週末の騒乱が過ぎ去った夜。『ボトムレスピット』の店内からは、カードゲーマーたちの臭気は立ち消え、代わりに出汁と醤油の芳醇な香りが充満していた。
一階のデュエルスペース。本来ならプレイマットとスリーブに入ったカードがせめぎ合う長机の中央に、今はカセットコンロと土鍋が鎮座している。
鍋からは白い湯気が立ち上り、グツグツという音が店内に響く。
「はい、どうぞ。お肉も煮えてますわよ」
「うむ。頂こう」
カルメリエルが甲斐甲斐しく取り分けたとんすいを受け取り、レヴェローズはハフハフと熱そうに豚肉を頬張った。
平和な食卓だ。一時間程度前に、ここで一人の経営者が愛と絶望を叫んでいたとは信じがたい。
シラベもまた豆腐を箸でつつきながら、向かいに座る雇い主の様子を窺った。小さな口で白菜を噛んでいるミトラは、一見するといつも通りに戻っているように見える。
「……で、どうでしたの? あの嵐のような殿方は」
カルメリエルが優雅に、しかし好奇心を隠そうともしない声音で尋ねた。
「ただならぬ愛の重さと、狂気を感じましたけれど。あれだけの情熱を向けられるなんて、ミトラ様も隅に置けませんわね」
「……やめて。食事が不味くなる」
ミトラは箸を止める。即座にげっそりとした顔になり、溜め息が零れ落ちる。
「あいつ、女だから」
「はい?」
肉を咀嚼していたレヴェローズの動きが止まる。
カルメリエルもまた、お玉を持ったまま目を丸くした。
「女? あのキザで、暑苦しくて、私の契約者を泥棒猫呼ばわりしたというあの変人がか?」
「ええ。戸籍上も、生物学的にも。……高校時代からああなのよ。王子様キャラで通してて、私をプリンセス扱いしてくるの」
ミトラの告白に、食卓が沈黙に包まれる。
鍋の煮える音だけが響く中、最初に口を開いたのはカルメリエルだった。
「まあ……」
彼女は頬に手を当て、うっとりと目を細める。
「女性同士……結ばれることのない、不毛で背徳的な愛……。社会的な規範と生物としての本能の狭間で、それでもなお相手を求めずにはいられない業の深さ……ふふ、ゾクゾクしますわね。私の好物ですわ」
「お前、本当に聖女か?」
シラベが呆れてツッコミを入れるが、カルメリエルはどこ吹く風だ。
一方で、レヴェローズは眉間に皺を寄せて考え込んでいる。
「女同士? それでは子を産めないではないか。なんでそうなる?」
「この前、抱いたなんだで照れてたくせにそういう口は利くのね、あんた」
「私と契約者の話は別だ! ……コホン。とにかく、仮にも企業の長たるものだろう? ならば優れた血統を残し、次代へ継承するのが王たる者の義務ではないか」
「深く考えるな。今の世の中、多様性ってやつだよ」
シラベは適当に答え、鍋の底からキノコを掬い上げた。王家の人間ともなると、一族経営という形態こそが当然と考えるのだろうか。
ともあれ。35歳、女社長、男装、ストーカー。属性の過積載だ。これ以上あの『
食事が終わり、片付けの時間になった。
カルメリエルが食器をまとめ、レヴェローズがそれを二階のキッチンへと運んでいく。
シラベはテーブルを拭き、そしてカウンターの上に放置されていた『遺物』に視線を止めた。
「そういえば店長。あのクソデッキ、どうする?」
指差した先にあるのは黒と白のデッキケース。
中身は『デュアル・コンストラクション:光と闇の狂宴』。シラベとミトラを寝不足に追い込み、精神を削り取った元凶だ。
ミトラは一瞥すらせず、汚物を見るような目つきで言い捨てた。
「嫌。二度と見たくない。視界に入れるだけで吐き気がする」
「そこまで言うことないじゃん。『賄賂』は強いぞ。それだけだけど」
「あんたが買ったんだから、あんたが責任持ちなさいよ。燃やすなり埋めるなり、好きにして」
ミトラはそれだけ言うと、逃げるようにさっさと二階に上がっていってしまった。
残されたのはシラベと、呪いのデッキのみ。
「責任持てって言われてもなぁ」
シラベは二つのデッキケースを手に取った。
以前のような、肌にまとわりつくような不快な気配や、脳内に直接響くような怨嗟の声は聞こえない。カルメリエルの『除霊』が効いているのか、それとも持ち主たちに完全に見限られたことを悟ったのか。
厄介な紙束からただの紙束に戻ったと思われるが、それでも扱いに困る。
捨てるのは簡単だ。だがそれは流石に勿体ない。シラベの今の経済状況において、高額紙幣の二枚は中々痛かった。ドブに捨てたようなものとはいえ、物理的にゴミ箱へダンクするのは貧乏性が許さない。
かといって、中古として買い取りに出すのも気が引ける。『ロキの賄賂』だけ単独で抜き出して売るなら多少は補填できるものの、それをやられ続けた結果が夢での精神攻撃なのだろう。『除霊』の効果など吹き飛ばすほどの怨嗟を生み出しそうだ。
「……よし」
熟考に身を漂わせ、シラベは一つの結論を出した。
彼はデッキケースを持って、カウンター奥のバックヤードへと向かう。
