きなくてああして見られて……」
言われてみれば、乗り込んだ時の車内でそんな話をしていた気がする。座席が狭くて六人がばらばらになりそうだったから、じゃあ圧縮しようとミトラを抱えて座って。その辺りから先がどうにもぼんやりしていた。
「そうだっけ?」
「……あんた、やっぱ酔っぱらってるんじゃない?」
「おちょこ数杯じゃ飲んだうちに入らねえよ」
ミトラが訝しげに見てくるが、実際足元はしっかりしているし、受け答えにも困ってはいない。ただ、頭の芯がいつもより少しばかり軽い気はする。
駅ビルの店で、カルメリエルは結局一杯目を舐め終えたところで身が危うい気がすると言い、残ったコインを全てシラベの手のひらへ載せてきたのだ。貰ったのだから仕方がないと、シラベは遠慮なく壁の自販機の前を行き来して、存分に飲み比べを楽しませてもらった。
当のカルメリエルは、日傘を差していつも通りの微笑みを浮かべている。一杯で切り上げたのが良かったのか、顔色も普段と何一つ変わらない。
「それで、契約者! ここから砂浜に行くのだろう? どちらへ行けばいいのだ?」
鞄を肩に担いだレヴェローズが、待ちきれない様子で割り込んできた。
隣のミーシャもリュックの肩紐を握りしめ、爪先立ちで辺りを見回していた。もう片方の手と繋がった大穴は、まだ眠たげな目のまま首を巡らせている。
カルメリエルが、バス停の脇の案内板を見やった。
「この坂を上っていくと着くようですわね」
白い指先が、道の行く手を示す。海の方角へ向かって、細い道が緩やかに上っていた。坂の向こうには空しか見えない。
レヴェローズとミーシャが顔を見合わせた。
「行くぞ、ミーシャ!」
「はいっ!」
返事と同時に、二人は坂を駆け出していた。ミーシャに手を引かれた大穴も、つんのめるようにして後を付いていく。
鞄を担いだ金髪と、跳ねるリュックの銀髪と、白いワンピースの黒髪とが、ひと塊になって遠ざかっていく。
「元気だなあいつら」
見送るシラベの横で、ミトラはまだ不機嫌そうに口を尖らせていた。
残った三人で、ゆっくりと後を追う。歩き出してすぐ、シラベはミトラの肩から小さな鞄を取り上げて、自分の肩に掛けた。
「ちょっと。自分で持てるわよ」
「いいって」
ミトラは鞄とシラベの顔で視線を往復させていた。何か言いかけて口を開き、結局そのまま前を向く。
少し後ろで、カルメリエルがくすりと笑う声がした。
坂を上り切った先は堤防の上で、先に着いていた三人が並んで立ち止まっていた。その背中越しに、海が見えた。
灰色の海。空には薄い雲がまんべんなく掛かり、昼前の日差しを白く霞ませている。その下に広がる水面は、それよりもう一段暗い灰色をしていた。波打ち際の辺りでは白く崩れた波が、ざらついた音を立てて寄せては引いていく。
サブロウの写真に写っていた海も、確かこんな色だった。写真の写りが悪かったわけではないらしい。
眼下には湿った色の砂浜が左右に長く延びていた。流木や打ち上げられた海藻があちこちに転がり、浜茶屋の看板を掲げた店舗もほとんどシャッターを下ろしている。人影といえば、遠くの波打ち際で釣り竿を振っている男が一人いるくらいのものだった。
テレビや広告で見るような青い海とは程遠いが、季節外れの浜辺などこんなものだろう。
それでも、前に並んだ背中はしばらく動かなかった。
「……海だ」
レヴェローズがぽつりと呟く。それからくるりと振り返り、顔中で笑った。
「海だぞ、契約者! 海だ!」
「見りゃ分かるよ」
ミーシャは風に煽られる麦わら帽子のつばを両手で押さえたまま、ぽかんと口を開けていた。
「写真で見たのと、全然違います……」
「まあ、写真のはもっと青かったろうな」
「そうじゃなくて」
ミーシャはふるふると首を振った。目は海から離れないままだ。
「なんというか。ずっと、動いてるんですね。それに……こんなに音がして、こんな匂いがするなんて、知りませんでした」
波の音は坂の上まで途切れずに届いてくる。どこかべたつくような風が運ぶ潮の香りも、この場に立たなければ分からなかったことだろう。
見栄えのする海かどうかなど、こいつらにはどうでもいいことらしい。
大穴はミーシャの隣で、海の方へ顔を突き出していた。しきりに鼻を動かして、風の匂いを確かめているようだ。
