「……で、どっから見て回るんスか?」
背後から掛かった声に、ヤヒメは当てもなく進みかけていた足を緩めた。振り向くと喫茶店の入り口から漏れる明かりを背にして、シラベがこちらを窺っている。
急に動いたヤヒメに対して苦言こそ口にしていないが、視線に呆れが混じっているのは被害妄想ではないだろう。いたたまれなくなり目を逸らす。
「えーっと……まずは、建物の裏手を……」
答えながら、自分の手元に気付く。軽く引いていたつもりだったが、いつの間にか布地の下の腕までしっかりと握り込んでいる。
「す、すみません!」
慌てて手を離した。指先には、布越しの体温がまだ残っていた。
「こっちからぐるっと回れば、客室の外側に出られるんです。まずそっちに行ってから、周りを見ましょう」
取り繕うように付け足して、建物の脇を指差す。
方便でもあったが、周りを確かめる必要があるのは事実だ。一人で動くのは危ないかもしれないし、店の周りのことなのだから店員が付き添うのは自然なはずだ。そのために客の腕を掴んで店を飛び出してくる必要まであったのかと考えると、いきおい任せすぎたかもしれない。
「じゃ、見てみますかね」
当のシラベは掴まれていた袖を気にするでもなく頷いている。変に何か言われることもなくほっとしたが、意識しているのが自分ばかりのようでどうにも落ち着かない。
ヤヒメは行き場をなくした手をエプロンの前で重ね、小さく咳払いをした。
「あの。お二人って、どこから外に出たんだと思います?」
「というと?」
「悲鳴が聞こえるまで、私たち、奥のテーブルにいましたよね。あそこからでも廊下の入り口が見えますけど、誰か出てきました?」
「いや、見てないスね。んー、あえて外れてそうなこと言いますけど、悲鳴の後で俺らがカルメリエルたちの部屋に集まってた時、こっそり抜け出してたとか?」
「タイミング的には出来そうです。でも私たちがいた部屋の扉を閉めてたわけでもないですし、隣の部屋の扉が開いたら気付くと思います」
ずっと見張っていたわけではないので可能性はゼロではないが、それよりも、カルメリエルの客室の窓を見てから思ったことの方が、ヤヒメにはしっくり来る。
「もしかすると、お二人は窓からいなくなったんじゃないかと思って。そうすれば私たち全員が姿を見てなくてもおかしくないです。で、窓の外に何か残っているのを見つけられれば、行方を追えるかも」
「なるほど」
シラベも頷き、辺りへ目を向けた。
店前を離れるにつれ、足元は思っていた以上に暗くなっている。店から漏れる明かりの外へ一歩出るたび、目が明暗の差に追い付かず、闇が一段濃くなったように感じた。
二人分の靴が砂利を踏む音ばかりが、やけに耳に付く。
強く吹いた海風に、エプロンの裾がはためいた。磯の匂いが鼻先を抜け、店内で嗅ぎ慣れたコーヒーの香りが急に遠いものになる。
「客室はテラス席とちょうど反対の側に並んでるんです。窓もみんなそっち向きで」
説明しながら角を曲がっていくと、客室の窓が並んでいるのが見えてきた。漏れ出す明かりは、その真下の地面だけをぼんやりと照らしている。窓と窓の間は暗く、足元の様子もろくに分からない。
普段なら気にも留めない場所だった。壁際に据えられた室外機。資源ごみの日まで積んである、潰した段ボール。手入れの追い付いていない草むら。ゴミを出しに来るたびに見ているはずのものが、誰かが通った跡を探すつもりで目を向けると、どれも何かを隠していそうに思えてくる。
ヤヒメは自分の背より少し高い位置にある客室の窓を見上げ、そこから地面へと視線を下ろしていく。壁は薄汚れているものの、靴底の跡のような分かりやすい痕跡は残っていない。
そうして視線を這わせていくと、頼りとなる窓明かりが途切れる辺りに、何かがわだかまっている。
砂利と草むらの境目だった。投げ捨てられたゴミのような影。屈み込むと、片方の袖がだらりと草の上へ伸びているのが分かった。
