「ァルルルゥ……」
チワワが引っ込んだ細い脇道へ踏み込んでも、レヴェローズの腕に収まった柴犬の抵抗は止まなかった。黒い犬用の服に包まれた胴体をくねらせ、後ろ脚でしきりに宙を蹴り飛ばしている。そればかりか、短い前脚をレヴェローズの顎の下へ真っ直ぐ突っ張り、どうにかして顔を引き離そうと必死に踏ん張っていた。
肉球が顎から頬へと滑るたび、レヴェローズの顔がむにっと歪む。それでも当人は意に介さず、豊かな胸元へ赤茶の毛並みを抱え直しては、逃げる頭へ頬を擦り寄せていた。
その格好がシラベには、散歩から帰るのを嫌がった挙げ句、飼い主に抱きかかえられて家まで運ばれる犬にしか見えない。
「おろしてやったらどうだ? なんかすげー嫌がってるぞ」
「む。だがな、契約者。こやつ、実にぬくいのだ」
顎を押さえる前脚をものともせず、レヴェローズが柴犬の首筋へ顔を埋める。ビキニ姿で夜の海風に晒され続けているのだから、犬一匹分のぬくもりが手放しがたいのは分からなくもなかった。
とはいえ、鼻先がひしゃげるほど顔を押し退けられながら頬ずりを続けるのもどうなのか。柴犬の喉からは唸り声なのか情けない悲鳴なのか判断のつかないくぐもった音が漏れている。
「ウルル……ワフッ! ゥアン!」
「よーしよし。む、脇の下などいい具合ではないか。もっと触らせるがいい」
馬鹿なことをやっているなと呆れつつ、シラベは隣で繰り広げられる一人と一匹の攻防から目を離し、スマートフォンのライトを脇道の奥へと向けた。
舗装の途切れた小道は、海風を避けるように生い茂った雑草と低い灌木の間に続いている。白い光の輪が、むき出しの土と枯れ草の影を順番に舐めていった。
数歩進んだ先、道がわずかに折れ曲がる角の陰から、ひょっこりと大きな耳が片方だけ覗いていた。
足を止めて目を凝らせば、そこには先ほどのチワワがいる。柴犬とお揃いの黒い服を着た小さな身体を草の間に潜ませ、レヴェローズの腕の中をじっと見ていた。
「ワンッ、ワンワンッ!」
胸元に埋もれていた柴犬が首を伸ばし、曲がり角の方へ鼻先を向けた。
スマートフォンの明かりがチワワの顔を捉え、シラベと目が合った途端、弾かれたように小さな身を翻した。そのまま乾いた土を蹴り、曲がり角の向こうへと駆け去っていく。
一度ならず二度までも、こちらが追い付くのを待っていたかのように姿を見せては先へ走る。ああして距離を測りながら奥へ奥へと動いているのなら、確かにレヴェローズが言い張った通り、付いて来いと誘っているようにも見えた。
本当にミーシャの居場所へ案内しているのかどうかは怪しいが、他に手掛かりがないのも事実だ。シラベは小さく息を吐き、チワワが消えた曲がり角へ向かって足を踏み出した。
角を曲がると、道はさらに細くなり、両側から迫り出した草木が夜空を狭めていた。
ライトの光を左右に振って探してみるが、すでにチワワの姿はどこにも見当たらない。どこかの茂みに潜り込んだか、あるいはもう一つ先の角まで走ったか。もう少し奥まで照らしてみようと腕を伸ばしかけた、その時だった。
前へ踏み出したシラベの片脚が、ぐいと強い力で後ろへ引かれた。
「おわっ」
不意を突かれて体勢が崩れ、危うく前のめりに転びそうになる。踏みとどまりながら慌てて足元へスマートフォンを向けると、スニーカーの上から足首にかけて、道の脇の草むらから伸びた蔓が幾重にも巻きついていた。まるで這い上がったみたいに靴の履き口にまできっちり食い込んでいる。
「む? なんだこれは」
隣を見れば、レヴェローズまで同じように片足を取られていた。剥き出しの足首に枯れかけた蔓がびっしりと絡みついている。
不思議そうに眉を寄せたレヴェローズが、無造作に片足を持ち上げた。
ただそれだけの動作で、ぶつぶつと小気味よい音を立てて蔓が呆気なくちぎれ飛ぶ。歩くついでに蜘蛛の巣でも払ったかのような軽さだった。
シラベも少し屈んで足首と蔓の隙間に指を差し入れ、まとめて引き剥がした。海からの強い風に年中晒されてきたこの辺りの草は、秋も深まって半ば茶色く枯れかけている。蔓も脆く、指に少し力を入れるだけでぷつりと切れた。
靴に張りついた葉くずを払い落としながら身を起こす。
「また足取られねえように、気を付けて行くぞ」
「うむ、心得た」
相変わらず腕の中で前脚を突っ張っている柴犬を抱えたまま、レヴェローズが頷く。
一本引っ掛けたくらいならともかく、何周も巻きつかれたのだ。いくら暗がりとはいえ、足首に絡む感触ぐらいあってもよさそうなものだが。まあ、さっきから足元をろくに照らしてもいなかったし、蔓に足を取られるくらい田舎道ではままあることだ。