そこにはスリーブや余ったストレージボックスが雑多に積まれたスチール棚がある。その一番下の段。埃を被った段ボール箱を引き出した。
箱にはマジックで『貸出用』と書かれている。
手ぶらで店に来た子供や、カードゲームに興味を持った初心者に無料で貸し出すためのデッキ置き場だ。
中には使い古され、角が白く欠けたカードたちが束ねられた状態で無造作に放り込まれている。
「初心者に『カードゲームの理不尽さと厳しさ』を教えるには丁度いいだろ」
あるいは、『値段が高いカードを使ったところで構築を理解しなきゃダメだぞ』と言ったところか。シラベは独り言ちると、『光と闇の狂宴』をその箱の中へと放り投げた。
カタン、と乾いた音がして、デッキケースはその他大勢の山に埋もれる。
誰に使われるとも、いつ使われるとも知れない。手垢にまみれた初心者たちの実験台としての余生。
精霊たちだって使ってほしいとダダを捏ねていたのだ。こういうところに再就職するなら楽しく遊ばれるはずだろう。
シラベは箱を足で押し戻し、バックヤードの電気を消した。
闇に沈む店内。そこにもう、彼を呼ぶ声はなかった。
シラベは大きな欠伸を一つ噛み殺し、二階へと続く階段を上っていった。
今夜こそは、泥のように眠れるはずだ。
そう信じて。
*
都内某所。高級ホテルの最上階にあるスイートルーム。
眼下に広がるのは、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景だ。本来なら成功者がグラスを傾け、隣に侍らせた美女と愛を語らうための空間である。
だが今、この部屋を支配しているのは、甘いムードではなくドス黒い怨念だった。
「──なぜだ。なぜなんだ、ミトラ!!」
グラスが壁に叩きつけられ、破片と共にブランデーが深紅の染みを作る。
部屋の主、
乱れたアッシュグレーの髪。緩んだネクタイ。昼間の完璧な王子様ルックは見る影もなく、今の彼女はただの失恋したヒステリックな女だった。
テーブルの上には、無数の写真が散乱している。
かつて望遠レンズで隠し撮りされたミトラの登校風景に、最新のものではスーパーでの買い物姿、そして店先で気だるげに掃除をする姿。
ヒナタはその中の一枚──ミトラがシラベに説教をしている瞬間を捉えた写真を、憎々しげに睨みつけた。
「あの男……あの薄汚い、貧相で、私達の間に割り込む男!! 名前は確か、押江シラベと言ったか!」
ヒナタは調査会社から送られてきていたシラベの身上書を握りつぶす。
ミトラを迎えに行く前に用意していたものだ。重要なのはミトラの情報だけだった為、木っ端の従業員については視界に入っていなかった。今までは。
「資産、なし。才能、特になし。前職は不祥事で依願退職……ゴミじゃないか! ミトラほどの高潔な女性が、あんな社会的底辺を選ぶはずがない! ありえない! 天地がひっくり返ってもありえないのだ!!」
彼女の論理は完璧だった。完璧なスペックを持つ自分が選ばれず、スペック皆無のシラベが選ばれる道理がない。
ならば、答えは一つだ。
「……弱みだ」
ヒナタの瞳から涙が消え、代わりに冷徹な経営者の光──そして粘着質なストーカーの輝きが宿る。
「あの男は、ミトラの何か致命的な弱みを握り、脅迫しているに違いない。借金か? それとも過去の過ちか? とにかく、あの関係は正常な愛ではない。支配と被支配、洗脳に近い何かだ!」
そう結論付けると、ヒナタは立ち上がった。
彼女は部屋の隅に置かれた巨大なアタッシュケースを開く。
中に詰め込まれていたのは、薔薇の花束でも指輪でもない。
超小型CCDカメラ、コンクリートマイク、赤外線サーモグラフィー、ピッキングツール、そして軍用の暗視ゴーグル。
彼女が海外で学び、そしていつかの時の為に技術を磨いてきた『愛の追跡キット』の数々だ。
「待っていてくれ、マイ・プリンセス。この私が、君を悪魔の手から救い出して見せる」
ヒナタは手早く黒いボディスーツに着替えると、ツールをベルトに装着していく。その手際はプロの潜入工作員も裸足で逃げ出すほどに洗練されていた。
「そのためには証拠が必要だ。あの男がミトラを虐げている証拠、あるいは裏で悪事を働いている証拠を掴み、社会的に抹殺してやる」
カチャリ、とベルトのバックルを締める音が静寂に響く。
ヒナタは窓ガラスに映る自分自身の姿に、不敵な笑みを向けた。
「それに……ふふ、ふふふ」
彼女の頬が、奇妙な紅潮を帯びる。
「誰もいない深夜の店ならば……思う存分、ミトラの残り香を堪能できるではないか。彼女が座った椅子、触れたカウンター、そして飲み残しのペットボトル……」
ジュルリ、と。
王子様にあるまじき音が、その口から漏れた。
「一石二鳥だ。いや、この完璧な作戦の前では一石三鳥にも四鳥にもなる!」
ヒナタは夜の闇に紛れるための黒いパーカーを羽織り、深くフードを被った。
狙うはおもちゃ屋『ボトムレスピット』。
愛と狂気を原動力にした怪物が、今、放たれようとしていた。
「首を洗って待っていろ、泥棒猫。……今夜が貴様の、最後の安眠だ」