服だ。ネルシャツと、その下敷きになった細身のパンツ。
どちらにも見覚えがあった。特にシャツは胸元のボタンがいかにも窮屈そうだったからよく覚えている。レジ横のカードを見つけてはしゃぎ、その陽気さが少し暑苦しくもあったレヴェローズの着ていた、男物のネルシャツだ。
ヤヒメの背筋がすうっと冷たくなる。本人はどこにもいないのに、着ていたはずの服だけがここにある。荷物の一部をうっかり落としていった、というには穏やかではない。
どうしてこうなったのか。理由を考えようとすると、先ほどの悲鳴が耳の奥で蘇った。
あれはカルメリエルの声だったはずだ。シラベもミトラも、そう受け止めていた。レヴェローズの悲鳴ではない。そのはずなのに、隣り合った部屋で起きたことを、無関係だと片付ける気にはなれなかった。
ヤヒメは立ち上がり、辺りを見回す。窓明かりの外は暗く沈んでいて、人の姿は見当たらない。
隣でシラベが身を屈めた。シャツを拾い上げ、付いていた砂を軽く払う。それを広げ、下に落ちていたパンツも拾ってから、困ったように息をついた。
「……何やってんだ、あいつ」
零れた呟きには、心配よりも呆れが滲んでいた。
その落ち着きが、ヤヒメにはかえって不安だった。電話が繋がらなかった時もそうだ。連れの服を拾い上げて、どうしてそんな声が出せるのだろう。
「あの……何か、その……えっと……」
「いや。まだそうと決まったわけじゃないんで」
もっともな言葉ではある。何があったのかまだ分かっていない。何を言っても早合点になってしまう。
「でも、着ていた服が落ちてるんですよ。それも女性の。それって……」
ひどく冷静なシラベを見ていると、何故だか口が動いてしまう。それでもその先は、どうしても口に出来なかった。
シラベも手元の服へ目を落とす。しばらく考えるように黙ってから、ぽつりと言った。
「あいつなら、海見てはしゃいで、そのまま遊びに行ったとかも、なくはないしな」
「……はい?」
思わず聞き返していた。
「泳ぎに行った、ってことですか?」
「例えばの話だけど」
「この季節に?」
浜で泳いでいる人の姿などもうしばらく見かけていない。昼間ならまだしも、日の暮れた後に服を脱ぎ捨ててまで海へ向かうなんて、普通ならあまりに無謀だ。
シラベは腕に服を掛け、空いた手でスマートフォンを取り出した。画面を操作すると、背面のライトが白く灯る。
「あいつ、思い付いたことを説明する前に動くんで。海に来たがってたのもあいつだし」
光が草むらの奥を照らした。昼間には何でもない草の影が、壁の上で大きく揺れる。
「まあ、だからって放っといていいわけじゃないけど」
服の落ちていた場所から、砂利の上、壁際の暗がりへと光は忙しなく動く。草むらから壁際へ光が移ったところで、小さく舌打ちする音が聞こえた。
どうやら、何も心配していないわけではないらしい。レヴェローズの普段の様子を知っているからこそ、ヤヒメとは違う受け止め方をしているのだろう。考えてみれば、ヤヒメが知っているのは、よく通る声と、店内ではしゃいでいた姿くらいのものだった。
「この先、どっちへ行けます?」
「あ、海の方に。建物の向こうを回れば、道に出られます」
「じゃ、そっちも見てみるか」
シラベが明かりを足元へ戻して歩き出す。ヤヒメもその隣へ並んだ。
「レヴェローズさんとは、長いお付き合いなんですか」
「ん? まあ、それなりに。……なんで?」
「何をしそうか、よく分かってるようだったので」
「……あいつならやりかねない、ってだけ」
服を掛けた腕を少し持ち上げ、シラベは首を捻った。
「付き合いの長さってなると……二年、いや、下手すると十年くらいになんのか?」
「ず、ずいぶん幅が広いですね」
二年と十年ではだいぶ違う。知り合ったのが十年前で、今のように一緒にいるようになったのが二年前、ということだろうか。