シラベはスマートフォンの角度を下げ、今度は一歩ごとの足元にも明かりを配りながら慎重に歩を進めた。
枯れ草を踏む乾いた音と、遠くから届く波の音が夜の闇に混じる。蔓を避けるように地面をなぞっていたライトを、シラベは時折ふっと持ち上げて前方を確認した。
草むらの道が尽きる先に、山の斜面をくり抜いたような薄暗いトンネルが口を開けていた。古いコンクリートの枠が、白い光の中にぼんやりと浮かび上がる。
「ミーシャ! いるなら返事してくれ!」
返答の代わりに、奥の暗がりから、かり、と硬いものが地面を引っ掻くような耳障りな音が響いてきた。
シラベの足がぴたりと止まる。風の音でも、小動物の足音でもない。
向けた明かりの端に、鈍く光る鉤爪が掛かった。
次の瞬間、暗闇の奥から異形の影が躍り出る。ライトの光を照り返したのは、太い胴を無理やり締め上げる拘束具めいた無骨な装甲。その隙間から膨れ上がった筋肉を覗かせ、低く身を沈めた化け物が、唸り声すら上げずにこちらへ飛びかかってきた。
シラベが喉の奥で声を上げるより、隣の影が動く方が早かった。
「シッ!」
短く鋭い気合と共に、レヴェローズが暴れる柴犬をひょいと片腕に抱え直す。そのまま半身を捻り、空いた方の腕を横薙ぎに振るった。
首元と腰を走る銀の鎖が、その勢いに跳ねる。飛びかかってきた化け物の側頭部に、レヴェローズの腕がまともに入った。
鈍い衝撃音が響いたかと思えば、自分たちより遥かに嵩のある装甲の巨体が、まるで紙風船でもはたいたかのように横ざまへ吹っ飛んでいく。化け物はトンネル脇の岩壁に背中からぶつかり、そのままずるずると崩れ落ちた。
「……お前」
シラベは目を瞬かせた。今の化け物の突進は、どう見ても常人の肉体で受け止められるものではなかった。それをこの女は、片手に犬を抱えたまま、腕の一振りで弾き飛ばしてみせたのだ。
レヴェローズの怪力は今までも覚えがある。ジムの時、葬送外野の時、それぞれで呆れるような膂力を見せつけてくれた。だがそれは、ドゥブランコたらしめる要因があったはず。
シラベはレヴェローズの水着に目をやる。肌に張り付いた布地が、明かりを拾って紫水晶のように煌めいていた。その輝きを見てシラベに電流が走る。
「お前まさかそのビキニ、伝結晶で出来てんのか?」
だとしたら、腕の中の柴犬があれだけ暴れても抜け出せないわけだ。熊三頭を相手取れるだけの膂力で抱き竦められていれば、犬どころか大抵の生き物は万力に挟まれたのと変わらない。
問われたレヴェローズは、待っていましたと言わんばかりに大きく頷いた。
「ふふん、よくぞ気付いた! ミーシャの妹の職人に頼んでな、私の伝結晶を織り込んで仕立ててもらったのだ。どうだ契約者、美しいだろう?」
片腕に柴犬を固定したままレヴェローズは空いた手を腰に当て、胸をぐっと反らしてポーズを決める。夜目にも鮮やかな紫の布地が、彼女の美しい曲線を強調するようにきらりと光った。
シラベはレヴェローズの顎へ前脚を突っ張り続けている柴犬に少しばかり同情する。今や耳も伏せて尻尾から力が抜けてしまっている。
「……似合ってるよ。あとそいつ、もうちょい緩く抱いてやれ」
「断る。ヴェルカと違って細かい毛並みが心地よいのだ」
そんな話をしていると、岩壁の方で、ぽん、と場違いに軽い音がした。シラベが明かりを戻すと、さっきまでそこに転がっていた化け物の姿は跡形もなく消えていた。
拍子抜けするほどあっさりした幕切れに、レヴェローズがポーズを解いて眉を跳ね上げる。
「む、消えたぞ。ますます怪しいな。契約者よ、行くぞ!」
鼻息も荒く意気込むレヴェローズが、柴犬を抱えたまま大股でトンネルの中へと踏み込んでいく。シラベも慌ててライトを向け直し、その後ろに続いた。
ひんやりと湿った空気が肌を撫で、二人の足音がコンクリートの壁に反響する。
スマートフォンの明かりで足元と前方を交互に照らしながら、シラベは先ほど消えた化け物の姿を思い返していた。
太い鉤爪に、全身を窮屈に締め上げる拘束具のような装甲。じっくり眺めたわけではないが、あの不気味なシルエットにはどこかで見た覚えがある。
なぜあんなものが現実の、それもこんな寂れた海辺のトンネルから飛び出してくるのか。なんにしても、原因は一つしか思い当たらない。
シラベはさっき蔓に引かれた足首へもう一度ライトを落とした。
「また
ヴェルカが出てきた時からなんとなくそんな気はしていた。シラベは重たい溜め息を吐き、レヴェローズの背と、その先に続くトンネルへ明かりを移した。