夕刻。臨時休業の掲示を表のシャッターに張り付けた、『ボトムレスピット』の一階。
レヴェローズとカルメリエルというさらにややこしい火種になりかねない二人は「人間同士の話し合いだから」という名目でシラベとミトラによって二階の居住スペースへと押し込まれている。
一階にいるのは三人。
壁際に置いたパイプ椅子に気怠げに座り、いつもの死んだ魚の目を更に淀ませて虚空を見つめるミトラ。
カウンター内で後片付けをするシラベ。
そして、デュエルスペースの中央。一番目立つど真ん中の席で、優雅に脚を組み、不満げに眉を寄せている青年だ。
「……嘆かわしい。客人を招き入れておきながら、茶の一杯も出せないとは。気の利かない店員を使わざるを得ないミトラの苦労が偲ばれるな」
青年は大仰に肩をすくめ、シラベに侮蔑の視線を向ける。
シラベは作業の手を一切止めず、顔も上げずに冷淡に返した。
「さっきまでお巡りさんのご厄介になってた不審者を、客として認めたくないんでね」
「ぐっ……! あれは、愛の表現が行き過ぎただけだ!」
「留置所にぶち込まれても同じこと言えるか試してみるか? 二回目は説教だけじゃ済まねえぞ」
青年がバツが悪そうに顔を逸らす。バツが悪いでは済まない醜態だとシラベは思っているのだが、顔の整い方だけでなく、その面の皮の厚さも格別なのだと結論付けた。
店内で突然叫び花束を叩きつけたこの不審者は、通報を受けた警察官によって速やかに連行された。公衆の面前での奇行と営業妨害。当然の措置だ。
青年が交番でこってりと絞られている間、シラベはドン引きの客たちに頭を下げ、予定を繰り上げて大会を終了させる羽目になった。当然ながらミトラの姿はそこになく、警察への聴取の応対はカルメリエルまで駆り出された。
その後、シャッターを下ろしたシラベは、憔悴したミトラを労わる半分弄る半分の気持ちで居酒屋にでも連れて行こうと画策。
しかし、警察からの説教から釈放された青年は、あろうことか店舗のシャッター前に仁王立ちし始めた。
店の前で、直立不動で、無言で立ち尽くすこと一時間。
先ほど騒ぎを起こした店の前に堂々と居座るのは情けなさの極みにあるのだが、シラベとミトラを戦慄させるには十分だった。
放たれ続ける無言の圧力にミトラが根負けし、「入れてあげて」とシラベに指示を出したのが、今の状況である。
「で、店長。こいつは何なんだよ」
まともに会話をするだけ無駄だと判断し、シラベはミトラに水を向けた。
「店長の指示だから店に入れたが、あんな風に店の前で居座るならもう一回もしもしポリスメンで良かったんじゃねえか? こっちもまた事情聴取されるだろうが、そっちはカルメリエルに丸投げすりゃいい」
あの聖女は人心掌握のスペシャリストだ。先ほど来ていた警官も彼女の微笑みと話術に絆され、すっかり骨抜きにされて帰っていった。面倒な手続きをなぁなぁで済ませるにはもってこいの人材だとシラベは確信している。
だがミトラは首を横に振り、心底嫌そうな顔で吐き捨てるように答えた。
「とりあえずは、いい」
「なんで」
「……一応、知り合い……同級生だし」
「はぁ!? ……あー……」
驚きと納得、シラベはその二つを同時に抱いた。
ミトラは御年35歳。同級生ということはつまり、目の前で宝塚の男役よろしくキザに振る舞っているこの青年もアラフォーということになる。
アッシュグレーの髪に、シワ一つない肌。仕立ての良いスーツに身を包んだ姿はどう見ても二十代の好青年だ。
疑わしい。非常に疑わしくはあったが、若作りでは済まないレベルでの年齢詐称の例がまさに現在の上司だ。類は友を呼ぶということか。シラベは納得するしかなかった。
「おお! なんと素っ気なく、しかし愛おしい紹介だろうか!」
青年が立ち上がり、胸に手を当てて朗々と語り出した。その動作一つ一つに無駄なタメがあり、背後には見えない薔薇のエフェクトが飛んでいるような幻覚すら見える。
「お初にお目にかかる、従僕くん。私の名前は
「誰が従僕だ」
ヒナタは芝居がかった仕草で一礼し、ビシッとウインクを決めた。もちろん、ミトラに対して。
「ミトラの高校時代の同級生にして、魂の盟友。そして──彼女の未来の伴侶となるべき存在だ」
「…………」
魂の盟友。未来の伴侶。
これが年上なのか。これで35歳なのか。押し付けられる情報の破壊力に、シラベはこめかみが痛むのを感じた。
ヒナタはシラベの反応など意に介さず、陶酔した瞳で天井の蛍光灯を見上げる。
「あれは桜舞い散る入学式のことだった。人混みの中で孤高を貫く彼女の姿に、私は雷に打たれたような衝撃を受けたのだ。あの日から私の時計は動き出し──」
「ただのストーカーよ」
ミトラが冷や水をぶっかけるように遮った。
「入学初日から卒業式まで、事あるごとに付きまとってきた変態。私がトイレに行く時までついてきてマジで鬱陶しかった」
「あれは君の安全を守るためのナイトとしての務めだ! 個室の中まで入ろうとはしていないぞ!」
