シラベは波の音がする方へスマートフォンを向けた。明かりが届くのは手前の砂浜までで、波打ち際すら見えない。海の様子を確かめるには、手の中の明かりはあまりにも頼りなかった。
駆け出しかけた足を、すんでのところで止める。このまま闇雲に走ったところで、何が見つけられるというのか。
「お前、最後にミーシャを見たのはどこだ」
「む……客室だ。ヴェルカが飛び出すまでは、ミーシャはそこにいたぞ」
振り返ると、レヴェローズはまだヴェルカの毛皮に埋もれていた。
「その時は確実に、ミーシャはまだ部屋にいたんだな?」
「うむ。窓のところにおった。そこから先は私も見ておらん」
シラベはミトラにメッセージを打った。レヴェローズは見つかったが、ミーシャは一緒にいない。店に戻っていないか見てほしい。高津木のことをどう書けばいいか少し迷ったが、それはひとまず後にして送った。
改めて、レヴェローズの背もたれになっている黒狼へ目をやる。
客室からヴェルカが飛び出したというが、こいつがいたのは葬送外野のはず。以前あの壺を覗き込んだ時には、向こうで二匹の狼が駆けていく姿が見えた。
新幹線でミーシャがリュックを開けた時、菓子の袋の下に覗いていた鈍い金属の色。中に何を入れてきたのか聞こうとしただけで、あの子はえらい勢いで逃げていった。
「ほぼ確定だが一応、確認しておくぞ。ミーシャのやつ、ソロモン王の壺を持って来てたんだな」
レヴェローズはふいと目を逸らした。しばらくそのまま波の音を聞いていたが、シラベが待っているとやがて小さく頷いた。
「やっぱりか。……で、その壺からどうしてヴェルカが出てくるんだ。最初から話せ、ミーシャに任せるのは無しな」
「む、むぅ……。私とミーシャとで、水着を買いに行ったことがあったであろう?」
「ああ。合うのが無かったって聞いたぞ」
レヴェローズだけならまだしも、ミーシャまでしょぼくれていたというのでよく覚えている。
「いっそのこと、いつもの戦装束で泳いでやろうかとまで考えておったのだが……」
あの日、閉め切った三人部屋の戸の隙間から、レヴェローズがカードの絵そのままの赤い軍服姿で顔を覗かせていた。あれはそういうつもりで着ていたのだろうか。コートを羽織ったまま波に揉まれる総督閣下を思い浮かべかけて、やめた。
「その時、思い出したのだ。我々がミーシャと出会った葬送外野の地、あそこには大柄な者が多かったであろう? ミーシャの妹たちにも、私やミーシャのように胸の大きな者が何人もおった。あの者たちは普段どういうものを身に着けておるのか、相談してみてはどうかとな」
「……なんかこの時点でもう色々言ってやりたいが、まあいい。で、どうやって相談しに行ったんだよ。壺の中に」
「私も外から入れるものかは分からんかったのだが、ミーシャに試してもらったらするりと入れてな。ちゃんと妹たちにも会えたのだぞ」
覗き込めば様子が見えるのは知っていたが、自分の身体ごと中へ入る方法を試したことはなかった。よりによって水着の相談がしたくて、よくもまあそこまでやったものだ。
「それから旅行の日まで、二人で何度も通ったのだ。ここはこうしてほしい、あそこはもう少しこうならんかと相談を重ねて、ようやく作ってもらったのがこれだぞ」
レヴェローズが得意げに豊満な胸を張ると、細い鎖が小さく鳴った。ついそちらを見てしまう。悔しいが、よく似合っていた。
「いや、水着ならカルメリエルが作ってくれただろ」
「姉様が作ってくださったのは、首から下をすっぽり包む、あのきついやつではないか!」
レヴェローズが勢いよく身を乗り出して抗議の色を見せる。確かにカルメリエルが二人に作ったのは全身タイツ型のいわゆるウェットスーツだ。手首から足首までしっかり覆う、ダイバーが着るようなやつである。
見せてもらった時には二人とも礼を言っていたはずだ。ミーシャの方は分からないが、レヴェローズの方は納得していなかったらしい。今夜の寒さを思えば、シラベとしてはむしろあれを着ていてほしかったが。