確かめようとして、やめた。そこを細かく聞いてどうするのだ。今知りたいのは、彼女がどこへ行ったかであって、二人がいつ知り合ったかではない。
ただ、十年という数字には目を見張った。あの目の覚めるような美人とそれほど前から。というか、この人はいったい何歳だっただろうか。同年代だと思っているが。年上は無いだろうが、年下ということもあるのか。
「じゃ、じゃあ。行きそうな場所とかも、だいたい分かったりするんですか?」
「まさか。分かってたらこんな苦労してないから」
即座に返ってきた声は、いかにも苦々しかった。散々振り回されてきた人の口振りがあまりに自然で、ヤヒメは少しだけ笑ってしまう。
「もしかして、普段もこういうことってよくあるんですか?」
「いなくなんのが? まあ、なくはないか。気になるもんがあるとすぐそっち行くんで。一緒に歩いてるとまるきり犬だから」
「お店でも?」
「変わらないな。声はでかいし、店番させりゃお菓子食って漫画読んでるし。ちょっと目ぇ離すと何かしでかしてるし」
文句がすらすらと並んでいく。喫茶店に来て声を弾ませていた姿を思い出すと、その一部は想像出来た。見知らぬ店であの調子なのだから、気安い場所ならもっと遠慮がないのかもしれない。
今はいないレヴェローズを叱る時、この人はどんな顔をするのだろう。
あの人は、あの人たちは、自分の知らない彼を知っている。当たり前のことなのに、それが少し羨ましい。
「ミーシャちゃんも、一緒にいることが多いんですか?」
「あー、最近は特に。ミーシャは真面目なんで、止めてくれりゃいいけど。どうもこの頃は好奇心旺盛っていうか、一緒になって目ぇ輝かせてることの方が多くて」
そこまで言って、シラベは道の先へライトを向けた。
「ただ、黙って一人でどっか行く子じゃないし。いないってことはたぶん、あいつを追っかけてったんじゃないかな」
「連れ戻そうとして?」
「かもしれない。好奇心と一緒に責任感も強くなってきたっぽくて、自分で何とかしようとするところあるから」
光の届く先には誰もいない。シラベが小さく呟いた。
「迷惑掛けられてなんぼだとこっちは思っても、向こうはそう思わないんだろうなぁ」
シラベはまた足元へ明かりを戻す。その横顔を見て、不謹慎だと思いながらも、ヤヒメはもう少し話を聞きたくなっていた。
「もっとも、他の奴らは見習ってほしいけど。どいつもこいつも一声掛ければなんでもやると思って……」
シラベの口からは遠慮のない文句が出てくる。他愛ないぼやきのはずなのに、不思議と聞いていて嫌な感じはしなかった。
カルメリエルは何を考えているのか分からないところがある。大穴は目を離すとすぐ何か口に入れる。ミトラには手伝ってほしい時ほど面倒くさそうな顔をされる。何を好んで、何を面倒がって、どういう時に困らされるのか。ぼやきの端々に、それが当たり前のように混じっている。
気付けばシラベの話す日常の方に耳を傾けていた。そんなことよりどうやって探すんだとか、もっと建設的な話をしてもいいはずなのに、シラベはいつしか砕けた言葉のまま話し続けている。
ああ、とヤヒメは気付く。どうでもいい話でも、口から出していけば安らぐことがあるだなんて、自分がよく知っているではないか。
「あ、えっと。そこを進めば、海の方へ抜けられるんです」
我に返り、ヤヒメは行く手を指差した。せめて案内くらいはきちんとしなければと先に立つ。
建物の角を回り込むと、窓明かりが壁に遮られた。代わりに、波の音が近くなる。暗い道の先に目を凝らしても、海と空の境目はよく分からなかった。
「高津木さん、暗いんであんま先行くと危ないかも」
「大丈夫ですよ。仕事場の周りですから、慣れてます」
後ろから掛かる声にそう答えながらも、歩く速さを緩める。振り返れば、スマートフォンのライトが少し離れたところで揺れていた。
