振り仰いだ高津木の膝から力が抜けたのをシラベは見た。悲鳴の一つも上げず、細い身体がそのまま傾いでいく。
「高津木さん!」
気付いた時には砂利を蹴っていた。何かがいる真下へ飛び込む格好になるが、考えている暇はない。
崩れ落ちる寸前で後ろから腕を回し、どうにか抱き留める。気まずい相手だなんだと構っている場合ではないが、脱力しきった身体は女性と言えども重く、ふらついてしまう。
喫茶店からの明かりはここまで届かない。頼りのスマートフォンも、高津木の腹に回した手に握ったままで、ライトはあらぬ方を照らしていた。
それでも、暗がりの中で顔を上げれば見えた。
自分や高津木の頭よりもずっと高いところに、目が二つ浮かんでいる。
微かな明かりを照り返すように、闇の中でそこだけが光って見える。その下には白い牙の列。開いた口の奥から、重たい息遣いが聞こえてくる。
輪郭が分からない。目と牙ばかりが妙にはっきりしていて、その周りは夜に溶けてしまっている。どれほどの大きさなのか、どんな形をしているのか、そもそも何なのか。考えようとしても、頭がまるで追い付かない。
シラベは高津木を抱えたまま、じりと踵を引いた。
逃げるにしても、人一人を抱えていては走れたものではない。置いていくなど論外だ。叫べば店まで届くだろうか。届いたところで誰がどうにか出来るというのか。
腕の中の重みを抱え直し、目の前の暗がりを睨み返す。せめて、何かが動いた瞬間には反応出来るように。
「……?」
ところが、相手は動かなかった。
目のようなものは確かにこちらを見ている。少なくとも、シラベにはそう思えた。なのに牙を剥いて迫ってくるでもなく、唸り声を上げるでもなく、ただその場に留まっている。
風が吹き、波が寄せては返す音が響く中、二つの目は同じ高さから動かない。
睨み合いにしては、敵意らしいものがまるで感じられなかった。かといって、こちらへの興味を失ったようにも見えない。何がしたいのか、さっぱり分からない。
身構えたまま、シラベが怪訝に思い始めた時だった。
「……ゆっくりだぞ。ゆっくり下がるのだ」
双眸の向こうから、声がした。
押し殺した、低い囁きだった。こちらに聞かせまいとしているのは明らかで、海風があと少し強ければ聞き逃していただろう。
その声に応えるように、二つの目がわずかに遠のく。ざり、と重たいものが砂利を擦る音がした。
「そうだ、その調子だ。気付かれる前に──」
声には聞き覚えがあった。毎日嫌というほど耳にしている。こんな時でも偉そうな物言いを崩さない人間など、シラベは一人しか知らない。
緊張が別の何かに置き換わっていく。眉間に皺が寄るのが自分でも分かった。
シラベは膝を折り、高津木の身体をそっと地面へ下ろした。後頭部を手のひらでぎりぎりまで支えながら寝かせ、立ち上がる。そうして動いていても、目の前の正体不明が咎める様子はない。
「む、い、いかん、少し早めに動くのだ」
焦っているのは声ばかりで、それが眉間の皺を深くする。巨体から目を離さないまま、横へ回り込むように足を運んだ。
光る目の焦点がシラベの動きを追う。角度が変わるにつれ、闇の中に形が浮かび上がってきた。低く構えたライトが、地面から這い上がるように毛並みを照らしていく。
太い前脚。張った胸。夜より黒い、艶のある体毛。尖った耳と長い鼻面は、どう見ても獣のものだ。
狼。それも、人を背に乗せて走れるほどの体格を持った、尋常ならざる存在。
見覚えがあるどころの話ではない。数か月前には、その背に乗せてもらったこともある黒狼だ。
レヴェローズの相棒、ヴェルカ。どうしてこいつがここにいるのか。
ライトを、もう少しだけ持ち上げる。
「……おい」
半ば分かっていたものの、出て来た声にはどうしても怒気が孕む。
ヴェルカの背中に、人影が跨っていた。
明かりを受け、長い金髪が光る。肩も腕も夜気に晒した水着姿で、レヴェローズがそこにいた。
「むぐぐ……」
目が合うなりすいと顔を逸らしたかと思えば、その紫電の瞳ごと黒い毛皮へ埋もれてしまう。
シラベは何も言わなかった。顔を隠したままのポンコツを、ただじっと見据えていた。
*
砂浜近くの岩場の陰にシラベは上着を広げ、そこへレヴェローズの服を重ねてから高津木を寝かせた。
スマートフォンの明かりで見る限り、高津木の顔色はそう悪くない。倒れる前に受け止めたのだから、どこかを打ったということもないはずだ。呼吸も落ち着いている。
まだ目を覚ます気配はなかったが、今この場で目を覚まされても困るのでシラベにとっても都合が良かった。
シラベはその傍らに腰を下ろしていた。すぐ脇にはヴェルカが伏せ、背から降りたレヴェローズが水着のまま立っている。
「……店には戻らんのか?」
遠慮がちに聞いてくるレヴェローズに、シラベは顎でヴェルカを示した。
「そいつ連れて店に戻れるわけねえだろ」
「……それもそうか」
高津木一人でもこの有り様だ。これ以上、人目に触れさせるような場所には移動出来ない。とりあえず事情聴取を終えるまで、シラベはレヴェローズとヴェルカをこの岩陰から動かすつもりはなかった。
肩を落とすレヴェローズ。そこへ、海の方から風が吹き付けてくる。
「っくしゅん!」
盛大なくしゃみが一つ。レヴェローズは剥き出しの二の腕を抱えて身を縮めた。
