「……あいつ電話出ねえな。ゲームやりすぎて充電切らしたか?」
スマートフォンから耳を離したシラベが言うと、ミトラが溜め息を吐いた。
「コールするなら電源は入ってるんじゃない? 気付くかどうかは別にして。やっぱりミーシャにも持たせるべきだったわ」
「ああ。いざって時にこれじゃあな」
腕を組んだミトラに、シラベが同意する。その様子を眺めていて、ヤヒメは言い知れない違和感を覚えた。
同行者の二人には暴行されたような痕跡があり、もう二人の姿は消えている。慌てて然るべき状況のはずなのに、目の前の二人はいかにも落ち着いていた。まるで、遊びに出た子供の帰りが遅いとぼやく親の会話でも聞いているようだ。
「……店長、これどうすればいいんでしょう」
ヤヒメは少しだけ後ろに下がり、壁際に立つサブロウにこっそり問い掛けた。こんな訳の分からない状況で、ヤヒメが頼りに出来る相手といえば店長くらいしかいない。シラベは……まあ、ともかくとして。
だが、サブロウはヤヒメの問い掛けにすぐには答えなかった。
いつもなら、分からないことは分からないなりに、どうしましょうか、ひとまずこうしてみましょうか、と出来ることをするりと提案してくれる人だ。それがこの時ばかりは、眼鏡の奥の目をどこか一点に据えたまま考え込んでいて、ヤヒメの声も耳に入っていないかのようだった。
「サブロウ店長?」
「……! おっと、失礼。考え事をしていました」
もう一度声を掛けると、サブロウはびくりと肩を震わせて応じた。少しバツが悪そうに頬を掻き、咳払いを一つしてから、ヤヒメだけでなく部屋の全員へ向けるように声を大きくする。
「カルメリエルさんと大穴さんは、安静にしているのが一番良いと思います。ただ、何かあったかもしれない部屋では落ち着かないでしょうから、ひとまず別の部屋に移るとしましょうか」
それぞれがサブロウの言葉に頷く。寝かせておいた方がいいのは確かだろうが、こんなことがあった場所にそのまま休ませておくのは可哀想だ。目を覚ました時に、自分が倒れていたのと同じ天井を見上げるのは、きっといい気分ではない。
「じゃあ私、空き部屋の掃除してきましょうか」
幸い、使っていない部屋はまだ一つある。今日は使う予定が無かったので手を付けていなかったが、今から掃除機を掛けてシーツを敷けば問題無いだろう。
そう思って申し出たが、返ってきたのは「いや」という短い声だった。
振り向けばシラベがカルメリエルを抱え上げているところだった。背中と膝の裏に腕を回した、いわゆるお姫様抱っこである。カルメリエルの頭は、シラベの肩口に寄り掛かっていた。
「そこまで面倒掛けるのも申し訳ないんで、こいつらは俺の部屋に寝かせておきます」
「えっ」
意識のない女性を抱きかかえた男が、自分の部屋のベッドに寝かせる。その情景に、ヤヒメの頭の中では豊かな想像がむくむくと広がりかけた。
ヤヒメは必死に頭を振る。今の会話の流れでそんなことを考えている場合ではない。たぶん、そういう意味ではない。というか、そういう意味であってたまるか。
「ミトラ、大穴運べるか?」
「運ぶっていうか、これくらいなら歩けるでしょ。ほら、おいで」
ミトラが手を差し出すと、床に座り込んでいた大穴はしばらくその手を見つめてから、ゆっくりと自分の手を重ねた。
「んー……」
気の抜けた声を漏らして、ふらつきながら立ち上がる。
ヤヒメが一人で動揺している間に、扉を開けるサブロウを先頭に、シラベは危なげない足取りでカルメリエルを運んでいき、大穴の手を引いたミトラもそれに続いた。
気付けば、部屋に残っているのはヤヒメだけだった。床に転がったままのヘアブラシと、開けっ放しの窓。そこから入り込む夜気が、急に肌寒く感じられる。
一人残されてしまったのが嫌に気恥ずかしくなって、開いていた窓だけ閉めると、ヤヒメは慌てて後を追い掛けた。
シラベの部屋の一人用ベッドに二人を並べるのは少々窮屈そうだったが、横になるなり大穴がカルメリエルの脇の下で丸くなってしまったので、どうにか収まった。
廊下へ出ると、サブロウは中の様子が分かるよう、扉を細く開けたままにした。
「さて、どうするか」
シラベの言葉に、ミトラとサブロウも思案顔になった。
それぞれ何か迷っているようだったが、ヤヒメからしてみれば、やるべきことはもう決まっているように思えた。小さく手を挙げ、意見を口にする。
「とにかく、いなくなってしまったお二人を探さなきゃいけないですよね。どうやって探しましょうか」
「ま、そうね。レヴェはともかく、ミーシャは探してやらないと」
「だな。レヴェローズはともかく」
気軽に後回しにされたレヴェローズが、少し気の毒になる。電話に出なかったことを怒っているのだろうか。それにしたって、行方の分からない連れへの扱いとしては随分と雑だ。一人でも大丈夫と思っているのかもしれないが。
ともあれ、探しに行くことには賛成してもらえたらしい。
「じゃあ、道に迷うとあれなんで私が一緒に──」
「ああ、待ってください」
珍しく、サブロウが人の話を遮った。ヤヒメは言葉を途中で切ったまま、店長の顔を見てしまう。
サブロウは不思議そうにしているシラベたちへ目を向けてから、改めてヤヒメに向き直った。
「高津木さん、そろそろあがりましょう」
「……え?」
唐突な言葉に、ヤヒメは目を瞬かせた。
あがる。なにに。誰が。自分が。仕事。バイト?