「いいだろあれ。買うと多分高いぞ」
「あれはひどく胸がきついのだ! しかも姉様は自分の分だけ可愛らしいものを作って、ローテーションの時に契約者の部屋で着て見せていたであろう! 奸計に嵌まっているようで気に入らん!」
「ん゛ん゛っ」
シラベは咳払いをして海の方へ目をやった。確かに二人きりの晩に見せてもらいはした。シラベもちゃんと褒めてやった。だがそれは今は関係のない話である。
「で、ヴェルカは?」
「む。話を逸らしたな」
「いいから」
レヴェローズは不服そうに頬を膨らませたものの、それ以上は追及してこなかった。
「我らの水着をせっかく作ってもらったのだ。昼はただ遊ぶだけで終わったが、夜のうちに少しくらい泳ぎたかった。それで客室から壺に入って、中で水着に着替えてな。ところが、ヴェルカがくっついて離れんのだ。久しぶりに会えたのだから、もっと構えというのであろう」
当のヴェルカは、何食わぬ顔で片耳だけをこちらへ向けた。
「さあ戻ろうという時になっても付いてきて、先にこやつの頭が壺から出てしまった。ミーシャも驚いていたが、咄嗟に、部屋の中では狭いからと壺の口を窓の外へ向けてくれたのだ」
「で、お前はそいつの背中に乗って出てきた、と」
「うむ」
うむじゃねえよ止めろよ、とデコピンしてやりたかったシラベだが、どうにか堪える。
「ヴェルカも初めての場所だったからな。しばらく辺りをきょろきょろ見回していた。そうしたら、建物の中から悲鳴が聞こえてな」
高津木とカードをしていた時に響いた、あの悲鳴か。暗くなってから部屋の窓を覗き込んでくるのがこれでは、カルメリエルがあれほどの声を上げたのも分かる。
「その声に驚いたヴェルカが私を乗せたまま走り出してしまったのだ。私は宥めるのに手いっぱいで、服もその時に落としてしまった。さっき言った不可抗力とはそういうことだ」
報告も連絡も相談も、こいつの方からしてくれた試しがない。まあ、今日は聞けば答えた。毛一本分は成長したと思っておくか。
それだけヴェルカに振り回されていたのなら、ミーシャが後を追ってきたかまで見ていないのも無理はない。シラベは手元の画面を確かめた。ミトラからの返事はまだ来ていない。
レヴェローズが最後に見た時、ミーシャはまだ客室の窓のところにいた。ヴェルカを追い掛けたのなら、店からこの浜までのどこかを通ったことになるはずだ。まずは自分たちが来た道を戻ってみるか。
もちろん、本当に海で何かあったのなら一刻を争う。だが、そうだとすればスマートフォンの明かり一つでは心許ない。もっと強い照明も、人手も、それなりの準備も要る。どのみち一度は店へ戻らなければならないのだ。
「あとは……こっちをどうするか」
問題は高津木だった。今も岩陰の寝床で、すうすうと寝息を立てている。揺すれば起きるかもしれないが、起きたところで、目の前には巨大な狼と水着の女だ。あと、起こしても説明が面倒くさい。
店までおぶっていくか。いや、それでは道々ミーシャを捜して回れない。
「ヴェルカはここに残して、高津木さんの傍で伏せてろって言っとけ。妙な真似はさせんなよ」
「うむ。よいか、ヴェルカ。この者が目を覚ましても、食べたり噛んだりじゃれたりするのではないぞ。分かったな」
レヴェローズが鼻面に顔を寄せて言い含めると、ヴェルカは鼻を一つ鳴らして重たげに身体を起こした。そのまま高津木の寝床のすぐそばまで移り、前脚を揃えて伏せ直す。了解したのかどうかはともかく、主の言い付けには従うらしい。
目を覚ました高津木がこれを見たら、もう一度気を失うかもしれない。それでも一人きりで放っておくよりはましだと思うことにする。
「行くぞ。ミーシャ呼びながら店の方へ戻る」
「うむ!」
勢いよく立ったレヴェローズが、途端に肩をすくめた。毛皮を離れれば、水着一枚の身体に海風がじかに当たる。
「……お前、寒いなら」
