休日の午後。おもちゃ屋『ボトムレスピット』の狭い店内は、熱気と湿気、そしてカードゲーマー特有の臭気で飽和していた。
開催されているのは週末恒例の店舗大会。デュエルスペースに並べられた長机は満席で、そこかしこから「ドロー」「レスポンス」「エンド」と、呪文のような単語が早口で飛び交っている。
そんな店内で、押江シラベはカウンターの中で淡々と業務をこなしていた。
販売、買取、そして大会の運営。接客はそれなりに。バックヤードにはカルメリエルがいるとはいえワンオペに近い状態だ。しかしシラベはここ半年で、この忙しさを心地よいと感じる程度には慣れてしまっていた。今日も散歩でぶらついているポンコツが持ち込んでくる突発的な面倒ごとよりも、ただただ日々のタスクをこなしている方がよほど楽だ。
ふと、シラベは視線をデュエルスペースの一角へ向ける。そこには、黒いパーカーのフードを目深に被った小柄な影がある。
ミトラだ。彼女は自身が店長であることを一般客に隠したまま、ただの常連小学生プレイヤーとして大会に潜り込むろくでもない趣味があった。
カード大会で頻繁に見掛ける子供、しかも女の子で、最近ではカルメリエルの手によって容姿に艶が出てきたともなると、少なからず注目を集めそうなものだ。実際、ちらちらとミトラに視線を送るものが増えてきていることをシラベは気付いていた。
そうでなくとも、対戦後に言葉を交わして対戦を振り返って今後の糧にしたり、情報交換をしたりと、カードプレイヤーによっては同好の士と親睦を深めようとするものもいる。ミトラも達者なプレイをする人間だ、感想戦を望まれる場合も多い。
しかしミトラは持ち前の強固なコミュニケーション拒否能力により、あらゆる会話を無言で拒絶し、対戦の中でしか言葉を発さない。
その姿勢は褒められたものではない。しかし徹底的に情報を渡さないその生態により、ミトラの正体が小学生などではなく35歳合法ロリ店長だと気付いているものはかなり限られている、とシラベは見ている。
ミトラの現在の対戦相手は大学生くらいの若い男だ。彼は脂汗をかきながら、苦悶の表情で手札を見つめている。
「……エンド、です」
「エンドね。私のターン」
ミトラの声は冷徹そのものだ。ドローしたカードを一瞥し、即座に盤面へ。
「『改造被験者ツクバーン』キャスト。対応ありますか」
「ありません』
「着地します。次、『音割れ頭』。ありますか」
「て、テキスト確認いいですか」
「どうぞ」
「ありがとうございます…………レスポンス、『対話拒否』を『音割れ頭』に」
「レスポンス、『お辞儀する駒』の能力起動。でデッキトップ3枚操作。ありますか」
「……ありません」
「ではトップ操作します。……はい、これで。では次に呪法『直前呪文』の効果の処理、デッキトップを確認します。トップは『永久的な凍結』で、『対話拒否』との同値のコストなので打ち消されます。『音割れ頭』が着地します」
相手の自由を奪い真綿で首を絞めるような陰湿極まりないロックコンボを展開して生き生きしている店長を見て、シラベは呆れたように肩を竦めて視線を外した。店長が客を嬲ってストレス解消をするなと言いたいが、機嫌よく働いてもらうための必要経費だと割り切るしかない。南無。
心の中で手と手のシワを合わせている、その時だった。
「──アハハハハハッ! ここか! ここなのだね!」
店の外からやけに明るく、そして芝居がかった笑い声が聞こえてきた。
ガラス越しに響くその声は、休日の穏やかな空気を切り裂くような異質なテンションを帯びている。
(なんだ? 酔っ払いか?)
