「……ん、ぅ」
シラベの部屋のベッドの上で、カルメリエルが小さく呻いた。傍らでスマホを操作していたミトラが身を乗り出す。
瞼がかすかに震えている。普段から開いているのかどうか見分けにくい目なので、それだけでは起きたとも言い切れない。目を覚ましたと分かったのは片手がゆっくりと持ち上がったからだった。
その手が、自分の顔へ伸びていく。指先が鼻筋に触れた途端、眉がきゅっと寄った。
「っ……」
「あ、こら。触んないの。腫れてるんだから」
ミトラが言うと、宙で止まった手が渋々といった様子でシーツへ戻る。
その拍子にカルメリエルの身体が少し傾き、隣で丸まって眠っていた人の姿の大穴が、もぞりと動いた。
起きたわけではないらしい。目を閉じたまま鼻先で何かを探すように這い上がり、すぐそばにあった豊かな膨らみへ顔から潜り込んでいく。
「んにゅ……」
「……いや、にゅではなくて、あの……重いのですが……」
谷間に頭を半分埋めたまま、大穴は満足げに喉を鳴らしている。眠っていてもどこが一番柔らかいかは分かるらしい。
「ほら、どきなさいってば。まったく人型でも変わんないわね」
ミトラは腰を上げ、大穴の肩を掴んで谷間から少しずらしてやった。大穴は不満げに小さく唸ったものの、やはり目は開けない。その間にカルメリエルはゆっくりと上体を起こした。
「大丈夫? 気分悪いとか、ない?」
「ええ……少し、ぼうっとしておりますけれど。それ以外は、特には」
声も口調も、店で客をあしらっている時と変わらない。ミトラはひとまず安心して、椅子に腰を戻した。普段は世話を焼かれてばかりの相手だけに、寝込まれるとどうにも勝手が違う。
カルメリエルは頬に掛かった髪を払うと、首を巡らせて部屋を見回した。机、閉じたカーテン、壁際のボストンバッグ。
「……ここは、わたくしたちのお部屋ではありませんわね」
「シラベの部屋よ。あんたが伸びてる間に、こっちまで運んでくれたの」
「……そうでしたの」
「で。何があったの?」
顔の怪我の方は大体の見当が付いている。大穴の頭にもこぶが出来ていたのと合わせて見れば何と何がぶつかったのかは想像に難くない。
分からないのは、その前に響いた悲鳴の方だった。あの声の主がカルメリエルだということには、聞いてすぐに気付いた。だが、この女が何に悲鳴を上げたのかとなると、ミトラにはまるで思い当たらない。店に来る客にどれだけ妙な絡み方をされても微笑み一つで受け流してしまうような女であるし、むしろ悲鳴を上げさせて愉悦する類の人間だろう。
「何が、と言われましても……」
カルメリエルは少し考えるように、頬へ指を添えた。
「荷物を片付け終えたところで大穴さんが構って欲しそうでしたので、膝に乗せて、髪を梳かしておりましたの」
「髪を?」
「ええ。いつも猫の姿の時にして差し上げているように、ブラシで」
家でもカルメリエルが膝の上の黒猫にブラシを掛けているところはよく見る。猫だろうと人だろうと、大穴の甘え方は変わらないらしい。床に転がっていたヘアブラシはそういうことだったのだろう。
「それで、ふと窓の方を見ましたら。窓の向こうから、何かがこちらを見ておりましたの」
「何かって?」
「暗くて、姿ははっきりとは分かりませんでした。ただ……目が。闇の中に、大きな獣のような瞳が浮かんでおりまして」
その様子を思い出したのか、ごくんと喉を鳴らしてみせたカルメリエル。
「それで、その……つい、声が出てしまいまして」
そこまで話す頃には、カルメリエルの声はすっかり小さくなっていた。ミトラから顔を逸らし、乱れた髪を指で整え始める。整えるほど乱れているようにも見えないのだが、手つきはやけに熱心だった。
その様子に、ミトラの口元が勝手に緩む。
「あんた、そういうので悲鳴上げるんだ」
暗い窓の外に目があって、驚いた。言ってしまえばその程度のことで建物中に響き渡るような悲鳴を上げたのか。いや、これがレヴェローズやシラベ、ミーシャなら分かる。だがカルメリエルの澄ました顔からは想像もつかない素直さが、ミトラには妙に可笑しかった。
カルメリエルの唇が、むっと尖った。
「仕方がないではありませんか。突然でしたのよ。何もいないと思っていたところから、じっと見つめられていたのですから。驚きもしますわ。誰だって同じです。ミトラ様だってきっと……」
