午後五時を回ったニアミントのカウンターで、高津木ヤヒメは乾いたカップを手慰みに拭いていた。洗い物はとうに片付き、各テーブルの消耗品の補充も済んでおり、他に手を付けるものが見当たらない。
繁盛していないと言い切ってしまうのは雇われの身としていささか気が引ける。だが、奥まったスペースに居座る常連客を除けばまるで客がおらず、がらんとした有り様では認めるべきだろう。
朝はまだいい。開店してすぐに近所の住人が何人か連れ立ってやってきて、カウンターでコーヒーを啜るのがいつもの様子だ。海の機嫌だの、どこそこの船の誰それだのと、ヤヒメには半分も聞き取れない訛りで長話をしてから、日が高くなる前には引き上げていく。
それがこの店の一日で一番賑やかな時間だった。あとは静かになる一方である。昼時に近所の年寄りが一人か二人やってきて窓際で新聞を読んでいることもあるが、午後になればそれも途切れる。浜が賑わう季節には外から来る客で忙しいが、季節外れの今は望むべくもない。
「こういうのんびりしているのも良いでしょう」
店主のサブロウはそう言って呑気なものだが、はたしてどこまで本気なのかヤヒメには測りかねる。
客が少ないわりに、豆には妙にこだわる店だった。遠くの焙煎所から取り寄せているという豆を、注文が入るたびにサブロウが丁寧に挽いて淹れる。豆の箱に同封されていた納品書の金額を一度見てしまってから、ヤヒメは箱を開けるたびにどうにも気が重い。この客入りであの値段の豆を使って、どうやって元を取っているのか。ヤヒメには未だに分からない。
白壁に緑の日除け、脇には潮風に晒されたテラス席。小さな喫茶店らしい店構えだが、建物の半分ほどは普段使わない客室だ。前の持ち主がコテージでもやるつもりだったらしい。一人暮らしのサブロウには使い切れず、普段は扉を閉め切っている。
あと、ニアミントと言う割にはミントに因んだ料理はない。おいしいらしいコーヒー(ヤヒメはコーヒーの味の良し悪しが分からない)と、ピザトーストやケーキといった喫茶店にありがちなメニューで固められている。
(そういえば、客室の掃除って全部やったっけ)
客室の存在を思い出し、ヤヒメはやり残していたものがないか考える。夕方にサブロウの知り合いが泊まりに来ると聞いて、手伝いを申し出たのだった。やったことと言えば窓を開け放して空気を入れ替え、掃除機を掛けた程度だが。
「前に勤めていたお店の方たちなんですよ」
寝具を抱えて廊下を歩きながら、サブロウはそう言っていた。詳しくは聞かなかったものの、楽しみにしているようなのはヤヒメにも分かる。昼を過ぎた頃からサブロウが入り口の方へ目をやる回数は明らかに増えていた。
「……ルーンをセット。で、こいつをステイさせて……」
「うわ、そこで止めるか」
奥のテーブルからは、さっきから途切れ途切れに声がしている。近所に住む大人たちが、決まった曜日の昼過ぎになると集まってくるのだ。
日に焼けた作業着の男もいれば、ヤヒメと同じ三十前後の女もいる。顔ぶれは日によって多少入れ替わるが、座る席だけはいつも同じで、奥まった一角のテーブルを当たり前のように二つくっつけて使っている。
彼らが遊んでいるのは、ECというカードゲームらしい。テーブルの上には色鮮やかな絵柄のカードが何枚も並べられ、時々それを横向きにしたり、また縦に戻したりしている。どういう決まりで動いているのかは分からない。対戦よろしくお願いしますと大の大人が頭を下げ合う光景には、最近ようやく見慣れてきた。
彼らの注文は少ない。テーブルいっぱいに紙のカードを広げる遊びなので、そばに飲み物を置いてこぼしでもしたら一大事なのだそうだ。その代わり、店頭に置いている自家製のコーヒーパックや豆菓子の類はよく買ってくれている。ひょっとすると、この店で一番当てになる収入なのかもしれない。
誰かがカードを一枚置いた途端に、向かいの男が頭を抱えた。隣の女が笑いながら、その肩を叩いている。なんだかひどく楽しそうだった。
「高津木さん。カードに興味がありますか?」
すぐ横で声がして、ヤヒメは布巾を取り落としそうになった。
いつの間にか、サブロウがカウンターの内側に立っていた。還暦をいくらか過ぎた白髪頭の店主は、眼鏡の奥からヤヒメを見つめていた。
「……まぁ、興味だけ」
曖昧に笑って、ヤヒメはカップを棚へ戻した。
サブロウはそれ以上何も聞かなかった。そうですか、とだけ言って、豆の瓶の蓋を確かめに行く。こういう距離感の取り方をしてくれるのがありがたい店主だった。
ヤヒメはもう一度だけ、奥のテーブルを見た。
カードゲームと聞くと思い出す顔がある。
*