シラベは整理中のカードの束から手を止めず、顔も上げなかった。
通りが一本違うとはいえ商店街の近くだ。昼間から酒を飲んで騒ぐ輩や、テンションの上がった学生グループなど珍しくもない。店内のプレイヤーたちも、盤面に集中しているためか誰も気に留めていない様子だ。
だが、一人だけ例外がいた。
「ッ!?」
デュエルスペースの端で、ミトラだけが肩を震わせてた。
フードの下の顔が、瞬時に蒼白になる。死んだ魚のようだった瞳が、驚愕と恐怖で見開かれる。
彼女は震える手でデッキトップに手をかけ──そして、叫んだ。
「サレンダー!」
「えっ?」
対戦相手の男が目を丸くする。
「え、いや、あの」
「私の負けで! それじゃ!」
ミトラは早口で捲し立てると、盤面に広げたカードを片付けもせず、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。そのまま脱兎のごとく店の奥へと走ろうとする。
「あ?」
シラベは突然声をあげたミトラに驚き顔を上げ、その動きを目で追う。トイレか? それにしては様子がおかしい。それに片付けもしていないなんて、人間は全員泥棒の可能性があるからと言って憚らないミトラにしてはあまりにも不用心だ。
店長としての責任はもとより期待していない。しかしそれでも人としてのマナーは守らせるべきだ。シラベは逃走するミトラの進路を塞ぐ。
「おい、待ちやがれ。店内で走るな」
「どきなさい! クビにするわよ!」
「物騒だな。あー、なんだどうした? 負けたのか? だからってバックれるなよ、せめて片付けてちゃんと挨拶して終わらせろ」
「そんなことしてる場合じゃ──ああもう!」
ミトラがシラベの脇をすり抜けようとする。だがその動きはあまりに単調で、何より体格差がありすぎる。
シラベは無造作に手を伸ばし、彼女のパーカーごしの首根っこを掴むとそのままひょいと持ち上げた。
「わっ!?」
35歳成人女性とは思えない軽さ。百四十センチに満たない体躯の彼女は、シラベの手によって猫のように宙に浮いた。
「離しなさい! 離せ馬鹿シラベ! 触るな! セクハラ!」
「はいはい、あとで聞くから。ほら、せめてデッキ回収してこい」
シラベは暴れるミトラを抱っこの姿勢で押さえ込み、駄々をこねる子供を回収した保育士のように諭す。
「いや! 嫌だ! 来る! あいつが来るのよ!」
「あいつって誰だよ」
「いいから隠れさせ──」
ガラガラ、ガツン。
店舗のガラス戸の開く音が、やけに大きく響いた。それだけ勢いよく店舗の扉は開け放たれていた。
何事かと、店内の視線が一斉に入り口へと向く。
そこに立っていたのは、場違いなほどに煌びやかな人間だった。
逆光を背負うそのシルエットは、まるで舞台照明を浴びているかのような立ち姿。
アッシュグレーのショートヘアが風になびき、高級そうなスーツがそのスラリとした長身を包んでいる。
その手には、正気を疑うほど真紅が眩しい薔薇の花束。
店内に充満していた汗と紙の臭いが一瞬、濃厚な薔薇の香水によって上書きされた。
「…………」
店内の時間が止まっていた。
カードゲーマーたち──その多くが成人男性たち──は、突如現れた少女漫画の王子様のような存在に、呆気にとられて口を開けている。
青年はそんな周囲の視線など意に介さず、まるで大理石の床を踏みしめるかのように、茶けた店舗の床をコツコツと靴を鳴らしながら優雅に歩みを進めた。
一歩、また一歩。
彼はデュエルスペースの傍で足を止め、長い前髪を掻き上げながら、朗々と声を張り上げた。
「おやおや、なんというむさ苦しさだ! ここは魔窟か、それとも現代の牢獄か! だが、この淀んだ空気の中に、私の望む一輪の可憐な花が咲いている……!」
完全に自分の世界に入っているその言葉に、プレイヤーたちは一斉に目を逸らして静かに対戦を再開させる。
これはダメだ。目を合わせてはいけない類のかわいそうなひとだ。全員の心が一つになっていた。
シラベはミトラを抱えたまま、呆然としつつ呟いた。
「なんだあれ。通報するか」
「うぅぅ……」
腕の中のミトラが呻き、少しでも縮こまろうとするためにシラベの腕の中で身をよじる。その体は小刻みに震えていた。
青年は店中を見回し、そしてカウンターの方へと視線を流した。
「そこの君! ここの店長を呼んでくれたまえ! 私の愛しきプリンセス、ミト──」
青年の言葉が、途切れた。
その切れ長の瞳が、シラベを捉える。正確には、シラベの腕の中にいる、黒パーカーの小柄な人物を。
ミトラは顔を隠すように、シラベの胸に額を押し付けていた。
傍から見れば、それはミトラからしがみついている、あるいは熱烈な抱擁を交わしているようにも見えただろう。
「……………………は?」
青年の顔から、芝居がかった笑みが消えた。
涼しげだった表情がみるみるうちに歪んでいく。驚愕。困惑。そして、煮えたぎるような嫉妬と憤怒へ。
顔色が赤から青、そしてどす黒い紫へと七色に変化した後、彼は持っていた薔薇の花束を床に叩きつけた。
花弁が散る。掃除が面倒だとシラベは考えた。現実逃避するためだ。
青年は震える指先をシラベに突きつけ、店中のガラスを震わせるほどの絶叫を上げた。
「ミトラから離れろォォォォォッ!! このっ……薄汚い泥棒猫がァァァァァァッ!!」