「入ろうとしてたらあんたが逮捕されてるわよ。……卒業と同時に海外へ自分探しの旅に出たと聞いた時は、これでようやく平和が訪れたと祝杯を挙げたものだけど……まさか戻ってくるとはね」
「お前男運悪いんだな」
シラベが小声でボソリと言うと、ミトラは無言でシラベを睨む。
ヒナタはミトラの言葉に傷ついた様子もなく、むしろその罵倒すら心地よいBGMか何かのように受け流し、両手を広げた。
「海外で得たのは学位だけではない。最先端のトレンドとコネクションだ。私は父の会社をベースに、VRからテーマパークまでを網羅する没入型エンタメ企業を立ち上げ、昨年度の経常利益は過去最高を記録した。六本木の最上階から見下ろす夜景は美しいが……君という宝石がいなければ、私の中へ彩りが生まれない」
そして、ヒナタは懐から小箱を取り出し、床に片膝をついて跪いた。
パカッ、と効果音が鳴りそうな勢いで開かれた箱の中には、給料何ヶ月分か分からないダイヤの嵌った指輪が鎮座している。
「結婚しよう、ミトラ。この鳥籠のような店を出て、私と共に歩んでくれ」
直球のプロポーズ。しかしミトラの顔にあるのは感動ではなく、生ゴミを見るような嫌悪感だけだった。
彼女は無言のまま、カウンター内のシラベに向けて視線を送る。
右手で鼻を触り、左手で耳を引っ張り、さらに胸元を二回叩く。ブロックサインだ。
意味は──『なんとかして追い払え』。
シラベは無表情のまま頭のつむじを触り、両手でバツ印を作った。
こちらの意味は──『雇用契約外。めんどくさい』。
ミトラがチッと舌打ちをする。
彼女は盛大にため息をつくと、意を決したように椅子から立ち上がった。
「あのねえ、ヒナタ」
「なんだい? 愛しのプリンセス」
「無理よ。帰って」
「な、なぜだ!? 私の何が不満だと言うんだ! 金か? 顔か? それとも愛の重さか!?」
「全部よ。それにね……」
ミトラはカウンターへと歩み寄ると、おもむろにシラベのいる方へ回り込み──
「私、もう彼氏がいるから」
ガシッと。
シラベの二の腕に、しがみついた。
「…………」
シラベは硬直した。
二の腕に押し当てられる、薄いが柔らかな感触。服越しの高い体温は見た通りの子供のそれのようだった。だがその心地よさ以上に、この茶番に巻き込まれた絶望感が勝る。
「なっ……!?」
ヒナタが目を見開き、彫像のように固まる。
ミトラはここぞとばかりに、シラベの腕に頬を擦り寄せ、上目遣いで甘えるような猫なで声を出した。
「ねー、ダーリン? 変な人が来て困っちゃうわよねえ? 早く追い出して、二人っきりになりたいわよねえ?」
それは完璧な演技だった。普段の陰湿で毒舌な店長からは想像もつかない、可憐な乙女の姿がそこにあった。だからこそ嘘くさく、白々しく、そして何より恐ろしい。
シラベは無言を貫いた。内心では辟易したが、ここで否定すれば後で何をされるか分からない。
(だいたい、こんなバレバレの嘘が通じるわけねえだろ)
35歳の店長と、25歳の無気力バイト。見た目も中身もどう見てもカップルには見えない。ヒナタのような社会的地位のある人間なら即座に見抜いて鼻で笑うはず。
「う、うそだ……」
しかし、シラベの沈黙を如何に受け取ったのか。余人には見当も付かなかったが、ヒナタには決定打となったらしい。
ヒナタがよろめき、後ずさる。
その表情は、世界の終わりを見たかのように絶望に染まっていた。
「嘘だ嘘だ嘘だ! ミトラが……こんな、こんな薄汚い男と……男なんかと……! しかもあんなに幸せそうな顔で……!」
ヒナタはわなわなと震え、後ずさりし、そして踵を返した。
「うわぁぁぁぁぁぁん!! ミトラのばかぁぁぁぁぁ!!」
子供のような甲高い泣き声を上げながら、ヒナタは店を飛び出していった。
今度こそ嵐は去り、店内に静寂が戻る。シラベの腕にしがみついていたミトラがパッと離れた。
「はあ。疲れた」
ミトラは何事もなかったかのように定位置のカウンター奥に引っ込み、スマホを取り出し始めた。
シラベは呆れすぎて言葉が出てこず、ヒナタが走り去った出入口を見つめてようやく呟く。
「いい歳して振られて泣いて帰るなんて、女々しい奴だな」
「女よ」
「あ?」
ミトラはスマホ画面から目を離さずに言う。
「あいつ、女。戸籍上も生物学的にも」
「…………」
シラベは再び、誰もいない出入口へ振り返った。
「マジで?」
「マジ。だからタチが悪いのよ」
そういえば線は細かった。声も少し高かったかもしれない。だがそれ以上に、あの強烈なキャラクターが性別という概念を吹き飛ばしていた。
「35歳、男装、百合、ストーカー、金持ち、社長。……跳満だな」
シラベは指折り数えて天を仰いだ。
ふと見上げた天井の先、二階にいる精霊たちを思い返す。
この店長からは、奇人を引き寄せる何かが出ているのだろうか。
自分もそれで集められたものなどということが無ければいいのだが。シラベは切にそう願った。