御蛇シラセ。
通っていたホストクラブのヘルプの中で、唯一覚えている源氏名が喉元まで出かかったが、ヤヒメは理性と社会性フィルターを総動員して寸前で呑み込んだ。
「すみません、大人数で押しかけてしまって」
腕にしがみつく少女をそのままに、男は軽く頭を下げながら言う。それに対してヤヒメはああ、とか、ええ、とか、そういう類の相槌を打っていた気がする。
客商売ではありえない応対に気を悪くする様子を見せず、男は続けた。
「あんまり騒がしくないようにするんで。よろしくどうも」
ごく普通の挨拶。こちらを見る目にも、取り立てて引っ掛かるものは見当たらない。
そこに驚いた様子も、懐かしむ様子もなかった。
「あ……はい。いらっしゃいませ。ようこそ」
拍子抜けしながらも、途切れていた迎えの言葉をヤヒメはどうにか継ぎ足した。声が少し上ずったのが自分でも分かる。
男はそれで用が済んだとばかりに、まだ腕を引いている黒い肌の少女の方へ顔を戻してしまった。分かったって、もう着いたから、と小声で宥めている。
(……覚えてない、のかな)
考えてみれば無理もない。彼はヤヒメの担当ではなかったし、ヤヒメの方も熱心に通えていたわけではない。彼にとっては隙間に座った卓の一つ、何人もいた客の一人にすぎなかったはずだ。何年も前の、それも夜の店の客の顔など、いちいち覚えている方がおかしい。
そう思おうとして、それでもうまくいかなかった。
あの頃の彼は何気なく話したことまで覚えていた。一度だけ頼んだ酒も、零した仕事の愚痴も。次に卓へ来た時にはその酒を自然と薦め、愚痴の続きがどうなったのかと向こうから尋ねてきたのだ。
その男に、初めて会う店員として扱われている。それが素直に飲み込み難い。
かといって、こちらから言い出せることでもない。昔の店の名前や源氏名を出せば思い出してもらえるのかもしれないが、そんなことをここで話していればサブロウの耳にも入る。ホストクラブに通っていたことなど、あの穏やかな店主にはなるべく知られたくない。
それに、向こうはこれだけの連れを伴っているのだ。女ばかりの連れの前で、昔ホストクラブで会いましたね、などと言えばどんなことになるか。というか、お連れがそれを知っていようがいまいが、自分があまりにも未練たらしく、みじめに見えてしまう。
だが、しかし、それでも。自分が誰なのかを穏便に伝えるには、何と言ったものか。言葉を探しているうちに、奥の廊下から足音が近付いてきた。
「おや。もういらしてたんですね」
客室を見に行っていたサブロウが、エプロンの裾を払いながら戻ってきた。入り口に固まった一行を見るなり、皺の刻まれた目元がゆるむ。
サブロウはそのまま小さな女の子の前まで歩いていくと、丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりです、店長」
店長という言葉にヤヒメは思わず耳を疑った。店長といえばヤヒメにとってはサブロウのことだが、そのサブロウが頭を下げている相手は、どう見ても先頭で入ってきた小さな女の子である。
当の女の子は、困ったように眉を下げて笑った。
「……もう店長じゃないでしょ、サブロウさん」
「ああ……そうでしたね。つい」
サブロウは照れたように白髪頭を掻いて、言い直した。
「ミトラさん。ようこそいらっしゃいました」
ミトラは返事の代わりに、改めて店の中をぐるりと見回した。カウンター、窓際の席、奥のテーブルでカードを広げている常連たち。最後にレジの横で目を止めて、小さく息を吐く。
「ほんとに喫茶店やってるのね」
入ってきた時と同じことを、今度はサブロウ本人へ向けて言っている。
「ええ。おかげさまで、どうにか続いていますよ」
サブロウの声は、ヤヒメが聞き慣れたものよりいくらか弾んでいた。
男も一歩前へ出た。
「ご無沙汰してます、サブロウさん」
「こちらこそ。お電話をいただいた時は嬉しかったですよ。お元気そうで何よりです」
その間にも、後ろに続いていた面々が次々と口を開く。
「久しいな、サブロウ!」
「お久しゅうございます、サブロウ様。この度はお招きいただきまして」
「レヴェローズさんも、カルメリエルさんも。お変わりありませんねえ」
金髪の女が胸を張り、ピンク髪の女が優雅に腰を折る。サブロウは一人ずつに頷き返していった。
金髪がレヴェローズ、ピンク髪がカルメリエル。サブロウの呼び方からすると、そういうことらしい。
「で、こっちの二人が……」