都会に住んでいた頃、ヤヒメはホストクラブに通っていた。
理由と言えるほどのものはない。朝から晩まで働き、家には寝に帰るだけで、休みの日は溜まった洗濯物を片付けているうちに終わる。
そういう暮らしの中で、誰かに笑って話を聞いてもらえる時間が欲しかっただけだ。
もっとも、熱心な客ではなかった。給料日の後に一度行ければいい方で、高い酒を入れる余裕もない。本指名で付いてもらっていた担当はそれなりの売れっ子で、そういう客の卓に長く座っていてくれるはずもなく、たびたび他の女の子の卓へ回っていった。
ヤヒメもそれで構わなかった。店の仕組みはそういうものだと理解していたし、分かった上で来ていたのだから。
担当が席を外すと、その隙間にはヘルプが座るものだ。何人か顔ぶれはいたが、よく覚えているのは一人だけだ。
よく気の付く男だった。グラスの水滴をヤヒメが気にするより先に拭き取っている。氷が減れば言われる前に足し、一度だけ薄めにしてと頼んだ酒の濃さを、次に来た時にも覚えていた。顔立ちも悪くない。目を引くような華やかさこそないが、それが妙に落ち着いて見えた。
ある晩、担当がそのヘルプと並んで卓に着いていた時のことだ。どういう流れだったか、話が趣味のことになった。担当はひとしきり自分の車の話で盛り上げてから、隣のヘルプへ顎をしゃくった。
「お前は?」
「俺ですか。カードゲームですね、ECってやつ」
わざとらしく胸を張って言うものだから、担当が噴き出した。
「おいおい、小学生かよ!」
弛緩した空気にヤヒメも笑った。カードと答えた男はわざとらしく唇を尖らせる。
「いや、大人がやっても面白いんですって。大会とかもあるし」
「お前それで休みの日潰してんの? そりゃ女の子にモテねえわ」
「だから先輩の横で勉強させてもらってるんじゃないですか。おかげで今日も、こんな綺麗なお客さんの席に座れてるわけですし」
笑われながらも、ヘルプは少しもへこたれた様子を見せなかった。おどけた調子で担当を持ち上げ、担当は満更でもなさそうに鼻を鳴らし、ヤヒメはまた笑う。卓はすっかり温まっていた。こういう役回りに慣れているのだろうと、客の目にも分かる手際だった。
だが、温まる場の空気と反比例して、ヤヒメの中で疑問が膨れていく。
ホストがこういう場で話す趣味というのはだいたい決まっているものだ。筋トレだとか、旅行だとか、サウナだとか。誰が聞いても感じがよくて、話を広げやすいものだ。笑いを取りたいだけなら、もっと当たり障りのない作り話でもよかったはずだった。
それなのに、わざわざカードゲームを選んだ。それが何故なのか、片隅に引っ掛かる。
しばらくして、担当が別の卓に呼ばれて席を立ってしまう。ヘルプと二人きりになったところで、ヤヒメは聞いてみた。
「さっきのカードゲームって、本当?」
「本当スよ。休みの日はよくやってます。デッキ持ってきてくれたらお相手しますよ」
手慣れた話の運び方だ。ああいう場で話の取っ掛かりを作っておき、認識してもらうやり方なのだろうか。
営業トークの一環。そう思おうとしたが、ヤヒメの罪悪感が疼く。
「……そっか。ごめんね、あんな風に笑って」
「え? ……ああ。あそこはウケるために言ったんだから。別にいいって」
ヘルプは軽く手を振った。
さっきまでの気を使った口ぶりが少しだけ崩れていて、根に持っている様子は欠片もない。だからだろうか。聞かなくてもいいことをヤヒメは聞いてしまった。
「好きなことを笑われても、平気なの?」
口にしてから反芻する。自分なら平気ではいられない。給料日を待ってはこうして店に通い、なけなしの金で話を聞いてもらっている。そんな今の自分を誰かに笑われたら、その無様さごと笑われたようできっと腹が立つ。
ヘルプは、きょとんとした顔でこちらを見た。
「別に? ガキかよって馬鹿にされるのは慣れてるし、実際どうかと思うし」
それから、減ったグラスに氷を足しながら、何でもないことのように続けた。
「それでもさ。誰に茶化されても、文句言われても、好きだと思った瞬間は無くならないから」
「無くならない?」
「そ。これが好きだって思ったその瞬間の気持ちは、人が何言おうとも絶対消えない。俺さえそれを覚えてるならそれでいい」
そのあと、自分が何と返したのかは覚えていない。覚えているのは、そう言った時の彼の顔が、卓で笑いを取っていた時よりもずっと気楽そうに見えたことだけだ。
それからも、そのヘルプが卓に来るたびに話をした。カードの話はそれきりで、あとは仕事の愚痴だとか、帰りに寄った店の話だとか、そんなことばかりだった。
前に話したことを覚えていて、あれからどうなったのかと聞かれるのが嬉しかった。担当が別の卓に呼ばれても、彼が来ると分かればさほど残念に思わなくなっていた。
