悲鳴に遮られ、ヤヒメは口を半端に開けたまま固まっていた。
外を通りがかった誰かのはしゃぎ声か、海風が強く吹き付けて甲高く鳴ったのか。そう思おうとしても、耳の奥に残った声が生々しすぎた。
向かいのシラベも手元のカードから顔を上げて、どこを見るでもなく緊張した面持ちになっている。
「今の、って……」
「……奥から、だったよな」
独り言のように呟いて、シラベは椅子を引いた。ヤヒメも慌てて腰を浮かせたところで、店の入り口が開く音に反射的に目を向ける。
「ちょっと。今の何?」
入ってきたのはミトラとサブロウだった。二人とも真っ先に店の奥を見てから、こちらへ駆け寄ってくる。いつも穏やかな店主の目元が、今は険しく引き締まっていた。
「分かんねえ。たぶん奥……客室の方だ」
「行ってみましょう」
サブロウが廊下の扉を開け、シラベとミトラがその後に付く。ヤヒメも一拍遅れて三人の背中を追った。
喫茶スペースから客室へ延びる廊下は、営業中は扉を閉めてあり、用が無ければ電気も落としている。サブロウが壁のスイッチを入れると天井の明かりが瞬き、両側に並ぶ扉を照らし出した。
サブロウが手前の扉の前で足を止める。
「こちらのお部屋が確か……」
「カルメリエルと大穴の部屋です」
シラベが答え、拳で扉を叩いた。
「カルメリエル。おい、いるか?」
返事はない。もう一度、さっきより強く叩いても、中からは誰かが動く気配すら伝わってこなかった。シラベはミトラと目を見交わし、ノブに手を掛ける。
「……開けるぞ」
シラベがゆっくりとノブを回す。鍵は掛かっておらず、小さく軋みながら扉が開いた。
扉を大きく開けたシラベが、短く息を呑んだ。その後ろから部屋を覗いたヤヒメも喉がひくりと鳴る。
明かりの点いた部屋の中で、ピンク髪の女性、カルメリエルの姿がベッドの上にあった。端に腰掛けたところから、そのまま後ろへ倒れ込んだような格好だ。両脚は床へ下ろしたまま、上体だけがシーツの上に仰向けに投げ出されている。長い髪が頭の周りに広がり、両腕も力なく左右へ落ちていた。
「カルメリエル!」
シラベが駆け寄っても彼女はぴくりとも動かない。ミトラも後を追い、ヤヒメも続こうとしたが、敷居を跨いだところで足が止まった。
「うひゃっ!?」
部屋の隅にあった黒っぽい塊の異様さがヤヒメの足を竦ませる。だが目を凝らせば、それが大穴と呼ばれた少女がうずくまっている姿だと気付く。壁の角に背中を押し付け、両手で頭を抱えているらしい。白いワンピースの裾から出た黒い膝が小刻みに震えていた。
「おい、カルメリエル! 聞こえるか!?」
ベッドの方ではシラベがカルメリエルに呼び掛けている。脇へ回り込んだサブロウが顔や首に手指を当てて共に様子を窺っている。
「……呼吸はありますし、脈もしっかりしていますね。頭を打っているかもしれませんから、無理に揺すらない方がいいでしょう」
こんな時でも、サブロウの声は普段とさほど変わらない。その落ち着きに、ヤヒメも少しだけ救われた。
せめて手伝えることはないかと傍へ寄ると、爪先が何かに当たった。
「これ、ヘアブラシ?」
黒い髪の毛の絡んだそれを拾おうと屈みかけ、思い留まる。ドラマなら現場のものには手を触れるなと叱られる場面かもしれない。
そのまま辺りを見るが、荷物が広げられている程度で、家具が倒れたり、物が散乱したりした様子はない。
「ミトラ。サブロウさんもすみません。ちょっとこっち、お願いします」
シラベはベッドを離れ、今度は大穴の前にしゃがみ込んだ。
「大穴。どうした、どっか痛いのか」
名前を呼ばれて大穴がのろのろと顔を上げシラベを見ると、潤んだ黒い目を見開いた。頭を押さえた両手は離そうとしない。シラベはその指の上から、そっと手を重ねた。
「……あたま、いたい」
掠れた声で訴え、大穴がシラベへ額を押し付けるように身を寄せる。シラベは背中に片腕を回し、もう片方の手で髪の上から頭を探るように撫でた。
(喋れたんだ。いや、まあ、そうか)
挨拶の時から鳴き声ばかり聞いていたせいで変なことを思ってしまった。
シラベは少しも気にした様子もなく、大穴の手を解かせながら髪に指を通している。
「こぶになってんな。何かにぶつけたか?」
「……にぅ」
何か答えるような声だったが、頷いたのか、首を振ったのかも判然としない。大穴は空いた手でシャツの胸元を握り締め、ますます顔を埋めてしまう。
ヤヒメはシラベにしがみつく大穴と、ベッドに横たわるカルメリエルを見比べた。ミトラがカルメリエルの顔に掛かった前髪を払いのける。その下から現れたものに、ヤヒメは目を剥いてしまった。