男が、銀髪の少女と、腕にしがみついたままの黒い肌の少女を順に示した。
「うちで……えーっと。一緒に暮らしてる、ミーシャと、大穴です」
「ミーシャです。よろしくお願いします!」
銀髪の少女が勢いよく頭を下げ、黒い肌の少女の方は男の腕に頬を寄せたままサブロウをじっと見上げている。
「なぅん」
「……すみません、人見知りなもんで」
人見知りというより、そもそも言葉で返事をする気がなさそうに見えたが、ヤヒメは黙っていた。名前にしても「おおあな」と聞こえた。人の名前にしては、かなり変わった響きだ。
サブロウは二人のことを詳しく尋ねるでもなく、ずいぶん賑やかになりましたねえとだけ言って、にこにこと二人を眺めた。それからヤヒメの方を振り返る。
「ああ、紹介がまだでしたね。こちら、ウチでアルバイトをしてくれている高津木さんです」
「高津木です。よろしくお願いします」
ヤヒメがお辞儀をすると、サブロウは続けて一行の方を手で示した。
「高津木さん。こちらが佐野ミトラさんと、押江シラベさん。私が長く勤めていたおもちゃ屋の店長と、私の後任に引き継いでもらった方です」
店長。さっきのやり取りは、冗談でもなんでもなかったらしい。
「後任なんて、大層なことはまだ出来てないですけどね。……押江です。しばらくお邪魔します」
男が軽く会釈を返してくる。高津木という名前を聞いても、その表情は少しも動かなかった。
押江、シラベ。
ヤヒメは口の中で、その名前をなぞった。
シラセとシラベ。一字しか違わない。源氏名は本名をもじって付けることもあると聞いたことがあるが、彼もそうだったのだろうか。
(……シラセじゃなかったんだ)
あれは夜の店で名乗るための名前で、本当の名前は別にある。当然分かっていたはずなのに、いざ聞かされると奇妙にズレる気持ちが芽生える。
「お疲れでしょう。まずはお部屋へご案内しますね」
サブロウに促されて、一行は荷物を抱え直した。ぞろぞろと奥の廊下へ消えていく背中を、ヤヒメはカウンターの内側から見送る。最後に、腕を引かれたシラベの姿が見えなくなった。
ほどなくして、廊下の奥から大きな声が響いてきた。
『聞いたかミーシャ、この部屋は私たちのものだ! さぁ荷を解くぞ!』
続いて、何人分かの笑い声。どうやら部屋割りは賑やかながらも決まったらしい。あのレヴェローズという人の能天気な声は嫌いではないが、なぜあそこまで堂々と出来るのか不思議でならない。
しばらくして、サブロウが戻ってきた。後ろにはシラベとミトラが続いている。
「すみません。あいつら、荷物広げ出すと長いんで」
「構いませんよ。どうぞ、お二人ともこちらへ」
サブロウは窓際のテーブルの椅子を引いて二人を座らせると、自分もその向かいに腰を下ろした。それからカウンターの方へ顔を向ける。
「高津木さん、すみません。コーヒーと、何かお茶請けをお願いできますか」
「あ、はい。週替わりのケーキでいいですか?」
「そうですね。高津木さんも休憩してください」
思わぬ
「で、お客さんは入ってんの?」
いきなりそれを聞くのか、とヤヒメは手を止めかけた。声色のせいでやんちゃな子供の言葉のようだが、子供にしたって言うことだろうか。
「ご覧のとおりですよ。朝は近所の方が寄ってくださるので、それなりに賑やかなんですけどね。昼を過ぎるとこんなものです」
サブロウはそんな言葉に怒るでもなく笑っている。
「ふうん。豆にこだわってるって手紙に書いてたけど、なかなかお高めよね。それでやってけるの?」
「道楽のようなものですから」
ミトラは遠慮というものを知らないらしく、それからも店のことを次々と尋ねていた。外の席は冬になったら片付けるのか、客室は普段どうしているのか、メニューは誰が考えたのか。サブロウはその一つ一つに丁寧に答えている。
普段のサブロウは聞かれたことに答えるだけで、自分から長々と話す人ではない。それが今日は聞かれていないことまで付け足しては声を立てて笑っていた。
「レジのとこ、カードも置いてるのね」
「ええ。置いていないと、どうにも落ち着かなくて」
「そういうもんスか。あと奥のあれ、ECのタペストリーですよね」
シラベが、奥のテーブルの方へちらりと目をやった。壁に飾られている装飾を示しているようだが、毎日目にしていたヤヒメはてっきりどこかのお土産物と思っていた。まさかECとやらの関係グッズなどとは全く知らなかった。
「ええ、奥の席はよく近所の方がカードの集まりで使ってくれるので、ああして飾れば居心地が良いかと」