ぱっと廊下の壁に掛かった時計を見ると、針は既に十八時を回っている。
繁忙期ならともかく、客の入りが少ない今の時期なら、ヤヒメの勤務は確かに終わっている時間だった。
「……た、たしかに仕事終わりですけど。でもお客さんがあんなになってたのを、そのまま放ってってのは、ちょっと心配だなぁ~って……思うんですけど」
残りたい理由のうち、三割ほどを占める理屈を口にしてみる。残りの七割は、シラベという存在と、この非日常めいた空気から自分一人だけ外されることへの抵抗感だったが、さすがにそちらは口に出せない。
だが、そのなけなしの理由にも、サブロウは大丈夫ですよ、と優しく、無慈悲に首を振った。
「心配する気持ちは分かります。ですが、従業員の身の安全を考えるのも店長の務めです。私に務めを果たさせてください」
「だってさ店長。同じ店長として見習った方がいいんじゃねえか?」
「私の身に何かあったらあんたの生活が立ち行かなくなるんだから、私を守ることがあんたの身の安全に繋がるのよ」
後ろでやけに息の合った漫才が聞こえるが、サブロウの言い分はヤヒメには否定のしようがなかった。店長としてもっともで、従業員を思いやっていて、どこにも隙がない。これで頷かない方が、かえって困らせてしまう。
「さっきの騒動で不安でしょうが、私が家まで車を出しますので。乗ってきた自転車も、後ろの席を倒せば載せられますから」
善意百パーセントの言葉の前に、ヤヒメが抱いていた好奇心がみるみる萎れていく。
ここまで言われてしまえば、もう引き下がるしかない。ヤヒメは俯き、はい、と口の形を作りかけた。
ここで礼を言って頭を下げれば、サブロウも安心するだろう。着替えを済ませている間に車を用意してもらい、自転車を積んで家まで送ってもらう。それが一番迷惑を掛けないことくらい、ヤヒメにも分かっている。
それでも、明日ここへ来た時には全部終わっているのだと思うと、首が縦に動かなかった。
いなくなった二人がどこにいたのかも、あの部屋で何があったのかも、後から店長に教えてもらうだけになる。いや、そもそも教えてもらえるのかも分からない。何とかなりました、の一言で終わってしまっても別に問題無いのだ。自分はただの喫茶店のバイトで、知る必要は何もない。
今の三人の様子が引っ掛かっている。電話が繋がらなかった時は妙に落ち着いていた。分からないまま帰ってしまったら、きっと今夜もその先も、ずっと考えてしまう。
何より、せっかく再会出来たのに、まだ自分を覚えているかどうかさえ確かめられていない。たとえ忘れられていたのだとしても、それを知らないまま帰ってしまえば、ずっと後を引く気がする。
「いいえ、店長。やっぱり、もう少し居させてください」
「……高津木さん?」
自分でも思ったよりはっきりした声が出て、ヤヒメはエプロンの脇を握った。
「……店長に送っていただいてからだと、探しに出るのもその分遅くなっちゃいます。夜遅くに、この辺りの道を知らない押江さんたちだけで探しに行くのは危ないかもしれません」
「それは……」
この辺りの夜道が特別危ないわけではない。だが先ほど、送るとまで言ってくれた人がシラベたちの身の安全を考えないわけにはいかないだろう。
「それに、探している間に誰かが戻ってくるかもしれません。その時に外へ知らせる役も、寝ているお二人を看る役も要りますから、誰か一人はお店に残った方がいいです。そうなると一人はここにいなきゃいけなくなるから、探しに出る人手は多い方がいいですよ」
「……しかし」
サブロウが言い淀む。もう少し押せば頷いてくれるかもしれない。けれど、返事を待っていたら、また優しい言葉で帰り支度を促されそうだった。
どうしたものか考えあぐねた末、つい傍らのシラベを見てしまう。
「ん?」
そういえば。迷ったら攻めも悪くないとアドバイスをよこしたのは、この人ではなかったか。
目が合ったまま、ヤヒメは咄嗟にその袖を掴んだ。
「……お?」
「だからシラ──押江さんとまわりを見てきます! じゃっ!」
言い終えるより先に、ヤヒメは掴んだ袖を引いて歩き出していた。
「ちょ、高津木さん?」
戸惑う声にも足は止まらない。止まったが最後、店長の正論にまた押し戻される気がした。