当たり前だ。日の暮れた海辺に水着一枚で立っていれば寒くならない方がおかしい。薄明かりの中で改めて見れば体がうっすらと濡れている。そこへ海風が吹き付けば一層だろう。
纏う水着も寒さを凌ぐ役にはまるで立ちそうにない。布を留めている首元や腰へ走るものは紐ではなく、細い銀色の鎖だ。鎖によって留まるトップもボトムも隠すべきところをかろうじて隠しているだけの小さな三角形で、中身に対して布の方が足らずに張り詰め食い込んでいる。わずかな布地が明かりを拾うたびに、不思議と紫水晶のように煌めいていた。
相変わらず黙っていればモデルでも通る体つきだ。普段の雑な服装でも隠せず言動と行動でぎりぎり中和出来ていたが、銀の鎖を肌に沿わせた今の姿はどう取り繕っても美しさが勝つから始末が悪い。
カルメリエルに頼んで作ってもらっていた水着はこんなデザインではなかった。いったいどこでこんなものを仕入れて来たのか、聞きたいことが増えるばかりだ。
すると、伏せていたヴェルカがのそりと巨体を傾け、そのままごろんと横倒しになり始める。レヴェローズの方へ腹を向け四肢を投げ出して、ちょうど身体を預けられるような格好で落ち着いた。
「おお。すまんな、ヴェルカ」
レヴェローズは礼を言うなり、遠慮なくその腹へ寄り掛かった。毛並みへ背中を沈め、ふう、と長い息を吐く。
「うむうむ、あったかいぞ。さすが私の相棒だ」
縮こまっていた肩から目に見えて力が抜けていく。それを眺めるシラベの首筋を、夜風が撫でていった。
上着を高津木の下に敷いてしまったせいで、今はシャツ一枚だ。さっきまでは気を張っていて気にならなかったが、一度腰を落ち着けてしまうと、潮気を含んだ風がやたらと身に染みる。毛皮に半ば埋もれたレヴェローズは見るからに暖かそうだった。
そんな視線に気付いたのか、レヴェローズが自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「契約者もこっちへ来い」
「……いや、俺は別に」
シラベはすぐには腰を上げず、ちらりとヴェルカの顔を見た。横倒しになったまま、半分閉じた目がこちらを向いている気がする。
「大丈夫だ。ほら」
「おい、引っ張んなって」
渋るシラベに、レヴェローズが手を伸ばしてきた。腕を掴まれたかと思えば、そのままぐいと引っ張られる。抵抗する間もなく、シラベはレヴェローズの隣へ引き寄せられていた。
ヴェルカの顔色を窺う。黒い鼻先がわずかにこちらを向き、ひくりと動いたが、それきりだった。
シラベは高津木の寝顔が見えるように座り直し、そろそろと背中を預けた。警戒していたわりに、ヴェルカは嫌がる素振りも見せずに横たわっている。
背中を受け止めた毛皮は、見た目以上に厚かった。硬い上毛の下に、柔らかな毛がみっしりと詰まっている。その奥から、ゆっくりと上下する腹の動きと一緒に、体温がじんわりと伝わってきた。冷えていた背中に、それがやけに心地よい。シラベはようやく肩の力を抜いた。
「ほらな。大丈夫だったであろう?」
「そう、だな」
レヴェローズが得意げに鼻を鳴らし、身を寄せてくる。剥き出しの肩が腕に触れた。冷え切っているかと思えば、毛皮に触れていた分だけ、もう幾らか温まっている。二の腕に押し当てられた柔らかさについてはこの際考えないでおく。
すぐそばでは、高津木が静かな寝息を立てている。シラベはその顔に時折目を配りながら、レヴェローズと並んでヴェルカの腹に埋もれていた。
「……色々、聞きたいことがありすぎるんだけどな」
前置きして、レヴェローズの頭にぽんと手を置く。
「む?」
撫でてもらえるとでも思ったのか、レヴェローズは自分から頭を手のひらへ押し付けてきた。
シラベはその手に、ゆっくりと力を籠めた。
「急にいなくなって」
指が、金髪の上からがっちりと頭を捉える。
「そこらに服脱ぎ散らかして」
「い、いだっ」
「変な心配掛けさせんな」
「いだだだだっ! け、契約者、痛い! 割れる!」
レヴェローズはシラベの手首を両手で掴み、毛皮の上で脚をばたつかせた。
「ふ、服は好きに散らかしたのではないぞ! あれは不可抗力というやつで──」
必死の弁明に、シラベは一旦手を離してやった。レヴェローズは頭を抱えて毛皮に沈み込み、恨めしげにこちらを見上げてくる。
「……で。何があったんだよ」
「う、うむ……話せば長くなるのだが……」
レヴェローズはひとしきり頭をさすってから、腕を組んで難しい顔をした。
「むむむ……」
何から話したものか考えているらしい。唸り声はしばらく続き、そのうち唐突に途切れた。
「……ミーシャに説明してもらった方が早いぞ」
「諦めるなよ。そのミーシャもいねえんだ、お前と一緒にいるんじゃないのか」
「む? いや、私はヴェルカを宥めるのに必死だったのでな……」
レヴェローズはきょとんと首を傾げた。その言葉の意味するところに気付いて、シラベの首の後ろがぞわりと粟立った。夜の海。子供が一人。水難という言葉が否が応でも脳裏に浮かぶ。
「お前はともかく、ミーシャが行方不明はまずいだろ!」
「コラ! ともかくとはなんだともかくとは!」
シラベは身体を跳ね起こす。毛皮の温もりが離れたその背中に、シャツ越しの夜風が冷たく刺さった。