「へえ。なんか店の対戦スペース思い出しますね。そういや、サブロウさんの手順書、まだ使ってますよ」
「おや。まだ残っていましたか」
「残ってるも何も、あれないと誰も回せないわよ」
ヤヒメはつい自分の私物を置いている引き出しを見た。初日に渡されたあのファイルは今もそこに収まっている。どうやら、サブロウがああいうものを書いたのはこの店が初めてではなかったらしい。
「忍者の衣装は? あれもこっちに持ってきたの?」
「どこに仕舞ったんでしたかねえ。あれで接客するわけにもいかないでしょうし、押江さんいります?」
「いや、あれ着て営業する元気は俺にも無いかも……」
何の話なのかさっぱり分からないが、三人ともさも当然という顔で笑っている。旧交を温めているところだから当たり前なのだが、内輪の話に花が咲いているのを聞いていると、少し寂しくなる。だが、和やかな雰囲気があると不思議と楽しく聞こえる気もしてくる。
「でも、サブロウさんが別の店のエプロン着てるとなんか変な感じ」
「自分でも、たまにあれっと思いますよ。先代の頃から数えると、あの店には二十年と少しいましたか。ミトラさんとも長い付き合いでしたね」
「サブロウさんいなかったら、うちみたいなちゃらんぽらんなおもちゃ屋、とっくに潰れてたわよ」
「そりゃ店長がこの調子じゃいてててて」
シラベが言葉の途中で顔をしかめた。テーブルの下で、ミトラの足が隣の脛を蹴ったらしい。
「……俺が学生の頃なんか、いつ行ってもレジにサブロウさんいましたもんね」
分からないなりに、話を聞いていてなんとなく察しが付くこともある。喫茶店のレジにカードが置いてあるのも、奥の常連たちを快く迎えているのも、前職でサブロウが思った以上にカードへ深く関わっていたのが理由のようだ。
分からないのはミトラの方だ。先代という言い方からすると、その店を継いだのが彼女ということになる。けれど、どこからどう見ても小学生くらいの女の子だ。椅子に座った足は床まで届かずにぶらぶらと揺れている。
いったいいくつなのだろう。聞いてみたい気もしたが、さすがにそれは失礼だろうか。
それに、シラベは学生の頃からその店へ通っていたという。ヤヒメが知っているのは夜の店でヘルプとして卓に着いていた彼だけだった。休みの日はよくやってますと言っていたが、その休みの日に通っていたのが、彼らのいうおもちゃ屋なのだろうか。
冷蔵庫から出したケーキを、ヤヒメは一切れずつ皿に移した。
カウンターからでは、それ以上細かいところまでは聞き取れない。奥の常連たちの声に紛れてしまう言葉もある。フォークを添えながら、会話が途切れるたびに、つい耳を澄ませてしまう。
落ち切ったコーヒーをカップへ注ぎ、人数分を盆に載せてヤヒメはテーブルへ向かった。三人はまだ、前の店の話を続けている。
「お待たせしました」
カップとケーキを、サブロウ、ミトラ、シラベの前へ順に置いていく。
最後の皿を置きながら、ヤヒメは世間話を装って口を開いた。
「やっぱり、カードを扱ってるお店の人って、カードがお好きなんですね」
三人へ向けた言葉のつもりだった。ただ、気になっているのは一人の返事だけだ。ヤヒメは皿の位置を指先で整えながら、すぐには顔を上げずに待った。
「ええ、私も好きですよ。好きでなければ、あんなに長くは勤まりませんでしたから」
先に答えたのはサブロウだった。ミトラも頷いている。
「先代からミトラさんの助けを頼まれていたところもありましたけど、その大変さはカードに携わる面白さがなければちょっと厳しかったですねえ」
「うっ……た、大変さって……」
「いやいや、最近はマシになってきたけど、前のミトラは本当にひどかったからな。サブロウさんに謝っとけ」
「んぐっ……ご、ごめんなさい……」
「ははは。まぁ、それも今から思えばいい思い出ですよ。でも思い出と言えば、押江さんは学生の頃から熱心でしたねえ」
懐かしそうに目を細めるサブロウの向かいで、しょぼくれていたミトラが復活しフォークを手に取る。
「今でもよ。仕事中にカード眺め込んでることあるし」
「商品の確認も仕事だろ」
「仕事と関係ないとこまで見てるでしょ」
「お前だって、レジで船漕いでる時あるだろうが」
「あれは目を休めてるだけ」
テンポよく言い合う二人を、サブロウはコーヒーを啜りながら楽しそうに眺めている。
ヤヒメは盆を胸に抱えたまま、その応酬に聞き入っていた。
あの頃のシラセは客の話を聞き、相手を立てる側だった。笑われてもおどけてみせ、担当を持ち上げて卓を盛り上げていた。誰かに文句を言うところなど、一度も見たことがない。