「ええい、動いていれば温まる! 大丈夫だ!」
言うが早いか、大股で歩き出してしまう。レヴェローズの服は高津木の下で、シラベの上着もそこにある。さっさと店に戻って着替えだけでも取ってこさせるべきだろうか。
岩場を抜け、砂浜を横切って店へ続く道に上がる。
「ミーシャ!」
「ミーシャ! どこだ、返事しろ!」
二人で声を張り、足を止めて耳を澄ます。返ってくるのは背後の波の音ばかりだ。
道端の草むらにちょっとした岩陰、側溝の隙間まで、外から見えるところには片端から明かりを向けていく。少し歩いてはまた呼んでみるが、小さな人影一つ見当たらない。
しばらく進むと、道の脇に細い脇道があった。先に立ったレヴェローズが身を屈めて奥を窺う。
その鼻先へ、何かが飛び出してきた。
「うおっ!?」
「どうした!?」
レヴェローズの声に、シラベは咄嗟にライトを下げる。狼が出てきたのだ、今度はまさか森ゴキブリでも出てきたのか。期待と警戒が入り混じる。
「……犬?」
間の抜けた声が二人で重なる。
シラベが照らすレヴェローズの足元では、柴犬が唸っていた。赤茶の毛並みに、くるりと巻いた尻尾。どこにでもいそうな柴犬だが、その身体には黒い犬用の服が着せられている。
「ウゥゥ──ワンッ! ワンッ、ワンワンッ!」
柴犬は四肢を突っ張り、レヴェローズに向かってけたたましく吠え立て始めた。シラベは道の先と後ろへ明かりを巡らせた。服まで着せているのだから飼い主がいるのだろうが、それらしい人影はどちらにもない。
「おお、どうした。迷子か?」
レヴェローズはしゃがみ込むと、柴犬を両脇から抱き上げた。さっきまで踏ん張っていた足が宙に浮くと、ふかふかの毛並みも相まってまるでぬいぐるみだ。
「ワフッ! ワウッ、ワウワウッ!」
それでも柴犬はレヴェローズの腕に前脚を突っ張って吠えている。当のレヴェローズはよしよしと背中を撫でてやって、大層ご機嫌だった。
「おい、今は犬と遊んでる場合じゃ……」
言いかけたところで、明かりの端にもう一匹、小さな犬が見えた。
柴犬が出てきた脇道の少し奥だ。大きな耳に、こぼれ落ちそうな目。まじまじと見るのは初めてだが、テレビコマーシャルで覚えがある犬種、チワワだった。柴犬より二回りほど小さいが、着ている黒い服はレヴェローズの腕の中にいる柴犬とお揃いだ。
「なんだぁ?」
目が合ったと思う間もなく、チワワはさっと奥へ引っ込んでしまった。レヴェローズにも見えていたらしく、抱いた柴犬とチワワの消えた先とを見比べている。
「契約者。こやつら、ミーシャのところへ案内しようとしているのではないか?」
「……は?」
「片方がわざわざ私たちの前まで出てきて声を上げ、こちらが気付いたらもう片方が先へ行ったのだぞ。付いて来いということではないか」
レヴェローズは大真面目な顔で何かをほざいている。
「そいつ、どう見ても嫌がってるだろ」
「照れておるのだ」
柴犬は相変わらず前脚を突っ張って、どうにか身体を捩ってレヴェローズの腕から逃れようとしているようにしか見えない。チワワの方も、急にライトを向けられて逃げただけではないか。
「だいたい、なんで犬がミーシャの居場所なんか知ってんだよ」
「む。それは……あれだ。あの壺からミーシャの妹たちがぽこじゃかとだな」
そこから先は言葉が続かない。どうやら今考えたらしい。
とはいえ、あの壺からヴェルカが出てきたのだ。ミーシャが他にも何か連れてきた可能性はある。なにせ、もふもふした生き物には目がない娘だ。だからって、わざわざ犬を迎えに寄越すかというと、だいぶ怪しいが。
ここまで呼び歩いて返事はなく、他に当てもない。脇道の先を覗いてみるくらいはいいか。
「……じゃ、ちょっと見てみるか」
「うむ。そう来なくてはな」
満足げに頷いたレヴェローズが、まだ唸っている柴犬を胸に埋めるように抱いたままシラベの隣に並ぶ。二人は店へ戻る道を外れ、チワワの消えた方へ入っていった。