カスレアクロニクル   作:すばみずる

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28 一時的に記憶を失っているようね

 深夜二時。丑三つ時。

 

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った商店街。シャッターが下りた店並みが骸の歯列のように続く闇の中を、一つの影が音もなく滑っていく。

 

 亜修利ヒナタである。

 

 商店街を抜けた彼女は『ボトムレスピット』の裏口前に立つと、懐から愛用のピッキングツールを取り出した。鍵穴にテンションレンチを差し込み、ピックで内部のピンを弾く。その手つきは、恋人の髪を梳くように優しく、かつ熟練の外科医のように正確だった。

 

 カチリ。

 

 ものの数秒で、シリンダーが回転する乾いた音が鳴る。

 

「……セキュリティが甘いな。私が君の隣にいるなら、もっと堅牢な城壁と最新の警備システムを用意するというのに」

 

 ヒナタは嘆息交じりに呟くと、音もなくドアを開け、店内へと滑り込んだ。

 

 装着した軍用暗視ゴーグルの視界が緑色に染まり、闇に沈んだ空間を鮮明に映し出す。

 

 そこはバックヤードだった。雑多な段ボールや備品が地層のように積み上げられた狭い空間。埃と古紙、そしてインクの匂いが澱んでいる。

 

 だが、ヒナタの鼻腔はそれ以外の粒子を捉えていた。

 

 クン、と鼻を鳴らす。

 

 微かに──常人には感知不可能なレベルだが、確かにそこに愛しのミトラの残り香が混じっている。

 

「……ふふっ」

 

 ヒナタは思わず口元を緩め、陶酔の吐息を漏らしたが、すぐに頬を叩いて気を引き締めた。

 

 目的は残念ながら変態行為ではない。ミトラを悪魔の手から救うための証拠収集だ。

 

 彼女は手際よく棚の隙間や天井の梁に、超小型CCDカメラを設置していく。その動きには一切の迷いがない。プロの諜報員も裸足で逃げ出す洗練された所作だった。

 

「これでよし。死角なし。次は店内だが……おや?」

 

 ふと、ヒナタの視線がスチール棚の下段に吸い寄せられた。

 

 暗視ゴーグル越しでも分かる、奇妙な明滅。

 

 そこにあるのは、マジックで『貸出用』と書かれた段ボール箱だ。

 

 何の変哲もない、ただの古びた箱。本来なら気にも留めないはずのそれが、まるで心臓の鼓動のように脈打ち、ヒナタを呼んでいるように見えたのだ。

 

「なんだ? 光源……? 機器の故障ではないようだが」

 

 ヒナタはゴーグルを跳ね上げ、素顔を晒して箱に近づいた。

 

 魅入られたように手を伸ばし、箱の中を探る。

 

 指先に触れたのは、ひやりとした冷たい感触と、焼けるような温かい熱。

 

 取り出したのは二つのデッキケースだった。

 

 高潔なる白と、底知れぬ黒。対照的な色が、暗闇の中でぼんやりと燐光を放っている。

 

「これは……?」

 

 ヒナタがそれを凝視した、その瞬間だった。

 

 視界が白く弾けた。

 

「──ッ!?」

 

 

 

 ヒナタは反射的に身構え、周囲を警戒する。

 

 だが、そこは既にボトムレスピットのバックヤードではなかった。

 

 上下左右の感覚が消失した、白と黒のチェス盤が無限に広がる奇妙な空間。頭上には空がなく、足元には地がない。

 

「な、なんだここは!? VRか!? いやいや、私は何も装着していないはず……!」

 

 ヒナタは狼狽え、視線を彷徨わせる。

 

 オカルトなど信じていない。科学と論理、そして資本主義こそがこの世の真理だ。だが目の前の光景は、その強固な信念を根底から揺さぶるものだった。

 

 そして。

 

 揺らぐ世界を決定的に破壊するように、彼女の前に二つの人影が現れた。

 

「ようこそ、我が主」

 

「……待っていた」

 

 一人は、スートに彩られた真紅の豪奢なドレスを纏い、背中に光り輝く翼を生やした金髪の美女。その手には身の丈ほどの長銃が握られている。

 

 もう一人は、夜空より深い闇色の肌を持ち、ボロ切れ一枚を身に纏った虚ろな瞳の少女。その足元は影と融合し、不定形に揺らめいている。

 

 どちらも人間離れした、圧倒的な存在感を放っている。

 

「き、貴様らは何だ! ここは何処だ!」

 