追い付いてきた光が足元の窪みを照らした。ヤヒメはそこを避けて歩き、何となく、そのまま明かりの届くところに留まった。
前にもこんなふうに声を掛けられたことがある。店から出るエレベーターの前まで見送りに出てくれた彼が、扉の閉まる間際、暗いんで気を付けて帰ってくださいね、と軽く頭を下げていた。
客の誰にでも言う言葉だったのだろう。それなのに当人を前にしているせいか、忘れたつもりでいた記憶が、ぽつぽつと呼び起こされてくる。
彼は、自分を覚えているのだろうか。
連れのことを話す気安さを見たせいかもしれない。今の自分は彼にとって、ただ今日会っただけの相手なのかどうか。そのことが改めて気になっていた。
ヤヒメは肩越しに振り返った。シラベは道の脇を照らしながら、後ろを付いてきている。
「押江さんって、人の顔とか、よく覚えてる方ですか?」
草の上を動いていた明かりが止まった。
シラベがこちらを見る。
「……どうして?」
短い言葉に、ヤヒメは返事に詰まった。聞きたいはずなのに、それでも不安な心が迂遠な言葉を選んでしまった。
だって、覚えていない、と言われたら。
何人もいた客の一人にすぎなかった自分を覚えていなくても仕方がないと頭では分かっている。それでも、あの頃のやり取りが自分の側にしか残っていないと、自分の言葉で確かめるのは怖い。
ヤヒメは前を向き、視線を落とした。
エプロンの端を指でつまむ。どうしてこんな質問をしてしまったのかと今更後悔しかける。
店の客と従業員としてならもう普通に話せていた。何も確かめなければそのままでいられる。
近くで砂利を踏む音がした。
シラベが追い付いてきたのだろう。返事を待っているのかと思うと、ますます焦った。
何でもないです、と笑ってしまえばいい。そう思って息を吸い、けれど出かかった言葉を飲み込んだ。
足を止め、顔を上げられないまま、彼のいる方へ向き直る。エプロンから離した指を、胸の前で組み合わせた。指先は冷たいのに、耳の辺りだけが熱かった。
「押江さんとは、昔、会ったことがあると思うんです」
ちょうど、風の隙間に声が響いた。
返事はない。生温い熱が、うなじの辺りからじわりじわりと身体を焼いていく。どこかで波が崩れ、砂を引きずりながら戻っていく音がした。
ホストクラブで、とまで言った方がいいだろうか。それとも、人違いだったらすみません、と付け足すべきか。言ってしまった途端、顔を見るのが怖くなった。
けれど、ここまで来て、反応も見ないわけにはいかなかった。
ヤヒメは顔を上げる。
シラベは、思っていたよりも離れたところで立ち止まっていた。
手にしたスマートフォンが、顎の辺りを薄く照らしている。
呆然とした顔をしていた。見開かれた目が、瞬きを忘れたように止まっている。
やはり、言わない方がよかったのだろうか。
それとも、ようやく思い出してくれたのだろうか。
一瞬のうちに考えが巡る。けれど、彼と目が合わない。
ヤヒメを見ているようで、見ていなかった。
その視線は、顔を通り越している。
もっと、上。
すぐそばで聞こえたはずの足音とは、距離が合わない。
「……」
シラベの唇が、言葉を探すように動いた。その手元で、明かりが跳ね上がる。
何か言われるより先に、ヤヒメはその視線を追って、背後を振り向いた。
見上げた暗がりの中に、ひしゃげた月が浮かんでいた。
月にしては、あまりにも低い。手を伸ばせば届いてしまいそうだった。
鈍い黄色の弧。その縁は、ところどころ歪に途切れている。
もう一つ、同じような弧があった。
鏡合わせになった二つの月。その間だけが、奥行きの分からない闇になっている。その闇が、ゆっくりと縦に押し広げられていく。
温く湿った風が、顔を撫でた。磯の匂いとは違う、むっとするような生臭さが混じっている。
並んだ牙が、スマートフォンの明かりを受けて輝いている。
それが何かを理解するより先に、ヤヒメの意識は途切れた。