堤防の海側には、砂浜へ下りるコンクリートの階段が付いていた。
「よし、下りるぞ!」
レヴェローズは鞄を階段の上へ放り出すと、今度こそ砂浜へ駆け下りていった。ミーシャも大穴の手を取り直して後を追う。リュックは背負ったままだ。砂に足を取られてよろめいては、笑いながらまた走り出す。
カルメリエルが日傘を傾け、シラベへ微笑んだ。
「では、わたくしはあの子たちを見ておりますわね」
それから、ちらりとミトラへ顔を向ける。
「シラベ様は、少し酔いを醒まされてはいかがです?」
「だから酔ってねえって」
返事の代わりにもう一度にこりと笑って、カルメリエルは階段を下りていった。
堤防の上に残ったのは、シラベとミトラ、それに放り出されたレヴェローズの鞄だった。
海から吹き上げてくる風は、坂の下にいた時よりずっと冷たい。あの連中が満足するまで、この吹きさらしの階段で待つのはなかなか骨が折れそうだ。
砂浜沿いに目をやると、シャッターの並びの中に一軒だけ、よしずを立て掛けたままの浜茶屋があった。軒先には『営業中』の札が下がっている。
「あそこ、開いてるな」
「え? ……あ、ほんとだ」
シラベはレヴェローズの鞄を拾い上げ、他のバッグと一緒に肩へ掛けた。ミトラの鞄と合わせて三つになる。
「ちょっと、それ全部持ってく気?」
「すぐそこだろ」
ミトラが手を出してくる前に、シラベは階段を下り始めていた。靴の裏で、段差に積もっていた砂がざくりと音を立てる。
近付いてみると、浜茶屋は遠目に見たより奥行きがあった。海側はよしずを巻き上げて吹き抜けになっており、一段高くなったところには日に焼けた畳が何枚も敷かれている。夏場はここに客がひしめいていたのだろうが、今は低い座卓が隅に寄せて積まれているばかりだ。
奥の暖簾から、エプロン姿の年配の女性が顔を出した。
「あら、いらっしゃい。今日はお座敷も空いてるから、好きなとこ使ってね」
「すみません。少し休ませてもらっていいですか」
「どうぞどうぞ。何か飲む?」
壁の品書きには、焼きそばやかき氷の札に混じってビールの文字が見えた。
「じゃあ……」
「こいつはお茶大盛り。私はラムネ」
言いかけたところで、ミトラが横から口を挟んだ。
「おい」
「お茶。それとも水?」
「……わーったよ。麦茶をジョッキで」
女性は二人の顔を見比べ、可笑しそうに口元を緩めながら奥へ引っ込んでいった。
靴を脱いで畳に上がる。海に面した端の方へ座卓を一つ出させてもらい、シラベはその前にあぐらをかいた。脇へ鞄を下ろしていると、ミトラも上がってくる。
そして、荷物の向こう側に座った。
鞄三つ分の距離を横目で窺うと、ミトラは膝を抱え素知らぬ顔で海を眺めている。わざわざ間を空けたのは、バスの一件を根に持ってのことだろうか。
開け放たれた店内には風が容赦なく吹き込んでくる。そのたびにミトラの髪が煽られて、小さな肩がすくむのがこちらからはよく見えた。
あれでは寒いだろう。シラベは腰を上げた。
荷物を跨いでミトラの横に膝をつき、その脇の下へ両手を差し入れる。
「え、ちょっ──」
抵抗される前に持ち上げて、元の場所へ戻る。あぐらの上へ小さな体を下ろせばちょうどよく収まった。
「な、何すんのよ!」
「そっち、風が当たって寒そうだったから」
「だからって……!」
ミトラは膝の上で身をよじったが、シラベが腹の前へ腕を回すと、それきり抜け出せなくなった。バスの中と同じ格好だ。
寒いなら、くっついていればいい。理屈としては何もおかしくない。
「はい、お待たせ」
ちょうどそこへ、盆を持った女性が戻ってきた。
ミトラがびくりと固まる。女性はあぐらの上に収まったその姿を見て、目尻の皺を深くした。
「あらあら。仲良しねえ」
「どーも」
シラベは腕を解かないまま会釈を返した。女性はうんうんと頷きながら座卓に麦茶の入ったジョッキとラムネの瓶を置いて、また奥へ戻っていく。
暖簾の向こうへ足音が消えるまで、ミトラは息を詰めていた。
「……今の、絶対親子だと思われた」
「別にいいだろ。思わせとけば」
旅先でたまたま立ち寄った店の人に、どう思われたところで構いはしない。どうせ二度と会うこともないのだ。