それが今は文句も言えばからかい返しもする。その遠慮のなさが、ヤヒメには目新しかった。
言い返そうと前のめりになったミトラの肘が、置いたばかりのカップへ近付いた。
ヤヒメが声を掛けるより先に、シラベの手が伸びていた。何も言わずに受け皿ごとカップを少しだけ奥へずらした。
ミトラは礼の一つも言わず、そのまま話を続けている。シラベの方も、何事もなかったような顔でケーキにフォークを入れていた。グラスの水滴を拭ってくれていた、あの頃と同じだ。ああいう気の付き方は、店の外でも変わらないらしい。
「ま、色々比重は違うだろうけど、みんな好きだからやってますよ、そりゃ」
いつの間にか、シラベがこちらへ少し顔を向けていた。その言葉は、さっきの問いへの答えだったらしい。
唐突な質問だったけれど、答えてくれている。それでもこちらへ向けられる態度だけがどこかよそよそしい。
ヤヒメは盆を抱え直した。このまま引き下がれば、それで話は終わってしまう。
「どういうところが面白いんですか?」
口にしてから、慌てて付け足す。
「いつも奥の席で、常連さんたちが楽しそうに遊んでるんですけど。私には、何をしてるのかさっぱりで」
客の遊びに興味を持った従業員。それくらいに聞こえていればいい。
シラベは考えるように、視線を宙へ浮かせた。
「そうスね……自分で使うカードを選んで、組み合わせるところとか。これとこれを一緒に使えばこう動くだろう、って考えて。それが思った通りに動くのが面白い、かな」
「大抵は思った通りにならないけど」
ケーキを頬張りながら、ミトラが茶々を入れてくる。
「うるせえな。……まあ、だから組み直したくなるんですけど」
ミトラにはぞんざいに、ヤヒメには丁寧に。一つの台詞の中で、シラベは口調を器用に切り替えている。
サブロウが穏やかに言い添えた。
「同じカードでも、使う人によって組み合わせ方が全然違うんですよ。押江さんとミトラさんに同じようなカードを渡しても、きっとまるで別のものが出来上がりますね」
「シラベのは運任せだもんね」
「引きを信じてるって言え。お前こそ隙見せたらすぐコントロール握るじゃねえか」
また始まった言い合いを聞いていると、ヤヒメには
客を楽しませようとおどけていた時より、こうして好きなものについて話している時の方が、肩の力が抜けて見えた。
もう少し聞いていたかった。けれど、いつまでも客のテーブルの横に突っ立っているわけにもいかない。せっかく休憩していいと言われたのだから、それを味わわなければ。
だから、こうして離れるのは自然なことだ。
「ありがとうございます。……ごゆっくりどうぞ」
ヤヒメは小さく会釈して、空になった盆を持ち直した。
「興味あるなら、一回やってみれば?」
踵を返しかけたところで、ミトラの声が追い掛けてきた。
振り返ると、ミトラはフォークを咥えたまま、こちらを見上げていた。
「……私が、ですか?」
「うん。ティーチングなら出来るわよ、シラベが」
「なんで俺が」
「ふむ。どうせいつも通りならお客も来ないでしょうし、バイト中の手透きを埋めるにはいいんじゃないでしょうか。もちろん、高津木さんが良ければですが」
「俺が相手すること確定してる? ねぇサブロウさん?」
サブロウまで気軽な調子で頷いている。良い性格しているのが案外素なのだろうか。
シラベは頭を掻きむしってから、ヤヒメの方を見た。ようやく交わった気がする視線には、申し訳なさがいっぱいに詰まっているように見えた。
カードを始めてみようかとは、ついさっきまで考えていた。けれど、その相手が彼になるとは思ってもみなかった。
きっとここで間を置けば、彼はほら困ってるじゃん、などと言って助け舟を出してくれる。そう思うとヤヒメはすぐには返事が出来なかった。
そう言ってもらえるだけでも、何か報われる気がした。一本線を引かれたとしても、彼に慮ってもらえるならそれでいいような、そんな思いもある。
だが。「デッキ持ってきてくれたらお相手しますよ」という、あの夜の言葉が蘇る。
あの時は、次も店に来させるための誘い文句として聞いた。自分はそれを本気にせず、踏み込みもせず、聞き流して自分の話ばかりしていた。
今なら少しでも、踏み込める余地があるかもしれない。
「……少しだけなら。教えてください」
ようやくそう答えると、シラベは少し瞬きをした後、観念したかのように頷いてみせた。
次回、10月21日更新予定です