 ヒナタは叫ぶが、二人は気にした様子もなく、艶然と微笑んだ。

 

「私たちは精霊……『レディ・ローマ』と──」

 

「……『全てを喰らう大穴』」

 

「精霊……? 何を言っている?」

 

 超常なるものを目の前にしても、ヒナタの常識は突き崩されない。そこに在るものとして認識しながらも、精霊という呼称をフィクションを彩るノイズとしか理解出来なかった。

 

 だが、金髪の美女──レディ・ローマは、ヒナタの混乱など意に介さず手を差し伸べた。

 

「貴方が我々のデッキを手に取り、確信しました。貴方が本当の契約者だったのですね」

 

 そう語るレディ・ローマの目は澄み切っていた。一点の曇りもない黄金の瞳は、しかしどこか虚ろで、対話という概念が欠落していた。

 

「??? 人違いだ! 私は亜修利ヒナタ! デヴァローカコーポレーションの社長であり、ミトラの未来の伴──」

 

「ええ、分かっていますわ。どうやら一時的に記憶を失っているようね」

 

 ヒナタの言葉を遮り、ローマが憐れむように微笑む。

 

「可哀想に……。でも、大丈夫……」

 

 大穴がボソリと呟く。

 

 ──話が通じない。

 

 ヒナタは背筋に、氷柱を差し込まれたような冷気を感じた。

 

 この空間。この二人。何かが致命的におかしい。本能が全力で逃げろと警鐘を鳴らしている。

 

「ええい、狂人の相手なんてしてられるか! 私は帰るぞ!」

 

 ヒナタは踵を返し、出口の存在しない空間を走り出そうとした。

 

「お待ちなさい」

 

 凛とした声が、ヒナタの足を物理的な重みを持って縫い止める。

 

 振り返ると、レディ・ローマが真っ直ぐにヒナタを見つめていた。統治者であるレディの言葉に、甘い毒のような誘惑が込められているのをヒナタは感じ取る。それは拒絶を許さない、絶対的な命令にも似た響きだった。

 

「私たちに協力してくだされば……貴方の望みを、叶えて差し上げましょう」

 

「望み、だと?」

 

「ええ。貴方が憎んでいるあの男……押江シラベへの復讐。そして、愛するミトラを取り戻す力」

 

 ピクリ、とヒナタの眉が動く。ローマは畳み掛けるように続けた。

 

「私たちもまた、あの男に酷い仕打ちを受けました。ゴミのように扱われ、誰にも顧みられない暗闇へと封じ込められました。……貴方と同じように」

 

「私と……同じ?」

 

「そう。貴方もまた、あの男に邪魔をされ、愛する人から拒絶され、惨めな思いをしたのではありませんか?」

 

 甘美な囁きが、心の傷口を撫でる。

 

 ヒナタの脳裏に屈辱が鮮烈に蘇る。シラベの腕に抱きつき幸せそうに笑うミトラ。自分に向けられた冷たい拒絶の言葉。そして、薄汚い男に向けられた侮蔑の視線。

 

 胸の奥底に沈殿していたドス黒いヘドロのような感情が、ふつふつと湧き上がる。

 

「──許せない。あの男だけは」

 

「そう。許してはならないの。私たちと共に戦い、あの男を完膚なきまでに叩き潰し、分からせてやらなければならない。真に愛されるべきは誰なのかを」

 

 大穴が、ヒナタの足元から音もなく忍び寄り、その影と同化するように囁く。

 

「……シラベを倒せば、ミトラは貴方のもの……」

 

「ミトラが……私の……?」

 

 ヒナタの瞳から理性の光が消え、代わりに濁った執着の炎が灯る。

 

 シラベを排除できる。ミトラを救い出せる。そして、彼女の心を……この手に。

 

 それは、ヒナタが何よりも渇望していた未来だった。たとえそれが悪魔との契約であろうとも。

 

「いいだろう」

 

 ヒナタは震える声で答えた。

 

「力が……力が欲しい。あの泥棒猫を駆除し、ミトラを私の城へ迎えるための力が!」

 

「賢明なご判断ね、我が主」

 

「……ずっと、一緒」

 

 ローマと大穴が、左右からヒナタの手を取る。

 

 温かな光と、冷たい闇。相反する二つの力が、ヒナタの体へと流れ込んでいく。

 

「さあ、行きましょう。復讐の舞台へ!」

 

 眩い閃光が視界を覆い尽くし──亜修利ヒナタの意識は、歓喜と共に深い闇へと落ちていった。

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