「はいはい」
言い返す声まで拗ねている。ミトラはまた笑いそうになった。
「……笑わないでくださいまし」
「ごめんごめん」
謝りはしたものの、一度緩んだ頬はなかなか言うことを聞かない。ミトラは口元を手のひらで覆い、どうにか顔を元へ戻した。
「声を上げてしまってからのことはどうにも曖昧で。気が付いたらこちらで寝かされていたという感じですわ。どうしてこんなに顔が痛むのかしら……」
言いながら、その手がまた鼻の辺りへ伸びかける。ミトラはその手首を押さえて、膝の上へ戻させた。
「そっちは、たぶん大穴の頭が入ったんでしょ。あんたの声にびっくりして跳ねたんじゃないの」
「ああ、そういう……」
呆れか諦めか、そういう類の感情を滲ませるカルメリエルから、ミトラは大穴に目を向ける。大穴はカルメリエルが横になっていた辺りへ頬を寄せ、シーツに残った温もりを貪るように眠り込んでいる。
今の大穴は『猫変化』のカードを吐き出して元の姿に戻っている。カードの性能で言えば攻撃力7、防御力7。猫の姿でいる間は抑え込まれていたそれを、そっくりそのまま振るえる状態にある。
本人にそのつもりがなくても、驚いて勢いよく身体を跳ね上げれば、人一人を昏倒させるくらいの衝撃になってもおかしくない。
思い返せば、大穴のこぶを確かめた後はシラベも落ち着いていた。あの男も同じような見当を付けていたのかもしれない。何者かが二人を順に殴って回ったと考えるより、よほどありそうな話だ。膝に乗せてブラシを掛けていたというカルメリエルの話も、その見立てによく合っている。
カルメリエルが隣の大穴を見下ろした。視線を感じたわけでもないだろうが、大穴は眠ったまま頭をもぞもぞと動かし、こぶになったところを自分からシーツへこすりつけた。途端に、ぴくんと身体が揺れる。それでも目は開けず、もう一度丸まり直すと、何事もなかったかのように寝息を立て始めた。
顔を腫らした当人をよそに、加害者の方はすっかり夢の中である。カルメリエルは何か言いたげに口元を小さく動かしたが、結局何を言うこともなかった。代わりに、深々と溜め息をつく。
ミトラは手を伸ばし、こぶのある辺りを避けて大穴の髪を撫でた。驚いて身体が動いただけなのだろう。叱ったところで仕方がない。黒い髪は指の間をするすると抜けていった。
撫でられているうちに、大穴は寝ぼけたように身じろぎして、カルメリエルの腰の辺りへ擦り寄っていく。カルメリエルは不満そうな顔のまま、寄り掛かってくる身体を押し返しはしなかった。
「……そういえば。シラベ様はどちらに?」
「店員の子と一緒に外に行ったわ」
答えながら、ミトラは先ほどの廊下を思い返した。
ここの店の店員、高津木。雇い主にあがるよう勧められても食い下がり、最後にはシラベの袖を掴んで連れ出してしまった。
客のことを気に掛けてくれるのはありがたいのだが、どうにも気ばかり急いて空回りしているように見える。
サブロウにいいところを見せたいのだろうか。まさか、あの歳の男が好みなのか。そういう趣味の人間もいるとは聞くが、実際に目にしたことはない。白髪頭の店主と若い女性店員。並べて思い浮かべてみても、ミトラにはいまいちピンと来なかった。
何にせよ、忙しなく動き回って変なことにならなければいいが。シラベが一緒にいるのだから、無茶をしそうになればあの男が止めるだろう。
そうミトラが考えていると、不意にカルメリエルが身を乗り出した。腰に寄り掛かっていた大穴がずり落ちかけ、慌てて片手で押さえる。
「それでは、シラベ様がわたくしの見た獣に会ってしまうかもしれませんわ」
「あー……まぁ、そうなんだけどね」
ミトラは顎に手を当てて、それだけ言うにとどめた。
カルメリエルの話を聞いて、驚きはした。窓の外から大きな獣が覗いていたなど、海辺の町だろうとそうそう出くわす話ではない。
だが一方で、ミトラは納得もしていた。
悲鳴の騒ぎの後、彼は声を掛けられても気付かないほど考え込んでいた。珍しく人の話を遮ってまで店員を家へ帰そうとした。
あの人は、外に何かいると分かっていたのではないか。テラス席で聞かされた話を思えば当然なのだろう。
顔を上げると、カルメリエルが怪訝そうにミトラを見ている。ミトラは言葉では応じず微笑んで見せてから、スマホに表示していた書き掛けていた文章に向き合った。