シラベはラムネを手に取り、ミトラを抱えたまま玉押しで栓のビー玉を押し込んだ。軽い音と一緒に、瓶の口から泡が噴き上がる。それが落ち着くまで押さえておいてから、瓶をミトラの手に握らせた。
「ほら」
「……自分で開けられるわよ」
文句を言いながらも、ミトラは瓶に口を付けた。傾けるたびに、中のビー玉がからんと鳴る。
半分ほど飲んだところで、ミトラは膝の上で体を捻った。下からシラベの顔をまじまじと覗き込んでくる。
「……顔はいつも通りなのよね」
「何がだよ」
答える代わりに、ミトラはさらに身を乗り出してきた。小さな鼻先がすんすんと動く。
「……ちょっと酒くさ」
「そりゃ飲んだからな」
「何杯飲んだのよ」
シラベは空いている方の手で指を折っていった。最初の一杯と、自分の残りのコインの分。それからカルメリエルに貰った分。つまみで使った分を差し引けば……。
「……7?」
「それは数杯って言わないのよ」
「一杯ずつは少ねえんだって。全部足したって大した量じゃねえよ」
「どうだか。いいから、それ飲んどきなさい」
ジョッキを顎で示されたので、言われるまま一口啜る。
ミトラは鼻を鳴らしてラムネの瓶を座卓に置き、体の向きを戻した。逃げるのは諦めたのか、背中がシラベの胸に預けられる。
吹き抜けの向こうの波打ち際では、レヴェローズが引いていく波を追いかけては、次に寄せてくる波から大慌てで逃げていた。ミーシャと大穴も手を繋いだまま、それを真似している。一度、逃げ遅れた大穴の足首を波がさらった。
「ふみゃっ!」
悲鳴じみた声が、風に乗ってここまで届く。跳び退いた大穴がミーシャにしがみつき、二人して砂の上へ転がった。その傍らで日傘を差しているカルメリエルが、口元に手を当てている。
「あいつら、水着に着替えるの忘れてないか?」
「カルメリエルも教えてあげればいいのに」
波打ち際の騒ぎを眺めながら、シラベは今日一日のことを思い返していた。朝早くに店を出て、電車を乗り継いで新幹線。改札の前で一行を集めて切符を配り、着いた駅では自由行動を言い渡して、本人は一人で荷物の番。その間、シラベは何をしていたかといえば、駅ビルで酒を飲んでいた。
「お前、今日はずっと引率してたろ」
「何よ、急に」
「切符配ったり、みんなまとめたり。荷物の番までしてさ」
口に出してみると、余計にそんな気がしてくる。面倒を嫌うミトラが、今日は朝から自分で面倒を引き受け通しだったのだ。
「だから、今は俺が番してやる。お前は休んでろ」
「……番って、何の番よ」
「お前の」
ミトラが黙った。何か言い返してくるかと思ったが、それきり何も返ってこない。
また強い風が吹き込んできた。煽られた髪がミトラの頬に張り付く。それを振り払う仕草が、シラベの目には寒がっているように見えた。
「ほら」
シラベは上着を脱いでから、毛布のようにミトラの前へと掛けてやる。
「別に、そんな……」
上着の中で、ミトラがもぞもぞと身じろぎするのが足から伝わる。小さな体はすっぽりと埋もれてしまっていた。
「……子供扱い?」
「違えよ」
「じゃあ何なのよ」
何なのだろう。うまい言葉は出てこなかった。代わりに頭を撫でてやる。答えが出ないこちらを責めるように、ミトラの手がシャツを掴んでくる。
波打ち際から、レヴェローズの笑い声が聞こえてきた。ミーシャが砂の中から何かを拾い上げて、空に透かすように掲げていた。大穴が首を伸ばしてそれを覗き込んでいる。口を大きく開けているのは、きっと欠伸だと思いたい。
店を臨時休業にして、家族を引き連れて、六人で遠くの海まで来た。少し前までなら考えもしなかったことだ。
その店の主は、今は自分の膝の上で上着にくるまっている。
「ミトラ」
「……何よ」
「ここまで付き合ってくれて、ありがとな」
小さな体が、ぴたりと動かなくなった。
シャツを掴んでいた指にきゅっと力が籠もる。ミトラは前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。その間に、波が何度か砂浜を洗っていった。
「……酔っ払い」
ようやく返ってきたのはそれだけだった。顔は見えない。ただ、背中がさっきよりも強くシラベの胸に押し付けられていた。
次回更新は10月16日予定です