「うわぁ、これはひどい」
ミトラの口振りは妙に軽いが、ヤヒメの目には笑い事では済まない有り様に見える。顔合わせの時にはシミもしわもない美しい顔立ちで、柔らかな微笑みをたたえていたカルメリエルだが、その鼻筋から額にかけてが赤く腫れ、鼻血のようなものまで見える。硬いものを勢いよくぶつけられたか、殴られでもしたような跡だ。
大穴の頭にはこぶが出来ているとシラベは呟いていた。その二つがヤヒメの中で結び付き、二人を殴りつける誰かの影を頭に浮かべてしまった。
思い付いた考えの物騒さに、ヤヒメは指先を握り込んだ。
「あの、救急車、呼びましょうか。……警察にも連絡した方が」
ヤヒメがポケットからスマートフォンを出すと、ミトラが顔を上げた。
「え、あ、それは……」
「いや、ちょっと待って」
シラベも口を挟み、ミトラと顔を見合わせる。二人とも無言ではあるが、なにやら素早く手を動かしているのが見えた気がする。
何かまずかっただろうか。ヤヒメが画面に指を置いたまま戸惑っていると、シラベは胸元の大穴の手をそっと解いて立ち上がり、音もなくすぐ傍に寄ってきた。
そして少し身を屈めたかと思うと、耳元に顔が近付いてくる。
「……もうちょっと状況見て、俺が連絡しておくから」
声を潜められ、ヤヒメは肩をすくめた。耳にかかった息に首筋から背中へぞくりとしたものが走る。顔を向ければ触れてしまいそうで身体が強張る。
「だから通報は大丈夫。OK?」
「……はい」
念押しに頷いてしまうと、シラベは小さく礼を言って離れた。ヤヒメは熱くなった耳を髪で隠し、スマートフォンをポケットへ戻す。
状況に流されるまま任せてしまったが、いいのだろうか。そう考えるのと一緒に、もう少しあの声を聞いていたかった気もして慌てて打ち消した。今はそんな場合ではない。
シラベが室内を見回し始めたので、ヤヒメも昼間の様子を思い返しながら周囲を確かめた。掃除の時にはサブロウが運び込んだ寝具のほかに目立つものもない、がらんとした部屋だった。
今は口の開いた旅行鞄から着替えがはみ出し、ベッドの足元には畳んだ寝間着が置かれている。床に落ちていたヘアブラシも含めて、どれも泊まりであれば当たり前にあるものばかりだ。
寝間着を出して、髪を梳かして。そうして夜の支度をしていたところで何かが起きたのだろうが、それがあの悲鳴や二人の様子にどう繋がるのか見当が付かない。
「外はもう暗いな。全然景色が見えない」
シラベが窓際へ歩み寄り、カーテンの開いた窓を引き開けた。湿った夜風が潮の匂いを運び、波の音が低く聞こえてくる。
窓枠に手をついて外を見渡すシラベの後ろからヤヒメも覗いてみた。部屋の明かりが届くのは窓のすぐ下までで、その先は何があるのかも見分けられない。見える範囲に人影はなく、何かが動く気配もしなかった。
シラベと共にしばらく暗がりへ目を凝らしていたが、何も見つけられる気がしない。
「ったく。何があったんだか」
シラベの独り言にヤヒメも考える。悲鳴が上がった時、自分とシラベは喫茶スペースの奥のテーブルで向かい合っていた。それまでの間、店に入ってくる客はいなかったし、客室に入っていく人も見ていない。当然、出ていく者もいなかった。
そこまで考えて、ヤヒメはふと思い至る。サブロウ店長とミトラ、あの二人は自分たちがカードをやり始めたあたりから姿を見失っていて、騒動の時には外から戻ってきた。
こんな暗い中、二人で何をしていたのだろう。
「……ねえ。レヴェたちは? これだけ騒いでんのに、顔も出さないじゃない」
ヤヒメがそれ以上考える前に、ミトラがシラベに問い掛けた。
言われてみれば、その通りだった。部屋割りが決まった時には廊下の奥から店まで声を響かせていたレヴェローズという女性。あの調子なら、騒動を聞きつければ真っ先に飛び出てきそうだ。
「ちょっと隣、見てくる」
「ああ、頼む」
ミトラが小走りに出ていくと、シラベはカルメリエルのそばへ戻り、ベッドの端に腰を下ろした。いつの間にか後を付いてきていた大穴も床へ座り込み、シラベの膝に頭を預ける。シラベはその頭を撫でながら、もう片方の手でカルメリエルの乱れた髪を整えた。
ヤヒメは所在なく立ったまま、それを見ていることしか出来なかった。
ほどなくして、廊下を駆け戻る足音がした。戸口に現れたミトラは、少し息を弾ませていた。
「隣、誰もいない。レヴェもミーシャも部屋にいないの」
出ていった時より低い声に、大穴の頭を撫でていたシラベの手が止まった。サブロウも眼鏡の奥の目を見開き、ヤヒメは戸口のミトラを見つめ返す。
背後の暗闇から吹く海風が、轟々と音を立てている気がした。