彼が辞めると聞いてから、ヤヒメの方も店へ足を運ぶことはだんだんと減っていき、やがて住む街からも引っ越した。
そこからは人付き合いに疲れては住む場所を変え、移った先でもまた諸々あって引っ越して。何度かそれを繰り返すうちに、気付けば海沿いのこの町に流れ着いていた。
*
奥のテーブルでまた誰かが声を上げた。
ヤヒメは布巾を畳み直し、カウンターの縁に置く。窓の外はいつの間にか暮れ始めていて、ガラスに店の中の明かりが映り込んでいた。
ここで働き始めたのは、次の就職先が見つかるまでの繋ぎのつもりだった。一年近く経つ今もそのつもりでいるが、なかなか次が見つからない。二十九にもなって当てもないままアルバイトをしているのだから、本当なら焦るべきなのだろう。
ただ、この店は居心地が良かった。忙しくなく、店主は優しい。初日に渡された手書きの手順書を綴じたファイルには、豆の量から外の椅子の拭き方まで几帳面な字で書いてあったし、分からないことを聞けばサブロウは何度でも丁寧に教えてくれる。急かされることも、声を荒らげられることもない。
飲み物や食べ物だけでなく、レジで小物を売っているところもヤヒメは気に入っていた。コーヒーパックと菓子に加えて、ヤヒメが趣味で作ったアクセサリーも少量置かせてもらっている。
そして何故か、件のECのカードも置いてある。
喫茶店がどうしてカードを売っているのか理由は聞いていないが、田舎ではクリーニング屋の軒先に野菜が売られていることもあるし、そういうことかもしれない。
ヤヒメは、箱に並んだパックの一つを指先でつついた。
──好きだと思った瞬間は無くならないから。
アクセサリーを作るのは好きだ。材料を並べて組み合わせを考えているうちに、夜更かししてしまうこともある。それでも、人に趣味を聞かれると、暇潰しに少しだけ、とつい付け足してしまう。あの時の彼のように、笑われた後でも好きだと言い切れる自信はなかった。
あの人がそこまで好きだったものを、一度くらい知ってみてもいいのかもしれない。
(……私も、始めてみようかな)
そんなことを考えていると、入り口のベルが鳴った。
サブロウは少し前に、客室をもう一度見てくると言って奥へ引っ込んだきりだ。ヤヒメは慌てて背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ」
最初に入ってきたのは、小さな女の子だった。シャツの上にパーカーを羽織り、肩には小さな鞄を掛けている。戸口で一度立ち止まって、店の中を見渡した。
「……ほんとに喫茶店やってる」
子供にしてはやけに感じ入ったような呟きだった。親子連れか、とヤヒメが思う間もなく、その後ろから女が一人続く。
畳んだ白い日傘を手にした、ピンク色の長い髪の女だった。開いているのか分からないほど細い目で柔らかく微笑んでいる。ノースリーブのニットの胸元は、同性のヤヒメでも目のやり場に困るほど豊かだった。
「ミトラ様。入り口で立ち止まっていては、後ろがつかえてしまいますわ」
「分かってるわよ」
様付けで呼ばれた女の子はむっとした顔で一歩だけ中へ進んだ。どういう間柄なのか、ヤヒメにはさっぱり見当が付かない。
ピンク髪の女はヤヒメに気付くと、カウンターの方へ向き直って小さく頭を下げた。その後ろでは、さらに何人かが入ってくる。
「ごめんくださいまし。こちら、甲賀サブロウ様のお店でよろしかったでしょうか」
「あ、はい。お話は伺ってます。店長は今、奥に──」
「おお! ここがサブロウの店か!」
ヤヒメの返事に張りのある声が被さった。ピンク髪の女の後から入ってきたのは、男物のネルシャツを着た金髪の女だった。胸元のボタンが今にも弾けそうになっている。
「いちいち大声出すんじゃないの。迷惑でしょ」
「む。……おい契約者、見ろ! カードが置いてあるぞ!」
女の子に睨まれて一瞬だけ口をつぐんだ金髪は、レジ横のカードパックに目を留めるなり目を輝かせている。
その後ろでは、麦わら帽子を両手で持った銀髪の少女がきょろきょろと店内を見回していた。もう一人、長い黒髪に黒い肌をした少女は、最後に入ってきた男の腕にしがみついている。
「お父様、すごくいい匂いがします……!」
「なぁう」
「分かったから、どっちも落ち着けって。……おい、お前は引っ張るな」
その声に、ヤヒメは男の顔を見た。
腕にしがみつく少女へ何か言っていた男が、こちらへ向き直る。髪型も服装も記憶とは違ったが、顔を見れば分かった。
「……え?」
迎えの言葉を続けるつもりだった口から、間の抜けた声が漏れていた。